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等号前夜  作者: おめかけ
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第六夜 人形前夜

 海がある。

 数多の人の命を吸って細波を繰り返す海がある。蒼く滲んだ空を映して蒼く、けれども空の蒼とはけして違う蒼を孕んだ海がある。ただ蒼といって、その海の色を蒼と呼んで、言葉では一つに過ぎない筈のその属性はしかし唯である。空とは違う。降りしきる雨の色とも違う。月下に濡れる露草とも夜空の果ての犬星とも違う。

 海がある。たった一瞬の海である。一秒前の海は今この時の海とは違う。今この場所から一歩でも外れたならそれは違う海だ。かつて誰かが海を見たかもしれない。けれどもそれはきっと違う場所の海だったに違いないし、違う時の海だったのだ。

 一人の少女が海を見ている。過去でもなく未来でもない、今この時の海を無心に見つめている。今この時の海は存在したその瞬間から過去になり失われていく。過去になり、物語になっていく。

 朝に焼かれるまほろばの海に少女の喉からは抑えきれない嗚咽が零れる。しわがれ、疲れ果てたその老人のような声は儚く潮際にかき消されてしまう。


 ……幾夜いくよ幾人いくたりの時を超え、この地に辿り着いたことだろう。


 少女の震える喉からは千年の無常が零れ落ちる。声色の孕む倦怠は途方もなく、艶めかしく濡れた舌がなぞりあげる言葉は悠久を描き出す。

 ──むかしむかし、あるところに……。

 可愛らしい無邪気な声で、しかしどうしようもなく哀切に揺れるその言葉。涙交じりに語るような切れ切れの言葉。

 ──あるところに、一人のお姫様がいました……。

 少女は海を前にして一人佇んでいる。地平まで全てを飲み込む大海を臨みたった一人の少女は、ところで人間の形をしている。頭が一つに体が一つ、腕と脚が二本ずつ。その体の中で、臓器時計がこちこちと時を刻む。

 三十四本の鋼鉄船と四つの発条。乙女の腱は燐青銅で出来ている。天花粉の吐息が充満した肺に粘体で構成された内臓。人絹の髪に深海に沈む蒼玉石の瞳。そして……。

 そして少女の心と体と形には、千年の物語が秘められている。死者を操る少女の杖、けだものの牙に孤独の邪眼。体の中にはたくさんのものがあった。名もなき針子の手帳があった。砂漠の隊商が被る頭巾があった。幼い少女が岩のような大男に抱いた恋心があり、狼女が無能と共に綴った練習帳があり、枯れては咲く木々を見つめる魔女の充足があった。

 ──お姫さまはスライムでした。そういう風に作られたのです……。

 少女はいつか恋をした。そんな人間を知っていて、そんな人間の真似をした。演じることで彼女は誰かに恋をした。可愛そうな女を食べてはその心を覗き見て、千年千度の恋をした。愛していますと少女は言った。目の前にはいつもだれ一人いなかった。壁に向かってただ一人、愛の言葉を囁き続けて幾星霜、それでも少女は恋をした。愛しています。その言葉は誰のものだったのだろう。

 ──自分で望んだわけではありません。けれども、お姫さまは母である王妃を愛していたのです……。

 少女は物語る。風の中にその身を投げ出すように、切実な思いを言葉に込める。

 ──スライムにされたお姫さまはそして思うのです。私は何かになりたい。思うとおりのものになりたいと……。

 懸命に語り続ける少女はそこで悔しそうに唇を噛みしめる。

「違う。物語はこんなものじゃない」

 語り続けている内にいつか馬鹿馬鹿しくなる時がある。自分のやっていることがまるで徒労に思えてむなしくなる。なぜなら少女の語る言葉は何もかもが嘘で、物語だからだ。物語というものは嘘で出来ている。たとえ少女がいかに真摯に語ろうとても、心の内に疑念は膨らむ。何故と言って、本当の所は少女には姫の気持ちなど欠片さえわかりはしないし、こうやって語り続けている内に姫の人生を嘘で塗り固めていくような罪悪感に襲われるからだ。

 少女は姫の千年を想う。思いがなければ言葉は生まれないのだから、それは仕方のないことだろう。けれどもそうして姫の事を思い出し、ああどうだったのかな、と考えている内に、いつしか妄想ばかりが肥大していくのがわかる。こうもあろう、ああもあろうと解釈を加えていれば、それもそうだ、姫の記憶と少女の思いが混ざり合って混沌となる。

 こんな筈じゃなかった。きっとこんなものではなかった。少女はぽろぽろと涙を流して嘆きの遠吠えを上げる。嘘じゃあない。彼女は確かにここにいた。生きていたんだ。忘れたくない。忘れるわけにはいかない。

悲しみに打ち震え、それでも少女は語り続ける。何度も何度もやり直し、正しい物語を目指して語り始める。

一年が経ち、十年が経つ。機械仕掛けの少女には時の流れが瞬く間に過ぎていく。涙は涸れる。語ることに慣れていく。迷いながら、ただ一心に語ることだけがやめられない。

 語り続けていると、やがて繁殖した人間たちが海辺にやってきて少女の邪魔をする。始めは迷い子か何かと勘違いをして心配していた人間たちも、連れて行こうとする人間をいともやすやすと振り払う少女の力に恐怖する。恐怖は排斥を産みも排斥は戦いを求める。何年も姿を変えない少女に対して、人間たちは出ていけと声高に叫び石を投げる。兵士がやってきて剣を突きつける。銃で撃たれ、大砲の弾が飛んでくる。

 だから人間を殺して少女は生きる。こんなことを千年前もしていたような気がする。もしかしたら自分は何一つ成長していないのかもしれない、僅かに顔を顰めて少女は舌打ちをする。

 お前なんか人間じゃない、と誰かが言った。

 沢山の人を殺して生きている内にまた人間は減って、とうとう少女を追放することを諦めた。人間を超えた邪悪、けして関わってはいけない怪異として避けられるようになった。海辺を訪れるものはまたいなくなった。少女は一人になった。こんな話をどこかできいたことがある、ふとそんなことを思う。孤軽からそんな話を聞いたような気がする。彼女もこんな風にのけものにされたのだろうか。

 百年が経った。ある朝気が付くと、一人の少年が石を投げて遊んでいた。少女のことを何も知らないのだろうか、恐れることもなく海へ向かって水切りを繰り返している。一体何がそんなに面白いのだろうと眺めていると、こちらに気づいた少年が話しかけてきた。

「きみ、こんなところで何をしているの」

「物語を語っている」

 へえ、と頷いた少年は、意味がよくわからなかったのか釈然としない顔をして再び石を投げだし、またしばらくしてから問いかける。

「なんでそんなことをしているのさ」

「うん、あのな……」

 と少女はいいかけ、言葉に詰まり、一度下を向いてからおずおずと言う。

「言葉で説明することはどうにもむつかしい。けれども、多分、俺は昔のことを忘れてしまうのが嫌なんだ。だから、物語ることを続けている」

「ふうん。相も変わらず、どうでもいいことをやっているんだな、二号」

 少年は興味なさそうに答えると飽きずに石を投げた。

少女はその言葉に随分長いこと考え込んでいたが、結局わからなかったのか尋ねる。

「お前は誰だ」

 少年は皮肉気に目を細める。

「何かを忘れて悲しいと思うのに二号、どうして誰かに忘れられることの悲しみを想像しないんだ、このぽんこつが」

「ふむ」

「僕はビスクだよ。もう千年も前におまえと一緒にいたろう? あの頭の悪い死霊術士の娘と出会った頃にさ」

「ああ……いたな。そんな奴も」

「おいおい! ひどい奴だな! 傷つくよ!」

 大げさな仕草で身をよじり、少年──ビスクはよよよ、と泣き真似をする。

「あの荒野で少女を失って、茫然自失のお前は僕の事なんかてんで忘れていたよな。僕はちゃんと後ろから声をかけたんだぜ。おおい、待てよってな具合にさ。でもお前ときたら全然気が付きもしないで、僕を置いて行ってしまった。もちろん僕は追いかけたよ。でも何度話しかけてもお前は狂ったように少女の台詞を繰り返すばかりで、僕の事なんかまるきり無視していた。いやあ、あの時の僕ときたら物語の姫君もかくやというほどに可愛そうな存在だったね、まったく」

「そうか」

「そうか、じゃあないだろう。お前は千年経ってもつまらないことしか言わないなぁ。千年ぶりに再会したんだぜ。何かもっと言うことがあるだろう」

 少女は少年を半ば無視するようにして顎を掻いた。

「そうか。今更のことかもしれないが、ああ、俺は、お前のことが嫌いだったんだな。ようやく気付いたよ」

「おや、そうかい?」

 否定されたビスクは嬉しそうに笑い出し、続きを促すように顎をしゃくった。

「ことあるごとに俺のことを否定して、何もかもわかったような顔で偉そうに上から物をいう。俺の気持ちなどなんら斟酌せずに。ああ、俺はお前のことが嫌いだった。大嫌いだったんだ。そう思う」

「そうかい」ビスクは感心したようにほっと息を吐き出して手を叩いた。「お前はちゃんと生きていたんだな。この千年を」

「お前に褒められるのは初めてだな。なぜそう思う」

 怪訝そうに少女が質問するとビスクは優しい目をして答える。

「千年前にはできなかったことが今はできる。だとしたら二号、お前の時は確かに流れていたんだろう」

「……ビスク」

「なんだい」

「お前のことを忘れていて、すまなかった」

「どうしたでくのぼう、急にしおらしくなりやがって。お前はいつもみたいに馬鹿面をして、あーとかうーとか唸っていればいいんだ。それとも何かな? 珍しく僕に認められて互酬感情にでも目覚めたのか?」

「千年の話をしよう、ビスク」

「うん?」

「お前が言ったことだろう。忘れられることの悲しみを考えろと。だから……考えたんだよ。俺に忘れられたお前の千年を」

「ああ……」

「寂しかったのか?」

 問いかけにビスクは視線を反らし、遠い目をして地平線を見つめる。

「ああ。とても、とても、寂しかったよ……」

「すまない」

「馬鹿野郎。お前は僕に謝ることなんかないんだ。本当はさっき言ったみたいに、お前は僕のことを憎んでいるくらいで丁度いいんだよ」

 足元の砂を蹴りつけ、靴にこびりついた泥をビスクは暗い目をして眺めた。

「千年だぜ。笑っちまうよな。最初の百年なんか、色々と嫌になって荒野に埋まっていたんだよずっと。来る日も来る日も風に吹かれてさ。それはそれで平和な毎日だったけど、でも、なんだか──やっぱり駄目だったな。土の下から抜け出したそれからの僕の冒険をお前にも聞かせてやりたいよ。本当にもう信じられないくらいの大冒険だったんだぜ。何を隠そう、世界を救ったのはこの僕だ。今この世界があるのはこの僕のおかげなんだぜ!」

「そうか」

「お前、全然信じていないだろう」

「信じるも信じないもない、どうでもいいだけだ」

「なんだよ、冷たい奴だな。僕はなぁ、お前なんかメじゃないくらいたくさんの人と出会って、協力して、そしてこの世の魔王を倒したんだ」

 ビスクは足元の石を拾い上げ、力いっぱい海へと投げる。投げ終わると疲れたように肩を落とし、膝を抱いて砂浜に座り込む。

「まぁ……そんなみんなももう、全員死んでしまったけどな」

「ああ……」

 少女は同じように石を拾い、まじまじと観察する。それからビスクと同じように海へ投げようとして、しかし途中で止めてしまう。そんな少女を見て、ビスクはふと何気ない様子で尋ねかける。

「なあ二号。お前は答えを知りたいか」

「なに?」

「二号、お前は昔のことがよく思い出せないだろう? 自分がどんな風に生まれ、なぜ二号と名付けられ、どうして僕と一緒に旅をしていたのか。何故自分が人間になりたいと考えるのか。お前は何一つわからないんじゃあないか? どんなにそれが切実な思い出も、失ったものを取り戻したいと思っても、記憶はけして帰らない。時の流れというものはそういうものだから」

 そこで言葉を切ると、ビスクは下から覗き込むように少女を睨めつけた。

「でも僕ならそれができる。僕はお前に答えを与えてやれる。この物語に結末をもたらすことができる。お前が望むのなら、お前が知りたいと願う全てを教えてあげる」

 教えてくれと言いかけ、少女は静かに瞑目する。腹の底の飢餓感に束の間気が狂いそうになる。ああ確かに──そうできたならどれほど幸福なことだろう。疑問に思う全てを解決し、納得し、満足して死んでいくことができるのなら、これ以上望むことなどありはしない。

 けれども少女は短く唸り、惨めな表情で懸命に歯を食いしばるのだった。

 少女は言う。

「与えられたものだけを受け取って……大人しく生きて行けたなら、それはどれほど幸いなことだろうな……。だが、刻一刻と姿を変える不定形のスライムでも、時の凍りついたその時には確かに形を持つ。たった今、この瞬間の、現在というこの時には、形のないものなど一つとしていない。たとえどれほどの速度で時が流れていても」

「それは──」瞳を冷たく輝かせ、ビスクが静かに問う。「否定ということでいいのか。答えはいらないと?」

「……ああ」

「そうか」

 俯いてため息をついたビスクはどこか途方に暮れたように虚ろに視線を彷徨わせた。

「じゃあお前は、これからどうするんだ?」

「そうだな。わからない。だが──」

「だが?」

「自分がいま何をやりたいのかは、わかっている。ビスク。俺の話を聞いてくれないか」

 ビスクは肩を揺らし、くっ、と軽く笑って答える。

「ああ──いいとも」

 そして──、


 



 ──そして、少女は語りだす。


 ここに二号と言う名の人形がいる。自分が二号であること以外には何も知らない。自分がどこの誰で、どこへ行こうとしているのか、二号は何も知らない。そんな物語を嘘だと知って、それでもなお語り続ける。

 人形が演じた少女が人形を語り、海辺にはやがて再び夜が訪れる。それでも少女と少年はおやすみとはけして言わずに物語を語り、語られる。

 夜。

 太陽の光が眠りにつき、闇に包まれた静かな世界で物語は静かに紡がれていく。

 ああ、この世のどこかに光がある。人形はそう知っている。けれどもいま、この場に光はない。何も見えない。見えはしない。穏やかな闇が潮騒に漂い、目に映るものはといえば朦朧とした世界の輪郭線が唯一。目を開けようと閉じようと、そこに映る世界には大した違いなどありはしない。無限に広がるかに思える無明の闇に取り巻かれ、隣にいる筈の少年の姿でさえふと目をむければ薄弱と、何らかの影が、その形が滲んでいるばかりだ。体が一つに頭が一つ、腕と足が二つずつ。そんな曖昧な影の輪郭シルエットが無造作に佇んでいる。この場所に光はなく、それゆえ少女と少年は等しい影を手に入れた。

 ここに二号と言う名の人形がいる。自分が二号であること以外には何も知らない。自分がどこの誰で、どこへ行こうとしているのか、二号は何も知らない。少女は語り、語り続ける。

 過去という名の少女を脱ぎ捨て、現在いまの顔した娘を演じ、未来を孕む女王すら超えて。

 

 人形は、それでもなお人の形をしていた。

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