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等号前夜  作者: おめかけ
14/15

第五夜 愛の演劇④

美しい姿をしていた。

 深海に眠る宝石で出来た蒼の瞳。ニンフの舌で扱かれたぬばたまの髪。天花粉の吐息とそして……そして、三十四本の鋼鉄線と四つの発条と、魔女たる母の思惑に彩られ、呪いめいた魔法の道具を嵌め込まれ、象られ動かされるその形の名を姫という。姫の臓腑はといえば無数の歯車がこちこちと乙女の時を刻み、姫の皮膚を覆うドレスはといえば金糸銀糸で刺繍された竜が唸りを上げて飛び回る。

 少女はそんな姿をしていた。小さな裸足でぺたぺたと城の石畳を踏みしめ、寒そうに頬を赤く染めている。

 少女は姫と呼ばれている。姫だと言うのにたった一人で、伴う侍従もなく、頼るべき友も家族もなく、愛する人さえも捨てて、夜の城を彷徨っている。

 私はとても美しいわ、と少女は言う。吐き出す息が寒さに震え、白く掠れては夜気に溶けていく。ほう、と息をついてその真白が掠れていくその先にそっと視線をのばし、姫はゆっくりと瞬きする。口から零れた吐息が白く形を伴って現れ、やがて夜の中に消えていく。唇を通り過ぎる廃熱はいつか豊満な夜気に包まれ冷めていく。

 頬を痙攣させながら、姫はじくじくと痛み出した子宮を庇うように背を屈め、可愛らしい声で唸る。痛みに苦悶するその様子でさえ姫の姿は美しく、夜という夜を一層深く濃密にし、古代の宗教劇じみた荘厳なものとする。

 美しい。姫はいかなる時も美しい。ゆえ、姫は美しいという形容以外のいかなる言葉でさえあてはまらず、ただ美しいという言葉でしか表現することができないのかもしれない。しかし誰よりも何よりも美しい姫君の胎の中では常に、己に対して否やを告げる文言がとぐろを巻いて這っている。こうして美しく作られた私はきっと誰よりも美しく生きて、そして誰よりも美しく死んで──そしてだからこそ、この世の誰よりも醜い生き物なのだろう。

「そんなのは嫌だわ」

 姫は言う。はっきりと瞳を開き、気高かく凛とした表情で前を見つめる。どこまでも孤独な独り言に臆することもなく、恥じらいひとつ見せずに姫は一人寂しい独白を続ける。

 そんなのは嫌だわ。自分で自分のことを醜いと思って生きていくのは、どうにも我慢がならない。そんな風に自分を恥じて滅びを迎えるのなら、最初から生まれてなどこなければ良かったのだもの。こうして美しく作られたなら、それこそ馬鹿みたいに美を誇り、高らかに笑って死んでいくべきよ。

 けれども、だとしたら、と私は考える。美しいということは、醜いと言うことは、一体どんなことでしょう。その言葉の指し示す形は果たしてどこかに存在しているのかしら。

 そうね、と私は言って、自らの言葉を再び考える。〝そしてだからこそ、私はこの世の誰よりも醜い生き物なのだろう〟。その言葉が意味することは、結局のところ美と醜が不可分であるということ。きれいはきたない、きたないはきれい。 

 私は自分の意志で醜さを知った。男にへつらう娼婦の媚も、金のために家族を売るやくざ者も。反吐をかけられ、蔑みを投げられ、地べたを這う一匹の畜生として生きたこともあった。それを私は醜いと言い、けれど別の物語ではまたそんな生き方を美しいと語ることもあるのでしょう。

 だからきっと、私は美醜を超えてその言葉の先を生きなければならないのよ。

 囁く姫が一歩また一歩と足を進めるたびに、その姿は次第に成長していく。ドレスを内側から胸が押し上げ、くびれた腰を竜が縛り上げる。少女から娘へと変身していく姫の瞳には降り注ぐ極彩色の流星と共に瞬く過去が写り流れる。恋をして、また恋をして、その両手で男を抱き寄せ、確かに感じた体温をいつか失う無常の千年。ため息をつきながらあてもなく愛しい人の墓を磨き、死者の平穏を一心に祈りながら昇る朝日に瞳を細める。朝が来て夜がきてまた朝が来ることの恐ろしさ心細さ。震える体に歯を噛みしめ、こみあげる思いにはっと胸を詰まらせて瞑目する。気が付くと墓に寄り添っている小さな花の名前も知らず、不意に駆られた衝動に踏みにじりかけて思いとどまり、堪えた嗚咽の代わりにそっと人差し指で花の輪郭をなぞる。


──泣いているのですか。

──ああ、泣いている。

──なぜ泣くのですか。

──悲しいからだ。


 あなたは、と孤軽はかつて言った。あなたは悲しいから涙を流すのですね。当たり前のことだろうとその時姫は思ったかもしれない。それは当たり前のことだと答えたかもしれない。しかし、と孤軽は言葉をつづけた。いつかその言葉を失ってしまったら、どうやって涙を流すのですか。

 少女から娘になるにつれ、姫の身体は次第に透け朧気に薄れていく。輪郭は乱れ、舞い上がる綿花のようにふわふわと安定しない。形を失いながら恋に胸を焦がし、恋を失いながら地に伏して涙を流し、やがて涙を失った姫は女王へと変貌する。過去を超え現在を飲み干しその先の未来、千年を生きた言葉の先の女として姫はさらに美しく孤独に成長する。

 全身はいかなる時も体液でしっとりと濡れ、匂いを嗅ぐだけで発情させる。姫の姿はあまたの失語症患者を生み出す。刻一刻と姿を変える夢幻の相貌に一たび魅入られたものは歓喜の歌を叫び出し、その滑らかな御足で心臓を潰されたいと懇願し始める。寝ている間にそっと首を落とされるような容赦のない美しさ。音もなく流星のように儚く、そして幻想的な美しさ。美しい。美しい。女王の姿は美しい。女王の姿の傍らで美しいということばだけがむやみやたらに増殖し、美しいというその言葉の死骸がしんしんと降り積もっていく。

 姫はとうとう母の寝室へ辿り着いた。扉に手を押し当て、ゆっくりと押し開く。窓辺の椅子に腰かけた王妃の横顔が弱々しい月光に照らされ青白く染まっている。

姫は母の邪悪な顔と言うものをついぞ見かけたことがなかった。悲しい顔、苦しそうな顔を知ってはいたがそれらは全て父への焦れによるものであり、怒りや憎しみの表情を母が露わにすることはなかった。

 叱られたことはあったかもしれない。それでも母はそんな時ですら姫の頭をぐりぐりと優しく撫ぜ、「駄目でしょう」と穏やかに諭すだけなのだった。叱ることですら嬉しいというかのように母は顔を微笑ませ、「こんなことをしてはいけないのよ」といって姫の鼻に鼻を擦り付ける。

 幼い姫は生まれてから一度も癇癪を起したことがない。癇癪とは思い通りにならぬこの世に憤激することであり、母の思いに包まれた彼女には縁遠いものだったからだ。姫は母が何でも許してくれることを知っており、その無上の愛を確信していたのだった。

 姫は時々考えた。もし自分が母の娘ではなかったらどうなっていただろう。親子の思いというものはあくまでも親子だからというそれ以上でも以下でもなく、赤の他人との間には成立しない。もし雑踏で名も知らぬ他人として姫と母とが出会ったとしても、何の感情も芽生えることもなく別れていくであろうし、あるいは生贄の一人として母に殺されることすらありうるのかもしれない。

 それでも生まれ落ちたその時から彼女は姫であり、娘だった。娘であるというただそれだけの理由で母はこの上ない信頼と愛情とを姫に注ぎ、愛の言葉を囁くのだった。

 抱きしめてくれた。愛していると言い、存在を許してくれた。

 そうして形成された我と我が身の魂を洗脳者、人形と呼ぶこともできるだろう。殻を突き破った雛がその瞳に化け物を映し、あらゆる論理を超えて匂い立つ恋情に体を摺り寄せ、命を懸けて慕い、その未熟な心で愛を囀ったとして、その拙いお芝居を愚か虚ろと蔑むことは容易い。

 それでも姫は言うのだろう。千年前に忘れたことを千年かけて思いだし、あるいは“思い出した”のだと自らを語り、姫ははっきりと母を見つめて言う。


──母上。あなたを愛しています。


 そうして零れ落ちた愛の言葉、千年の恋の果てに美姫の唇から漏れ出す小夜曲の調べにも似た声音に母はくるりと振り向き、いつもと変わらぬ笑顔を彼女に与える。よく来てくれたわね、私の愛しいダイヤ、私の瑠璃だま。さあ抱きしめさせてちょうだい。うんと抱きしめて、あなたの匂いを嗅いで、そうしてそのほっぺにキスをさせてちょうだい。

 母に身を任せる姫は、堪えきれぬ甘い溜息をついて母の身体に指を這わせる。母は独り言を言うように姫との思い出を懐かしそうに語る。生まれ落ち赤く濡れたあなたを取り上げると、全てを射し通す太陽光のようにあなたは燦爛と笑った。私は自分でも訳が分からずにいつの間にか泣いていた。そんなことを何度となく、ともすれば痴呆めいて朦朧めいて口にする。

 小春日和の優しい風に色褪せた木々がざらりと揺れて、庭に落ちた影が震えるのにあなたは鈴のような声を上げて楽しそうにしていたわ。揺れ動く影を飛び越えたり踏みつけたり、ちっちゃなあなたがぴょんぴょん跳ねているのがなんだかおかしくて私は笑ってしまったの。はしゃぎ回るあなたがこんと咳をしたので私が手招きをしたら、あなたは何が嬉しいのか犬ころみたいに顔を綻ばせて駆けてきた。風邪を引くわよと私が言うと、あなたは満面の笑みで「ひかない!」と言って、何の根拠もなく幸福そうにしていた。だから私は思ったの。この子は幸せにならなければいけないと。

 時が経つのはいつもあっと言う間ね。たった一つの言葉を漏らして眠りに落ちたら次の瞬間には知り合いがみんな死んでいて私一人。きっと時の流れってそういうものなのよね。不思議で、悲しいことね。あなたが生まれてからもう千年も経っただなんて、まるで嘘みたい、物語みたい。

 懐かしそうに物語っていた王妃はそこでふと言葉を詰まらせた。疑問に思って姫が顔を上げると、音もなく母は泣いていた。無音で零す涙がこれほどまでに冷たいものだと姫は知りもしなかった。わけもなく喉をわななかせながらなぜ泣くのですかと尋ねると、王妃は深く深くため息をついてしみじみと言うのだった。

──もう、お別れなのね。

 あ……。

 身を強張らせる姫を一層強く抱き、王妃は温かに語りかける。

 大きくなった。ほんとうに、ほんとうに、大きくなったわね……。今日この日がお別れで、けれどもあなたは立派になって、悲しくて、嬉しくて、なんだか自分でも自分の気持ちがよくわからないのだけど、でも、でも……さよならと言って、元気でと言って、私はあなたにお別れを告げることにするわ。風邪を引かないように気をつけなさいね。寒い所に居すぎないようにして、食べるものにはちゃんと気を配るのよ。そうして、そうして……。

 王妃はそうしてもどかしそうに首を振り、まだ言いたいことがたくさんあるのに、という風にほろほろと泣いて、胎に抱く姫のつむじにほう一息熱い吐息を吹きかける。

 そうして、そうして……ああ、さよなら……さようなら……。


 姫は腰に提げた剣で母の首をかき抱くように切り落とした。血が流れることなかった。ああ……と法悦にも似た声を上げ、首は軽やかな音を立てて転がった。

 肩を震わせながら姫は言う。

「私はあなたの人形になりたかったのです。かあさま。あなたは以前仰いましたね。私を本当のお姫さまにしたい。誰よりも強く何よりも美しい完全無欠の姫に作り上げたいと。あなたがそう望むなら、私はそうなりましょう。あなたのために。愛するあなたの愛するままに。私は無謬の女になります。正しくあなたの娘として、少女から娘になり、千年を生き、完璧な姫として私は……私は、女王になるのです。美しく、そして正しい女王に」


 ◇



 涙と共に夜は深まり、黒々と静まる空に雲は揺蕩う。渦巻く銀の布地に全ての悲哀を吸いこんで雲は、あてもなくただただ世界の果てへと流れていく。

 夜が明け、町の石畳はしだいにその影を薄れ質感を取り戻す。空は白み出し、神秘と予感を秘めた紫に染まり始める。

 黎明。

 朝、目覚める人々は自らの魂のありようなど知りもせず、無知なる瞼を開き己の鼓動を認め、そして不思議な呼び声に導かれふらふらと家を出ていく。隣人の顔を見て挨拶を交わしながら、「これは一体何なのでしょう」「さあ、しかし。何なのでしょう」と首を傾げ、夢遊病者の足取りで国の中央、城へと向かっていく。寝ぼけ眼を擦りつつ広場へと集められた人々は互いに押し合いへし合い、がやがやと統制のとれない乱れ方をしながら何かを待っている。

 やがて朝が焼け、包み込むように柔らかな光線が差し込み、眩く爽やかな風がさっと吹き付ける。朝の光は城の一切を消毒し清潔に見せる。どこかで名前も知らぬ鳥が鳴く。

 城の最上階のバルコニーには一人の女が立っている。大勢の人々を前に臆することもなく堂々と立ち、厳かに右手を掲げる。高々と掲げられたその高貴な右手は黒々とした髪を引っ掴み、その髪は当然人間の首へと繋がっている。この国を支配し、呪いを振りまく魔女、王妃の生首。

 姫は王妃の髪をひっつかんで掲げ、集まった国民に大音声で叫んだ。

「我が民、我が子らよ、聞け! こうして邪悪な魔女は討たれた。そなたたちはみな自由だ。魔女に操られることはもうない。国や政治を魔女が動かすことも。そなたたちは自由意志を持つ一個の人間だ。この国はたった今から民衆の手に返った」

 姫は自由を叫び、正義を語った。

 やがて民衆の中から代表者が選ばれ、王室と対等な権力をもつ議会がつくられた。姫は新たな女王として即位し、司法と宗教、そして議会の代表を召集し、女王としての権限をそれぞれ分譲し自らの権限は最低限に留めた。

 国は再び動き出した。

 邪悪な前王妃が亡くなったことで政治・王宮の腐敗は消え、人々の自由が保証される。産業は活性化し、千年ものあいだ絶えて久しかった工業技術の進歩が目覚ましく、また芸術や学問のあらゆる分野においても正常な歩みが戻った。たった一人の姫が操る人々は真に人として覚醒し、今日の人生を取り戻したのだった。

 


 ……と、少なくとも物語ではそのように語られる。




 打ち寄せる波を女の華奢な足が遮り、僅かな波紋が生まれるか生まれないかという具合で次の波にくしゃと砕かれる。

 夜の海は月光に照らされて冴え冴えと白み、砂浜に歩み寄る飛沫は記憶を浚うように遠く音を立てる。

 あてもなくふらふらと海辺を散歩していた女はふと振り返る。地平線の果てまでも続いているような己の足跡が暗く静かな波に少しずつ少しずつ削り取られては消えていく。女はふ、と静かに笑う。

 再び歩き始めしばらくすると、前方に一人の少女が待ちかまえている。少女はこんなことを言う。

 これで良かったのですか。

 さてな。

 これがあなたの望んだ世界なのですか。

 おそらくはそうだろう。

 でも。

 でも?

 正しい女王と言って、本当に正しいということが何なのかなんて誰にもわかりはしないし、魔女を殺してあなたが新しい女王になって、議会をつくって、人々の権利や自由を保証して、……それで何もかもが平和になりますか。あなたは一人で物語を終えて、めでたしめでたしと言って、でも、今まであなたに好き放題されていた国民がある日突然知恵を与えられた猿みたいに、はい、あなたはこれから自由です、幸福ですと言われたからといって、みんながみんな幸せになったりなんてするわけがない。明日にだって国は滅ぶのかもしれない。それでもあなたは、自分の責任はもう果たしたといって死んでしまうのですか。あなたの言う正しい女王とは、そんなものなのですか。

少女の糾弾に女はしかし表情を変えることなく静かに答える。

 お前はとんだ馬鹿野郎だよ。

 質問に答えて下さい。

 ちょっとした解釈の違いというものだろう。お前の言う「正しい女王」と、私が母に誓った「正しい女王」とが等価である筈がない。私の物語は私だけのものなのだから。

 返答を聞いて少女は顔を歪め、しばらく自分の無力に打ちひしがれるように俯いていた。そんな少女を女が穏やかに見守っていると、少女はひどく寂しそうにぽつりと呟くのだった。

 やはり死んでしまうのですか。

 ああ。死ぬ。

 あなたは!

 とそこで少女は声を僅かに荒らげ、それから自らの態度を恥じるように声をひそめた。

 あなたはそうやって私を一人にする。私の元からいなくなって、永遠に消えてしまう。私はずっと一人で、一人のままで……。

 そんなことはな、二号。私の知ったことじゃない。

 冷たい言葉を優しい口調で告げ、女は少女の頭をしみじみと撫ぜる。

 私はお前のことが嫌いだし、そういううじうじしたことを言われると虫唾がはしる。……だが、まぁ、それはそれとしてお前はきっと幸せになるべきなのだろう。私はお前のことが嫌いだが、お前のようなやつはとにかく幸せにでもなってしまえばいい。そう思う。

 女は海を指さす。

 なあ二号。こうして海があるだろう。お前があろうがなかろうがそんなこととは何の関係もなく存在している海だ。海はいまここにあって、何の思惑もなく月の光に揺蕩う。

 つらいと思うのなら海にでも叫んでいろ。人間というものは大体そんな風にしているものだ。馬鹿野郎とか、畜生とか、そんなことをしていれば人間は人間だと思ってくれる。

 海を見ろ。あの海はいつか誰かが見た海で、在りし日の記憶が滲んでいる。知らない誰かもあの海を見て叫んだんだよ。私もそうだし、孤軽だってそうなんだ。あの海を見て寂しいと思い苦しいと思い、ここではないどこか、世界の果てに輝く灯し火に手を伸ばして落ちていく。そんなもの手に入る筈もないのに、それでも求め、焦がれてしまう。

 月の光が見えるか二号。あの月光の形がお前に計りとれるのか。光あると誰もが知っていて、光あれと願い、しかしけして触れることは出来ない。

 私は確かに光を見た。けれども孤軽はこう言った。そんなものは見えなかった。私の時には、この海に光など見えはしなかったと。

 ……波音を聞いていると訳もなく悲しくなって、昔のことばかり思い出してしまうな。何故だろう……。

 女は空を見つめてため息をつく。

 二号。お前は物語を愛する。お前の身に負う物語を愛し、一人芝居を続けたいというのなら、私は別に止めやしない。好きにすればいいさ。

 人間とは何か。命とは、魂とは何か。そんな言葉を弄んで、言葉遊びに耽るのもいいだろう。正しいとか、悪いとか、今更の私がお前にする説教でもないだろうしな。

 お前はこれからも多くの女を演じ、そして語るのだろう。言葉の力、芝居の命、そんなものを信じて、いつか過去や未来に言葉が響く日を願っているのだろう。それでもいいさ。お前が語り、語り続けるその物語をいつか誰かが耳にする。受け継いだ物語をあるものは憎み、あるものは笑い、あるものは愛す。お前を人形だと言い、あるいは人間だと言い、愚かと言い哀れと言いそうして生まれた無限の解釈が連なり、永遠になる。

 そうして言葉が響きあうならひとえにそれを押韻と呼んで、胸に灯ったその熱を海辺に流すがいい。

 そうしてお前は思うのだろう、ああこの世のどこかに光がある、ここではないどこか、しかしどうしようもなく物語でしかないどこかへと。

 波間に途切れ散っていくその嘘にそっと優しく手のひらを浸し、光に透ける骨と肉とを愛すればいい。

女はそこまでいうと姿を変え、若い娘の形をして口調を変える。

 いつか海を見つめて、忘れてしまった誰かのためにささやかな涙をこぼすなら、地平に広がる波の上にそっと一つ木の葉を落として、その木の葉こそが自分の失った過去なのだと思うといいわ。海を見て、その形がわからないと思うのなら、その木の葉を見て私だと思えばいいわ。形がない、けれど確かにそこにあると信じることを、水の上の葉っぱ一枚、みづはと呼んで生きていて。

 女は身に纏う衣服をするりと脱ぎ捨てる。一糸纏わぬ姿でゆっくりと海に歩み寄り、つま先をちゃぷりと水につけ、「冷たいな」と独り言をいう。

「姫」

 女のあまりにも儚げな様子に少女は呼び掛けるが、振り返った女の眼は時が凍り付きでもしたかのように鎮まりかえっていた。

「違うな二号。私はもはや姫ではない。女王でもないし、エリーでもない。これから死ぬ人間にそんな役名は必要ないのだ」

「でも、それは寂しいことですよ」悲痛に胸をかられて二号は叫ぶ。「あなたを呼ぶこともできないなんて、そんなのは悲しすぎますよ! 自分に名前がなかったり、大切な人の名前を知らなかったり、そうしたら後に残された者はどうやって生きていけばいいんですか!」

「名前が無いのなら、お前が好きに呼べばいい。ただそれだけのことじゃあないか。それにな、二号。お前はもう私の名前を知っている。千年の物語の果てに、私が私につけた名前。お前はきっと知っているのさ」

 そう言うと女は少女から視線を外し、海の中へと一歩また一歩と歩み出した。咄嗟に二号は叫んだ。言葉にはならなかった。何の意味もなさない喚き声のような、あるいは獣の遠吠えのような叫び声だった。けれどももしかしたら、それは女の名前なのかもしれなかった。・

 女の身体は半ばまで海に没し、濡れた黒髪が夜風に靡いては月光に舞う。

そうして女の透き通る肢体は海に溶けていった。塩水に混じり、もはや生きることも喋ることもないただの液体に還った。それを少女はずっと見ていた。動くこともできずに、ただじっと。

 少女は海水を掬う。小さな両手では幾ばくも救うことができず、指の隙間から見る見るうちに零れ落ちていってしまう。

「こんなものが?」少女は唖然として力なく呟く。「こんなものがあなたの形なのか。こんな風になることが、あなたの望みだったのか」

 何度も何度も水を掬い、しかしそのたびに水は零れ、少女は仄かに湧き起こる絶望に小さく唸る。

「これでいいはずがない。こんな結末が……」

 少女は何日も何日も夜を見つめた。これでいいはずがない。そう思った。

 女の身体にはきっと無数の物語が秘められている。千年生きた粘体姫の恋と愛との物語。詩情に満ちたその粘液は海に溶け、自然に還り、そして世界を巡るのだろう。この世全ての水は姫で出来ている。やがて海水が蒸発し、上昇気流が発生して雲が出来る。

 故に、いつか世界には、姫と言う一人のスライムが生きた証、空から千の雨が降る。

 やがて空からは幾許かの物語が降り注いだ。恋の匂いがした。気のせいかもしれない。けれど少女は自らの手を打ち据えるその雨、水滴に舌を浸し、姫の言葉を反芻するのだった。

「たとえあなたが違うといっても、俺にとってあなたはいつまでも姫なのだ。……だから」

 涙を拭うように濡れた掌で顔を撫で、少女はぽつりと言う。

「さよなら……姫」

 ばいばい、というように右手を月光に振って、少女はふと自分の右手を見た。月光に透けるその右手にはやはり、血潮は流れていなかった。

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