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等号前夜  作者: おめかけ
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第三夜 満月に等しい投擲①

たとえば彼女は自分の姿があまり好きではなかった。焦げ茶で硬い髪の毛、やたらに鋭い黒眼、大きすぎる口や尖った八重歯も何もかもが不満で、そして何よりも哀しかった。

 自分の中で彼女が唯一気に入っているのは声で、低く儚く延びて雪解け吐息のように掠れるその声だけが彼女には慰みだったから、満月の凍る冬山の頂上から一人の娘が歌を歌う。

 するとまた、山のどこかで別の歌が聞こえる。波巻くように反響するしるべの声をきっとどこかで待っていたのだろう、彼女の歌を聞きつけたどこかの誰かがここにいるよと歌い返す。

 それはみな群れを亡くしたはぐれ者の歌なのだけれども、やはりどうにも寂しいためか彼らと彼女は歌を歌う。一人ではないよ。ここにいるよ。そんな幻想を共有するべく甘い声で旋律を奏でる。

 一人ではないよ。ここにいるよ。そんな言葉に胸を詰まらせ、彼女はそっと胸を押さえて膝をつく。なぜならその歌を聴けば聴くほどに、彼女の一人は深まっていくものだから。

 たとえば彼女は山が好きだ。人里離れた住処には誰も訪れないから寂しいけれども心は落ち着く。誰にも迷惑をかけることがなく、誰をも傷つけることがない。山には色んな花や薬草が生えていて食事はそれで足りるし、牛や豚は今では口にしないので街に降りる必要もない。春が来て夏が過ぎ秋を超え冬を過ごす。生活は単調でも山の自然は彼女にとってはとても穏やかで、寝ず鳥のざわめきやカナカナ虫の羽音を聞いていると安らかな気持ちになる。彼女は山が好きで、疾風のようにやってくる通り雨の息苦しい匂いが好きで、腐れ葉の下に眠る黒土の冷たさが好きで、鳥に獣に人間や自然が好きで、ありとあらゆるものに焦がれている。この世で嫌いなものはただ一つだけだ。

 歌い終わると彼女は寒そうに襟元を手繰り寄せ、とぼとぼと家路につく。彼女の足は強くしなやかで、多少の山歩きにも疲れない。素足に石ころや土の感触を確かめながら、──ああ、まだ、生きているな、とそんな風に思いながら、女は夜の道を行く。

 家に帰るとふっと息を吐き出し、彼女は一瞬扉にもたれて目を閉じた。

 

 その日の夕食は砂糖漬けの蝶だった。よく冷やされた蝶は銀のナイフを翅に当てるとじたばたもがいたけれど、フォークで磔にすると観念したのか大人しくなった。もしかしたら泣いていたのかもしれないがそれはわからないことだ。

 音もなくナイフは翅を斬る。髪よりもなお薄い蝶の翅は霧じみて感触もなくただ糸がほつれるようにはらりと分かたれた。向こう側が透けていた。たとえどんなに月光を透き徹していたとしても、今ではただのキチン質に過ぎない。彼女はあんぐりと口を開けて翅を銜える。熱く膨れあがった舌の上で蝶の翅は静かに溶けていく。彼女はナイフでそっと蝶の首を落とし、手足を選り分け、蝶の腹を優しく潰した。飛び出した内蔵は白くくすんでいて、嘗めるとほろ苦い。口に含んでよく味わうと蛋白質の甘みが広がった。砂糖漬けの蝶は甘くて苦い。それは生きていることの苦さといつか死ぬことの甘さなのかもしれない、と彼女は思う。

 しかし彼女はそれが本当の甘さではないと知っていた。本当の甘さとは、かつて食べたあの心臓肉と寒天のパイ、祖父特製のハートパイのように、血の色をした肉が胃の底で溶けて、あるいは毒のように呪いのようにじくじくと胎を引っ掻くあの甘さ。毎年彼女の誕生日には、大好きな祖父が柔和な顔を皺だらけにしてハートパイをつくってくれた。飼っている家畜の中で一番上等なものを潰して、君のために特製のパイを、と祖父は言ったものだった。

 ──さあ、パイになった家畜のためにお祈りを。

 ──今年はなんて名前なの?

 ──マリー。

 過去の彼女は小さな五指をぴたりと組み、額にそっとあてて目を閉じる。

 ──空の上の神様、あなたの慈しみに感謝してマリーを頂きます。パイを作ってくれたおじいちゃま、そしてパイになったマリーに感謝を捧げます。

 彼女は祖父のハートパイが大好きだった。その味は今でも忘れることができない。だから彼女は、今ではもう動物の肉を食べない。



「だけどもあたしは、これはこれで悪くないとそう思っているんだよ」

 彼女はそう言ってムノーの隣に座る。ムノーは部屋の隅に腰を下ろし、左腕をだらんと力なく垂らしている。両足と右腕はない。腹のあたりから何か線や歯車のようなものがいくつもはみ出ているけれど彼女はあまり気にしないことにしている。

「そうか。君は悪くないと思っているんだな」

「うん。だって食べ物は足りているし、自然は綺麗だし、あたしはやりたいことをしている」

「やりたいことをするのは良いことだ」

「今日はとても高い木の上に登ってとても綺麗な蝶を捕まえたよ。美味しかった」

「それは美味しかっただろうな」

「それから川に飛び込んで、泳いで、ちょっと寝てまた泳いだよ。裸になると気持ちがいいね」

「そうか。泳いだんだね」

「そう。あたしは泳いだ」

「そうだね」

「それから……」

 とそこで彼女は眉を寄せ、不思議そうに首をかしげた。

「おかしいな。本当はもっともっと、いろんなことがあったんだけど」

「それはおかしい。もっといろいろなことがあったはずなのに」

 彼女は困った顔をして焦ったように口調を早める。

「本当だよ。嘘じゃない。もっと楽しいことや新しいことがいっぱいあって、あたしはきっと楽しくて、この山の毎日は……」

 ムノーは表情一つ動かさず、楽しいんだね、と言った。

「ばか」

 彼女はそっぽを向いて鼻を啜る。それでもまだ言い足りないと思ったのか、振り向いた彼女は不貞腐れた顔で、あほ、と言い残して立ち上がる。

 棚から帳面と炭を取出し、テーブルに座る。毎日の日課である読み書きの練習はあまり好きではないのだが、彼女が彼女であるためには言葉を学び続けなくてはならない。

 一文字ずつ口に出しながら、覚束ない手つきで文章を綴る。

 

 サーシャとマーシャは買い物に行きました。二人はいつも仲良しで、手をつないで町へ行きました。

 サーシャとマーシャは買い物に行きました。二人はいつも仲良しで、手をつないで町へ行きました。

 サーシャとマーシャは買い物に行きました。二人はいつも仲良しで、手をつないで町へ行きました。


 同じ文章を何度も書き続けていると終いには腕が痛くなり、眼は疲れてしょぼしょぼする。つかれた、と独り言を言って、彼女は炭を投げ出した。

「なんだよ、もう」

 彼女は不機嫌そうに呟くと、テーブルに額をとんとあて、うーんと唸って弱音を吐いた。

「もう飽きた」

 そうしてぼんやりしているうちにいつしか彼女は寝息を立てて、静かな鼾をかいている。眉間にしわを寄せたまま夢の世界を旅する彼女を部屋の隅からムノーは眺め、「おやすみ」とかすかに囁く。彼女はそれに気づかない。


 

 彼女がムノーを拾ったのは塩の湖で、彼は全身が錆びついていてほとんどガラクタのようだった。

 ある時どうしようもなく山の外に出たいと考えた彼女は一日だけなら構うまいと考え、狼のようにしなやかな足でひとっとび、全ての空を大地に写す塩の湖へと赴いた。大地一面を覆う塩の上に水は張って、世界のすべてをさかしまに写しだしている。地面の底ではちゃぷりと空が揺蕩っていて、その湖には水底から不思議なものが落ちてくるのだという。さざなみの立つ鏡面は空の蒼穹に染まっていて、足をひたすと彼女は空の中にいた。落ちているのか、昇っているのか、そのどちらとも言えない浮遊墜落の戸惑いに微睡んでいると、彼女の頭に何かがこつんとぶつかった。

 壊れかけの人形が一体。粗末な杖が一本。そしてだれのものとも知れない少女の右腕が一つ。

 それらが混然一体となって、なんだかよくわからないゴミのようなものが浮かんでいる。だから彼女はこういった。ゴミだな、これ。

 すると人形が不意に喋った。

「ゴミだね」

 はっと彼女は気色ばみ、警戒のために歯を剥き出して睨みつける。

「なんだお前」「なんだろう」「あたしは強いんだぞ」「そうか。強いのか」「お前なんかけちょんけちょんだ」「確かに。けちょんけちょんだね」

 しばらく問答をしながら彼女は指先で人形をつついたり水をかけたりして様子を伺っていたけれど、やがて人形にできるのはこちらの言葉を真似することだけだと理解すると満足げに鼻を鳴らした。

「知ってるよ。お前みたいな奴はムノーっていうんだ」

「ムノー」

「そうだ。ムノーだ」

「ムノーだ!」

 馬鹿みたいに繰り返すムノーに彼女はくすりと笑みを零して、赤錆の浮いたムノーの頭をやさしく撫でる。

「でもあたしは、お前みたいな奴も好きだよ。それは勝手な言葉だけど」

 彼女はそう言って、冷たいムノーを暖かな胸に抱いた。

 壊れかけの人形が一体。粗末な杖が一本。そしてだれのものとも知れない少女の右腕が一つ。

 彼女はそれを持ち帰り、部屋の隅に置くことにした。



 ゴミだなと言われたからゴミだねと答えた。ムノーだと呼ばれたからムノーだと答えた。なぜならムノーはゴミであり、ムノーであり、何の役にも立たないガラクタだからだ。

 彼女は毎日ムノーに話しかける。今日は鳥を見たよ。翼で枝を打って、折れた小枝を嘴に咥えると自分の巣に帰って行った。追いかけて覗いたら、雛たちがぴいぴいと鳴きながら母鳥を待ち侘びていたよ。可愛いねぇ。今日は葉っぱで舟をつくったよ。川に流してどこまでいくのか、確かめている内に日が暮れてしまった。あの舟は今日どこまでいくのだろう。

 けれどもムノーは鏡のように虚ろな瞳に彼女を写すばかりで、誰かに言われたことを繰り返すこと以外には何もしない。そこに自分の言葉はなくて、ムノーは寂しい言葉に打たれこだまのようにぼおんぼおんと響くばかり。

 彼女は暗い目をして言う。むかし猫を飼ってた。胸に抱いていると暖かくて、冬の寒い夜もそれは心地よく眠ることができた。生きていると、暖かいね。暖かいものは好き。でもあるとき猫の鼻を触ったらひどく冷たくてびっくりした。石の裏にこびりついた苔みたいに湿っていて、少しだけいやらしいもののような気がした。どんなに暖かく愛おしくても、体のどこかには必ず暗く冷たく湿っていて、ぴちゃぴちゃと舌なめずりみたいな音を立ててひくつく部分がある。あれは獣の温度なんだよ。

 彼女は辛そうに目を伏せた。

 こうして毎日話してはいても、お前は外を見ないし歩き出しもしない。だから、わからないんじゃないか? 伝わらないんじゃないか? 今日どんなことをしてどんな風に感じたかを話しても、言葉には色も匂いも心もない。ただ言葉があるだけで、それ以上でもそれ以下でもなくて、あたしはお前に言葉の形を投げつけてしかいないんじゃないか。……そうして、そう思うあたし自身にも、伝えられないあたしにも、その記憶は言葉でしかないかもしれない。影絵のように輪郭をしか持たないあたしの毎日はいったいなんだろう。

 ムノーは何も言わない。

「誰かと話すのが怖いの?」と彼女は言う。

「怖いよ」とムノーは答える。

 彼女とムノーは益体もない問答を繰り返した。その言葉の行き先は果たしてどうにも見えぬまま、人と無能の日語りはあてもなく彷徨い続け二年とひと月、とうとう変化が訪れたその日には、桜の花が散っていた。

 今日、旅人が来たよ、と彼女は言う。



「どうしよう。あたしは人と関わってはいけないのに」

 彼女は心細そうに震え、下唇を噛みしめる。

「あたしはちゃんと仮面をつけて、山を下りねば酷い目に遭うと脅かした。だのに」

 そこで彼女は口ごもり、頬をわずかに紅潮させながらおずおずと口を開いた。

「だのにあの人は、まっすぐにあたしを見て、ここにいてはいけませんかと言った。とても優しい声で」

 得体のしれない希望を見かけて尻込みしてしまうような心の弱さが彼女にもあって、ムノーに縋り付きながら尋ねるその声色は幼子によく似ていた。

「あの人の舌は絹でできているのかもしれない。あの人の声は穏やかで、優しくて、いつか眠りにつくその前に母さんがあたしにしてくれた子守唄みたいに懐かしい。あれは人間の声だ。あれが人間の声なんだ。あたしは断ることができなかった。あの人はあした家に来ると言う。だって何も悪いことはしていないもの、悪い人ではないのだもの、どうして邪慳にできるだろう、優しい人には優しくしてあげたいよ、ねぇそうだろう?」

 混乱するままに、舌をもつれさせながら彼女は口早に語り続ける。

「あの人は齢二十二、諸国を漫遊する吟遊詩人で六弦をつま弾く。その瞳は鳶色で髪はくすんだ青色をしている。この山の景色がとても気に入って、しばらくここで曲をつくりたいと言う。あたしはどうすればいい?」

 ムノーは彼女の言うことをじっと聞いていた。善人である旅人が明日家に来る、という意味の言葉を彼女は口にしていた。でもそれは言葉でしかなかった。


 翌日男はやってくるが、彼女はもじもじして上手く話すことができない。どんな質問をされても首を振ったり、要領を得ない手振りを繰り返すばかりで、しまいには恥ずかしくなったのか顔を真っ赤にして俯いてしまった。

「どうしたの」と男は言う。

「うん」と彼女は答える。

 男は苦笑して、彼女の両手の指先をそっと握った。彼女は手を前に伸ばしたおかしな体制のまま、あわあわと動揺する。

「ここはとてもいいところですね。自然に囲まれたこの生活はどこかとても懐かしいような気がします。家族のこと……母や弟の面影や匂いが、まるでこの家には残っているようです」

「うん」

「子供のころ、私の母はよく私に六弦を弾いてくれたものでした。あの母がいなければ私は音曲を学ばなかったでしょう」

「うん」

「ここは本当にいいところだ」

 彼女は男の反応を伺いながら、おずおずとはにかんで手を握り返した。

「あたしもそう思う」

 朝に六弦をつま弾いて彼女の目覚めを誘い、昼には手慰みに絵を描いて男は日を過ごす。そして夜には音曲を奏で、彼女のために物語を歌った。雪の剣を持った王子が緑の髪のアルメルと共に竜と戦う話、護符を盗んだ小人が貴婦人のスカートに隠れる話、蜘蛛の娘が舞踏を志す話。胸を熱くさせる冒険譚や蕩けるほどの恋愛浪漫は彼女には知らないことばかりで、母の朗読を急かす童子のように「それでそれで?」と目を輝かせる。

 男は時々悲しい話もした。迫害の末に母を亡くした少女が千年の孤独を生きて魔女になる。

「どうして千年生きると魔女になるの? 寂しいと思うことが魔法なの?」

 彼女は不思議そうに首を傾げて尋ねる。男は答えを焦らすように落ち着いた仕草で、さてねぇ、と弦を弾いた。

「時の流れがそうするのかもしれないし、何かの罰や報いなのかもしれない。どちらにしろ、もしも千年生きるのなら全ての乙女は邪悪でなくてはいけないのかもしれないね」

 彼女は少し考え、「わからん」と言ってにっこり笑う。

 男は時々不思議な話をした。男性でも女性でもない人間ザトが魔女と出会うけれど、ザトには性別のない自分が何をどう愛していいのかわからない。「男でも女でもないあなたは人間でもなく、あなた自身ですらありませんわね」と魔女は言い、ザトは意気消沈して街を彷徨う。ふと辻絵売りの絵を見たザトはその絵があまりにも立体的で人が人らしく描かれているために驚愕し、この絵はどのような技法によるものなのかと問いかける。辻絵売りの答えるところによれば、それは近ごろ都で広まった遠近法によって描かれたものなのだという。「それまでの宗教画は神も聖母もみな中央に位置や角度が決められていました。しかしVという名の消失点を定めることにより自由に世界を眺めうるこの技法は、人が神の視点を得るためのものなのかもしれません」と辻絵売りは言った。ザトはその絵を買って一晩考え、魔女のもとへと歩き出した……。

 そこまで話すと、彼女の胸に抱かれたムノーが「自由に世界を眺める」と呟いた。彼女は少し驚いて「ムノーが話を聞きたがってる」と続きを促すが、男は首を振ってこの話の続きは誰も知らないのだと説明した。

「男でも女でもないザトが果たしてどうなったのか、それは誰にもわからないことです。でもきっと、いつかは死んだことでしょうね。最後には。その側にはもしかしたら魔女がいて見守っていたのかもしれません。そしてその時には、ザトは本当に人間になれたのでしょう」

 ムノーは瞳を動かさずに「ザトは人間になりたかった」と繰り返す。

「恋をしていたのか、それとも人間になりたかっただけなのか、物語は語りません。けれどもザトは年を追うにつれて人に等しいものになります。ぜんたい、人間という生き物はオスでしょうかメスでしょうか。それは獣の言葉かもしれないけれど、きっと生まれたその瞬間ひとには男も女もなくて、子宮を抜け出し這い出すにつれて男女の別は増していき、やがて男は硬く女は丸くなるのでしょう。しかし子を産んで増えたその後に人は老いて、男は女に、女は男になっていくものではありませんか。老婆と老爺は見た目の上ではひどく似て、性差は失われ中性に近づいていく。もし人が生き続けその果てに死ぬとしたら、死に際の刹那に人は男でも女でもないのかもしれません。最後にはただ人であるというそれだけが残るのかも」

 

 ──ひとに。

  

 氷珠を落としたようにかぼそく冷たい声をわななかせ、ムノーはぎゅっと瞼を閉じた。苦しげに彼女の胸元でもがきながら、しかし脚もなく腕もなく芋虫のようにもぞもぞと蠢いて、ひとに、とただそれだけを繰り返してあがいていた。

 ひとにひとしいもの。

 ひとのかたちをしているもの。

 彼女は子供をあやすように「ムノーは人になりたいの?」とムノーの顔を覗き込み、「なりたい」と短く人形は答え、けれどもその先の言葉をどうしても見つけられないでいる。



 夜ごと男はお伽を語り、唇からは蜜のように神秘を紡ぐ。彼女は幼い唇で物語を追いながら拙い字で書き写す。静かな夜に洋灯一つを点して二人の影が照らし出される。

「世界に一人の魔女がいて、魔女と娘が生きていて……」

「せかいに一人のまじょがいて、まじょとむすめが生きていて……」

 物語の中で彼女は王子になり、お姫様になり、ある時は妖精である時は水霊、時には怪物になり翼竜になり、そして時には何の変哲もない人間になった。

 物語る男の火影が壁に揺れるとき、椅子に腰かけた男の横顔は王子にも英雄にもなる。凛々しくも甘いその顔立ちは端正な人間のもので、人に焦がれる彼女には何よりも羨ましく感じられる。

「そして王子は言いました。“それでもあなたを愛している”と」

「それでひめはどうしたの」

「もちろん姫も言いました。“私もです王子様。私もあなたを愛しています”……」

 彼女は台詞を書き取って、それから口の中でその言葉を転がしてみた。

「あ、い……」

 その言葉の感触はどうにもはっきりしなくて、もどかしくむずがゆく、そのくせ妙にやわらかく感じられた。それは腹立たしいようで許したいような不思議な言葉だった。好きなものはたくさんあったけれど人を愛したことはない。祖父が死んでからは一人で暮らしていたから、自分の感情を何か一つにすべて預けてしまうことはなかった。あいしている。その言葉を囁くたびに頬が痒くなって、彼女は人差し指でつくつくと掻いた。どうしたのと男が聞いて、彼女はううんと小さく唸り、なぜひめはあいしたのとまっすぐな瞳を向けた。

 なぜひめはあいしたの。あいのかたちはどこにあるの。

 灯芯がぢりぢりと悶えていた。彼女は男の眼の中にともしびの照り返しを見て少しだけ怯える。黄金の飴が溶けていくように金の陽は揺らめいて、男の眼球の中で彼女は輝いていた。

 それはね、と男は言う。



 ……こうして、文章一つまともに書けなかった愚かな娘が色を知り女となって、やがて子を産み母となるは、これ全て時の流れというものであり、時の流れの中ではあらゆるものが移り変わり、失われていく。

 少女という名の過去を脱ぎ棄て、現在いまの顔した娘となって、その先の未来は女王。女王であり魔女であり支配者であることを対価に女は時を超える。どんな乙女もいつかは純潔を捨て去って女王となる日がやってくる。

 

 ──だから、すべての乙女は邪悪でなくてはならない。

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