第二夜 少女人形①
少女は少し、あたまが悪かった。身の回りのことをきちんと出来なかったし、数を上手く数えることも出来なかった。いつもぼんやりしていて、雨粒が薊の葉をぴたぴたと叩くのや蟻の行列が蜥蜴の頭蓋骨を運んでいるのをふと見かけるといつまでも眺めていて、頼まれていたおつかいや仕事を忘れてしまう。皿を二十しまえと言われても彼女の指には十本の指しか無くて、一つ一つ指を折って数えている内にどこまで数えたのかわからなくなって途方に暮れた。少女には数字の中に秘められた物語や怪物が気になって仕方が無かった。
一の指には蠍の一頭獣がいて、二の指にはアウロラの鷲がちょんと足で掴まっている。今はもういない少女の母は、娘の掌を優しく指折りながら子守歌を歌ってくれた。少女の髪、少女の踵、ありとあらゆる場所に母は物語を歌った。「ほら、ここにも始まる」と言って母は少女の臍をくすぐり、生きていることの不思議を教えてくれた。
けれどもやはり、少女はあたまが悪かった。お金も身よりもなく、どこの手伝いも長続きせず、役立たずの烙印を押された少女は誰からも相手にされなくなり、住む場所は街の外れも外れ、荒野に佇む無縁墓地に追いやられた。「もうどこか夢の中にでも行っちまいな」最後に皿を割ったとき、店のおばさんはそう言った。その通りかもしれない、と少女はちょっと思った。あたしはずっと夢を見ている。
朝起きて墓石を磨き、「おはよう」と言うのが彼女の仕事。誰に強いられるわけでもなく、彼女自身がそう決めた。血なまぐさい疑いと危険を残して死んだ名もない旅人たちの墓になんか誰も来ないし、街に行ったところで誰も彼女には優しくしてくれない。少女はもう長いこと生きている人間と会話らしい会話をしていなかった。食べ物もずっと食べていなかったが、涙を流している内にいつの間にか苦しくなくなっていた。
朝起きて「おはよう」と言うのが彼女の仕事。母が残した樫の杖でこんこんと地面を叩き、朝の挨拶を静かに繰り返す。
あのね、おはよう。
荒野の風は鯨です。
チクタク、今日も元気です。
寝返りをうった拍子に踵が小川に浸かり、頓狂な声を上げて少女は目を覚ました。眠い目を擦りながら起き上がり、近くに咲いていた花を乱暴に毟って蜜を啜る。苦味にふとお腹が痙攣し、少女はそろと胃の中身を吐きだす。白く曇った空をじっと見つめ、力のない息を少女は吐き出す。
寝起きする荒野には低木が茂り、枯色の網を張っている。所々に自生する満点星の躑躅だけが神秘のように白く、釣り鐘型の花冠は中に眠る妖精の影を透かしている。
その日は寒くて、笑顔をつくるのが少し難しかった。けれども少女は朝の挨拶をするときには必ず笑顔でいようと決めていたから、時間をかけてなんとか笑顔をつくり、杖で地面を叩く。すると大地に埋まったされこうべたちの夢が湧き水のようにぽこぽこと吹き出すのだ。
眠りから覚めた死者たちは口々に語り出す。
猟師だったゲイルムおじさんは言う。「やあ、姫」彼の体は腐り果てて蛆が湧いているけれど、でもおじさんはいつも優しい。若い頃の冒険や彼の飼っていた猟犬がいかに信頼できる友だったかを、骨でつくったオカリナを吹きながらお話してくれる。
踊り子だったシャヌは言う。「おはよう、姫ちゃん」虚ろな眼孔の奥に風を通しながらに、シャヌは誰かの大腿骨で拍子を取りながら葬送歌を歌う。彼女は「おちびちゃんはいつまでおちびちゃんなの」とからかい、少女はそういえばもう三百年くらい経ったのかもしれないと思いながら「失礼ね」とむくれてみせる。
女衒(でも女衒って何だろう、と少女は未だに思う)だったノエは言う。「おはよう、ぼくの姫」ノエは声が絹の絨毯のように優しくて、きっと生きていた頃は美しい人だったに違いないと少女は思っている。なぜって、まだ腐らずに残っている肌が透けるように白くて綺麗だから。「おはよう、姫。寒くはない? 乾いた風に喉を痛めてはいない? じき冬が来たら、その体を凍らせてしまわないように気をつけて」ノエはいつも少女の心配ばかりしている。
虹色に輝いて宙を舞う泡のように、されこうべ達の合唱は淡く弾ける。
姫、姫、おはよう。おはよう、姫。
「おはよう」と少女は笑う。
あのね、おはよう。
朝には夜が眠りにつくの。
チクタク、今日も元気です。
髪はぼさぼさで蜘蛛の巣みたいに絡まり、木の葉や小枝が刺さっていて、身に纏う唯一の外套はすりきれててかてかと鈍い光沢を放っているけれど、でも少女は姫だった。
少女は時々街へ行った。墓地に取り残されるされこうべ達はみんな悲しそうな顔をしたけれどこればかりは仕方がない。墓を磨くための雑巾だけは新しいものに変えておきたかった。
少女が店に入ると、中にいた客達は眉を顰め慌てて出て行った。その反応に傷つきながら少女が震える手で鉄貨を差し出すと、店主の老婆は顔を歪めて犬を追い払うようにしっしっと手を振った。
「これでどうか」
懇願する少女に老婆は「そんな汚い金、受け取るわけにはいかないだろう」と罵声を浴びせる。そんな死人の金は呪われているに違いないと。それでもなお頭を下げ続けていると、癇癪をおこした老婆は「店の迷惑だからとっとと出ておいき」と雑巾を少女の顔に投げつけた。「ありがとう」と言うと、「次からは別の店に行きなさい、いいね」と念を押される。
少女はとぼとぼと歩いて帰る。おかしいな、と少女は思う。昔はもっと、生きている人たちとうまくやれていたような気がする。それが最近は嫌われるばかりで、上手く言葉を話すこともできそうにない……。
暗い気持ちで歩いていると、路地裏から悪たれ小僧どもが突然現れて少女を追いかけ回した。少女は走るのがあまり得意ではなかったのですぐに息が切れてしまい、どうすることもできず地面にへたり込む。
「汚いぞ」「屍霊術士の娘だ」少年達は口々に言い、手に持った棒きれで少女をつついたり犬をけしかけたりする。それが怖いので少女は縮こまり、頭を隠して必死に攻撃を逃れようとする。
「やめてよ」
少女が言うと、少年たちは大げさに反応してみせる。
「やあ、死体が喋ったぞ」「臭い、臭い。鼻が曲がる」
乱暴な一人がお腹を蹴飛ばして、少女は思わず「アッ」と呻く。すると少年達はその声を真似して口々に「アッ」「アッ」とはやし立てる。
鋭い牙をむきだしにした犬が襤褸外套に噛みついて少女を引き摺る。破り取ってできた穴から少女の腿が覗く。寒いな、と少女は思った。折角ノエが忠告してくれたのに。亀のように蹲った少女を少年達はしばらく棒で小突き回し、彼女が動かなくなるとようやく去っていった。
少年に蹴られたお腹がしくしくと痛む。外套の隙間から吹き込む風が体を凍えさせ、少女は弱々しくくしゃみをする。
──殺しちゃおうぜ、とシャヌは言った。簡単さ。あんたがやれと言うのなら、あたしはやる。
それはきっと冗談だったはずだし、少女も本気にはしていない。
(でも、あたしにはできる)
赤く腫れた足でひょこひょこ歩きながら少女は唇を噛みしめる。
何も殺さなくてもいい、されこうべ達を使って少年達を脅すくらいなら、ちょっと懲らしめてやるくらいなら、ほんの僅かに警告をするくらいなら……。
でも、それはいけないことだ。なぜいけないのかは知らないけれど、母は確かにそう言っていた。「夢を人に使ってはいけませんよ」と。そんなことをしたら、あなた捕まえられて悪魔に食べられちゃうわよ。そう言って母は少女は脅かした。
やってはいけないことは、やはりやってはいけないのだろう。だから今にも崩れそうな表情を固め、ぶるぶると震えだしそうな頬を抑えるために口を噤んで一心に歩いて行くのだ。
墓地に帰り、杖で大地を叩き、雫のように儚い声で「おはよう」と言うと、されこうべ達が一斉に起き上がり彼女を取り囲んで「おかえり」と言った。
少女はわあわあと泣き出した。心の内に溜込んでいた思いや必死になって耐えていた悲しみがあふれ出して、胸がいっぱいになった。涙と鼻水で顔をべちやべちゃにして、惨めったらしくべそをかきながら、少女はつっかえつっかえ言う。
「ねぇ……私一人なの? ずっとそうなの? 明日も明後日も、これからも?」
されこうべ達は優しく少女の髪を撫で、「そんなことないよ」と励ましてくれた。僕たちがいるじゃないか。
「そうね」と少女は悲しい笑みを浮かべ、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら墓石を丁寧に磨いた。
でも、と少女は時々思う。これはみんな全部、あたしの独り言みたいなものかもしれない。だってこれは夢だから、物語だから。生きている世界には、あたしの手を握ってくれる人はいない。優しいのは過去だけ、今はもう過去になって、物語になって、誰かの微睡みと引き替えに夜に降りる夢だけ。土の下に眠る死体の記憶を掘り返してあたし、さもしい一人芝居をしているのかもしれない。
少女はぶんぶんと首を振ってその考えを吹き飛ばす。こんな考え方はされこうべ達に失礼だ。少女はだまって雑巾を持つ手に力を入れる。
そんな少女にも昔は友達がいた。かなり嫌な女だったけれど、でも友達だった。百年ほど前のある日、女はいつの間にか墓に寄りかかっていて、「私の話を聞いて」と言った。蜥蜴みたいなひねた眼をした女で、とにかく人の話を聞かなかった。少女の相槌はしつこく求めるくせに(ねぇ聞いてるの?)、少女がたまに話しかけた時は胸に抱えた本ばかり気にして上の空だった。
女はいつも甘い幻想の恋物語ばかり呼んでは溜息をついていた。「素敵。〝君は神のつくった人間としては奇蹟のように美しい〟なんて。奇蹟の、ように、美しい。そんなこと言われたら私、どうしちゃおうかしら」「ああ、どうして二人は別れてしまうの。駄目よウィリアム、悪どい叔父さんの言うことなんか信じたら! ミシューはあなたのことずっと待っているのよ!」女は油に映った虹みたいにくすんだ瞳をうっとりとさせ、歌うように少女に話しかける。
この世に王子はいるかしら。
鳶色の瞳、黄金の巻き毛。逞しい体と聡明な心。
泉の剣で竜を倒して可愛そうなお姫様を救う。
わたし恋がしたいわ。そんな彼とキスがしたいの。
巡り会ったらどうしよう。
巡り会ったらどうしよう。
一目で相手の虜に落ちて、二言目には運命を語る。
恐る恐る近づいて、荒々しく抱きしめて。
それから先はどうしよう。
それから後はどうしよう。
「わたし絶対に王子様と結婚するわ。可愛い娘と賢い息子を産んで、幸せに暮らすわ」女は蕩けるように語った。
「そんなことできるわけないじゃない」
少女が言うと、女は子供のようにびっくりして眼をぱちくりさせた。「どうして?」
「できるわよ。魔女だもの」
「あなた魔女なの?」
「そうよ。あなたもそうでしょ?」
「私が?」
少女も驚いて、女と一緒になって忙しなく瞬きをする。
「千年生きたら魔女になるの。でも千年生きたら誰しも孤独だから、私あなたに会いに来たの」
「あなた一人なの?」
「そうよ。一人よ」
女はそうしてしばらくの間少女と一緒にいて、気がつくとまたいなくなっていた。さよならも言わずに。
少女にも昔は友達がいた。けれどさよならを言うことはできなかった。
少女は代わり映えのない生活を送った。朝起きて「おはよう」と言い、墓を磨き、シャヌの踊りに手を叩き、墓を磨き、ゲイルムが幽霊の銃で鳶を驚かすのを眺め、墓を磨き、みんなと輪になって眠り、墓を磨き、日が暮れるとノエの弾くチェロに耳を傾ける。そんな暮らしをもう何百年続けているだろうか。
荒野の夜は驚くほど深く、あっという間に地平線まで全ての景色を影絵にしてしまう。眠い目を擦りつつ、遠くの方で風にざわめいている影のかたちに空想を投影しながら、少女はこつんと墓に頭をもたれる。夜の静寂に負けないように膝を抱え、ノエの掲げる弓がチェロの弦を優美に奏でるのをじいっと見つめる。音はどこまでも遠く響き渡っていく。身を引き裂くように悲しい曲。零した涙がつうと頬や首筋をなぞり、失ったものの輪郭を確かめていくような弦奏楽。暗闇の帳を優しく覆う絹のような銀の音色。いつもは騒がしい道化のダビーや癇癪屋のヘニゲットもこの時だけは黙り込み、そっと物思いに耽って吐息を振るわせた。
少女はうとうとしながら夜を視る。
冷たい空気が睫を揺らし、透明な黒が眼の中に入り込んでくる。時が凍りついたように夜はしじまを湛えている。
これでいいのかもしれない。少女はふと思う。これが幸せというもので、これ以上を望んではいけないのかもしれない。このまま何日も何日も夜を見つめて、チェロの演奏を聴いて、そしていつか世界が滅びたら、「仕方がないね」と肩を竦めて死んでしまえばそれでいいのかもしれない。一人じゃないと信じることが出来るなら。
「無理だわ」
少女は呟く。
獣なら何も求めずに生きていけたかもしれない。生きること以外のなにものをも想像することなく、手に触れられるものだけを命だと認識して存在できたのかもしれない。
でも少女には形があった。されこうべ達にも。黒夜のただ中にあって影に過ぎず、けれども滲んだ輪郭を伴って彼女は確かにそこにいた。
「何か言った?」
弓を傍らに置いてノエが尋ねた。
「ううん。なんでも」
そう答えるとノエは心配そうに眉を寄せ、「もう遅いからお眠り。夜は深い」と言った。
そうねと頷いて少女はそれ以上何も言わずに目を閉じた。彼女はけして「おやすみ」とは言わない。
それから三年後に二人組の旅人が現れた。怪しい大男と少年の二人だった。大男は頭巾で顔を隠し、外套で身を包んでいる。しかしその体躯はあまりにも巨大で、普通の男が向き合うと彼の臍にむかって話すことになるほどだった。腕も足も恐ろしいほど太く、小山を無造作に切り出したらこうなりましたとでも言うような。
少年の方は整った顔立ちで、すっきりした手足を軽やかに動かして大男の後をぶらぶらと歩いている。利発そうな光を瞳に宿し、誰にでも愛想良く受け答えをした。
少女が二人と出会ったのは雑貨屋だった。店に入るといつものように客はそそくさと出て行ったが、二人は汚らしい少女を見ても全く気にしない。
「地図をくれ」
大男は店主にぞんざいに言った。少年は口を出さず、店主に「どこの人間ともしれない旅人に売るものなんかないね」と断われる大男を見てにやにやしている。
「地図をくれ」
「無理だと言ったろう」
何度断われれても、大男は他に言葉を知らないのか「地図をくれ」とただ繰り返すばかり。痺れを切らした店主が「いいかげんにしろこのとんちき野郎」と怒鳴りだすとようやく、それまで傍観を決め込んでいた少年がさっと近寄り、店主の手を握った。
「まあそう言うなよ、おやじ。仲良くいこうぜ」
少年に握られた掌を眺めた店主は途端に機嫌がよくなり、「じゃ、仕方ねぇやな」と渋々を装って奥から地図を持ってきた。
少女は確かに少年が店主に銀貨を渡すのを見た。だが大男の方はそれがわからなかったのか、「なぜ自分では駄目なのだ?」とでも言いたげな疑わしげな目付きで少年を眺め、不満げにうむ、と唸った。
生きるのが下手くそな大男に少女は興味を引かれ、気がつくとぽかんと口を開けたまま彼の外套の裾を摘んでいた。
大男はまるで気がついていない。彼にしてみれば少女は子犬ほどの大きさしかない。大男は少年が魔法でも使ったのではないかとためつすがめつしていたが結局わからなかったのか、「うむ」と悲しそうに言って歩き出そうとした。すると外套を掴んだままだった少女は簡単に転んでしまい、しかし大男はなおも気がつかず彼女はずるずると引き摺られていく。
少年はしばらく面白がっていたが、やがて飽きたのか「いつの間に子供を作ったんだい、パパ?」と声を掛ける。大男はようやく足を止め、訝しげな表情で振り返った。
「つくれるのか?」
「そういうことじゃない。君の足下にぶらさがっているお人形さんを見ろと言っているんだ」
大男が足を止めたので少女はなんとか起き上がり、転んだ時に擦りむいて赤くなった鼻頭をなでていた。間抜けに口を開いたまま鼻水をずるずると啜り、下から阿呆に見上げてくる少女を見つけると、大男は相変わらずに「いつの間にこんなものが?」という顔をして、今度はどんな手品を使ったのだと少年を睨みつける。大男はその図体に似合わず繊細な手つきで少女の指を外套から丁寧に剥がし、「では」と頭を下げてふたたび歩き始めた。
少女はもちろん大男の後についていった。とてとてと危なっかしげに、小さい歩幅で懸命に後を追う
いつものように曲がり角からさっと悪ガキどもが現れて、手に持った蓑虫を投げつけ、髪の毛を引っ張る。引っ張られた頭皮の痛みに少女は呻き、少年たちの体越しに去りゆく大男を見る。
「行かないで」四方から小突かれながら少女は叫んだ。
「なぜ」
振り返った大男は妙に透き通ったびいどろみたいな眼をしていた。
大男が答えるとは想像だにしていなかった少年たちはぎょっとする。あの図体の奴が味方をしたら、俺たち、牛革みたいに叩きのめされちまう。
「あたしは……」
「あなたは誰だ?」
大男は言った。そしてしばらく考えた後にのっそりと動きだし、少女を取り囲む少年たちの一人の体を捕まえ、高々と持ち上げた。
「おろせよ!」
じたばたしながら少年が喚く。
「おろそう」と大男は静かに答え、少年の体をゆっくりと落とす。
「こいつ馬鹿だぞ」
そばかすの少年が言った。面白半分に大男を軽く殴りつけるが、大男はびくともしない。彼は少女に乱暴を加える少年たちを一人ずつ持ち上げ、荷物を脇にどかすようにゆっくりと降ろす。殴られ唾を吐きかけられても気にせず、忍耐強くその動作を繰り返す。
少年たちが捨て台詞を吐いて逃げ出すまでそれは続いた。
それから大男は地面に膝をつき、指の側面で少女の涙をそっと拭う。ぽかんとしている少女に大男は口を開き、ようやく長い言葉を発した。
「行かないで、と君は言った。なぜ」
少女は必死になって考えた。この大男を引き留めるだけの理屈(あなたは私とずっと一緒にいなくちゃ駄目なのよ。なぜなら……)が自分にはあるだろうか? そんなものはどこにもなかった。少女はしゃくりあげながらおずおずと言う。
「あたし一人なの。でも一人で、ずっと一人だったら……自分が何なのかわからなくなっちゃう」
「自分が何なのか、わからないのか」
少女はこくりと頷いた。
「そうか」
大男は言い、ぐずつく少女を優しく抱き上げ、肩の上に載せた。
空を飛んでいるみたい、と少女は思った。大男の肩の高さは風が澄んでいて、あらゆるものが手に取るように見え、そして世界は広かった。少女は涙で腫れた目元を緩ませ、鼻水で汚れた顔のまま、えへへ、と笑った。
「俺もだ」
大男はまっすぐに前を見つめていた。そのむさくるしく精悍な横顔を見て、少女はある言葉を思い出した。
王子さま。
この人は、あたしの王子さまだ。
少年はビスク、大男は二号と名乗った。
「二号。変な名前ね」少女は思ったことを素直に口に出す。
二号は少女を背負ったまま墓を目指し、ビスクは呆れ顔でだらだらと後を追う。二号の肩ですやすやと眠る少女の間抜け面にビスクは馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「それが君の感受性ってやつなのか、二号?」
「人間の真似をするためだ」
ビスクは乾いた笑いを浮かべる。
「肩に抱いたそれが人間に見えるのか? 相変わらず世間知らずな奴だな。それはただの化け物だよ。半分死んでて、半分生きてる」
「だが人間の形をしている」
「じゃあ聞くがお前さんの言う人間の形ってなァ一体どんなものなんだね? 畸形の人間はこの世でどう生きる? 指が一つ足りないどころの話じゃないぜ。腕もなく脚もない人間だってこの世にはいる。あるいは象の皮膚を纏い、鰐の顔をしている奴も。せむし男はせむし男という名の悪魔なのか? そういうことじゃないだろう」
「お前の言うことは難しいな」
「そんなものを真似してどうする。お前は人間にならなきゃいけないんだぞ」
ビスクは二号に指を突きつける。
「いつかこの少女を真似するために、俺は彼女のことを知る必要がある」
「そうかいそうかい、じゃ教えてやるよ。物語を語ることが僕の役目だからな」
皮肉気にビスクは口を尖らせ、勿体ぶった口調でこの地に伝わる伝説を語り出した。
「なぜ知っているんだ?」
「有名なんだよ」
二号はその話を黙って聞いていた。始めから終わりまでずっと。彼に言えることは何もなかった。
あのね、おはよう。
雲雀が風を朝にする。
チクタク、今日も元気です。
少女が大地を叩く。されこうべが起き上がる。
始まりは他愛のないことだった筈だ。
二号に邪魔をされた腹いせに、少年たちが墓を荒らした。墓と言ってもそれはただの岩に過ぎなかったが、少女はそれを両手に抱えうんうん言いながら運んできた。誰にも知られず大地に眠る死者達のため、少女は綺麗でまあるい岩を探し、「これはあなたの夢の一つ」と言って一つずつ据えたのだ。
ノエは言う。
「僕たちはただ死んでいた。あてもなく。けれども彼女が僕たちを見つけ、僕たちを夢見てくれた。だとしたら僕たちはただ彼女だけのために存在していても良いはずだ」
彼女を傷つけないでほしい、とノエは二号に伝える。
だが墓は荒らされた。手鞠のように蹴り回され、少女は泣き喚き、二号は当然彼らを止めようとした。
大男の手が優しく少年を捕まえる。
少年が乱暴にもがき、大男の手をすり抜ける。
すり抜けた少年が遙か高みから落下していく。
「やれやれ」とビスクが口笛を吹く。
掘り返され、穴だらけになった荒野の墓地を眺め、少女は「ひどい」と涙を流す。
やがて怪我をした少年の父が怒り狂い、街の住人たちを引き連れて不審な旅人と魔術師の娘を追い出そうと大挙して押しかけるのにそう時間はかからない。住人達は少女が腐乱死体と戯れているのに驚き、恐怖し、嫌悪する。干し草を運ぶための刺又や鍬などを持ち寄り、「出て行け」とがなり立てる。
──殺しちゃおうぜ、とシャヌは言う。
「駄目。お願い」
けれどそう言う少女の懇願に渋々されこうべ達は従い、少女のために盾になる。
「私たちはあなた達に危害を加えるつもりはありません」
ノエが両手を上げ、にこやかに微笑みながら住人に近付いていく。しかしその顔には蛆が湧いており、ひどい腐臭が吐き気を誘う。屍体のふざけた行動に恐慌をきたした住人の一人が思わず手に持った斧を振り下ろす。ノエの骨が砕かれ、チェロを弾く美しい象牙の腕がぽろりともげる。
住民の興奮は弾け飛びそうなほどに高まり、火蓋は切って落とされる。
シャヌが凄まじい怒声をあげる。少女がまたも泣きながら制止する。シャヌは悔しそうに唇を噛みしめ、燃えるような瞳で住人を睨みつけたまま棍棒の一撃をその身に受ける。
いつものように少女は泣いている。ごめんなさい。ごめんなさい。それは自分の存在を謝っているようでもあるし、為す術もなく壊されていくされこうべ達に謝っているようでもある。
「おい、わかっているんだろうな?」ビスクは言う。「大体全部君のせいなんだぞ」
「そうだな」二号はぼそりと呟く。
暴徒の手がついに少女に伸び、その華奢な体を容易く壊そうとしたその瞬間、とうとう二号は動き出した。
父が息子の頭を撫でるように、ゆっくりと二号は巨大な掌を男に載せる。男の頭蓋骨は果実のように砕け、脳漿が飛び散る。
二号は雷になる。
迅速な動きで暴徒の隙間を駆け抜け、当たるを幸いに人々の肉を引き千切る。地に濡れたその指で顔面を紙のように突き刺し、びくびくと痙攣するその体を大地に投げつけ海月のようにふにゃふにゃにしてしまう。
「退け」
二号は叫んだ。彼の瞳は爛々と光り、戦闘の愉悦に猛っている。
そうあるべきものがそうあるように彼は闘った。
「すまなかった」
事態が落ち着いてから二号は少女に謝った。荒野には死者が累々と重なり、血の海が滔々と滲んでいる。
「いいの」
少女は青褪めた顔で首を振る。
「だってあの人達、本当にひどいことをしたもの」
黙々と墓を直しつつ、少女は二号に背を向けぽつりと言う。
「それにあたし、少しだけだけど、胸がすっとしたの」
背を丸め、少女は黙々と墓代わりの石を積んでいく。すすけた背中がおもちゃのように頼りなく、今にも風に飛ばされてしまいそうだ。
「なぁ、あの子ちょっと調子に乗ってないか?」
ビスクは岩を転がしている少女を遠目にみやり、顎をしゃくる。
「軽くでこぴんでもしてやって、“そんなこと言うもんじゃないよ”と言ってやれよ」
「彼女は傷ついている」
「そうかい」
ビスクは低い声で答え、覗き込むように二号と視線を合わせた。
「だが忘れるな。人間は死者を殺し、君は人間を殺した」
人を殺した邪教の使徒は裁かれねばならない。
生き残った住人達は国王の元へと助けを求め、権力者は異端の存在を知る。墓を暴き、安らかに眠る死者達の安寧を破り、その魂を操って使役する屍霊術士。その存在を危険視した王は、辺境の町へとまずは兵士三十人を派遣した。屈強な兵士たちは手に手に武器を携え、ちっぽけな少女を殺すためにはるばる峠を越えてやってくる。
「あれは素人じゃないな」
遠眼鏡を顔に当て、ビスクは真剣に言う。
少女は考える。一度死んだ人間にこれ以上闘えというのは嫌だった。シャヌもノエも、みんないい人たちだからだ。母の言いつけだけでなく、少女は自身の力で闘うことを恐れていた。しかしだとしたら、自分はどうすれば良いのか。このまま黙って殺されれば良いのか、それとも逃げ出してみんなの屍体が砕かれるのを見て見ぬ振りをすれば良いのか。
なぜ人は自分を厭うのだろう。自分はいつでも一人なのに、一人で夢を見ることすら許してはもらえない。ノエはもうチェロを弾けないし、シャヌはそんな彼を見て泣いていた。シャヌはノエが好きだったのかもしれない。でもノエが傷ついて、彼が可哀想になってしまったら、シャヌは彼を抱きしめることは出来ないだろう。彼女は同情のために恋をするようにはできていない。
「いいんだよ。別に」シャヌは遠い眼をして言う。「どうせもう死んでるんだし」
私はがさつな女だし、場末の酒場で踊っていた娼婦だし、ノエみたいに礼儀正しくて綺麗な──多分だけど──男と結ばれるわけがないじゃないか。
「いや、結ばれなかったのか」シャヌはそう言っておどけた。「私の人生はもう終わってた」
少女はその言葉に腹の底から不思議な衝動が燃え上がるのを感じた。少女は澄んだ瞳で地平を眺め、向こう側からやってくる数多の兵隊たちを静かに睨め付け、口をそっと開いた。
滅んでしまえばいいのに、と少女は言う。




