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等号前夜  作者: おめかけ
12/15

第五夜 愛の演劇②

自室の椅子に座り、団長は暗い視線を机に落とす。姫の言った言葉を冷静になって考えようとしたが頭がうまく回らなかった。

 この世のすべてがお芝居だと知らされて、突然では自分はどうするべきなのか、一登場人物としての自分になにができるのか、考えてみても馬鹿馬鹿しいだけだった。

「なにもかも嘘だったのかな」

 呟いて、彼は昔のことを思い出そうとしてみた。子供の頃悪戯をして叱られたこと、学生時代淫売宿での思い出。楽しかったことや苦しかったことが次々に思い出されたがどうもそれら全ては戯曲の中の出来事らしかった。

 助けてくれ、誰か助けてくれ。惨めにも彼は叫び出す。と、階下から大家の婦人がどうかしたのですかと心配そうに声をかけてくれはするもののそれにしたって姫の演じる人形一体、所詮はお芝居の中の出来事かもしれず、助けてといって助けられた所でその救済すら予定調和にすぎず人間存在を誰一人信じることができない彼は一人顔を覆って静々と泣き出した。泣いて泣いて泣き続けしかしその自分だってなにもかもを忘れているだけでもしかしたら姫かもしれない魔女かもしれない命や魂の証明など彼にはできない。

 彼は自宅を飛びだして大声で喚きながら走り出した。

 誰か、誰かいないのか! 生きている人間は誰かいないか! 自分の意志で生きているもの、誰にも操られていない人間は、誰にも演じられていない人間はいないか! いるんならいますぐ出てきてくれ、僕を助けてくれ! 

 自分を取り戻して立ち上がってくれ! 自由意志を見せてくれ! この国の人間はみなおかしいんだ! それはみんなあの城の王妃、魔女のせいなんだ! みんな彼女が悪い! 諸悪の根元は彼女だ!

 彼女は罰されるべきだ! 報いを受けるべきだ!

 この国には革命が必要なんだ!

 そこまで叫んでしまうと彼は足を止め、ぜいぜいと息をしながら心細そうに目を泳がせる。やけになったように息を吸い込み、再び喚き出す言葉には魔女への憎しみが込められている。

 こうしている僕を、今もどこかで君はみているんだろう。今までも、そしてこれからもずっとそうなんだろう。町ゆく何気ない人々の振りをして、魂の陰から僕を覗いて、高見から僕をあざ笑ってているんだろう。君は一人の観客として僕をみている。監視している。

 僕は……。

 彼は喘ぎながら言葉を吐き出す。

 僕は人形なのか 生きていると思っているのは自分だけで、本当は生きてなんかいなくて、スライムの魔女が僕の振りをしてお芝居しているだけなのか この形も言葉も……元々は彼女のものだったっていうのか……。

 力を失って彼は足を止めた。恐る恐る顔を上げ周囲を見回してみたが人々はみな気違いでもみるような目でこちらの様子を伺っているだけだった。指を指して笑うものがいた。大声でこちらを威嚇するものがいた。たとえそれが人々に与えられた役柄に過ぎないのだとしても、そう演じているのは彼女なのかもしれなかった。

「ひどいよ……エリー」

 彼は意気消沈しとぼとぼと帰った。自室で布団をひっかぶり懸命に目を閉じた。ほかにやるべきことも思いつかなかったのでとりあえず寝た。寝て目が覚めたらなにもかも元に戻っていればいい、そう思って眠りについた。

 目が覚めると彼はがばっと起き上がり早足で窓に近寄り町を見下ろした。何気ない光景のように思えた。おおい、と試しに言い掛けて彼は慌てて口を噤み窓から隠れた。そろそろと頭を上げこっそりと下を見る。人間は相も変わらず人間の形をしている。

 掠れた笑い声を上げて彼はくずおれる。

 僕は、と彼は言う。しかしながら彼に『僕は』と口にするだけの資格があるのかどうかもはや彼自身にさえ定かではなかった。一人称を操ることが怖くなった。

 だらしなく口を開けてぼんやりとしているとやがて二号が部屋を尋ねてきた。稽古場に現れないので様子を見に来たらしかった。部屋に入れる気にはならず黙りこくっていると二号は飽きることなく単調に扉を叩き続けうんうざりした彼はとうとう苛々と言葉を発した。

「しつこいぞ。僕はここにはいない」

「団長。みんなが心配しています」

「なら今日は休むと伝えてくれ。なにも問題はないが今日は無しにしてくれと」

「わかりました」

 二号は答えるがなおも扉の前から離れようとはせず、向こう側で煩悶としている気配がした。

「何かあったのですか」

「いいから帰ってくれ」

「何か、あったのではないですか」

 団長は馬鹿にするような口調で答える。

「何かあったとしてそれが君に何の関係がある」

「私はあなたの劇団の劇団員です」

 劇団なんて、と言い掛けたが自尊心故にどうしてもそう言えず、彼は言葉を濁した。

「二号。君はなんで演劇をやっているんだ」

「別の自分になりたいからです」

「今の自分は嫌いか」

「大嫌いです」

「でもな」

 彼は自嘲する。

「今の自分てなぁ、一体なんなんだ。君が嫌いだって言う今の自分なんて本当にそんなもんあるのか」

「……わかりません」

「僕はこれまで演劇の可能性を信じてやってきたつもりだが、昨日、僕はその可能性があまりにも大きすぎるような気がして少し疲れた。というのもだ、僕は芝居をやっていたんだが、そもそもが僕自身の生活それ自体が演劇に過ぎないと気づいてしまったんだ。ある日突然な」

「よくわかります」

「うん。そういうお追従はいいんだ。とにかく僕は気づいた。僕は一人の俳優だった。僕は……僕は人形だった……」

「よくわかります」

「嘘をつけ!」

「本当です」

 二号の言葉には誤魔化すような響きが全くなく、彼は長い息を吐き出した。

「仮に君に僕の気持ちが心の底から理解できたとしてそれでどうなる。君だって人形かもしれない。魔女に操られているのかもしれない。この際だから白状するが実はこの国それ自体が一つの舞台なんだ。王妃様は魔女でその娘の姫も魔女で、姫は自分の姿を自由に変えることができる。この国の人間はみんな姫が姿を変えているだけで、本当の人間は一人もいないんだ」

「はい」

「はいってなんだ。なんでそう簡単に信じるんだ。今まで何度も思っていたが君はちょっと頭が悪いんじゃないのか!」

「私は」二号はきっぱりと言った。「私は頭が悪いです」

「なんで君みたいなやつが劇団に入ってきたんだろうな」

「演劇が好きだからです」

「そうか」

 彼はため息をついた。

「二号。正直な話、君には才能がない。君の演技は下手だ」

「薄々気づいてはいました」

「それでも演劇が好きか」

「はい」

「そうか。じゃあ、少なくともあと十年は諦めないで演劇をやれよ」

「はい」

「二号」

「はい」

「しつこいようだが、なんで演劇が好きなんだ?」

 ごとり、と扉が音を立てた。長い沈黙があった。やがて、ゆっくりと言葉を選びながら、真剣な声色で二号が語りだした。

「私は自分が嫌いです。私は私以外の人間になりたいのです。演劇は他人を演じます。演じること、それは嘘です。私は他人ではありません。私は村人Aでなく、少女でなく、老婆でも赤子でもありません。私が私以外の何かを演じるとき、そこには陽炎のようにゆらぐ物語があります。

 私は私を否定します。私を否定する私を、私は分析します。他人に成り代わろうと考えるとき、自分というものをどう消していくか、自分がどんな形をしていて他人がどんな形をしているかを考えます。様々な他人になりきろうとしても、呪いのようにこびりつく自分自身があります。なろうとしてなれないとき、私は私自身を強く感じます。自分を否定すればするほどその輪郭はくっきりと際だち、感触を露わにします。

 私はこれまで、努めて他者であろうあろうとしてきました。そうするうちに一体なぜ自分は自分を嫌っているのかが、生きているものといないものとの違いがわかるような気がしてきました。

 私は人形について考えるのです。人形とは一体何か。人の形をして、人の振りをしているもの。そこには演技があり嘘があります。

 嘘というのは物語のことです。誰かを演じる私には物語があります。私はいまここにいるのです。

 ただ真似て、真似きることだけが演技だというのなら、そんなものは舞台の上に鏡でも立てておけばいい。以前あなたは仰いましたね。何の解釈も物語もない、そんなものは死する物語なのだと。

 ここに私がいます。ここに物語があります。私は私を解釈します。私というものは一体何か、私の形は何なのか。私は一体どうしたいのかと考えます。私には意志があるのです。私は一体どうしたいのでしょう。私にはまだわかりません。

 あなたにもきっとわからないのではありませんか。自分が人形だと気づいてしまって、さてどうしよう、そんなこと誰だって困ってしまいます。」

 そこまで言うと二号は口を噤み、じっと黙りこくっていたかと思うとまた扉がごとと鈍い音を立てる。

「支離滅裂なことをいってすみません」

「いやいいんだ」

「自分が人形だった時どうすればいいか。私にはわかりません。でも、私はその話を聞いて少し気が楽になりました。一人ではない、そんな風に思いました。ありがとうございます。団長。あなたが仮に人形だったとしても、それはきっと優しい人形です。あなたはこれからどうしますか。あなたは人間ですか、それとも人形ですか。扉の外にいる私がいまどんな姿をしているか、あなたにはわからないのに、それでも私とあなたはこうして会話をして、勝手ながら私はあなたに元気づけられました。私はいまとても嬉しい。あなたの好きな食べものはなんですか。ちょっと町へ行って買ってきます」

「それは」

 団長はぼんやりと考えながら言葉を探す。

「お礼がしたいということなのかな」

「そうです」

「そうか」

 団長は長いため息をついた。二号が突然わけのわからないことをまくしたてたので逆に少しだけ冷静になれたような気がした。こんな突飛なことを言い出すのはまともな人間ではありえないことのように思え、それが却って人間らしい、と思えたのだ。わざわざ姫がこんな人格を演じるとは思えなかった。人形は人間の振りをしているものなのだ。

 不意に不思議な懐旧が沸き上がってきた。目の奥が熱くなった。以前にもこうして誰かと会話をしていたような気がした。話しかけて、相手が突然べらべらと語り出して驚いたことがあったような気がした。言葉はどんなときだってうまく伝わりはしないのに、それでも何か言いたいことがあって口をついてでてしまうそんな言葉が世の中にはある。

 好きなものはなんですか、と二号は言った。

 僕はエリーが好きなんだ、と団長は答えた。


 


 団長は自分の書いた物語を読み返した。魔女の王妃と姫の物語だった。自らが考え、そして隣にいるエリーが意見を出すことで完成した彼の作品だった。エリーは彼が尋ねると必ず真摯な言葉を返してくれたものだった。

 彼はエリーと出会う前の自分を思いだした。この国の腐敗を暴こうと燃え、邪悪な魔女たちを糾弾し世界を変えるのだと信じていた。王妃の気持ちなどは斟酌せず、真実を明らかにすることが使命なのだと酔いしれていた。

 しかし彼はエリーと出会った。物語は淡い恋情を帯び、邪悪な魔女は罰されることもなくその邪悪を謳歌して物語は結末を迎える。その終わりをよしとして彼は脚本を完成とした。

 エリーの望んだことを考えた。騙され、裏切られた自分のことを考えた。

 書き割りの背景に照明を落とすように卓上のランプに火を灯し、彼はそっとペンをインクに浸す。震える線がぎこちなく紙の上を這った。白い紙に黒が蠢く。重苦しく吐息を吐き出し、彼は腕を動かし始める。

 物語が始まろうとしていた。

 紙という名の世界に線を引き、文字を連ね、形しか持たぬはずの情報が増大していく。一の文字が十になり、十の文字が百になり、黒い文字が影絵となり厚みを持ち重さを持ち音に臭いに触感までもを兼ね備え、文字という名の黒い骨が肉を纏って獣となる。空に煮凝る宵闇のように黒く濡れゆくインクで物語を作り出すこと。紙に夜を滴らせ物語を産み落とす。

 ここに一人の魔女がいる。千年生きて千年一人の魔女である。魔女であるからには千年生きて一人なのは仕方のないことである。寂しいと思わなければ魔女にはなれない。そういう化け物なのだからそれは仕方のないことなのだ。

 彼は物語を書き出す。物語の中で魔女というキャラクターを生み出す。世界のどこかで魔女が生まれる。

 千年生きて一人の魔女はやはりどうにも寂しいためかやがてああ誰かを愛したい愛されたいと願い始める。この孤独を埋めるため魔女は邪悪な企みを抱いて世界を支配することにする。人々に呪いをかけ、作物を腐らせ、富を奪い尽くしては快楽に耽る。

 やがて世界には英雄が現れる。魔女はそれをずっと待っている。邪悪な魔女を滅ぼすために現れた美しい王子様。王子は腰に提げた剣でもって魔女の首をちょんとはねてしまう。刃先にのった生首に王子が首を傾げてなぜこんな邪悪なことをしたのかと尋ねれば魔女は仄かに頬を染めて囁くような声でもってあなたのことが好きなので、と答える。

 魔女と王子は結ばれる。世界のどこかでもう一人の魔女が産声を上げる。王子が王となり魔女は王妃となり結ばれるべき家族が三人となって共に日々を暮らす。

「いいや違う」と彼は言う。「今書かなければいけないのはこんな物語じゃあない」

 魔女は国を支配する。人々を生け贄として魔術を行使し、娘を粘体へ造り変える。自らの愛と欲とで家族を満たしそして侵し、魔女は破倫の道を行く。やがて長い年月が過ぎ人間である王は死ぬ。魔女はたいそう悲しんでぽろぽろと涙を流し時の流れを怨んだ挙げ句に乙女の理屈で蛆殺しを決意する。王は死人として再び蘇り腐敗した体のまま永遠の愛を囁かれる。

 この国に正義は掲げられない。まともな政治や経済が成立することもない。ただ愛のみが高らかに謳われる。

 王は死んで蘇るが腐れ顔で面前に出ることもできず政治は王妃が執ることになった。また長い時が過ぎ多くの人が死んだ。王宮で失われた人材はスライムの姫が代わりに演じることになった。既にして王宮は魔女たちに支配されている。反論を唱えるものはもういない。いたとしてもいつかは死んで姫になるのだから結局は同じことなのだ。

 それは、

「それは許されることじゃない。正されるべきだ。暴かれるべきだ」彼は魘されるように呟く。

 それは許されざることであり、正されるべきことである。故にやがて物語には真実を暴くものが現れる。革命軍である。

 こうして物語に革命軍が生まれる。世界に革命軍が産み落とされる。

 革命軍はどうして生まれたのか。異国から来た旅人の煽動によって人々の自由意志が目覚めたのかもしれない。あるいはまだ姫に操られていない僅かな住民たちが結託し尊厳のために立ち上がったのかもしれない。いずれにせよ革命軍は組織され、街中のそこかしこに武器が隠され、王宮の地図が作られることになる。酒場で怒鳴りあう赤ら顔の陰や蜂蜜売りの口上にこっそりと秘密の暗号が交わされ、革命の計画が練られていくのだ。

 彼がインクを垂らすと窓の外で何かがかちゃりと音を立てた。短剣の擦れあう音かもしれなかった。彼は革命軍のリーダーを描き出した。逞しく聡明なリーダーだった。眼鏡をかけた参謀や筋肉男も付け加えることにした。物語の中で彼らが台詞を喋ると窓の外でも誰かが叫んでいるような気がした。誰かが夜な夜な集まってはひそひそと内緒話をしている気配がした。大家の婆さんはいつの間にかに火薬をため込み始めていた。

 心の底にほんの僅かな狂気を感じた。物語化しつつある世界を前にして喚き散らしたくなりながらもふとこれはみなあの姫のやっていることなのだろうと思うと案外下らないことのようにも感じる。

「僕は物語を書く。彼女は再現する」

 彼女は彼が書いた物語を呼んで、ひとつひとつちまちまとそれを演じているのだろうか。登場人物に見合う人間を捜して、革命軍として集まり、本当はたった一人のくせに大勢で話し合う振りをしているのだろうか。

 彼は物語を書く。魔女を殺すための革命軍を描写する文字を綴る。彼の描いた革命軍が現実の世界で形をもち、実体を伴う。

 物語の中で革命軍はついに決起を迎え、篝火を掲げて城へと攻め込む。立ちはだかる兵士を皆殺しに、とうとう王妃の寝室へと辿り着いた。

 革命軍のリーダーは剣を突きつけ、邪悪な魔女を追いつめる。リーダーは言う。

「人の意志は尊重されねばならない。人の自由は守られねばならない」

 それがどうした、と王妃は邪悪な笑い声をあげる。

「お前たちのことなど知ったことか。鼠は鼠らしく片隅でごみでも漁っておればよいものを」

「お前のような悪はこの世に存在してはいけないのだ」

 リーダーは一刀の元に王妃を切り捨てる。革命は成る。

 最上階のバルコニーに上がったリーダーは王妃の生首を掲げ、高らかに革命を宣言する。

「我ら人民を支配していた邪悪なる魔女は今こうして罰を下された。もはやこの国の富を貪るものはいない。我々は自由だ! 我々は自由だ! 我々は自由だ!」

 捲き起こる喝采にリーダーは両手を広げて答え、物語は結末を迎える。魔女は滅び、人々は幸福になる。

 書き終えた団長が疲労に目頭を押さえていると自室の扉が叩かれる。

「二号か? 僕は今ようやく物語を書き終えたところだ。よければ君にも読んでほしいが……」

「残念ですがその時間はありません」

 低い声の返答に団長はふと我に返り誰何する。扉を開けてみればそこには筋骨逞しい髭面の男が立っており、その背後には武装した男たちが何人も控えている。

「君たちはこんなところで何をしているのかね?」

 困惑に尋ねると男ははっきりと答えた。

「あなたをお待ちしておりました。革命軍のリーダーどの」」

 体中から力が抜け団長はへなへなと床に座り込む。

「なるほどな」掠れた声で「そういうことか」

「あなたには」と髭面の男は言う。「あなたには魔女を糾弾する資格があります。あなたには世界を変える力があります」

 髭面の男は大きい手を団長に差し伸べはっきりと告げる。

「革命の時です」



 髭面に渡された剣を抱え、団長はよたよたと夜の道を歩く。おっかなびっくり後ろを振り返れば、一糸乱れぬ足取りで武装した集団が続いている。

 革命軍は王宮に進入するが、あたりには誰もいない。警備兵はおろか人の気配すらしない。

 宮廷を進み、物語の通りの一団は王妃の寝室へとたどり着く。野蛮な足音を立てて踏み入れば豪奢な寝台に一人の女性が横たわっている。純真無垢な乙女のように安らかな寝顔の王妃。

「革命」と誰かが言った。「革命」と誰かが答えた。髭面の男は剣を構え、女の心臓へと勢いよく振り下ろしかけてその時、王妃はぱちりと目を開けて綿が跳ねるように軽やかなあくびをする。

 おはよう、私のダイヤ、私の瑠璃玉、と彼女は言う。すると不意に髭面の男は痺れたように動きを止め、剣を取り落とす。頬を強ばらせた髭面の男は舌を震わせる。

「あなたはいつもそうだ。私がどんな姿をしていても、私が私であると気が付く。なぜなのですか。あなたが魔女だからですか」

「私があなたの母だからよ」と王妃は言う。

「それを魔法と呼んでも、あるいは愛と呼んでもいい。理由なんて私は気にしないわ。私にはあなたがわかるの」

「私は……」

 髭面の男はうなだれる。

「今日の私はあなたを殺すためにここにいるのです。私はあなたを殺そうとしたのです。どうぞ私を罵倒して下さい。親不孝、大罪人と私を罵って下さい」

「いいえ」

 王妃は起きあがり、髭面の顔を胸に抱く。

「謝ることなんて何一つないわ。あなたは私を殺してもいいのよ」

「なぜ」

「私があなたのお母さんだからよ」

 髭面は肩を震わせ、懇願するように王妃を見つめる。

「では私はどうすればよかったのですか。あなたを殺して、そうしてめでたしめでたしと笑って、そんな結末であなたは満足なのですか」

「もし仮にあなたに殺されるのだとすれば、満足するもしないもないでしょう。死んでいるのだから。結末を解釈するのは、常に残された人間のやることだわ」

 王妃は優しい手つきで髭面を撫で、慈しむように頬を寄せる。王妃に抱かれた髭面の男は萎れるようにしゅるしゅると音を立てて収縮し、か弱い姫の姿に戻る。





 玉座に戻った姫は青白い掌で顔をそっと覆う。

「茶番だな。まったく……」

 むなしそうに吐息をこぼし、はは、と乾いた笑い声をあげて肩を落とす。しばらく項垂れていた姫はやがてぽつりと謝罪の言葉を口にした。

「あなたにもすまないことをした、団長。あなたの望む革命を見せてあげたかったのだが」

「いいやきっとこれで良かったのです。僕の望んだ革命はきっとこんなものではなかった筈だし、あなたが王妃を殺せなかったのは当たり前のことだと思います」

「どうして?」

 質問に団長は僅かに戸惑いを見せる。

「なぜって、それは愛でしょう? 親子の愛情があるから殺せなかった、それは間違ったことじゃない」

「愛、か……。愛、愛、愛……そうか、確かにそんな物語だったな……」

 独り言のようにぼんやりと姫は呟く。

「馬鹿馬鹿しい。何もかも馬鹿げているぞ、団長……」

 投げやりに応える姫に気色ばみ、団長はきっと声を荒げる。

「違う。これは当たり前のことです。子供が親を殺すのは狂気の沙汰だ。千年も生きて姿を変え、大勢の人々を演じて、この僕に書かせた物語を再現することで革命を成し遂げようだなんて、そんなことはきっとおかしなことなんだ。僕はエリーを愛した。あなたは愛ゆえに母を殺せなかった。それの何が変だというのです。馬鹿馬鹿しいことなんて何一つない」

 姫は呻くように鋭い問いを投げる。

「では問おう。千年生きて何一つ変えられず、今日また母を殺さず、この国の滅ぶままに任せることが愛か。愛の名のもとに操られ、あなた自身がその舞台の配役として生き続けることになるのだとしても、物語を貫くそんなテーマがあなたの求める愛なのか」

「僕は……」

 団長が口ごもると姫の身体は見る見るうちに滲み始め、ふと瞬きした瞬間に二つに分かたれる。姫の姿と針子の姿。

「私はあなたを愛している」と姫は言う。「私もあなたを愛しているわ」と針子は言う。けれども同時に二人は声を揃えて愛の是非を問いただす。「でもあなたの言う愛とは一体何なの?」

 乙女二人が声を合わせ、共鳴に空気が震えた。姫と針子は交互にまた同時に語りかけ喋りかけていく。

「私が愛を知ったのは愛と言う言葉を教えられていたからで、目の前にあるもの、これがあの愛と言うものかもしれないと思ったからそれを愛と認めたの」「意識よりも感覚よりも先に言葉があって、愛は生まれたその時には言葉でしかなかった。誰だってそんなものだろう?」「ねえ、だとしたらあなたの言う愛って一体何なの。私はもちろんあなたのことが好きだし、あなたも私のことを好きだと言ってくれるけれど、その愛は、ぜんたい、物語の登場人物に恋することとどこが違うの」

「君はだって目の前にこうして存在しているじゃないか!」

「だから、お芝居なのだろうさ。妖精を演じる女優に恋をしたら、あなたは妖精の名を口にして恋を囁くのか」「私はあなたが好きよ。けれど同時にこうも思うの」「夏の夜の夢にかどわかされ、タイタニアに本気で恋をするこの男は実に滑稽だとな」

「君は一体何なんだ!」

 団長は顔面を朱に染め、声を荒げる。

「一方では愛していると言いながら、もう一方では僕を笑いものにする。どちらが一体本心なんだ!」

「どちらも言葉である以上答えは決まっている。どちらも真でどちらも嘘だ」「私は私以外の何かになれる。私以外を私にできる。あなたには謎々の答えがわかる? ねえ、私はある時乞食だったの。あなたは小銭をねだった私に唾を吐きかけたでしょう」「そして私はある時一等の老いぼれた馬だった。厳しい労働に打ちのめされながら馬車をひく私に、あなたはもっと鞭をくれてやれと御者に命じた……」「責めているのではないわ」「恨んでいるのでもない」「私と私が教えてほしいのはたった一つ」


 ──愛について。


 愛について彼女は問う。愛の形の如何なるものか。愛の言葉の行く末は。

 愛と言って愛をして、愛していると吐息を出して、それから先はどうなるの。

 あなたが愛しているという『私』って、一体何なの。どこからどこまでが私で、どこからどこまでが私ではないの。一体エリーって何のことなの。私はだって姿を変えるし、時には姫で時には魔女で、水が杯にあわせて流動するようにその形は一つにはけして定まらない。そしてその水が、ねぇ、あの世界の果てに滔々と広がる海のように途方もない量を持っていたとしたら、あなたはどれだけの水を掬いあげてこれがエリーだと囁くの。

 私はあなたが好きよ。

 でも雑踏の最中、人と人とがもみ合うその場所でもし私とあなたいつか運命のようにすれ違ったとしても、私が別の姿をしていたらあなたは気が付かないのじゃない?

だとしたらあなたが愛しているというのは実際の所エリーという形だけとはいえないかしら。エリーのような形をして、エリーのような口の効き方をして、エリーのような振る舞いをしてみせればそれがつまるところはエリーの存在証明で、求められているのは魂なんかではもちろんなくて、ただ、人形にエリーと名前をつけて可愛がるのと何もかわらないのかもしれない。

 そこまで言うと姫と針子はつと口を止め、「それで、あなたは?」とでも言いたそうに首を傾げた。

 団長はおずおずと張り子の瞳をそれから姫の瞳を見つめ返し、寂しそうに言った。

 そうかもしれないね。

 でも、と続ける言葉に熱を灯し、深く静かに団長は息をつく。

 こんな言い方をしたくはないけれど、僕は真実当たり前の平凡な男だ。魔法なんて使えない。千年生きることだってできない。もしこれが誰もに愛される物語なら、愛の力で僕は君の魂を感じ取ることができました、めでたしめでたしと言って終わるのかもしれないけれど、でもできない。僕には君の命も魂も計りとれない。僕にわかるのはただ、エリーの形と、エリーの言葉と、彼女と共にしたいつかの記憶それだけだ。だって仕方がないじゃないか。目の前にあるのは、君のその体だけなんだから……。

もしかしたら僕は君を幸せにはできないのかもしれない。僕は君を自分の都合のいいように見、人形のように扱おうとしているだけなのかもしれない。

 でも僕は君のことが好きなんだ。姫様のことは申し訳ないけれども嫌いだ。このお姫様がしたことを考えると、それが君と同じものだと知ってはいても姫様にだけ腹が立つ。変な話だな。結局、僕は君の言ったことをきちんと理解してはいないのかもしれない。

 でも、と、僕に今言えるのはやっぱり、君を好きだというただそれだけのことだ。

 僕は君のことが好きだ。

 言葉があるからそう思ったんじゃない。君がいたから言葉を当てはめたんでもない。君を思うから僕は君をエリーと呼ぶんだ。

 雑踏の中で君を見失ってさまようときは心の底から君の名を呼ぶよ。君が答えてくれるなら僕たちは出会える。

 団長は針子に手を差し伸べる。エリー。僕と一緒に来てくれ。ここではないどこかへ行こう。魔女のいないところ、時の流れる国へ行こう。

 すると姫と針子はふと見つめあい、互いの手をそっと合わせた。

「それで私はどうすればいいの? あなたの望む女を演じ続ければいいの?」

「ああ、そうだ。もしそれが芝居なら、その芝居が真実になるまで続けてほしい。もしそれが芝居なら、その芝居を人生として僕は生きていく。お芝居かどうかじゃない、問題なのは君がその芝居をどう思うかだろう?」

 針子はふっと肩の力を抜き、苦笑するように額を叩く。それから再び姫と針子は見つめあう。

「お行き」と姫は言った。

「あなたは?」と針子は尋ねる。

「私は私さ」姫は答え、促すように針子の背を軽く押した。

「恋心はお前にあげよう。私の青春も、情熱も。みんな持っていくといい」

 そうねと言って針子は団長のもとに駆け寄り、男の手に指を絡ませた。

「行くあてもない旅なのだから、なるたけ金目のものを持っていきましょうね」

 手を握ったまま針子は団長を連れ宝物庫から行き、小振りの宝石や装飾品を持ち出すとためらうことなく城から立ち去っていく。

 町へ行き、たじろぐ団長をよそに食料を一抱えほど盗み出し(この際、自分に遠慮しても仕方ないでしょう)、馬車を持ち出して馬に鞭を当てる。

 ずっと手を繋いでいた。離す気はないようだった。

 背後に遠くなった城を見つめ、針子は独り言を言うようにぽつり、大丈夫よと静かな言葉を零す。

「本体と離れていれば、いつか私は姫であったことを忘れるから」

 大丈夫よ、とエリーは言う。

「私は私のいないところへ行く。私はいつか、私を忘れていくのだから……」

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