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等号前夜  作者: おめかけ
8/15

第四夜 夢とは言わない①

 そういう化け物だから仕方がないのかもしれない。

 生まれた赤子の眼球のそのまた奥の景色にはしとしとと涼しく黒い雨が降っていて、見る者すべてを蠱惑の檻の囚人とする。ざわと揺れ、風に震えるその雨を眺めていると訳もなく哀しくなって、ああ自分は一人なのだとそう思いながら助けを求めることもできず、かといって目を離すにはその光景はあまりにも静寂に美しすぎて、人はみな苦しい、苦しい、と喘ぎながら緩慢に死んでいくことしかできない。

 赤ん坊は何をしていたのだろう、生まれ出でた世界の閉塞さにおぎゃおぎゃと醜悪に泣き叫んでいたのかもしれない。少なくとも眼は開けていたのだから、もしかしたら何も知らずにけらけらと笑っていたのかもしれない。その傍らで両親と産婆が孤独に打ちひしがれていたとしても、生まれたばかりの彼女には知るよしもないことだ。

 赤子の瞳には誰もが目を奪われる。その美しさ、凄惨さ。魔術は込められていたかもしれない。呪いはあったのかもしれない。いずれにせよ彼女の両親は、自身を孤独だと認めた上で自死を遂げた。良家の娘と仕立てやの若息子が手と手を取り合い、恋に恋して夢を見たそのあげくに、この人さえいれば他に何もいらないと確信するに至って睦み合い、混じり合い、祝福の授かり物を得て……、それでも父と母は、一人だと思って泣きながら死んだのだろう。魔術は込められていたかもしれない。呪いはあったのかもしれない。どちらにしても語られる物語は一つしかない。

 彼女の両親は孤独の内に死んだ。赤子だった彼女は何も知らずに笑っていた。

 そういう化け物だから。


 彼女は自分の顔を一度も見たことがない。見たら死ぬ、と聞かされて育った彼女はなにがなんだかわからないままぎゅっと眼をつむって生きている。

 彼女を拾ってくれたのは盲人の三弦弾きで、国から国へ旅をしながら歌を売って暮らしている。盲人の後ろを懸命に目をつむった少女がとことこと歩いている姿は愛らしいと言えなくもなかったが、彼女自身は一体なぜ自分はこんなことをしているのだろう、と思っていた。

 だってそんなことあるわけがない。

 目を見たら死ぬだなんて。

 記憶は薄れて久しいけれど、ちっちゃな少女がもっとちっちゃかったころ、盲人の“おとう”が彼女の頭を優しく撫ぜながら言ったのだ。眼を開いてはいけないよ。人が死んでしまうから。

 言葉の意味するところの恐ろしさとは裏腹に、おとうの手の大きさと暖かさは身もだえするほど心地良く、彼女は今でも思いだし笑いをして体をくねくねすることがある。眼を開けられないのは確かに不満ではあるけれど彼女はなんだかんだでおとうが好きで、眼を閉じたままよたよたと偽の父の後を追って、その尻に勢いよくぶつかってはおとうの尻は、くさい、くさい、とげらげら笑っているだけでもそれなりに幸せだったので、本当だろうかと思いつつも世界を見ずに生きてきた。

 けれども時の流れは止まりはしないし赤子が少女になるのなら少女もいつかは娘になる筈で、段々と少女も疑問に思うことが増えてきた。

 彼女は世界を見たことがある。見たことがある、気がする。それほど美しくはなかったように思う。清潔な場所ではあったが何か無駄に騒がしく、雑然としていた。男と女がいた。泣いていた。泣いていたような気がする。眼から涙を零していたのだから、泣く、という言葉は正しいのだと思う。あまり自信はない。

 涙を流していたらそれは泣いていることになるだろう。顔、という言葉を少女は知っていて、しかしもう随分長いこと目にしていないけれど、とにかく顔という言葉を彼女は知っている。その形を感触を知っている。でこぼこしていて、所々湿っている。眼、とは顔の上の方、落ち窪んだ左右に填め込まれている二つを言うのだそうだ。そこから流れる水を涙といい、涙を流す行為を泣くという。

 男と女は泣いていた。泣いていたように思う。そんな記憶があるように思う。あまりにも幽かなので自分でも夢ではないかと考える時もある。けれど朧にせよ陽炎にせよ、その記憶は今もなお残っている。泣いていた。あの二人の、いつか見た光景のことを思うと胸が苦しくなるのはなぜだろう。


 暗闇の中である日少女は禁を破る。恐る恐る彼女は眼を開ける。旅の宿の一夜には、隣に眠るおとうの手が暖かい。一人ではないのだと思う。おとうはぐっすりと眠っている。

 震える瞼を弱々しく開き、怯えた顔をして、少女は眼球に世界を写す。久方ぶりに見えた世界は蜃気楼じみてぼやけている。ぬるい綿を押し付けられるような圧迫を目に感じつつ、少女はなおも目を見開き夜を見つめる。灯の落ちた宿の室内に色と呼べるだけのものがどれだけあるだろう。そこにはただ、鬱蒼として、懊悩として、冷たい黒面が広がっているに過ぎない。

 それでも、少女はやがてああ、と安堵の溜め息をつく。

 ああ、嘘ではない。世界は確かに存在している。きちんと形を持って目の前にあるのだ。

 ほろり、眦から零れた水滴が耳の上を通り落ちていく。これは涙だと心の底から少女は思う。そう思えるのは今またこうして形を信じることができたからだ。

 目を閉じて感触だけで関係する世界には、色もなく光もない。あるのは唯一、今触れているものの感覚だけ。それ以外の全ては想像に依るしかない。かつて触れ、いつかまた触れるであろうその形は、しかし今この瞬間に限っては物語のように空想するしかない。眼を閉じる彼女の世界にあるのは現在だけで、その他の形は想像の中、影絵のように輪郭をしか持ちえない。

 モノを触れば形はあるものとわかる。それでも形を知ることと信じることはやはり違うもので、だから、眼を開き世界を見る少女は静々と泣いて、世界の全てが妄想ではないことを幸いと思うのだった。

 しばらく少女はまんじりともせず天井を見つめていた。胸に手を当てるとそこは灼熱に鼓動を打っている。少女は興奮に頬を紅潮させながら、身体全体を弛緩させて吐息をこぼす。

 それだけで終わるのならばまだ良かったのかもしれない。少女は光ある世界を胸に抱き、自らの形を信じて生を全うできたかもしれない。しかし、そして、と物語は続く。しかし、そして……、

 そして風は流れる。

 夜風は戸板を震わせる。

 ヒ、イ、と、そんな悲鳴の、女の哀れに似た風声が宿の外から絞り出され、少女は何の気なしについと窓をみやる。すると虫食いだらけの汚らしい格子窓から、月光に圧し出されるようにして無数の塵がどっと吹き零れた。宙を舞う埃全てを月の光は写しだし、青白く染め上げる。

それは夢幻に少しだけ似た束の間の奇術、蛍火の舞うように室内を月光塵は巡り、めくるめく乱反射が世界の全てを夜に映しあげた。少女は憑かれたようにふらふらと起き上がり、蒼白い塵に手を伸ばしたが触れることはできない。また一つ風が少女のうなじをなぜ、彼女はびくりと体を震わせる。おとうの旅行鞄をそろそろと壁まで運び、静かに踏み躙り、旅の道具を足場替わりに格子窓へとしがみついた。囚人が外を渇望するように頬に格子をくい込ませ、ぎょろりと瞳を光らせて少女は世界を仰ぎ見る。

 世界に形があるのなら、それを何と呼ぶべきか。

 月はひたひたと凍みつき、空は黒く果てが無い。このまま少女が空に落ち、溺れるように消えてしまっても誰も気づかないだろう。夜空は深海の濁りを湛えたまま星ひとつ見えない。時が凍りついたように世界はただ形だけを持ち微動だにしない。月の光のその青が暗闇の中淡く差して、忘却を嘆くようなもの悲しい影を投げかける。脊髄が痺れた。いつしか息を止めていた。無数の蟷螂が胎内で孵りそのまま内部を掻き毟るような、おぞましくも悩ましい痛痒の快感覚は瞬く間に少女を巡る。

 世界はあった。

 色というのなら言葉にして青としか黒としか存在を少女は知らない。しかし少女の、乙女の邪眼に焼けつくその光景には無限といって夥しい色彩が満ちている。蝟集するその色の一つ一つが少女の言語野においてはみな青と黒とを名として存するものだとしても、蝟集するその色のその蝟集、多くのものがひとところに集まるという言葉の形にある通り、なるほど少女の見る光景には無数の色が満ちている。触れれば鮮血を招く晴田女草の緑がかった青。その青よりも淡く、波紋に揺れる水溜りの澄んだ青。水溜りの上を飛び交う羽虫のてらてらと脂に光る青。月光に青く染められてなお色濃く残るその身の属性は確かに証明たりうるのかもしれない。個々である、色を持ってここにいる、という証明の。

 空に広がる夜の黒は艶として婀娜なる黒の、閨に籠る吐息と体温とを凝り固めたように濡れるその色は、路地と路地との狭間にひっそりと忘れられた漆の髪飾りが帯びる陰に似た。悠々と浮かぶどこか嘘くさい雲の黒もざらついた石くれの表面を刻む柔らかな黒も、みな同じ名を持ちながら異なっている。

 青と黒と。たったそれだけしか知らずそれ以上を知って、少女はしわがれた声で呻く。そのか細く弱々しい呻き声はしかし、勝鬨によく似ている。

 心に宿り口から零れ耳から入る言葉というものの範疇を抜け、眼に映るその世界の色と光と陰の交じり合うその在り様は、言語を超えて立つ存在証明に等しい。

 世界に形はあるものと少女は信じた。見ることの快感を知り視覚に溺れ、父の目を盗んでは自らの目を開く。色を知った少女は少しずつ成長し、いつの間にかに娘となる。


 やがて娘は人を殺した。故意では無かった。

 父が宿を探しているのを待つ間、娘は道端に腰を下ろしてのんびりと世界を眺めて微笑んでいた。美しい、といつ見ても思う。いつまでも覚えていたい、いつかまた思い出したい、と思う。幸福そうに瞬きをしてゆるく息を吐き出す。すると後ろから声をかけられ、つい娘は振り返ってしまう。

 誰だろう、見知らぬ旅人が「もし、」と口を開き、見る間にわなわなと顔を強張らせ、突然泣き始めた。娘は呆気にとられたが、やがて自分が目を開けていることを思い出した。しまったと思い慌てて目を閉じるが、男はなおも悲しみ続けている。おかしな人だと娘は思い、なぜ泣いているのかと率直に尋ねた。

 なぜ泣いているのですか。

 悲しいからです。

 なぜ悲しいのですか。

 寂しいのです。私は一人です。一人であるということにたった今気づいてしまったのです。

 嗚咽にむせる旅人は途切れ途切れにそう答え、覚束ない足取りで森の中へと歩み入る。娘は娘でなんだか変な人だと首を傾げながらとりあえず旅人の後を追った。自分の目を見たら人は死ぬ、という父の言葉を確かめねばならないと考えたからだ。

 悲しみに泣く旅人を慰めも励ましもせず娘は淡々と見守る。旅人は草を掻き分け森の中へ入っていき、手ごろな樹を見つけると首を括って死んだ。

 死んでいた。その光景を見て娘が思うことには、やはり世界は美しいという感慨があった。紫に染まった顔から鼻血が垂れていた。この色彩は新しい。娘はじっくりとその姿と色を目に焼き付け、黙殺した。

 目を開けて生きていると、時折人が死ぬ。自分が何かしているわけでもないのだが、どうも自分のせいらしい。自分の眼を見ると、人はみな寂しい寂しいと言って死んでしまう。自分が悪いのだろうか。何もかも、悪いのは自分なのだろうか。

 娘は考えたが答えは決まっていた。眼を開けて生きていることに気づいた父が娘を咎めたとき、彼女は静かに答えた。

「それでも世界が見たい」と。


「人は勝手に私の瞳を覗き込んで、勝手に孤独を覚えては死んで行くんだわ。他人の目の中に人は自分の孤独を見る。そんな当たり前のことに私は責を負わなくてはならないの?」

 父はゆっくりと頷いた。

「人に目を見られなければいいのでしょう? 周りに人がいない時にだけ目を開くようにすることは許されるでしょう?」

 父は首を振る。娘は俯き、低く錆びついた声で尋ねた。

「なぜなの」

「それでももう、人は死んでしまった。周りに人がいないとしても、誰も人がこないような場所に住んだとしても、お前がそう思うだけでもし人がそこを通りがかっていたらどうするのだね。眼を開いて生きる限り、そこには常にもしがある。そのもしを重ねる度に人が死んでしまうから、お前は眼を開いてはいけないよ」

 父は淡々と娘を諭すが、彼女は頭を振って拒絶した。

「だって……だって私は世界を見て知ってしまったもの。確かにあると知っているのだもの。あの光あの色を、世界を。生まれて死ぬまで一度も目を開かずにいたのなら、この耳を震わす音と言葉だけに身を任せて影絵の世界を全うできたのかもしれないけれど、一度でもこの目に景色を映してしまったらこの世のすべてに焦がれてしまう」

「そうか」

 父はため息をつく。

「お前は人を殺して、それでもなおと思うのだね」

 独り言のようにつぶやく父に、娘は心細さを感じて胸元をぎゅっと握った。

 父はどこか涼しげとさえいえる顔をして、ふう、と再びため息をつき、それから娘の顔をつるりと撫ぜる。ア、と短い悲鳴を上げ娘は顔を覆う。

 父の掌にはいつの間にかに乙女の眼球がころころと転がっていた。

 娘は自らの顔をしばらく探っていたが、やがて悔しげに歯を食いしばると短く罵りの言葉を吐いた。

「返して」

 よたよたと手さぐりに近づく娘に、父は眼球を高く掲げる。奪われた玩具を取り返しにきた子供に対して悪童がそうするように、相手の手の届かない位置に宝物を挙げる意地悪を父は素知らぬ顔でしてみせる。返して、と娘は精いっぱいに背を伸ばして手を震わせる。父は何も言わずにそんな娘を感覚している。

 しばらく娘は父の胸の内でもがいていたが、ようやく諦めるとひどくうなだれた

「あなたは嫉妬しているんだわ」

 惨めったらしい調子で娘は恨み言を言う。

「目の見える私が羨ましいから、だから、あなたは私から目をとりあげるんでしょう。私があなたの知らない多くのことを知って、光のある方へ行ってしまうのが悔しいから」

 父は何も言わない。

 

 光を失った娘はすっかり元気をなくし、言葉を話すことが少なくなった。たまに口に出すことといえば泣き言だけで、父の後をとぼとぼと追いかけてはお願いだからと寂しそうに囁いて、項垂れるだけ項垂れて生憎と涙は出なかった。眼球が無いのだから涙は出ない。それは仕方のないことだ。

 昼日中、ああ、と娘は呻いて、太陽のあるように思える方を仰いでは瞼に感じるその熱をそっと撫でて、欲しい欲しいと唱え続ける。後悔している。眼の見えている内に、もっと世界を見ておけばよかった。この眼に焼き付け焦げ付かせてしまえばよかったのだ。二度と消えてしまわぬうちに。眼を閉じて生きていると、自分の外界で今何が起こっているのかがわからない。音も匂いもない化け物が自分の後ろに立っているかもしれない。知らない人間たちが自分を囲んでいて、指を指して笑っているかもしれない。娘はあまりにも自分が無力なので、柱にしがみついて悔しんだり、自棄になって小石を投げてみたりしたがどうにもならない。

 一年が経った。感情を出すことが少なくなった。喚いても叫んでも父は眼を返してくれないし、誰かと仲良くなることもない。話すこともない。やりたいと思えること、自分にできると思えることも特にはない。娘はただ過去を懐かしみ、かつて見た世界のことを胸に描いてはほんの僅かに微笑んで、童女のように他愛のない空想に耽った。

 そうして過去を掘り返しては確かめていく内に、記憶のなかで僅かに朧な部分を発見することがあった。見た、という記憶はあるのだが、それがどんな光景だったか、色と光と熱と匂いと、薄れてしまった感覚は取り戻すことができない。青と黒という色を娘は知っているのだが、しかし目を閉じて光なく生きている内に知っているはずの青と黒とは色褪せて、どんなものだったのかわからなくなっていく。あの日見た、月夜の、乱れつんざく幻光ももはや、心の中にあっては感覚された与件に過ぎない。色は見ることができなければ過去になってしまう。過去になって、物語になってしまう。

 いつか全てを忘れてしまう。そう考えたとき、ふと胸が詰まり、耐え難い嗚咽がこみ上げてきた。

 涙を流すことはできない。静かな苦しみにはっと息を止めて堪えていると、不意に娘の瞼がぶくぶくと膨れ上がった。水中で息を止め、耐えきれなくなってぶわと肺の中の空気を吐き出すように、瞼は口を閉ざした娘の代わりにみるみる腫れ、やがて破裂するように弾けた。

 とふ、とふ……と瞼の内側から零れ落ちたのは滑らかで黒い毒だった。悲しいと思えば思うほど尽きることもなく乙女の眼から滴る毒は床を伝い蛇のように地を這って、触れるものをみな涸れさせてしまう。

 娘はしかしその色に気づくこともなく、頬を濡らすその感触に、あ、いま私は泣いている、目もないのに、しかし目から水が流れていればそれは涙になるだろう、泣いている、と思い、訳も分からずにほっとした。

 目から零れる水が涙なら、そうして涙を流すことを泣くと呼ぶのか。眼孔から毒を垂れ流しておいて、それを涙と人は言うのか。娘にはわからない。


 夜中にふと目が覚めた。隣に眠る父の鼾が聞こえる。頬に触れると少しだけ濡れていた。

 娘は半身を起こした状態でじっと指先についた液体の感触を確かめる。

 頭がぼんやりとしてまだねぼけているようだった。あわ、と幽かな欠伸を漏らしてふらふらと立ち上がり、見えもしない月へと顔を向けて短く鼻を啜る。

「ああ」

 零れ落ちた吐息の掠れるままに、娘はまた一滴とふ、と毒を涙して、用心にと父がいつも枕元に置いている短刀を取り上げると両手に握り、父の胸元と思しき場所へと振り下ろした。綿菓子を噛むような感触がした。

 父の荷物をひっかき回し、自分の眼を見つけて顔にはめる。父を見ると、短刀は胸ではなく脇腹に突き刺さっていた。血は出ていない。それどころか娘の見ている前で父の体は霞のように消え、短刀がからりと床に転がった。息をのむ娘が恐怖に後ずさると、後ろに誰かが立っていた。

 背後に立つ父は表情を変えることなく手に持った石で娘の額を殴りつける。娘は気を失う。


 気が付けば海である。

 潮騒がざざすと鳴いて耳が鈍くなる。

 娘は一艘の舟の中へと転がされている。父は船縁に手をかけて今にも大海原へ舟を放とうとしている。覚醒した娘は目が見えることに一瞬安堵して、しかし父に気づいて顔を強張らせる。

「あなたは何なの?」

「私が何か、と尋ねるのではなく、今までお前が見ていたものは一体なんなのか、と考えるべきではないかな。光があることを美しいと思うのなら、光が無いことだって美しいと思わなければ」

 父が力を込めて舟を押しだすと、襤褸船はよたよたと水面を駆け出していく。そこで始めて、父は嬉しそうな晴れ晴れとした顔をして、さようなら、と言う。

「もう一緒には行かれないから、ここいらでお別れということにしておこう。それでもなおと望むお前なら、ここではないどこかに生きる場所を求めるといい。……もしお前が目を閉じて、じっと貝のように生きていてもいいと思うなら、その時は水面を五度叩いて飛沫を立て、捨てた両目をその中に潜らせることだ。そうすればお前は海からまた人のところへと戻ってくることができるだろう。けれども、やはりお前がなお、なお、とせがむのなら、いつまでもお前は一人きりだろうよ」

 遠ざかる視界の中で父はいつまでも手を振っていた。


 自分は確かに父を殺した、とそう思うのだが、死んだはずの父は霧となって失せ、生きていた父によって自分は海を漂っている。自分が正しいと信じていたもの、世界だ現実だとみていたものは一体なんだったのだろう、と娘は思う。

 海は不思議に穏やかで荒れることもなく、舟はあてもなくただ平和にぷかぷかと浮かび遊ぶ。陽が暮れるまで空や海を眺め、時には地平線の向こう側の景色を思い浮かべて、娘は一日を過ごす。夜になれば湿った船底に身を横たえ、身動きもせずじっとしている。また朝が訪れたときに、この眼が残っているといい、世界がまだ存在していればいい、と一心に願いながら、娘は眠りにつく。水面に揺らぐ舟板は揺籃に似て、深く暖かな睡眠に誘う。胎児のように体を丸め、純真無垢の表情で細やかな寝息を立て、人を殺した邪眼の乙女が大海に抱かれている。

 

 半年が経った。それでもまだ娘は世界を美しいと思う。今日もまた同じように世界を眺め、いつもとは違う景色を心に留め、穏やかに一人眠りにつくのだろう。

 もう随分と長いこと物を食べていないけれど、不思議と死ぬことはない。お腹は減っているのかいないのか、確かに力が抜けるような空腹感を覚えることはあるものの、耐えがたい飢餓というほどのこともない。喋る相手はいないから口を開くこともないし、口を開かないから喉が渇いていることを思い出すこともない。忘れてしまったのかもしれない。

 船縁にもたれ掛り、右手をそっと海水につけ、何時間も何時間も指に水が絡み付いては解かれていくのを見守り、その色合いや潮の匂いを一心に記憶する。

 眼に見えるこの思い出を忘れたくないとそう強く思う一方で、眼に見えない自分自身がどう生きているか、息をして食事をして存在していくことを忘れてしまう。娘はだんだんと形を失って、眼球だけが宙に浮いて舟の中をころころと転がっては世界の美しさにきゃっきゃと歓声を上げるような有様になってきた。見る、という現象だけがどこまでもしつこく海の上に再現されて、娘であったことなどは過去になってしまうように思えた。

 けれども、やがて娘の眼球は水面に映る自らを見て、その眼球の中に映る自分を見て、視界という名の世界をいつものように美しいとは思わず、寂しい、とそう思うのだった。

 海に一人、娘はいる。誰も彼女を見ることはない。見ることができなければ存在していられない。自分は忘れられ続けているのかもしれない。

 世界を美しいとは思っても、そこに生きる人々の記憶が娘には少ない。何故と言って、目を合わせれば人は死んでしまうし、目と目を合わさずに互い違いにそっぽを向いて出逢うのも、それはそれで難しいことのように思えるからだ。記憶に残る世界には泣いている二人の男女と盲目の父、勝手に泣き叫んで死んで行った赤の他人しかいない。

 いつか全てを忘れてしまう。そしてまた、自分は全てに忘れ去られてしまう。

 娘は膝を抱えてしくしくと泣いた。さびしい、と口に出して言ってみた。ちゃぷりとどこかで魚が跳ねて、あとはそれっきりだった。

 父の言葉を思い出し、しばらく目を閉じてみる。二三日何も見ずに生活していると、突然に瞼が弾けて毒の涙がこぼれ出した。いつまでもいつまでも涙が溢れて止まらないのでとうとう目を開くと、海が一面流れ出た毒で黒く染まり、魚の死骸が無数に浮いていた。

 この孤独から逃れる方法について父は言った。水面を五度叩いて飛沫を立て、捨てた眼球をその中に潜らせることだと。

 悲しみに涙を流したとしてもその涙は毒かもしれない。眼球を捨てて善良に生きたところで、娘の抱く悲しみは毒なのかもしれない。

 だから娘は、さびしい、ともう一度口に出して言ってみた。父の言うとおりに視覚を捨てて生きるか、それともこのまま海の上、舟の中、世界の一人を生きるのか、静かに考えた。

 苦しみにまた、とふ、とふ……と毒が零れる。だから娘は寂しいと叫び、だから、しわがれた声で泣きながら言った。

 こうして悲しみに流す涙でさえ毒に過ぎないというのなら、いっそこの身を海へと投げて、この世全ての大海を毒と化してしまってもいい。女の悲しみ一つで滅ぶ世界でもいい、と。

 身を乗り出して娘は深々と海を覗き込み、その眼にしかと光を焼き付け、そして静かに水底へと身を投げた。



 昔々の物語によれば、その女は千年生きて千年一人。美しい目を持って生まれ、しかしその美しさ故に邪眼となったその眼では生きるに難しく、人里を追われ、大海原へと流されて、孤独の内にその身を投げて千年、死ぬこともなく水底で孤独を託つ内に女は魔女となり、異国の岸辺に打ち上げられる。何故死なないのだろうと思いながらそれでも魔女は微笑み、見たい見たいまだ見たいと呻きながら歩き出す。

 この世の全てを求め溺れていくその心の幼さを偏にこがれと呼ぶのなら、世界に恋をしたこの魔女の名はその音に似て、孤軽こがる、といった。

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