幕間 人から人へ
ふと目を覚ますと、右手が砂に埋まっていた。
石英質が手のひらを撫ぜる乾いた感触。風に散るいさごが擦れあう幽かな啼き声。静かな夜の砂漠には眼のない鯨がぷうかりぷかりと飛んでいる。夜の冷気に犯されて絹にさえ似た滑らかさを得た砂の大地を冷たい褥として、少年はぼうっと寝転んでいる。半身は砂に埋もれ今しも地の底に沈んでしまいそうな少年はしかし、抗うでも逆らうでもなくただじっと右手を見つめる。少年の見つめる先に彼の右手があり、五本の指と十四の関節があり、その内側にいくばくかの血と肉と骨がある。少年には右手がある。右手は砂に埋まっている。手のひらの大部分は砂に埋もれ、指と手首だけが僅かに覗いている。
ほかの指には関節が二つずつあるというのに、なぜ親指だけが一つの関節をしか持ち得ないのだろう。親指は孤独だ。少年はふと思う。誰がそう決めたのか。人間をそう形作った理由は何なのか。始まりはただの猿に過ぎなかった筈が長い年月の果てに変質し、いつかひとになる。朝を越え夜を越えて連綿と受け継がれてきたもの、今ここにあるこのかたち。積み重ねられてきた時と記憶のかたち。
人間というかたちは人から人へ受け継がれてきたものだ。
この右手も元は別の誰かのものだったのだろう。
少年は右手を見つめる。視線の先に砂が零れる。砂は指の間をなぞり象る。
少年には右手がある。
だから少年は右手を握る。
掌中の砂は一瞬軋み、柔くほどけて拳の隙間を擦り抜けていった。少年はしばらく右手を観察していたが、やがておもむろに起き上がって伸びをした。全身からざっと音を立てて砂が滑り落ち、少年の姿が月光に照らされる。右手があって、左手があって、右足と左足を胴体が繋いで、その上に細くはかない首と顔が乗っていて、無機質ですべすべした肌に覆われた肉の内側で心臓がこちこちと鼓動している。一糸まとわぬ姿の少年の肋骨を月の光がそっと差している。
少年は人間の形をしていた。
砂漠の夜は静かで、けれども風砂の弱々しい音だけが耳鳴りのようにしつこくこだましている。
少年はあどけない仕草で首をふるふると振り、髪にまとわりついた砂を落とし、五指をぴんと張り詰めさせて汚れた全身を軽くはたく。
すっかり綺麗になった体を見てはっと満足気に息を吐き出した少年は、澄んだ瞳で前を向いてゆっくりと夜の砂漠を歩き出した。
歩いている内に少年は隊商と出会った。彼らは皆頭に布を巻き、ラクダに胡椒や宝飾品を載せて砂漠を渡る。みな豊かな髭をたくわえ、硬く暗い皮膚をしている。
隊商たちは初めとても驚いていた。こんな砂漠のど真ん中で裸の子供が一人何をしているのだろう。
「家族はどうしたのだね」隊商の隊長が尋ねた。
「いません」子供はあっけらかんと答える。この広大な砂漠にたった一人で親もなく、泣き喚きも怯えもしない。隊商たちは同情した。親を亡くしたか、はては逃げ出してきた奴隷か何か。平然としているのは、きっと孤独のあまり気の触れてしまったのだろう。そんな風に考え、少年の体を労わるように抱きしめてくれた。だから少年は、この人たちは良い人だな、と思った。
砂漠の気候はとても厳しい。昼には地獄のように熱され、飛んでくる砂は肌を焼く。容赦なく人を渇かせる熱風は時に喉へ砂を詰まらせる。隊商たちは白い布で少年の全身を覆った。生きろ、坊主。苦しくても悲しくても、天道さまの下でお前はまだ生きている。少年は微笑んだ。
そして夜には砂漠は凍り、暗闇の中に停まってしまう。昼とは打って変わって氷点下を迎えた砂漠にはもはや生命の気配は消え、隊商たちは獣油を燃やして身を寄せ合いながら眠る。
砂漠には暴風がある。人間などは簡単に吹き飛ばしてしまう砂の魔物から身を守るため、隊商は穴を掘って暴風からの逃れる。
太陽に煮えたぎる砂粒は蜃気楼に揺れ、人間の意識を迷わせる。だから隊商たちは交互に鈴を鳴らし、互いの行進を確認しあう。
隊商たちはみな強靭であり、博識であり、親切だった。だから彼らが一人ずつ死んでいくのを見るのはとても辛かった。
一頭のラクダが突然倒れた。計算違いのことだった。男たちはラクダの肉を切り取り、血を啜って渇きを癒したが、荷の増えた残りのラクダは歩みを遅くする。焦った隊商が僅かに無理をしたその日、一人の男が息苦しさに一瞬だけ口覆いを外し、熱砂に顔面を焼かれた。疲労から判断力は鈍り、照り付ける日の光は脳を溶かしていく。
熱にやられうなされる男がいた。また眼球を砂に焼かれ失明した男がいた。疲れからうとうとした隙に蠍に刺された男がいた。隊商たちは少しずつ疲弊していき、やがて崩壊を迎えた。
最後に残った隊長は赤く腫れあがった顔を歪ませながら少年にすまんと言って死んだが、その顔は怯えたように引き攣っていた。
少年は「さよなら」と言って隊長を埋葬した。
さよなら。こうしてみんな死ぬということは、もしかしたら僕は悪魔かもしれない。
少年は呟いて、もう必要のなくなった口覆いや頭巾を外し、布で簡単にマントをつくって首で結んだ。少年はまた歩き出す。
やがて砂漠は白に染まった。どれほど歩いたことだろう、砂は白亜質に変わり、砂漠は雪花石膏に満たされる。百年以上も雨に磨かれ、滑らかな結晶となった白砂はさらさらと音を立ててなだらかな起伏を作っている。日光を反射するために砂漠は涼しく、幽かな風にさらされて風紋を残していく。月の世界を歩くように少年はどこかふわふわと頼りなく足を進める。
地平線に影が見えた。蟻の蠢くような輪郭が遥か前方で風に靡いている。ぴちゃり、と足に何か触れた気がしてふと下を覗くと、水が沁みていた。蛇が這うようにひたひたと水は砂漠を滑る。舐めてみると僅かに酸味があった。
少年が再び顔を上げると、そこに見えたのは花嫁行列だった。
菱形をした桜色の仮面をつけた召使たちが先頭に立ち、青銅の壺を小脇に抱えゆるゆると糸を解くように聖別された水をまいている。その後ろには耳飾りと口覆いをつけた女官たちが籐籠から亜麻星の花びらを散らせる。およそ百ほどの先払いを従えて悠々と砂漠を進む馬車は黒塗りで、金の縁取りで飾られている。
砂漠を渡る水に乗り、花は少年の足元に届いた。拾い上げた少年はふと既視感を覚え、不思議そうに眉を寄せる。
以前にもこうして広大な大地に立ち、大勢の人々と対峙していたような気がした。
少年は矢のように駆け出した。わーっと気勢をあげ、半ば子供がふざけかかるような気安さで、少年は護衛の兵士たちに襲いかかる。大の大人を軽々と片腕で持ち上げ、投げつけた何人もまとめて吹き飛ばす。竜巻に襲われるように兵士たちは次々に投げ飛ばされ、統制を失った。
背後から襲いかかって兵士が剣を少年の後頭部に叩き付ける。少年はぐらりともせず、ふりむくと嬉しそうに笑って兵士の鳩尾を殴りつけた。悶絶する兵士を見下ろして少年は歓声を上げる。
戦うのは楽しい。僕は戦うのが好きみたいだ。前にもこんなことがあったような気がする。この何かを壊したいという気持ちはどこから来るのだろう。
剣が打ち鳴らされる甲高い音や骨の砕ける感触を心地よいと思う。怒りにも悲しみにも似たその感情に従って少年は暴れ狂い、とうとう花嫁行列の中心に辿り着いた。馬車は停止し、こちらの様子を伺うように沈黙を守っている。
少年は何も考えず、高く飛び上がるとそのまま拳を振り下ろした。その一撃であっけなく馬車は粉砕される筈だった。
その時馬車の扉がぬっと開かれた。いけません姫と侍女が叫ぶ中、一人の女性が現れ、少年の右腕を掴み取る。少年は力の限りもがいたが女性はびくともしない。万力のような力で少年の腕を完全に固定している。
女性は水のように濡れた肌をして、その顔は虚構の中の女神のように美しかった。その額は白桃よりも艶やかで鼻は通り、瞳は黒曜の煌めきを秘めている。それはまるで吟遊詩人が物語る通りの、その言葉のままに刳り貫かれたに等しい黄金彫刻と言えた。
「私は賭けをしていた」
とその女性──花嫁行列のまさにその花嫁である姫は言った。
「私は王族だ。王族には貴人としての義務がある。たとえ恋にもならぬ政略結婚であろうとも、それが務めならば私は甘受しよう。姫であり、王妃の娘である私にはそれが当然のことだ」
けれども、と姫は目を細める。
「けれども、もし何か予想外のことが起こったならば、その時には輿入れなどやめて結婚相手を殺しに出かけよう、とそう決めていたよ」
突然の言葉に少年が目をぱちくりさせていると、姫は少年の腕を放し、屈みこんで視線を合わせた。
「だから召使たちを傷つけたお前の罪は問うまい。お前は見た目の割に屈強な体を持っているようだ。その力は私が使ってやろう。私の配下となって敵と戦え。さすればどんな褒美でも与えよう。お前の名は何という?」
姫の問いかけに少年は静かな声でこう答えた。
二号。
◇
──あなたはどんな褒美でも取らせると言いました。それは本当ですか?
──ああ。お前の望みを言うがいい。
──僕は人間になりたいのです。
──人間?
──僕は人形です。でも人間になりたいのです。
──そうか。ではその願いを叶えよう。おめでとう。
──おめでとう?
──お前は人間だ。私が認めよう。お前は人間だ。人の形をし、人の言葉を話す。たとえどのような中身をしていようとも外見は人間そのもので疑う者はいない。だとするならばお前は人間だ。
──違う。違います。僕は人形です。だから旅をしてきたのです。そんな簡単な言葉で人間になれるのなら、はじめから孤独を覚えることも誰かを失うこともなかった。
──おかしなことだ。お前は人間になりたいと言い、それなのにいざ人間だと言われれば人形だと言う。
──でも僕の記憶には人の形しか残っていない。風のように吹いては薄れていくこの記憶の中には死んでいった少女の言葉が残っていて、死なせた僕を人形だと責めるのです。
──いいやお前は人間だ。
──なぜ。
──なぜといって、お前はそら、そうして悩んでいるもの。人間になりたい、人形ではいやだと苦しんでいるもの。その心が人間でなくていったいなんだというのだ。人形は人間になりたいなどとは夢にも思うまいよ。お前と共にいた少女たちもそうだったのではないのか。悩みを持ったお前が人間に思えたから、お前の側にいたのではないのか。そうでないとするならば、少女たちは物言わぬ人形を相手にままごとを続ける気狂いに違いない。
──彼女たちを侮辱するのはやめてください。あなたはひどい人だ。
──私は当たり前のことを言っているだけだ。もしひどいと感じるのならば、それはきっとこれまでの彼女たちが優しすぎたのであろう。同情や憐みたっぷりの心で、可愛そうなお前を可愛そうに愛しただけのこと。人間は他者に共感することを何か尊いもののように思っているが、私に言わせれば愚かだな。
──それでも僕は。
──人間になりたいとお前は言う。ではお前の考える人間になる条件とは一体何だ。私が認めただけでは足らぬのか。数の多寡ならば百も千も越えなければ駄目か。あるいは神でも喚び出して人間だと言わせなければ気が済まないか。ぜんたい、お前の言う人間とはどのようなものなのだ。人間の定義は何だ。私の知る人間の大半は、人間であることに対してそれほど多くを望んではいないようだがな。
──元から人間である人はそうでしょう。人間は人間でなかったことなどありませんから。
──お前は本当に人間になりたいのかな。
──僕が嘘をついていると?
──もし本心で人間になりたいというのなら、お前はお前以外の人間全てを侮辱している。何の疑いも抱かず自分を人間だと信じて生きている人間たちに対して、お前などは人間ではないと指を指して嘲笑っているのだ。
──そんなことは思ってやしません。
──ではなぜ人間でないと言い張る。なぜ人間ではいけない。私にはお前が神にでもなりたがっているようにしか見えんな。さもなければ、人間以上の存在が「ひと」という言葉遊びを楽しんでいるようにでも。人間になりたい、人間とは何か。そんなものは下らぬ言葉遊びに過ぎない。人間は人間だ。人の形をして人の言葉を喋るのならそれが人間でなくてなぜいかん。お前は人間だ。
──僕は……でも、僕は……。




