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等号前夜  作者: おめかけ
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第二夜 少女人形②

 あのね、おはよう。

 涙は人を危ぶまない。

 チクタク、今日も元気です。


「闘って欲しいの」

 意を決して少女は言う。

「勝手なことを言ってごめんなさい。でもあたし、ここにいたいの。ここにいる自分は、生まれた時の自分とずっと繋がっていて、その記憶はあたしだけの物語なの。だからここにいたいの」

「わかった」

 二号は頷いた。

「どうして助けてくれるの?」

「闘うために俺は生まれた」

 二号は答え、鬱蒼と荒野に立ちはだかる。傍らに立つビスクはからかうように小石を二号へぴしぴしと投げつけている。

「彼女の頭をちょっとはたいてやってさ。“そんなことできるか”と言って逃げようぜ」



 二号は兵士を殺した。すると城から更に多くの兵士がやって来る。また二号は闘う。二号は段々と傷ついていく。「ごめんなさい」と少女は言う。しかし涙は流さない。俺は闘っていいんだな、と二号は問う。ええ、と少女は静かに頷く。

 兵士三十人が百人になり、二百人の死体が五百人になる。小競り合いが戦闘になり、戦闘は戦争に変わる。

 闘って、と少女は言った。その願いに二号は応え、人を殺し続けた。ビスクは傍観の態度を崩さず、二号を揶揄するだけだった。

「ちょっと鼻を摘んでやれば……」

「頬っぺたを張り飛ばしてやれば……」

「腹に一発食らわせてやれば……」

しかし二号は戦いを止めない。

「俺は闘うのが好きだ。だからこれでいい」

 そう言って謝る少女を慰め、血に濡れた姿で案山子のように荒野に突っ立っている。

 荒野の風は硬く冷たい。鋼で出来た二号の体を風はもの悲しく鳴らし、血臭を運んでいく。

 荒れ野に立つ大男は物言わぬ獅子に似て、風に佇むその様は群れを亡くした獣の王が長く険しい遠吠えをあげているようにも見える。

 陽炎に霞む地平線の向こうからまた兵士達がやって来る。

「また来たの?」

「ああ」

「お願いね」

「ああ」

 二号は闘う。無骨で無慈悲な拳で人間を砕いていく。槍の一撃で胸板を割られ、しかし怯むことなく槍柄を掴み兵士を投げ飛ばす。知識もなく技術もなく魂さえもないその腕は、ただ唯一の力のみによって人の肉を裂き、皮を引き千切る。腹腔を貫いた指先が生暖かい内臓を掻き回し、ぼとぼとと腸液が足下にかかる。

 傷ついた彼の体を少女は怖々と撫で、指先をそっと這わせる。鋼の欠けた彼の胸には、小さな懐中時計が覗いている。かちかちと幾何を追うように精密な時を重ねる臟器時計。時計からは真鍮の管が伸び、百五十六の鋼鉄線と七つの発条、びいどろの瞳に人絹の髪、セルロイドの皮膜にアセテトの声帯は何もかもが繋がっている。

 少女が二号の冷たい胸板に頬を寄せると、彼の鼓動が時を刻んでいる。少女は懐かしそうに人差し指を時計に這わせる。

「あなた人形なの」

 少女は熱のない声で尋ねる。そうだと二号が応えると、彼女は疲れた笑みで唇を歪めた。人間は誰もいない。

「いつもそうなのね。あたしの側にいるのは。きっとあたし達、人間とはなにか別の時間を歩いているのよ」

「いいや、俺はいつか人間になる」

 少女はぱっと顔を輝かせ、そうなの、と二号を見上げる。

「俺は人間を模して造られた、戦闘のための人形。だが俺は人間になりたい」

「なって」少女はせがむように二号の胸に頬を擦りつける。「あなたが人間になったら、きっとあたしも人間になるわ」

 少女は嬉しそうにはにかみ、二号の傷を診ていく。右腕には矢が突き刺さり、腿は熱で半ば溶けかかっている。酷使した関節は動く度に悲鳴を上げ、螺子がころんと転がり落ちる。慌てて追いかけた少女が螺子を捕まえ、振り向いて誇らしげに「取った」と笑いかける。

 そんな彼女を見て、人間になりたい、と二号は思う。



荒野に彼らは二人きり。二号の肩に座っていた少女はある時ぴょんと勢いよく飛び降りてよろけ、その拍子に転がっていた誰かの眼球を踏み潰す。手を突いて立ち上がると右手はべっとりと血で濡れている。ああ、と不思議そうに呻き、少女はその光景をそのまま言葉にする。ああ、あたしの手には、人間の血が流れているわ。そう呟いたときいつの間にか頬は緩んでいる。少女はおずおずと舌を尖らせ、震える先端を掌の血に浸した。ぞくり、と背筋が震えた。わななく喉を不埒に鳴らし、「どうして」と口を突いて出る疑問に溺れるように、少女は腐爛する心のまま血を啜り上げる。

 血は桃花糖のように甘かった。花蜜の苦さと徒雪薄荷の香り。廃熱を秘めたようなくすんだ黒赤の甘味はじくじくと疼くように胃の中に溶けていく。

 なぜかしら。そう思った少女が二号を振り返ると、彼は変わらぬ顔で彼女を見守っている。そこには何の嫌悪も敵意もない。あたしここにいてもいいんだわ。少女はふと思う。

 だから少女は咲き誇るように笑った。

 辺りには生首や腸がごろごろしていて、少女は飛び石を渉るように隙間を軽やかに跳んで歩く。あたしここにいてもいいんだわ。その言葉はあまりにも魅力的な響きをもって少女の胸を打つ。

 澄んだ風が少女の前髪を払う。涼風一陣に剥がれた裾は花弁のように広がり、くるりと回って少女の肢体にからみつく。少女は荒野に目を向ける。血の世界がそこにはあって、呆れた数の死体があって、それでもいつかは全てが眠り大地の底に還る筈の赤い命が無防備な姿を晒して今、少女の前に捧げられているのだった。

「購われたものがここにはあるの」

 嗄れた声が無意識に零れる。少女は再び荒野を見た。美しかった。美しいと少女は思った。血に濡れた野萵苣のぢしゃが五裂の花を綻ばせている。恐ろしい程の紅が地を覆う赤い世界に少女は立ち、恋するようにため息をついて目を見開いた。

 淫らに滴る流血がぽつり、ひび割れた大地を濡らしていく。少女は子宮の疼きを覚える。荒野の果てまで血の海は広がり、夕陽は空を赤く焦がし続けている。

「あたし生きてる」

 少女は風に囁く。

「あたし今、確かに生きてる。そんな気がする。この気持ちは何かしら」

 いつの間にか少女の背は少しだけ伸び、その目には力がこもっている。眼を細め風を感じると、まるで体が透明になったように清々しい気分になる。両手を広げ、少女は蓮が水辺に揺れるようにくるりと回転する。

 そうして少女は少しだけ昔のことを思い出し、ああ、そうか、と理解する。あたしがおはようと言って大地に眠る人々が目を覚ますのは、人の記憶が心ではなく体に宿るからに違いない。そう二号に告げると、それは凄いことを聞いたという風に彼は何度も頷き、「なるほど」としきりに感心していた。

 

 ねぇ、闘って、と少女は言う。

 二号の負傷は日増しに深まる。錆色の皮膚は鱗のようにざらつき、ねじ曲がった喉からは金属の擦れるような音が漏れ出す。ぶすぶすと煙を上げて膝を落とした二号に寄り添い、少女は憎々しげに敵を呪う。

「あなたをこんな風にするなんてひどい」

 守るためなら大丈夫よね、ママ。少女は杖を大地に叩きつけ、かつての敵を蘇らせて使役する。

 してはいけないことはしてはいけない。

 でも、死者ではなく私の術でもなく、この人はあたしを守ってくれた。

 だとしたら、彼を守るために力を貸すことは悪いことではない、そうよね?

 少女の体は徐々に丸みを帯び、胸は膨らみ始める。その形はもはや少女のものではなく、もはや立派な一人の娘だ。

 娘はやがて終わらぬ戦いに苛立つようになった。

「まるで蚤のようね。潰しても潰してもどこからか湧いてくるんだもの。人間てやつはどうしてこうなの?」

 二人は街の集会場を根城にするようになっていた。娘はだらしなくテーブルに尻を載せたままぐいと酒を飲み干し、とろんとした瞳で二号にしなだれかかる。

「ねぇあなただけよ。あたしの側にいてくれるのは。あなただけが自分の意思で私の側にいてくれるのよ。そうよね?」

「ああ」

 娘は床に眼を落し、うんざりしたように口を尖らせる。

「三日後にまた敵が来るわ。今度は国の軍隊がまるまる。闘ってくれるわね?」

「ああ」

 躊躇うことなく頷く二号に娘は近寄り、彼の冷たい唇にそっと唇を重ねくすくすと笑う。

「あなたはあたしの王子さま。鋼の王子さま」

 

 二号と死者の軍勢はついに一国の軍にも打ち勝ち、娘は国の女王になる。金と権力を手に入れた娘は瞳を宝石のように輝かせ、「こんな贅沢ができるなんて夢みたい!」とはしゃぎ回った。彼女は椰子の葉に扇がれながら微睡みを楽しみ、高価な香油で全身を磨かせ、白桃の砂糖漬けを初めて口にして「星の味がする」と喜んでいた。

 しかしそれも長くは続かない。「邪教者に支配された国を救え」と主張する隣国がすぐに攻めてきたのだ。

「なによ、どういうこと!」

 娘は喚き立て、戦闘のストレスから逃れるために酒に溺れた。室内には阿片を焚き、小刻みに瞼を痙攣させながら親指の爪を噛む。

「どうしてそっとしてくれないの」

 不安定になった心で王宮をうろつき、錯乱してぽろぽろと突然泣き出す。どうしてなの、と彼女は問うている。しかし二号には答えられない。

「ここから逃げ、身を隠すべきだ」

 二号はそっと娘の肩に手をやり、真正面から告げる。

「俺の戦闘では君を治せない」

「いやよ」

 娘は呻き、じりじりと部屋の隅に後ずさる。

「どうして逃げなければならないの。なにも悪くないのに。それに治すってなに? あたしはどこも壊れてなんかいない! もう嫌よ。隠れるのは。あんな惨めな生活に戻るくらいなら死んだ方がましよ。あたしは千年も我慢していたのよ。あたしのママは……」

「君が望むならその通りにしよう」

 娘はしばらく黙りこくっていたが、やがて「そう……」としみじみ囁いて衣服を脱ぎ捨てた。落ちたドレスからするりと脚をぬき、幽かに震える裸体を晒して娘は愛の言葉を口にする。

「抱いて」

 娘は言った。

「そんな機能はないんだ。すまないが……」

 二号は拒むが娘はなおもせがみ、彼の体をきつくきつく抱きしめる。

「ねぇ、熱があるでしょう。これがあたしの体。そしてあなたにも熱はある。暖かい。そう思えるのなら人間にだってなれるはずよ。ねぇ暖かいと言って。あたしの体はちゃんと形と熱を持っている、死者ではないと言って。あなたの胸にはいつも、チクタクと音がする。あなたとあたしはきっと似ているわ。あたしは千年も生きるように時を数えていたもの。あなたは夜も眠らないけど、でもそれは朝も夜も生き続けているということでしょう? お願いだから、時はいつでも流れていると言って。俺はけして眠らないと、時を刻み続けていると」

 二号はそっと彼女の体を押し返し、ゆっくりと首を振る。

「でくのぼう」娘は気が狂ったように罵り、はっと我にかえると泣きじゃくりながら謝罪した。

「ごめんなさい」

「俺は気にしてなどいない」

「愛していると言って」

「愛している」



「だがそれはどこまでも人形仕掛けの言葉なのだ。そうだろう?」

 玉座に腰掛けた女王は酒杯を傾け、葡萄酒の中で震える琥珀を転がした。既に三国を平定した娘は美しく成長し、以前の幼さを捨て去っていた。蜻蛉のように細い頸、大理石よりも滑らかな肌、控えめな唇は淫らにすぼめられ、喉からはあまねく夜を飲み干したように深い声を発する。紅棘花で染め上げた外套は幾重にも錫薔薇の刺繍を施し、胸元に金の飾針フィビュラで留められている。

 女王は気怠く体勢を崩し、肘をついて大広間を見下ろす。二号は変わらぬ姿のまま、身動ぎもせずぬっと立っている。目に写るもの全てを新しく美しいものだと捉えているように、二号はいつでもひたひたと静寂を秘めた瞳で目の前の景色を眺めている。雨に震える水溜まりの波紋一つ一つに心を移し、その皺一筋を愛し襞の隙間まで優しくなぞるように視線を向ける。

 そんな頃が自分にもあったのかもしれない。そう女王は考えつつ、苛立ちに弱々しく唇を噛んで血の色をした葡萄酒を飲み干す。精緻な唇から零れた酒が白く儚い喉を伝い、彼女の肢体を侵していく。

「私は幸せではないよ、二号」

 女王はぽつりと答える。二号は無骨な指で顎を掻き、理解できないというようにうむ、と唸った。

「だがもう敵はいない」

 女王はその言葉に驚いてみせ、それからにっこりと笑う。

「ならば敵をつくってくれ」

「敵はいない、女王」

「簡単だよ二号。闘えばいい。どこか別の国へ行って、人を殺してくればいい」

「こんなことをいつまで続ける」

 女王はあどけない眼をして、質問の意味がわからなかった子供のように首をかしげる。

「決まっているだろう。私とあなたが人間になれるまでだ」

 二号は黙って部屋を辞し、俯いたまま歩いて行く。王宮の中には誰もいない。人の体温の消え失せた回廊は冷たく乾き、人形の足音だけを反響させる。花崗岩を切り出した歩廊はまるで竜の胎内にでもいるかのようにとげとげしく骨ばみ、硬く鋭い質感を剥き出しにしている。

 何かがおかしい、と二号の意識は感じている。彼女の言うことはどこか矛盾している。しかしそれを明確に言語化できるほど二号の精神は複雑ではなく、彼は愚かな煩悶を繰り返しながら答えを見逃し続けた。

 一人は嫌だ。自分が何なのか知りたい。そう思う彼女の感情は正しい筈だ。しかし彼女の行動はおかしいような気がする。だとしたら正しいと判断したことさえも誤りで、彼女と二号はとどのつまり最初から間違えていたということになるのだろうか。

「わからない」

 二号は呟き、自分にはやはりまだ人間の模倣経験が不足していると認識する。

 と、どこからか声がする。

「わからないのなら教えてやろうか」 

 罅割れた柱の陰で待ち伏せていたのか、壁にもたれたビスクが冷えた眼で二号を観察している。

「人形に“もし”はない。だが人間にはある。もしも……、と言ってみろ二号。考えてみるんだ。ありうべからざる、しかし幻のように仮想しうる未来のことを」

「どういう意味だ」

「運命を考えろ」

「そんなものを考察することに利点はない。運命とは過去だ。人間は未来を語るが、未来が固着化するのは常にそれが過去になってからだ」

「人形ならそうだろう。だが別の考え方もある。運命とは物語だ。泡のように弾けて消える夢想や空想、錯覚に過ぎない淡い期待。人間には無駄がある。君にはその無駄が真似できていない。君は生きていることを後悔できるか? 自らの行動を反省したことはあるのか? もし、と考えろ二号。もしあの時君が彼女を咎めていれば。もしあの時彼女を軽くはたいていたら……」

 ビスクは悪意たっぷりに言った。

「彼女の右腕をもぎ取り、〝もうこんなことはたくさんだ〟と言ってやれ」

 二号は答えない。


 二号は異国へ旅立ち、また何人か人を殺した。せめてもの慰みに異国の文化を彼女に伝えよう、と考えた二号は、歓楽街に足を向け芸人達を見物する。蛇を飲むターバンの男、ナイフ投げの恋人たち、暗がりで流し目を送る占い師に仮面をつけた踊り子。呪いと解呪を押し売りする痩せ男は虻の集った水煙草を咥え、見知らぬ二号に胡乱な視線を向ける。まともな職業を持たない根無し草の彼らもこうして確かに生きている。見世物小屋で道化を演じる象皮病の少女やよちよち歩きの矮躯患者が異形ながらに存在しているのなら、女王とて普通に生活出来ないはずはない。ならばなぜこんなことになってしまうのか。

 ──もしあの時……。

 一弦曳きのギョロ目女が「旦那、一曲いかがですか」と話しかけ、二号は何気なく小銭を放る。忙しなく弦を掻き毟る演奏に行き交う民衆は渋面を浮かべ、「止めちまえ」と野次を飛ばした。

 そういえば、と二号は思う。チェロを弾いていたノエがいなくなったのはいつ頃のことだっただろう。何度目かの戦いで完全に骨まで塵にされ、とうとう目覚めることもなくなってしまった。いつの間にかにノエもシャヌもどこかへと消えていった。それがいつだったのか思い出すことも出来ず、どうして自分は朧な記憶だけを抱えているのか。

「彼女は覚えているだろうか。思い出すことがあるだろうか」

 ふと口をついて出た言葉にギョロ目女は演奏を止め、「何です?」と不審がる。「何でもない」と答え、二号はその場を後にする。



 記憶の底で母の声がする。

 女王は風に囁き、地平線を黴のように覆う敵軍を睨め付ける。荒野に蔓延る兵士達は無数の武器を携え、蟻群めいてざわざわと蠢いている。軍靴の鼓動は地鳴りの如く轟き、掲げた槍穂は高く天を突き人脂にぎらりと光る。

 女王は静かに口を開く。鮮血のように赤い唇から漏れ出す声は高くもなく低くもなく、しかし古びた羊皮紙のように嗄れ、暗く湿っている。悠久の吐息を伴い、千年の倦怠を孕んだ舌を振るわせ、「目覚めよ」と女王は命じる。


 目覚めよ。

 全ての夜と引き替えに、ねむの記憶にをとぼせ。

 汝ら異貌の刻がかつては生者のそれであったゆえに。


女王の杖が大地に触れ、荒野が捲れる。巨人が大地を引き剥がすかのように見渡す限りの地表が持ち上がり、ふっと一瞬制止したかと思うと見る間に崩壊し落下する。僅かな植物の根も拗れ、繋がれていた岩はその構成を失い塵に還った。無残に暴き立てられた地肌に覗く死者達はめいめい刻を取り戻し、むせび泣くような産声をあげる。

 腐肉の歌を唱え死者は行軍する。溶けた肉を滴らせ、腐敗ガスに膨隆した腹を餓鬼のように抱え、それでもなお死者は歩む。水疱だらけの顔で呻き声を上げ、胡麻じみた卵から抜け出した無数の蛆たちに肉を食まれながら死者は購いを求め足を進める。お前達もいつかはこうなるのだとそう告げて。


 凄惨な光景の中に一人、紛れ込んだ二号は死軍の最中にあって餓えるように疑問の言葉をなぞり続けている。

 これは彼女の過去だ。彼女の物語だ。

 彼女は死を証そうとする。

 何もかもが消え失せる。いつか全ては無くなってしまう。

 そう考えたときふと、底知れぬ恐怖が沸き上がってくるのを感じた。

 存在意義が揺らいだ。

 追い詰められた獣が狂気に牙を剥き出すように、二号は凄まじい形相で獅子吼する。背筋を這い寄る恐怖が肯定するままに二号は暴力に奮える。丸太のような腕で人間を圧砕し、背骨をずるりと引き抜いて振り回した。腹の底から雄叫びが零れた。

 闘うのが好きだ、と二号は思う。

 闘うために造られた二号は闘うために機能を発揮する。闘っている間だけ、彼はその能力を証明できる。自分は誰かの役に立っている。意味のある生き物だ、と思う。だから闘う。人間の頭蓋骨を潰すとぐしゃと音を立てて砂を掴むのに似た感触が残る。食物網において、強いものが弱いものを食べ生き残ることは論理的に正しい。俺には生きる価値がある。そう思う。

 けれども何故だろう。彼の記憶にはどこか朧な所があって、胸の奥がときおり幻肢痛じみて疼くのだ。得体の知れない既視感に急かされて二号は知らない言葉を思い出す。それは胸に嵌められた臓器時計の音であったり、二号という名前に纏わる印象であったりする。

 この時計を別の誰かが撫でていたような気がする。大事そうにいつも抱えて、盗まれやしないかと心配そうにきょろきょろしていたような気がする。自分はこの時計を見て、羨ましい、自分にもこんな風に大切なものが欲しいと思ったような気がする。

 ──そして、その記憶には一号という言葉が関わっていたような気がする。

 自分の前に誰かいた。自分は誰かの続きで、過去と未来を結ぼうとしている。

 戦場で二号は、くお、と叫びながら一人の兵士を投げ倒し、喉笛を踏み潰す。

 だが記憶は戻らない。彼の心は連続していない。

 そのことを考えるとき、彼は例えようのない悲しみに襲われる。

 失ったものが自分にはある。そしてそれは、二度と手に入らないものなのかもしれない。

 わからないもの。永遠。

 自分は一体何だろう。自己を定義できなければ行動目的を定めることもできない。「女々しいやつだな」とビスクは言う。しかし同時に彼は、「人間らしい」とも言う。

 人間。自分は人間になりたいのかもしれない。そんな陳腐で他愛もない願望に突き動かされて駆動しているのかもしれない。「自分が何なのかわからない」などという精神薄弱な人間のように下らない考えを悩み続ける限り生きていられる気がした。人間らしい。素晴らしい言葉だ。

 いいぞ、と思う。この感触だ。二号は手刀で頸椎をへし折り、襤褸布のように死体を弄ぶ。

 周囲から無数の槍を突き出された。関節が捻じれる。膝が折れる。斧で指を潰される。構うものか。俺が壊れていくのは俺がここにいるからだ。自分の内臓から零れた鋼線を無理やり引き千切り、次々に首を絞めた。右腕に誰かがしがみつく。こちらの動きをとめようというのか。勇敢な奴だ。奪い取った剣を右腕に叩き付けると敵は死んだが右腕も砕けてしまった。ぼとりと落ちた右腕の先を拾い敵を殴りつける。びちゃりと肉が弾けていく。何度も右腕で殴るうちにとうとう右腕はぐちゃぐちゃになって使い物にならなくなった。

 彼は赤子のように微笑んでいる。安らかな顔をして、人殺しに精を出している。少女の夢に荷担したときもきっとそんな顔をしていたに違いない。可哀想な少女を守るのだと何食わぬ顔をして、腹の底で楽しんでいたのかもしれない。

 二号は笑う。

 笑いながら、二号は泣く。

 ──ねぇ、あたし一人なの。

 ──でも一人で、ずっと一人きりだったら。

 ──自分が誰なのかわからなくなっちゃう……。

 俺もだ。心の中で二号は叫んだ。ビスクと共に旅をして人間の真似を重ね、そして何度も闘った。楽しかった。楽しかったが、むなしかった。何かが違うと彼は思った。だから少女が孤独を告げたとき二号は二号でなくなって、甘ったれた人間のように救われた。彼女の言うことを何でも聞き、助け、崇めたいと感じたそのとき、彼はもう宗教の中にいた。依存していた。

 二号は天を仰ぎ、両目を覆った。

 戦争は女王の勝利に終わり、死者たちはふたたび土の底に眠る。女王はくたびれた顔をして地面に腰を下ろしていたが、二号が近づくと嬉しそうにはにかむ。

「私たちのかちだ」

 その時だけは昔のままで、女王はあどけない顔をする。強張った顔の二号は彼女に手を伸ばし、何かを言いかけ、しかし言葉を失って力なく腕を降ろした。

「どうした、二号」

「そうだな」

 二号は必死の思いで女王を抱え、震える手で自分の肩に載せた。

 どうした、と声をあげた女王は、ぎこちない彼の様子にはっと表情を変える。

「俺は一度も誰かの肩に載ったことがない」

「そうか」

「そこから見える景色は一体どんなものだろうか」

「高さは同じだろう。きっとあなたと同じものだよ」

「俺にはわからない。教えてくれ」

 女王は懐かしげに目を細め、血の臭いのする風に身を委ねた。

 どんな景色か、どんな気分か。そう言われると確かに困る。

 母のお腹にしがみついて、思う存分臭いを吸い込むような甘い気持ち。

 自分が透明で清潔で、水晶にでもなったような綺麗な気持ち。

 そのどちらかか、どちらでもない言葉の陽炎か。

 こうしてあなたに乗るのも本当に久しぶりのこと。

 こんなことが前にもあったと私は思い、その感触だけが風の中に薄れてく。

 私はいつか今日を忘れる。

 風の中には無常がある。

「あのね……」

 女王は言いかけ、舌を縺れさせた。彫刻のような睫を濡らし、涙が一筋頬を伝った。

「私はまだ泣ける」

「俺はもう闘えない」

「そう」

「君も止めてくれ」

「断わる」

 女王は言った。

「私は止めない。今日も明日も明後日も、また闘いそして殺すのだ。なぜと聞かずともあなたにはその理由がわかっている筈だ。ビスクから物語を聞かされたのだから」

「お願いだから」

「駄目だよ二号。人間になりたいとそう思いながら私はどこか人間なんてと考えていて、一度闘いを始めたらたくさんのことを思い出してしまったから、もう、やめることだってできないんだよ。それが嫌だと言うのならあなたの手でこの頸を」

 二号は彼女を優しく抱きかかえ、下に降ろし、そしてそっと頸を掴んだ。

「なぜ抵抗しないのだ。逃げることだってできるだろうに」

 女王は悲しげに笑い、小さな顎をそっと反らせた。

「あなたからは逃げたくない」

「そうか」

 二号は強く握りしめた。女の骨は脆かった。


 

 むかしむかし──と物語は語られる。

 世界に一人の魔女がいて、魔女と娘が生きていて。

 魔女は娘によく言った。その力を控えなさい、と。

 娘はうんと頷いて、大好きな母の脚にしがみついた。

 村ではもう食べ物ももらえなくて、魔女はどんどんやせ細っていた。この前金棒で突かれた場所が痛むのか、魔女は苦しそうに腿をさすっている。

「なんだか疲れたわ」魔女は言い、眠っていることが多くなった。

「お寝坊さんね」と娘はすまし顔をして、母のほっぺたをつんつんつつく。

「もう朝よ。六時よ。りんりん」

 機転を利かせ娘はベルの真似をして、母の目覚めを待っている。

 けれどもどうしたことだろう。その日の魔女はずっと寝ていて、夜になっても起きてこない。

「もう朝よ。六時よ。りんりん」

 娘は何度も繰り返し、そしていつしか魔女になった。

 むかしむかしの物語。

 魔女と娘が夢を見て、やがて娘が魔女になる。



 あのね、おはよう。

 荒野の風は鯨です。

 チクタク、今日も元気です。


 

 そして二号は風の中に束の間の陽炎を見た。少女の姿をした幻は頼りない足取りでとてとてと歩き、かわいらしい仕草でちょこんと二号の脇に腰を下ろす。

「あのね」と少女は言う。「あなたに会えたことを、あたしはきっと後悔しないの。だってあなたは王子さまだもの」

「でもね」と娘は言う。「他に道は無かったのかしら。あなたとあたしが結ばれることはあり得ないのかしら。いつからか昔のことを忘れてしまって、復讐のことばかり考えていた。何か一つ言い訳があれば、あたしはずっとそうしたかったのかもしれない」

「二号」と女王は言う。「私を殺したあなたを私は憎み、そして呪うよ。だからあなたも私を憎んでいいんだ。私のせいにしていいんだよ。ただお願いだから……私のことを忘れないで」

「ああ」と二号は声を震わせる。

 娘は二号の額にそっと口づけして「愛してる」と言った。

「その言葉がたとえどんな糸に結びつけられていたとしても、あたしがそう思う限り愛は愛よ。陳腐で他愛もなくて下らない、けれど少女時代のあたしが抱いた心なのよ。ねぇ二号。あなたは人間よ。あたしがそう思う限りあなたは人間。あたしはあなたのおかげで闘いを止めたわ。だからあたし達、きっと人間になれたのよ。ねぇ……もしも、いつか……」

 幻は再び少女の姿に戻り、二号の肩に座った。

 二人は顔を並べ、荒野に夜を待った。

「こんな筈じゃなかったと思う?」

「ああ」

「そうね」

「昔に戻りたい」

「戻れないわ。人はいつかおやすみなさいと言って眠りにつかなければならないの」

「行かないでくれ」

「二号」

「行かないでくれ」

 さよなら、と少女は言った。思わず伸ばした手のひらがむなしく空を切り、そこに誰かの体温を感じることもなく幻は消えていった。

 二号は項垂れている。

 背後からビスクが近づいてきて言った。

「君はちゃんと人間らしく、どこからどこまでも間違ってみせたよ」

 その通りだ、と二号は思った。

「初めはほんのおふざけだった。彼女の額をちょっと突いてやればそれで良かった。けれどでこぴんが殴打になり、殴打がいつしか彼女の右腕を求め、気がつけば君は彼女を殺していた」

「俺は死ぬべきか?」

 ビスクは毒めいた目に蔑みを浮かべ、「生きろよ」と言った。

「そんなことも決められないなら人間だ。君は彼女の名前だって知らないだろう?」

 何気なく言ったその言葉に二号は愕然として、「……名前?」と繰り返す。

 長い沈黙があった。

 不意に二号の喉から抑えきれない音が漏れる。堪えきれない衝動が喉元を迫り上がり、おぞましい恐怖に舌が痺れた。

 岩のような大男は細い糸のような声で慟哭する。痛切な叫びを荒野の風は包み、どこか遠くへと運んでいく。今日も荒野に吹く風は血の気を孕んで冷たく乾き、熱のない感触で旅人の喪失感を攫う。

 いつか二号は知るだろう。自らの名とその所以の在り処を知るだろう。

 だがそれは今ではない。今泣く二号の心には寄るべきものなど何一つなく、自らの存在さえも厭うほど激しい嫌悪に包まれて呻くだけだ。

 それはけして今ではない。もしいつかその時が来たら、二号は再び彼女の言葉を思い出すだろう。「いつか」というその言葉を、彼が眠るその時には。

 二号はもそもそと起き上がり、女王の体を抱き上げる。腕の中にあるのはもはや死体ではなく死骸で、醜く見開いた眼球が苦痛を物語っている。いま幻と話したことは全部、何もかも自分に都合の良い独り言のようなものかもしれない、と二号は思う。対話と呼べるものはそこにはなく、少女と人形は互い互いに勝手な物語を語っていただけなのかもしれない。

 鰐から移植されたぎざぎざの歯をあんぐりと開き、二号は女王に齧り付いた。鑿のような歯で眼球を咥え、がちりと硬い音を立てて噛みしめる。つぷりと割れた水晶体からとろとろと涙みたいに液体が零れて舌を濡らした。指先を含み顎に力を込めると小さな指が口内で弾ける。頭の先から爪先まで、骨ごと二号は咀嚼する。黙したまま女王をたいらげた二号はこきりと首を曲げ、少女のように笑おうと表情を引き攣らせる。

 右腕はすでになく、爆ぜ割れて内部の剥きだしになった両足は悲鳴をあげている。一歩踏み出した途端に右足が折れ、二号は女王の杖に縋り付いた。懐かしい匂いがした。

 

 あのね、と二号は言う。人形は少女の真似をして両手を広げ、風にくるりと回転する。バランスを崩してぱたりと倒れた人形はやはりもそりと起き上がり、あのね、と呟きながら悲しい速度で荒野の果てへと歩いて行く。

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