表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
等号前夜  作者: おめかけ
6/15

第三夜 満月に等しい投擲②

 彼女はやがて恋をした。

 それはただの勘違いだったのかもしれない。食欲や性欲と混同した、他愛もない錯覚に過ぎなかったのかもしれない。

 それでも男に触れられた肌を女は火箸でも押し付けられたように感じたし、唇を交わすとき瞼の裏に星の遊ぶような気もした。

 かつて彼女は少女だった。祖父と二人で暮らし、毎年心臓肉と寒天のパイを食べた。少し前まで彼女は一人で、一人のままに日々を過ごした。そしていま彼女は膨らんだお腹をゆっくりと撫で、満ち足りた気持ちでいる。一人ではないということ、繋がっていくということ。なんだか妙に安心するようで、人心地がつくというのはこういう感じなのかもしれないなどと思う。

 傍らに寄り添う男は彼女の髪を甘く撫でながら優しく語りかける。

 ──この子にどんな名前をあげよう?

 ──幸せな名前がいいよ。どんな呪いもはねのけて、明日を向いていられるような。

 ──それではシウと名付けよう。遠い異国の言葉では、それは幸いだから。

 し、う、と彼女は舌を動かし、蕩けるような笑みを浮かべる。幸福に頬を染めて眦を細めながら、祈りのように何度もその名を呼んだ。

 シウ、シウ。お前はどんな顔をしてどんな声をしているの。どんな心でこの世を生きるの。まだ何も決まらない、何も決まっていないんだよ、シウ。はやくお腹から出てきて、あたしに顔を見せてよ。ママと言ってちょうだい。だってあたしはこんなにもお前が愛しくてたまらないんだもの、この体全部で抱きしめて、頬ずりをしてあげたいんだもの。

 月が十巡り十度目の満月を迎える前日、彼女はとうとう赤子を産んだ。玉のような男の子で、獣のような顔をしてぎゃあと泣き喚いていた。顔があまりにも赤いので病気なのではないかと彼女は心配したけれど、子供はそういうものだと言って男は子供を寝かしつけた。

「もっと一緒にいたいのに」

「まだ生まれたばかりなのだから、無理をさせてはいけない。それより君も少し休むといいよ」

 出産に疲れ切った彼女は男の言葉に素直に従い、その日はぐっすり眠った。

 次の日目を覚ますと男は先に起きていて、朝食を用意していた。

「心臓肉と寒天のパイをつくったよ。おじいさんがむかし作ってくれたと言っていたから」

 彼女は少し迷った。肉はもう何年も口にしていない。でも幸せに緩んだ心は、こんな日くらいは許されるのではないかと言っていた。男がつくった料理なら大丈夫だろう。きっと心のこもった、優しい料理なのだろう。

 うん、と彼女はこくり頷いて、男が持ってきて料理に匙をそっと落とす。煮込んだ肉はほろりと崩れ、舌の上で氷結晶のように溶けた。

「あ……」

 彼女が思わず唇を抑え、びくりと脊髄を震わせたのも無理はない。なにせそれはこの上もなく甘く、電撃のように衝撃的な味わいなのだ。心の弱いところをついて的確に弄り回すような、幾千の魔法を費やして生み出した霊妙なる糖蜜のような、それは恐ろしいほどの美味だった。

「おいしい」彼女が一言つぶやいた時にはもう次の肉を啜っている。「おいしいよ! こんなにおいしいものは食べたことがない!」

 それは本当だった。祖父がつくってくれたハートパイもこれほどではない。彼女は生まれてこの方味わったことのない快感を味覚として得ているのだった。

 彼女は美味しい美味しいとむしゃぶりつくようにパイを食べる。男は嬉しそうにそれを眺めている。

 ようやく食べ終わった彼女はくあんと大きくため息をついて、やや下品な仕草で唇を舐めた。するとそれを待っていたかのように男が声をかける。

「そんなに喜んでもらえるとつくった方としてもうれしくなるな。そうだ、食後のお祈りをしよう」

「そうか。そうかもね……」

 彼女は眼を閉じ、両手を組んだ。

「空の上の神様、あなたの慈しみに感謝してパイを頂きました。パイを作ってくれた夫に感謝します。ええと……」

 目を瞑ったままの彼女に男は答えを教えてくれた。

「“そして、パイになったシウに感謝します……”」

 

 産んだ筈の赤子が、胃の中で再びおぎゃあと泣いた。


 彼女は目を閉じたまましばらく停まっていた。しだいに脂汗がこめかみにふつふつと浮かび、舌は痙攣し始め、それでも彼女は苦しげに言葉を絞り出そうとした。

「そして……」

「〝そして、パイになったシウに感謝します……〟」

「そして……!」

 こみ上げた恐怖が黒々とせり上がり、喉がひくついた。嗚咽が零れた。錐でも刺されたように眼球に激痛が奔った。

 それでも彼女は言った。

 そして、パイになったシウに感謝します。

 彼女は歯を食いしばり低く唸る。裏返りそうな声を懸命に取り留め、懇願するように幽かな声でこう言った。それでもあなたを愛していると。

 けれども男の返答はただ一つだった。

 僕の母の名はマリーだ。男はそう言った。

 彼女は項垂れ、裸足のまま家を出て行った。野に混じり、山に分け入り、朦朧と歩いた。何もかも無駄だったな、と彼女は思った。毎日読み書きの練習をして、せめて人らしく生きようとしたけれど、その挙句がこれだ。


 ──サーシャとマーシャは買い物に行きました。二人はいつも仲良しで……。


 歯の根が震えた。凍える程冷たい夜なのに頬は熱く、零れ落ちる涙が燃えていく。抑えきれない激情に呻き声が漏れた。

 彼女の祖父は言った。食べ物をいただくときは、神様とその食べ物に感謝しなさい。私たちはほかの生き物を殺して食べるのだから、せめて美味しい美味しいと喜んで感謝しなさい。

「けれども」と彼女は言う。「ほかの生き物を殺して食べるよりも、それを美味しいと思うことの方がずっとひどいことかもしれないよ……」

 やがて日は暮れ夜の帳が降り、月光が山を照らした。満月だった。いつかそうしたように再び彼女は山の頂上に立っていた。蒼褪めた月光線は彼女を差し透し、その影を大地に縫い付けた。浮かび上がった頼りないその輪郭は頭が一つに体も一つ、腕と足が二本ずつ。

 彼女は人の形をしていた。

 たとえば彼女は自分の姿があまり好きではなかった。焦げ茶で硬い毛は頭からも背中からも伸び、鬣のように体を覆っている。、やたらに鋭い黒眼は光に敏感で、顔の横まで広がった大きな口からはぎらぎらとした牙が覗いている。爪は不必要なまでに大きく、刃のように尖っている。そんな自分の体が彼女には何もかもが不満で、そして何よりも哀しかった。

 それでも彼女は人の形をしている。たとえ形相が獣じみていようとも、彼女は人の形をしている。

 自分の中で彼女が唯一気に入っているのは声で、低く儚く延びて雪解け吐息のように掠れるその声だけが彼女には慰みだった。

 だから、満月の凍る冬山の頂上から一人の娘が歌を歌う。咽び泣くように息を吐き出す。

 あああおおぉぉぉぉうぅぅぅぅぅぅぅぅ。

 それは歌ではなく遠吠えで、それ以上でも以下でもないけれど、それでもムノーに語る言葉ではそれは歌だったから、狼が独り啼くように彼女は歌を歌う。 

 するとまた、山のどこかで別の歌が聞こえる。波巻くように反響するしるべの声をきっとどこかで待っていたのだろう、彼女の歌を聞きつけたどこかの誰かがここにいるよと歌い返す。

 それはみな群れを亡くしたはぐれ者の歌なのだけれども、やはりどうにも寂しいためか彼らと彼女は歌を歌う。一人ではないよ。ここにいるよ。そんな幻想を共有するべく甘い声で旋律を奏でる。

 一人ではないよ。ここにいるよ。そんな言葉に胸を詰まらせ、彼女はそっと胸を押さえて膝をつく。なぜならその歌は遠吠えで、応えているのは狼だったから。山にいるのは狼だけで、彼女は人の形をしていたから。

 たとえば彼女は山が好きだ。人里離れた住処には誰も訪れないから寂しいけれども心は落ち着く。誰にも迷惑をかけることがなく、誰をも傷つけることがない。山には色んな花や薬草が生えていて食事はそれで足りるし、牛や豚は今では口にしないので街に降りる必要もない。春が来て夏が過ぎ秋を超え冬を過ごす。生活は単調でも山の自然は彼女にとってはとても穏やかで、寝ず鳥のざわめきやカナカナ虫の羽音を聞いていると安らかな気持ちになる。彼女は山が好きで、疾風のようにやってくる通り雨の息苦しい匂いが好きで、腐葉土の下に眠る黒土の冷たさが好きで、鳥に獣に人間や自然が好きで、ありとあらゆるものに焦がれている。この世で嫌いなものはただ一つだけだ。

 自分の食べていたものが人だと知った時、彼女は絶望して死のうとしたけれど死ぬことだけはどうにも怖くてできなかった。

 けだものなのに死が怖いのか。人を食べておいてなお生きるのか。心の底で人の心が叫ぶとき彼女は何よりも憎しみを抱いて自らを呪った。

 祖父が死んでもう家畜の世話はできないから放さなければと牧場へ初めて行ったとき、そこに飼われていたのは鎖に繋がれた人間たちだった。

 今でもその光景を思い出すたびに心が軋む。おぞましさに吐き気がこみ上げる。

 それでもなぜ生きようとするのだろう。生きることに何の価値を見出そうというのだろう。

 彼女は月を見上げ、今ここでその答えを出そうと決めた。

「ねぇムノー、なぜお前は人間になりたいの」

 彼女が振り返ると、茂みががさがさと揺れてムノーが這い出してきた。一つしかない腕で汚らしい杖にしがみつき、杖の先で地面を穿ちながら体を引き摺るその様子は亡者に似ていた。

「行かないで」ムノーは少女のような口調で言った。「あたし一人なの。でも一人で、ずっと一人だったら、自分が誰なのかわからなくなっちゃう」

「どこにも行かないよ。だから答えて。なぜ人間になりたいの」

「ここにいたいの。ここにいる自分は、生まれた時の自分とずっと繋がっていて、その記憶はあたしだけの物語なの。だからここにいたいの」

 彼女は疲れたように口元に皺を寄せた。

「そうだね。でもそれはお前の言葉じゃあないね。お前はいつだって過去の言葉を真似するばかりで、あたしと言葉を交わすことは一度もなかった。これは一人芝居なんだよ、ムノー。人の形をしたものが人を模倣しているだけで、人間の心が現れているわけじゃない」

 彼女は悲しげに言った。

「お願いだから、お前の言葉を聞かせてよ」

 ムノーは黙りこくっている。彼女は涙を堪えるために浅く息を吐き出し、ひたひたと夜空に凍みついている月を視る。眺め続けていると、空に魂が吸い取られていくような気がした。脳髄をずるずると掻き出していく月の魔的な引力に心を曳かれて、彼女は納得したように囁いた。

 心を失ってしまえば、あとには人の形が残るだけ……。

 よろよろと彼女は歩き出した。一歩また一歩と頼りない足取りで崖に歩み寄る。

 その時になってようやくムノーは口を開いた。

「なぜ、と君たちは言う」

 溢れ出た言葉が止めどなく噴き出すかのようにムノーは喋りだした。

「なぜ、生きるのか。なぜ、自分の言葉を持たないのか。それなら俺も尋ねたい。なぜ君たちは死んでいくのか。なぜ生き物は必ず消えていくのか。どんなものも過去になる。あらゆるものは物語の中に失せていく。なぜなんだ? 俺のせいなのか? 俺はもう人と会話する度に誰かが死んでいくような気がする。あの男が語った伝説の中には確かに俺もいた。千年生きた魔女がいて、死んだ。死んでほしくなかったのに。寂しい人や孤独な人がたくさんいて、みんな死んだ。誰一人死なせたくなかったのに。なぜなんだ? 俺はちゃんと人間の言葉を喋っていた筈だ。人形の言葉なんかじゃない、人間の言葉を俺は使っていた」

 彼女は背を向けたまま、神託を告げる巫女のように厳かに呟く。

「お前はどうして、人間になりたいの」

「わからない」

「それならどんな人間になりたいの」

「わからない」

「そうだね。人に焦がれているものは、人間という言葉の形だけを追って生きてしまうものかもしれない。でもあたしはもう決めることにしたよ」

「死なないでくれ」

「心を捨ててしまえば、あとは人の形が残るだけ」

「死なないでくれ」

 懇願する切実な声色に彼女は振り向き、静謐な目をしてムノーを見据えた。

「そうやって女の孤独を吸って生きてきたのかい、ムノー。これで最後にしなよ。もう人の孤独を食べるのはおしまいにして、この次には寂しさを捨てて生きる人のところへおゆき」

 彼女は五指を張りつめ、自分の胸に当てた。狼の体が役に立つのは初めてのことかもしれないと彼女は思う。鋭く尖った爪を胸元に突き刺し、肉を抉り、ひくひくと震えている心臓を掴み取った。心臓は月光に晒される。赤黒い心臓は掌に弱々しく蠕動する。心臓の暖かな熱は冬の夜に融け、蜃気楼のように湯気を立てた。

 彼女は叫ぶ。

 ──けだものの心は、満月に還れ!

 彼女は手に握った心臓を力の限り崖から放った。身も凍る冬山の夜空に乙女の心臓が投げられ、闇の中に消えていく。そこにどんな心を秘めようとももう熱は感じられない。心臓は高く高く飛んで、月の中に見えなくなった。

 頽れる彼女の体をムノーは支えようとしたけれど、人形の体は木偶も同然。腕一本ではどうすることもできず、彼と彼女は無様に地面に投げ出され土を舐めた。

「俺ではなく君たちが生きるべきなんだ」

 冷たくなっていく彼女の体を抱いてムノーは喚いた。

 彼女はムノーの頬を撫で、掠れた声で再び問いかける。どんな、人間に、お前はなるの。

「人間? 人間になるのなら、もう一度君たちが生きればいい。俺は……」ムノーは震えながら言った。「人形は人間を模倣するもの。俺は少女になりたい。死んでいった者たちを再現するために。過去という名の少女となって、現在いまの顔した娘を演じて、その先にある未来の女王を再現するために。俺は少女という人間を再演しよう」

「それならなおさら死んではいけないね、ムノー。お前は生きなきゃ。そんな風に人間を目指すのなら、お前は魔女になりな」

「魔女?」

「そうさ、ムノー。多くのものを失ってそれでもなおと思うのなら、お前はやはり生きなければならないよ。生きて生きて生き続けて、そしていつか魔女になればいい」

 千年生きて魔女になれ。そう言って彼女は眼を閉じ、少しずつ死んでいった。だからムノーは最後に彼女の名前を呼んで、おやすみ、と言った。


 おやすみ、黒い瞳のジーン。

 さようなら。




 ムノーは彼女の死体を頭からばりばりと食べた。美味しいとはけして思わなかった。食べ終わるとムノーは新しく生えた二本の足ですっくと立ち上がった。その足は少女の足だった。家に帰ると男はいなくなっており、彼女が読み書きに使っていた帳面だけが風に揺られてぱたぱたと捲れていた。覗いてみるととてもひどい字だった。

 ムノーは彼女と出会った時のことを思い出した。「でもあたしはお前みたいな奴も好きだよ」と彼女は言った。頭の悪い物言いだ、と今でも思う。

 塩の湖で自分の体に引っかかっていたあの腕は誰のものだったのだろう。どこかの哀れな女の子が腕を引き千切られて捨てられたのだろうか。探し出してむしゃむしゃと平らげてしまうと、小さな右腕が生えてきた。それは少女の腕だった。そうだった、こんな形だったな。ムノーが低く呟くと彼の体は少し縮んで、五体の揃った子供になった。

 あのね、とムノーは口に出してみる。鈴の震えるような声が喉を通り、小さな唇を掠めていく。少女姿の人形は口をめいいっぱい広げ、あ、る、るぅ、と吠えてみる。中々上手くいかない。けふ、と吐息が漏れただけで、狼のように美しい遠吠えはできない。あら、とムノーは小首を傾げ、可愛らしく顔を顰める。

 ムノーは新しい体でぴょんと簡単に跳ねてみて、それからどこかへと歩き出した。

 その先の行方はまだ誰も知らない。ただ少女をもう一度という薄汚い欲望に静かな熱を燃やし、人形は虚ろな道程を歩み続ける。

 一人でいるのはさみしい。

 だから、少女になり替わろう。替わりの少女に生きてもらおう。

 そう信じて行く道ははたして邪念に塗れたものだったかもしれないけれど、それでもムノーは孤独な一人芝居を演じ続ける。一体の演劇者として過去を現在に再現するため、人形の模倣は終わらない。

 

 時よ止まれお前は美しいと人は言い、けれども時はその醜さ故に流れ続ける。

 人形はまだ、人の形をしている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ