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等号前夜  作者: おめかけ
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第一夜 プリンセスライム

 姫が弄ぶ人形の腕がぽろりともげた。脆くなった土塀のようにぽろぽろと崩れ、静かな砂に還った。「あら」と一声上げて姫は人形の傷口をいじくりまわす。どこか面白がるような光を蒼い瞳に秘めて、腰まで伸ばしたぬばたまの宵髪が口の中に入るのも気にならない。

 今夜八歳になるお姫様に名前はなく、ただ姫とだけ呼ばれている。だから姫に付き従う十四人の侍女たちは口々に「ひめさま」「ひめさま」と心配そうに囁きながら、損壊した人形を抱える姫を見守っている。姫はやがて女王となり太后となり死ぬその瞬間まで名前はなく、死んでから後にその功績を讃える諡号がようやく与えられる。必要なのは権威と役職、その形であって、個人の名前ではない。彼女は死ぬまで名前を持たない。

 姫が腰を下ろす室内には青白い薔薇が鬱蒼と敷き詰められている。薔薇の庭と呼ばれるその部屋はむせ返るほどの濃密な香りがたちこめ、姫は時折息苦しそうに咳をする。あまりにも濃い生命の匂いは靄となって視界を歪ませさえする。暗く翳った薔薇の色は仄かに明滅を繰り返し、床を壁を天井を夥しい数で覆っている。姫は素足で無造作に薔薇を踏みつけにし、病んだ花弁がちらほらと散る。 その薔薇に棘はない。女王の命により十四の侍女達は毎夜毎夜姫が寝入ったその後でひっそりと息を殺しながら薔薇の庭に集い、冷水で熱を落とした掌で一つ一つ薔薇を撫ぜ、少女が怪我をせぬよう茨を刈り取ってしまう。

──私の娘のために庭を造りましょう、と女王は言った。生まれた誉れの喜びに、絢爛としてりらの如く美しい部屋を用意しましょう。その美しさは仮初めのように儚く幻影のようにうつろでなければなりません。命のようで命であってはなりません。虫がいたら殺しなさい。姫を傷つける虫は要りません。棘は毟ってしまいなさい。姫を傷つける刃は要りません。

 だから姫は怪我をしない。いくら薔薇の上で謎かけ踊りを踊ろうとも、ぷっくりと膨れた親指の下で葉脈が捩れていくだけだ。

 破れた表皮から青い血が零れ、一層の香りが広がる。植物の生命が発散する甘く濃厚な匂い。けれどもそこには虫もなく棘もなく、命というだけで何の説得もない静かな香りが室内に充満している。

 姫はまた咳をする。

 ──姫、姫、寝室に戻られてはいかがですか。

 侍女の一人が声を掛ける。姫の両手の中で人形は手をもがれ首を捻られ、芋虫のようにまあるくなってしまった。

 ──かあさまが、ここにいろと。

 姫はか細く答える。華奢な体を震わせてそれでも懸命に誇らしく、ここにいろと言ったのよ、と微笑んでみせる。

 ──おまえたちはもうおさがり。

 ──いいえ姫さま。あなたがおられる限り私たちはとわにひとえにご一緒に。

 ──そう。

 姫はそっと目を伏せ、すまないわね、と囁いた。

 薔薇が息をする度に室内に置かれた硝子細工がひっそりと曇り、露を滴らせる。姫が着込んだ五重のドレスの裾は床に散乱し、細かな刺繍が同心円状に広がっている。金糸銀糸で描かれた千年を生きる竜は姫の下腹部を縛り上げているが、長命祝のために尾は持っていない。。

 四肢を失った人形を優しく抱いて姫は言う。

 ──盗まれ、奪われて、でもお前は人形だから奪われたものを奪い返すことはできないの。

 姫が爪先で人形の腹を押し込むと、人絹(レーヨン)で膨れた皮は薄気味悪いほどへこむ。

 ──人形は人の形をしているから人形。人間は人の形をしているから人間。手も足もないお前は一体なあに?


 姫はある時一輪の花を手折り、「この花はわたしのものにしよう」と考えた。するとそこに通りかかった新入りの侍女が悲しそうにこう話しかける。

 ──殺してしまわれたのですね。

 ──ころした?

 ──その花はいま死にました。

 ──私がころしたのね。

 侍女は後ろめたそうに視線を逸らし、足早に去っていく。あとから侍女頭がやってきて「差し出がましいことを……」と頭を下げる。彼女にはきつく言って聞かせます。

 姫はただ、いいえ、とだけ答え、それから随分長いこと物思いにふけっていた。

 次の日目覚めた姫は侍女たちに服を脱がされながらはっきりとした口調で尋ねる。

 ──あの花は。

 ──はい。

 ──彼女が大切に育てていたものだったのかもしれない。

 ──いいえ姫さま。この城に存在する全ての花はあなたのものでございます。あなたさまだけのものなのです。

 ──けれど彼女にとっては違ったのかもしれない。あの花には別の名前があったのかもしれない。

 ──いいえ姫さま。あれは薔薇でございます。

 ──母上は私に美しいものだけを見せてくださる。花の名前を知るのなら、ただ薔薇だけで良いと。だからこの城にある花は全て薔薇。色とりどりの、形も違う無数の薔薇。けれど昨日彼女が惜しんだあの花には、本当の名前があるのではないの?

 ──いいえ姫さま。あなたが眼にする全ての花は、誰もが夢見る至美の薔薇でございます。

 ──そう。美しいのね。

 姫はそう言っていじらしく咳をする。

 

 花房の国のお姫様に名前はなく、ただ姫とだけ呼ばれている。

 女王の寵愛はことのほか深く、生まれたその日に姫には幾千の薔薇が贈られた。けれども姫は侍女がたった一輪の花を持っていることを知っていた。だから姫は人形遊びを止め、近寄る代わりにそっと遠くから眺めるようになった。

 姫は人形に名前をつけた。十五体の人形にそれぞれ十四人の侍女から名前を募り、母からもらった人形には自分で命名する。

 マヌカン、オイド、ジュモー、ビスク、トルソー、スケルツォ、セパナティーナ、ハチェッタ……。一人一人が独自の名前をつける中、もっとも若い侍女がおかしな名前をつけて一同は笑う。

 ──お前はやさぐれた顔をしているから、やさぐれ一号にしましょう。

 そう名付けられたやさぐれ一号が満足しているのかどうか姫にはわからない。けれども姫は、そうね、そういう名前もいいわね、と決めてしまった。


 姫の母、地平に煙る落日の女王は宮廷の端も端、秋の塔におこもりになっている。月に一度だけ姫は人目を忍んで彼女に会いに行く。足音を立てないように靴を脱いで、冷たい石廊下をとてとてと危なっかしく駆け、息を弾ませながら姫は女王の元へ行く。

 ──かあさま。

 ──よく来てくれたわね、愛しい私のダイヤ、私の瑠璃だま。

 女王は目元に皺を寄せ、嬉しそうに両手を広げた。

 寂しがりの女王のために、部屋の中には子鼠や猫や梟が飼われている。鼠は尻尾を吊られ、猫は髭を抜かれているけれど、動物たちは女王によく従う。熱せられた冶金釜やフラスコからは硫黄や消毒液の匂いが幽かにこびりついていて、姫にはそれが女王の象徴のように感じられる。

 ──ほら、こちらへきて、もっとお顔をよく見せて。

 かあさま!と姫は女王に飛びついて、対面を取り繕うこともなくみっともない仕草で顔を母の頬に擦りつける。ああ、毒の匂いがする、と思いながら、それでも姫はもっとこの匂いを感じていたいと女王の腹に顔を埋めてぎゅっと抱きしめた。

 女王は姫の後ろ髪を丁寧に撫でながらおそるおそる尋ねる。

 ──あの人はどうしているかしら。

 姫は顔を上げず、女王の股の隙間から視線を落としたまま答える。

 ──とうさまは、かあさまにあいたいといつもおっしゃっています。

 ──そう。

 女王は目元を赤く染め、切ない息を吐き出した。

 ──私もあいたいわ。あいたいわ。とてもよ……。

 泣き出しそうに顔を歪める女王は幼く、姫は慌てて母の頬に掌をあてる。女王はぬれた瞳を細め、しみじみと呟いた。

 ──あなたの手はいつでも優しいのね。

 それから女王はふと思いついたように、優しい眼をして笑う。

 ──私、あなたに贈り物がしたいわ。

 ──贈り物?

 怪訝そうに顔を曇らせる姫に、女王は穏やかにくす、と笑った。

 ──右手を出して。



 母が握ってくれた右手が軽い。

 姫は俯いたまま城の回廊を歩いている。誰もが寝静まった内部は不思議なほど静かで、どこかで番兵の甲冑が擦れ合うかちゃりという音だけがやけによく響く。それはあまりにも遠い音なので、まるで骨と骨とが軋んでいるようだわ、と姫は思う。灯火の幽かな明かりが延ばす姫の影は案山子のように痩せ、石畳の隙間を埋めている。未成熟な姫の体はどこもかしこも小さくて、ドレスの袖はやや余っている。

 母が握ってくれた右手が軽い。姫は袖の中に右腕を縮めて足早に駆けていく。

 次に母に会うのはまた一ヶ月後。姫は寒そうに鼻を啜る。……いや、会おうと思えばいつでもあえるのだ。自分がその気になりそうすれば……。

 そこまで考えて、姫ははっと足を止める。廊下の突き当たり、壁にもたれ腕組みをしている男がじっと彼女を見つめている。

 ──こんなところで何をしているのだね。

 ──とうさま。

 姫はきまりが悪そうに両手を背後に隠し、もじもじと後ずさる。

 ──彼女に会ってはいけないと、もう何度も言ったはずだよ。

 ──けれどもとうさま。あの人は私の母なのです。

 懸命に言い募る姫に、王はあくまでも諭すように冷静な口調でいる。

 ──けれども姫、それでも彼女は魔女なのだ。

 姫はきっと眉を上げ、頬を紅潮させて声を荒げる。

 ──その魔女を愛したのが、他ならぬあなたでしょう! かつて西の国を支配した邪悪な魔女を打ち倒し、しかしその魔女と恋に落ちて自らの后とした若き王。それがとうさま、あなたなのでしょう?

 ──私は魔女を愛したのではない。ただ一人の女を妻としたのだ。

 王はその表情に懐旧を僅かに浮かべ、しかしきっぱりと言う。

 ──背後に隠したその手をお出し。

 姫はびくりと震え首を振る。

 ──いや。

 ──出しなさい。

 ──いや。いやよ。どうして私のいやがることをなさるの。かあさまは私のこの手を優しいと言ったわ。たったそれだけで私には十分だし、たったそれだけで私は良かったの。それだけで終わってしまったとしても。

 姫はぽろぽろと泣き出しながらむずがる赤ん坊のようにいやいやをする。けれど王は姫に近寄り、必死に隠すその腕を掴んで眼前に引き出してしまう。

 王は血の気の引いた顔で言葉を飲み込む。

 断面から覗く姫の肉はてらてらと脂に輝いている。若き血潮の巡る血管は千切れたまま、蚯蚓のような姿を晒す。肉を突き破って尖る骨は石灰によく似ていた。

 今、姫の右手はない。強引に鉈で叩き割られたが如き無残な傷跡は、しかし不思議に膿むことも腐ることもなくひたひたと固着している。

 ──右手の先をどこへやった?

 ──おもちゃ箱の中に置き忘れてしまったの。

──子供のおもちゃ箱にはいつだって魔法が秘められているものだ。しかしそれが魔術やまじないの類であってはならない。

 王は険しい顔をして、姫の右手首を慎重に手巾で包んだ。

 ──あの人になんと言われたのだね。

 姫は声を震わせながら答える。

 ──それはただ、美しいものを。


 母は歌うように言う。

 熱可塑樹脂と酸塩鉱の晶石、それに蝶翅脈に通した月光。それら全てを蒼白い電撃に包み、焼き付けてできた皮膚であなたを象ろう。

 その体は幻影に煌めき、息づくように風を孕む。けれどもそれは水晶に似て、燦爛とした日の光はおろか仄めく月光や魂さえも透き徹してしまう。不可視の幼手(おさなで)でひとたび男を抱けば、その心を溶かすことも支配することも容易く行えてしまう。変幻無縫に姿を変えて美のイデアを侵す不定の造形は、きっとあなたの思うがままに従うでしょう。蜘蛛になりたいと願えば蜘蛛に、鹿になりたいと望めば鹿に。あなたは精神の虚を撃つ淫魔、異国の言葉を持つ踊り子になれる。あなたはあなた以外の何かになれる。あなた以外をあなたにできる。

 そして時には金剛よりも硬く密になり、蛇のように絞め殺す万力の力も鋼糸のように肉を破る鋭さも何も、あなたはみな体現することができる。

 美しく、そして何よりも強く、私はあなたを本当のお姫さまにしてあげたい。あなたの体に秋を封じて、あなたが歩くその道を祝福してあげたい。


 右手を出して、と女王は言う。


 姫はまた、咳をする。その吐息はどんな時でも天花粉の香りがする。そういう風につくられている。

 その蒼い瞳は五歳の時に填め込まれたものだ。父親譲りの茶色い眼球を女王の小指でぷつりと絶たれ、深海に眠っていた宝石を入れられた。

 ぬばたまの黒髪は天然ではなく人絹でできている。棘蔓草の汁を塗り込み、ニンフの舌で何度となく嘗めあげて磨いたしなやかで冷然とした髪だ。性欲亢進の異常者が一心にそして貪るようにしゃぶった艶めかしいその髪を、女王はまち針で一本ずつ姫の頭に植えつけた。

 弱々しい乙女の腱の代わりに姫の体には三四本の鋼鉄線が張り巡らされている。三四本の鋼鉄線と四つの発条、そして無数の歯車がいかなるときも駆動している。

 今度、姫は粘体(スライム)になるのだという。


 美しくなりたいのかね、と父は言う。姫は大人しく首を振り、子供には似合わぬ自嘲の笑みを浮かべる。

 ──いいえ。私は醜いことも知りたかった。棘の痛みや虫の蝟集するおぞましさを知りたかった。人を傷つけることを知りたかった。

 ──では、なぜ。

 ──私は人間であり人形である以上に、ただ一人の娘だから。かあさまが私の幸福を望むように、私もまたあのひとの幸福を望むから。それに……。

 ──それに?

 ──こうして美しく作られていく私は、きっと醜い生き物だとそう思うから。

 王は悲しそうな顔をして、縋り付くように姫の体を抱きしめる。

 ──もうあの人と会いに行ってはいけない。いかないでおくれ。

 ──愛しているの。

 姫は静かに言う。

 ──たとえその言葉が、人間を模倣する人形のものだとしても。



 女王は啜り泣いている。寝台に伏せり、顔を隠して静々と涙を零している。

 いかないでほしい。

 ずっとそばにいてほしい。

 そう娘に告げたかった。けれど姫は行ってしまい、女王の部屋は再び孤独と静寂の檻に包まれる。

 窓辺から覗く空は荒れ、安らかな眠りにつく人々を妬むかのように黒々とした雲が凝り固まって唸りを上げている。じきに嵐が来るのだろう。

 悲しそうに女王は黒髪を指に巻き付けて弄び、胸のつまるような溜息をつく。

 女王は蛇のような眼をしている、という。あるいは蜥蜴の瞳を。切れ長で目元のすっとしたその目はどこか歪んでいて、いやらしい企みに満ちあふれている。そのくせ、いついかなる時も弱々しく濡れていて、潤んだその瞳は哀れみを乞うように伏せられている。

 女王はその目でちらちらと扉を始終見つめ、誰か来てくれやしないだろうか、と期待している。

 

 扉がきっかり等間隔に三度叩かれ、その訪い方に女王はぱっと頬を紅潮させる。慌てて手鏡を覗き、涙に腫れた目尻に気づいて思わず挫けそうになる。これではいけないわ、と起き上がり、白粉で薄化粧を施す。乱れた衣服を整えた後に一端全てを脱ぎ捨て、特別に誂えた緋の装服を身につける。軽く咳をして声の調子を確かめ、喉の通りをよくするために果実酒を口に含む。

 それらはもちろん彼女の焦がれる男のためだ。

 お入りになって、と声を掛け、女王はやや緊張しながら寝台に寄りかかりしなをつくる。

 扉を開け、踏み入る王は堅い顔をしているが、それはいつものことなので女王はあまり気にしない。ああ、この人は、石のように巌のように逞しいお顔をしていらっしゃるわ、と相好を蕩けさせ、激しく胸を打つ鼓動を抑えようとそっと両手を胸元に寄せる。

 ──今夜はいつまでいてくださるの?

 甘えた声で尋ねる女王に、しかし王は怒りの滲む調子で答えた。

 ──あの子に何をしたのだね。

 ──え?

 女王はきょとんとして、童女のような仕草で首をかしげる。意味がわからない不安に一瞬眉根を寄せ、それからああ、と暖かい吐息をついてはしゃいでみせる。

 ──あなたもお気づきになったのね。そう、そうよ、わたし、とても宜しいことを思いついたの。あのね、それは美しいことなの。とても美しいことですのよ。なにしろそれは万華鏡のように……。

 王の手を置いた机がぎしりと軋み、女王は口を噤む。上目遣いで様子を伺い、心細そうに唇を噛みしめる。

 ──あなたはあの子に会ってはいけない。

 ──それは、わかっておりますわ。でも……。

 ──お願いだから。

 王は押し殺した声で懇願しさえする。

 ──お願いだから、あの子に会わないでくれないか……。 

 王は悲痛な声を上げる。

 ──ごめんなさい、あなた。

 胸を痛ませ、女王は申し訳なさそうに呟いた。

 ──あなたを苦しめたいわけではないの。私はただ……。

 ──わかっているとも。わかっているからこそ、私はあなたの首に時々手を掛けたくなる。魔女であるあなたが私の思うとおりになればいいと願ってしまうのは、これは傲慢なことだ。

 真実を言えば、私は姫のことをそれほど愛してはいないのかもしれない。実の親子が持ちうる以上には特別の感情も欠けている気がする。けれども、女王。私はただ、あなたを愛していたいのだ。だから、あなたの毒が姫を侵していくのを眼にするのはとても心苦しい。

 ──あなたはいつか仰いましたわね。その剣で私の右目を抉り、眼球をはね飛ばしたあの時。転がっていった右目にあなたは檸檬でも踏みつぶすかのように足を踏み下ろした。一瞬で破裂した眼球は散らばって組織が地面にこびりついていましたね。短剣でこの胸を大地に縫い止められて、私は標本の蛙みたいに痙攣していましたっけ。あなた、獅子のように強い眼をしてこう言ったわ。それでも私を愛していると。だから私はあなたのものになった。

 ──その過去は今も変わらない。だからこそ私はあなたと言葉を交わしたいのだ。

 ──ええ、ええ。わかりますわ。

 王は女王の耳元に口を寄せ、わかってくれるねと口付けをする。女王は悲しい快感に打ち震えながら、寂しそうにええ、ええ……とせがむように口にする。

 やがて一夜の情事が終わり、寝台の上でしどけなく髪を散らした女王は隣に眠る男の髪を撫でながら、永遠を物語るようにそっと独り言を囁いた。

 ごめんなさい、あなた。あの子がただ私の娘というだけなら、私はあなたの言うことを聞いていたかもしれない。でもあの子は私とあなたの娘なのだもの。愛しいあなたとの子供なのだもの。この世の誰とも似ていない、人よりも獣よりも美しくそして強く、王女にふさわしい娘でなければ駄目なのよ。

 おいで、私の可愛い娘、私の人形。私がもし狂っているのだとしても、その時は人間を愛するように人形を愛してあげるから、この手を握ってみせて。


 女王は姫の手を引いて、護衛もつけずに歩いて行く。母と娘の足は国の南に位置する塩の海へと向かい、到着した二人はほう、と溜息をつく。塩の上に薄く水の張ったその海は完璧な鏡面と化し、目映く輝く雲間や深海に似た青空をそのままに映し出している。

 少し目がちかちかするわね、と母は言い、なんだか空に落ちてしまいそう、と姫は怯える。

 大地には空が広がっている。あてもなく果てもなく広がり続ける空は、ひたひたと波紋に震えている。

 乳飲み子を洗礼するように女王は姫の体を抱え、塩の海にそっと浸した。鏡の海の底深く、雲けぶる虚像の中に姫は没し、ガラス玉の眼球で水面にうねる朧な太陽の光を見つめている。

 ──私沈んでいるの? それとも昇っているの?

 姫は僅かにもがき、先の欠けた右腕を水面に伸ばす。女王は手を差し出す代わりに小さな玉石を浮かべ、右腕の断面に落とした。光り輝く石は姫の右腕に癒着し、微生物が凝り固まるように水が姫の右腕に固まっていく。一瞬、びり、と海は震え、電撃で焼け焦げたように煙が立ち上った。

 水面に上がった姫がおそるおそる右腕を見ると、海のように深く空のように蒼く染まった不定形の右手がしとしとと滴を垂らしていた。

 ──これが、私の手?

 ──ええ。それが、あなたの手。

 麻痺したように動かない掌を懸命に握りしめようとすると、姫の右腕はあっけなく水に還り、飛沫が弾ける。

 ──あっ。

 ──少しずつ、慣れていくのよ。

 穏やかに答える母に姫は悄然と項垂れ、今はもう消えてしまった自らの右手の行方を考えるのだった。

 ──私のかたち……。



 そうして二た月と四日の後に、今はもう全身を粘体と化した姫は地べたを這っている。

 ずる、という音と共に擦れた腹の細胞が木床に擦れてぷちぷちと潰れていく。左肘を使ってなんとか重い体を引き摺る。右手を地面についた途端に掌はばしゃり、と液状化し、床の隙間に吸い込まれていった。

 ──ああ……!

 疲れ果て濁った声を喉の奥で響かせ、姫は慌てて小さな舌を汚れた床になすりつける。

 わたしの体が減ってしまう。

 恐慌に駈られた姫は肩を振るわせ、滲んでしまった自らの粘体を犬のように懸命に嘗めとろうとする。

 姫の皮膚はゴムのようにぶよぶよと波打っている。透けた体は醜く膨れ、必死に形を取り繕うもその有様はひどく脆い。やっとの思いで人の指を構成したかと思えば次の瞬間には溶けてしまい、姫は蚯蚓のような姿でうねっている。その体は気温変化に弱く、熱には蒸発し寒い夜には凍り付いてしまう。

 姫は地面を這っている。どこへ行こうというのか自身にもわからないというのに、それでも姫は前へ前へと進んでいく。

 ──強くなるの。

 姫は心の中で呟いている。

 ──私はこの国の姫なのだから、強い人間になる義務がある。だから、私は強くなるのよ……。人は生まれを選べないけれども、それからのことは私自身が決めてみせる。でも、なるとしたらどんなものに私はなろうか……?

 姫は地面を這っている。惨めなその姿で必死に何かを探している。

 遙か遠く前方に小さな明かりが見えた。誘蛾灯に惹かれる羽虫のように、姫はふらふらと光を求めて体を引き摺っていく。

 少なくともその光は城の中には無かった。それは冷たく堅い石壁の向こう側、世界を狭める窓枠の檻のあちら側。広大な宮廷を超え、城下町の喧噪も歓楽街の退廃も超えて遙か彼方、この国の地平にたなびくその光こそはまだ見ぬ世界に掠れるともしび。

 それは漁り火だった。

 姫の父が治めるこの国の果ても果て、古びて名産もなく、けれど活気に溢れた港町の海辺に揺れる魚船(いおぶね)の前照灯。荒波に軋む船体がそれでもなおと呻きながら高らかに掲げるその逞しい鯨脂の黄色い光が今、姫の視界に薄く滲んでいる。

 姫の鼻に潮や腐った魚介類の臭いが届くわけではない。漁師達のはち切れそうな筋肉に零れる汗の塩辛さや、湿気の充満する重苦しい空気が届いたわけではない。嵐の日の、鼓膜さえ破れそうな海鳴りの恐ろしさや海底まで濁るどす黒さを知ったわけでもない。姫はまだ、何も知らない。

 それでも姫は思うのだろう、ああこの世のどこかに光がある、ここではないどこか、しかしどうしようもなくあそこでしかないどこかに、確かで暖かな光が存在していると。だからこそ考えるのだろう、私は何かを知りたい、もっと別の何かを手に入れたいと。

 姫は窓に乗り出し、空にひたすように恐る恐る手を差し伸べた。窓の外では豪雨が夜を切り裂いている。重力に従い全てを縦に両断する雷雨は彼女の小さな掌を厳しく打ち据えるが、しかし姫は誇り高く胸を反らし掌を漁り火に翳した。姫の手はその灯に弱々しく透けていた。血潮は流れていなかった。なおも手を伸ばそうと姫が窓に足を掛けたその途端、彼女はバランスを崩し地面へと落ちていった。

 激しい痛みは無かった。ただ叩きつけられた衝撃で頭がくらくらしているだけで、粘体の体は傷一つ受けていない。城の三階から落下して怪我一つしない姫はしかし、自分が怪我をしなかったことに少しだけ傷ついていた。

 疲れたわ、と姫は思う。

 乱れる心のままに体は蠕動し、人の形を保つことが難しい。歩くこともままならず困っていると、不意に人の声が聞こえたため慌てて姫は物陰へと隠れる。姫が落ちたところはちょうど湖底の庭と呼ばれる区間で、白石が敷き詰められた庭の中央に金の水槽が置かれ、その中には睡蓮がちらほらと浮かんでいる。

 やってきたのは見回りの兵士で、二人組の彼らは張り出し屋根の下でつまらなそうな顔で雑談をしていた。

 ──女王はいよいよ黒魔術に耽り、秋の塔で妖しげな儀式に没頭しているとか。

 ──大量の麻薬を秘密裏に取り寄せ、浮浪児達を捕まえては実験にかけているとも聞く。

 ──どこまでが本当で、どこからが嘘か。

 ──火のないところに煙は立つか。

 ──近く教会は女王を召喚し審問にかけるという。女王が異端に触れたとすれば、議会が王に罷免状を提出する日も遠くはあるまい。英雄王を何とか蹴落とそうと、議会は虎視眈々とその外套にかぎ爪を打ち立てる機会を狙っていたのだから。

 ──王は正しいお人だが、女王には間違う。いかにその心が尊くとも、女王をあのままにされては。

 ──女王の使い込んだ国費の使途は不明。女王の塔から日夜運び出される夥しい数の廃棄物の正体も不明。そして当の女王自身の出自も不明ときてはな。

 ──王は遠征先からあの女王を連れて帰られた時からおかしくなられてしまった。もしや、心を操られているのやもしれぬ。

 それは違うわ、と姫は口にしようとしたのだが、声帯を上手く構成することができなかった。ためにその言葉は灰泥が渦巻くように澱んだ音となり、あるいは亡霊の啜り泣きのように兵士たちに届いた。兵士達は一瞬恐怖の表情を浮かべて口を噤み、それからそろそろと雨の降りしきる庭に足を踏み下ろす。

 彼らは勇敢だった。兵士達は庭の隅に蠢く何かぶよぶよとした半透明の物体を見つけ、あっと叫び声を上げたものの逃げ出すことはせず、警護の任務を果たすべく注意深く近寄っていった。

 ──西の国が放ったアヤカシか。魔術で造られた斥候か何かか。

 ──気をつけろ、こいつは……。

 少なくとも雨は降っていた。姫は人間の形をしていなかった。下から見上げる姫の視界には、面頬をつけた髭むくじゃらの男達が豪雨に髪を乱し、血走った目をして自分に剣を向けていた。爛々と輝く瞳には見知らぬ者に対する恐怖と自らを害する者への怒りが潜んでいる。がちゃりと音を立てる鎖帷子はひどく威圧的で、雷に照らされた男の顔は頬骨がくっきりと浮き上がり幽鬼のように青ざめて見える。

 ひ、とうめき声を上げたつもりで姫は身じろぎをする。それが兵士達には自分たちに飛びかかろうと後ずさったように見える。

 両者は互いに同じものを見た。

 兵士はえもしれぬ恐慌に駆られ、手に持った剣を蹲る姫の背中に勢いよく突き立てる。鈍い感触と共に姫はのけぞる。体の中に突如入り込んだ異物は姫の子宮を刺し貫いて大地に縫い止めた。古びた柄元から錆の毒が混入し、拒否反応に姫は激しく痙攣する。激しく悶える粘体におののいた兵士は柄を逆手に握り、岩を削るような怒声を挙げながら剣を捻る。肉を切り分け、神経を裂き、その先にあるはずの命を完全に根絶やしにしてしまうために。

 雷鳴。

 夜空を昼に染めるほど目映く鋭い雷土轟鳴が王宮を奔る。姫はなお生きている。

 捻りを加える剣の切っ先に身を捩りながら、しかし姫は血を流すこともなく蹲っていた。

 このイカヅチはなんだろう、と不意に姫は思う。暴力的でしかし懐かしいこの響きは何だろう。張り裂けるほどの衝動と熱情に駆り立てるこの音、この鼓動はなんだろう。それは母の中、羊の海で丸まっていた自分がいつも聞いていたごおうというあの喧しい音、ふくれあがった母の肉がどくると震える心の臟、血潮が血管を忙しなく駆け抜け、壁に張り付いた夾雑物をこそげ取っていくあの震音ではないだろうか。

 耳を殴りつけんばかりに轟く雷が次第に胸の鼓動に親和していく。

 姫は僅かに微笑む。

 体を剣で切り裂かれ、それでもこうして生きているこの自分は果たして一体何だろうか。

「ねぇ……」

 姫はその声を自らの意思で作り出した。媚を含んだその声は欲情に濡れるように掠れ、秘め事を囁くように押し殺して兵士の耳に届く。

「私は、ずっと……」

 粘体は次第に人の体を象り始め、兵士はぎょっと目を剥く。何度となく剣を突き刺すが、姫は構わずにゆっくりと語り出した。

「私はずっと考えていたのよ……一体それは何だろう、って」

 姫はおかしそうに笑った。優しい笑みだった。


 何かが違う、とずっと考えていたの。だって私は幸福なのよ。家族が一緒にいて、お互いを愛し合って居られるのだから。それだけで満足だと私は思うの。かあさまが望むのなら、私はそれで良かったのよ。あの人の笑顔を見られるのなら。

 でも違う。何かが違う。だって私は幸福なのに、それでも幸福ではないの。だから、そう……私、幸福になりたいのよ。


 友人に話しかけるように何気ない調子で姫はおしゃべりを続ける。

 

 何かが違うとずっと思っていた。そして幸福とはなんだろうってずっと、窓から地平線を眺めるみたいにぼんやりと、乙女みたいに物思いに耽っていたの。でも違うのよ。それじゃ駄目なのよ。ねぇ、今こうして、あなた達に剣を突き立てられている私は、別に大して苦しくもないけど、でも幸福ではない、そんな風に思うのよ。これは違う、と今はっきり思ったの。だから……。


 ぶつぶつと独り言を言うように、誰に伝えるわけでもなくただ自分自身のために姫は語る。その尋常ではない様子に兵士は叫び声を上げ、剣を抜こうとするが、剣はがっちりと粘体に銜え込まれて身動き一つしない。

 兵士の目の前で粘体は見る見るうちに盛り上がり、成人女性の姿をとった。腰つきは淫らにくびれ、胸は高く張り出し、乳首はつんと尖っている。足はジガバチの如く細く、すらっとしたその腿は白桃色に染まっている。黒髪は長くまっすぐに垂れ、胸元を刺繍のように飾っている。

「なりたいわ……」

 姫はうっとりと熱い吐息を吐き出した。

「ねえ、なりたいの……」

 姫は恋人にするように兵士の一人に抱きつき、鈍重な力でその体を締め上げた。男は必死にもがくがびくともせず、体中の骨が軋み始める。

「私は幸福になりたいの。けれど何が幸福かということは、簡単なようでいて難しい。それはただ、互いの家族が愛し合っていても、その愛という言葉の人形具合のためにおかしなことになってしまうように」

 首の骨を折ってしまうと、男の力は抜け、その体はぐにゃりとくらげのようにやわらかくなった。姫は男の死体を胸に抱き、ゆっくりと自らの体に取り込み、溶かしていく。

 もう一人の男は腰を抜かし、口の端から泡を吹き出して喚いている。姫は虫けらでも眺めるような冷たい目をして、静かに男を見下ろした。

「〝支配〟というその言葉は、愛によく似ている。相手を強く求めるその心、何かを欲しいと願うその執着心。我と彼とを結びつけ縛り上げ、硬く捕らえて放さないその言葉。人形を弄ぶように、私は支配者になりましょう。自らの望むように、自らの在りようを決める。私はこの国の支配者として、立派にあなたたちを治めてあげる……」

 体液の滴るその細れる指で、 姫はしゃがみこんだ男の額をそっとついた。

「私の坊や、私の中にお帰り……」

 ひ、と男は甲高い悲鳴を飲み込み、懸命にじたばたと足掻きだした。

 今度は姫の前で男が地べたを這いずる番だった。

 化け物……と弱々しく泣く男に向かって、姫は極上の微笑みと共に高貴な御足を踏み下ろしこう言った。


「ええ。なりたいわ……」


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