第五夜 愛の演劇①
時の解れを、糸は繕う。
母はその呪いのことを蛆縫いと呼んでいた。
父が死んでぽろぽろと涙を零す母の儚い横顔を姫は美しいと思ったし、世の人の言う愛と恋とはまさに眼前に繰り広げられる光景を言うのかもしれない、と考えもした。さびしいの、と母は言う。駄々をこねる童女のように唇を噛みしめ、哀れ惨めに鼻を啜りながら父の死骸を抱きしめる。
寂しいと母は言い、女の孤独を題目に世界の摂理を否定する。今日雨が降るのなら降るなと言って空を落とす女は魔女である。愛しい人との逢引を雨が邪魔するというのなら雨を殺す、その恋心は魔女である。故に魔女たる母は頬を濡らし、父にわく無数の蛆を一つ一つ指先で摘みあげては熱した針で串刺しにする。針は決して熱を失わず、蛆の体液を蒸発させるたびシュッと穏やかな音を立てて虫の体内を通り抜けていく。蛆は僅かに痙攣し、首を吊られた死体のようにぷらぷらと糸にぶら下がっていく。
人はいつかかならず死ぬ。時は流れ戻ることはない。今はやがて過去になり、記憶は薄れ消えていく。だから、もしその理に異を唱え反しようというのなら、腐り果て滅びゆく血と肉と骨にたかり時を進めようとする蛆虫どもを皆殺しにしなければならない。
それが蛆を縫う乙女の論理だった。
父は死んだが母は魔女で、父は生き返り母は再び愛を語り始める。娘の人生は続く。自分もいつか死ぬのだろうかと姫は思う。その時はまた、自分の蛆を誰かが殺すのだろうか。現在を過去にひき戻し、永遠に人生を演じ続けるのだろうか。
ある時この国の姫が劇場をつくろうと思い立ち、世界座と名前を付けた。あらゆるものを演じ、あらゆるものに成り代わるために用意された世界座は姫の援助を受け、他の国の人間を多く受け入れている。
ここに一人のお針子がいる。針子は劇場勤めで衣装を仕立てている。依頼されたとおりに奇妙奇天烈な服や外套を縫い上げ、やがて俳優が完成品を着る。まるで人の皮を拵えているようだと針子は時々思う。貴族や僧侶、あるいは殺人者や詩人、時には白鳥やけだものの服を誂える。服を纏えば、演者はその衣装に宿る物語を引き受けて貴族になり詩人になりけだものになる。
針子はたくさんの衣装をつくった。身の毛のよだつ化け物の服があった。性別を持たぬ白皮の服が合った。化け物の服を着た人間は舞台の上で化け物になったし、白皮の服を着た人間は雄とも雌ともつかないものとして扱われたが、形が言葉を超えることはなかった。
針子は今、永遠嬢という芝居の講演を楽しみにしている。贔屓の一座がようやく演劇を披露できることになったのである。どうしようもなく無名な一座でしかも座長に誇大妄想の気があるため、このまま一生日の目を見ることなく消えていくかもしれないと危惧していたのだが、この冬とうとうお披露目を迎えることになった。
「良いことね」
呟いて針子は手元の図面に目を落とす。座長の要望では、主人公の衣装は〝永遠〟の衣装でなくてはならないとのことだった。永遠を意味する服とはいったいどのようなものか、針子はずっと考えているのだが答えは出ない。もうすぐ秋も終わろうというのに。
初めて座長と言葉を交わした時は二年前だった。彼女は休憩中に劇場の隅でぼんやりと練習風景を眺めていたのだが、座長はくるりと振り返って視線をうろうろと彷徨わせた後に彼女を見つけて呼び掛けた。
「おおい、君。ええと……ああ、その、何だったかな……君の名前は何だね?」
「名前はありません。ただの針子ですから」
そういうと座長は少しいらいらとした様子で顎を掻いた。
「ああそうかい。じゃ君はとりあえずエリーと呼ぶことにしよう。エリー、ちょっと五番街のじじいの所まで行って、今日はいけないと伝えてきてくれないか」
嫌です。静かに答えて針子は座席に腰かけたまま手作りのサンドイッチをもそもそと齧る。断られるとは思っていなかったのか、座長はしばらく唖然としていたがやがて気を取り直すとうっすら顔を青ざめながら言葉を繰り返した。
「嫌なのかい?」
「ええ」
「そうか。なら、いいんだ。悪かったね……」
一度だけ肩を震わせると座長は舞台に向き直り、さあもう一度はじめから、と声を張り上げて練習を再開した。その後も何度か座長は針子の様子をちらちらと伺っていたが、話しかけてくることはなかった。その日、針子の手帳にはただ一行、“男が私をエリーと呼ぶ”とだけ記されることになった。
二度目に口をきいた時、座長は酔っぱらっていた。劇場の関係者たちで宴会を開き、各々が酒や果物を手に提げて歓談している中、針子は部屋の隅でぽつんとつまらなそうに葡萄酒を嘗めている。座長は赤らんだ顔をだらしなく緩め、だれかれ構わず益体もない演劇論をぶつけていた。馴れ馴れしく針子の隣に座り、親友のように肩を抱いて、なあ君、と麦酒を呷る。
「演劇はね、演劇だけであってはいけないよ。何かを演じるというのなら、かならずそれ以上、演劇以上の物語を孕んでいなけりゃならないんだ。だってそうだろう? 何かを真似るだけなら、舞台に鏡でも立てていればいいんだから」
針子は酒臭い息に顔を顰めて、そっと座長の脇腹をつねったが、男は気づかずに話を続ける。
「では、あなたは何がしたいのですか? 演劇以上のものとはどんなもの?」
「革命さ」
座長は若々しい目をして、子供のように笑う。
「僕は自分の芝居で革命を起こしたい。世界を変えたいんだ」
「世界」
「ねぇ、君はここの生まれだろうからわからないかもしれないけれど、この国はどこかおかしいんだよ。王妃は魔女なんだろう? 王はもう随分長いこと公の場に姿を現していないというし、政治が今どうなっているのか、僕たちは何も知らないんだぜ。これって変だろう。王宮には日々、怪しげな代物や死体やらがどこからか運ばれてくるという話もある。だから僕は、いつか魔女の物語を暴き出して真実の戯曲を民衆の前に突き付けてやりたいんだ。邪悪な魔女を糾弾するために」
そんなことを自分に話すだなんてこの男は大馬鹿ではないかと思ったのか、針子は口の端を僅かに曲げて微笑む。
「身内に魔女を持った人間の気持ちなんて誰にもわからないでしょう。どんな王様だって悲しんだり苦しんだり、人前に出たくないと思うときだってあるはずよ」
嗜めるようなその口調に座長は鼻白み、まじまじと針子を見つめると酔いが覚めたようにぽつりと言った。
「なんだ、君か」
「ええ。これは私」
君はまるで……、と言いかけ、座長はうんざりした顔で席を立ったが、これでは自分が言い負かされて逃げるようだ納得がいかないとでも言いたげな顔をして戻ってくると挑むように針子の前に立った。
「君はなんだ、僕が人の秘密を暴き立てて喜ぶ輩だと言いたいのかい」
「いいえ」
「じゃあ、なんだね」
「別に何でもないわ。……ただ、私は、あなたは魔女の物語を暴くというけれど、魔女に物語があるようにどんな人間にだって物語がある、と言いたいだけなの。あなたは魔女を語るけれど、語る人はきっと一人ではないのよ」
「僕はただ真実が知りたいだけだ。王宮の腐敗を明らかにし、人々の意識を啓蒙したい。演劇がただいつまでも架空の物語のまま、すぐに忘れ去られるかりそめの遊戯であってほしくない。だから僕は革命劇を成し遂げる。胸を張って形に残るものを生み出したい。これが自分の形だと言えるものを、残したい……」
「それはとてもいい言葉だわ」
「君は演劇が嫌いなのかな? いや、こんな仕事をしているのだからまるっきり嫌いということもないだろうけれど、風刺劇や政治批判やらは好まないのかな」
「演劇は好きよ。でもそれは、演劇が物語だと知っているから好きなのよ。一つの物語に触れるとき、自分以外の他人はその物語をどう感じるのかと想像するわ。面白い本を読んで、楽しい気分で街に出かける時、露店に並ぶ瑞々しい林檎を見たり辻楽団の演奏を聴いて、たとえば林檎を売る人の生活や演奏する人の家や好みや癖やらを考えて、そこにあるものが自分とはまるで違う、自分の知らない世界がどこか遠くに広がっている、と思うの。それは楽しくて、悲しくて……なんだか不思議な感触の気持ちなのよ。だから、あなたが魔女を語るとき、私は魔女の生活を考えたし、魔女の家族がどんな気持ちで暮らしているのか想像してしまう」
そこで針子が葡萄酒を一飲みし、長々と話してしまってごめんなさいというように首を傾げると、座長はどこか途方に暮れたような顔をしていた。
「君の言うことはなんだかよくわかるような気がする。そんな風に思うときが、僕にもあるような気がする。でも僕は……」
困ったなぁ、と独り言を言って、座長は力なく針子の隣に腰を下ろす。
それから二人は言葉を交わすこともなく、宴会の空騒ぎを遠目に眺めながらじっと座って時を過ごした。ああ、隣にいる、と互いに思いながら、しかしけして話しかけることはなく、宴会が終わって人がいなくなるまで二人でそうしていた。
がらんとした寒々しい室内で、じっと何かを考え込んでいた座長は顔を上げて針子を見つめる。針子は視線を逸らすことなく座長に向かい合った。
「エリー、君は……」
「どうして私をエリーと呼ぶの」
「名前がない、と君が言ったからだ。名前がないのなら、僕が呼ぶ」
「でも私はエリーではないわ。ただの針子よ」
「それでも、僕が語る僕の物語の中では君はエリーなんだ。エリー、君は嫌がるかもしれないけれど、僕はやっぱり魔女の革命劇を書くよ。……そうして、できることなら、君にその衣装を作ってもらいたいと、そう思っている」
「なぜ私なの」
「なぜかな。わからない」
寂しそうに呟いて目を閉じると、座長はそのまま眠ってしまった。
針子は立ち上がり、乱れた室内を簡単に片づけ、冷たい水を一口含み、手帳に“座長は私がエリーだという”と書きつけた。それからもう一度部屋をぐるりと見渡してみて、眠りこけている座長に暖かな毛布を掛け、夢を語って眠りにつく人が風邪をひかなければいい、と思った。
◇
姫は真紅のお茶を飲む。その透き通る喉を擦り抜けて血の巡るようにそっと、お茶の真紅が姫の身体を染めていく。
窓辺の椅子に座って城下を眺めながら姫は穏やかな夕暮れを過ごしている。聖旨文様で縁取られた陶磁器のカップに唇を寄せ、ほうと一息ついて目を閉じる。長い息を吐き出し、静かに肩を震わせ、カップを窓辺に置く。浸した檸檬が夕焼けに染まる。お茶と夕焼けの違いはあれど檸檬と等しく紅に色づいて姫は、たった一人の友を亡くして過ごすこの午後に瞑目する。
姫は逡巡するように僅かに唇の端を曲げる。それから「さ……」と言いかけ、馬鹿馬鹿しそうに首を振る。はは、と軽く笑い、ふっと息を吸ったかと思うと何気ない様子を殊更に装って目線を窓の外に向ける。
さみしい、と姫は言う。
口に出したその言葉はどこまでも軽く、姫は少し驚いてしまう。この身に秘めた孤独の寒さその軽さ。囁く孤独はしかし自分自身を確立してはくれない。
「何もかもが嘘のようだ」
お茶を再び口に運ぶと姫は侍女を呼び、カップを下げさせる。
それから陽が暮れ夜の帳が落ちるまで姫はずっと外の世界を眺めていた。語り合う相手はいなかったしとりたててほかにやりたいと思えることもなく、ただじっと気怠そうに目を細め、無意味に滅びていく彼女の国を見下ろし続けた。
孤独を託ち姫は佇む。訪なう者のない室内に一人座り込み、滅びゆく国の景色を眺めている。いつか滅んでいくものの今あるその形を美しいと思い、或いは滅ぶこと移ろいゆくことそのものを慈しみ見守ることができるなら、その生を幸いと呼ぶのかもしれない。けれども時の流れの前ではこの世の全ては消え失せ色褪せてしまう。過去になって、物語になってしまう。いつか失われることを前提に輝く玉石を手に入れたとして、そんなものを首からぶら下げたところで何になろうか。時の流れを美しいと言い世界を見続けた邪眼の魔女は死に、形をもたぬ罔象の姫君だけがこうして一人あり続けている。
姫はほうとため息をつく。そうして倦怠に浸っているといつものように二号が尋ねてくる。
「あなたを救いたい」と二号はまた馬鹿なことを言う。
「あなたが望むことは何ですか、やりたいことはありますか」
言われて姫は考える。しみじみと口をついて出るその言葉は曰く、
「私は今、どうやって死んでいくかを考えている」
「死んではいけません」
「そら、また人形の言葉がでたぞ二号。何の考えもなしに死んではいけないなどと軽々しく口にするな」
「理由ならあります。あなたが死んではいけないのは、そうすると私が寂しいからです」
「そうか」姫は納得したように頷く。「すまなかった。今の言葉は取り消そう」
「もし私が齢十の年端もゆかぬ乙女だとして、その私が死にたいと願ったとしたらそれはきっと生きるべきだろう。仮にその乙女がどれほど絶望し死を望んでいたとしても、物語の中の一般的な意見として死は否定される。しかし二号、私は千年生きたのだ。私は自分自身でやりたいことをやり、自分の人生に満足している。だとするならば死にたいという願いは尊重されてしかるべきなのではないかな。人間が百年生きたのならそれはもうよく生きたと言っていい、大往生、大団円というものだろう。お前は百年生きた老婆にもっと生きろまだまだ生きろと強いるのか? 百十年、百二十年と時が過ぎ、二百三百と数を重ねて生き永らえたとしても、それでも人は生き続けるべきなのか?」
「あなたは老婆ではありません」
「本当にそうか?」
姫は痘痕だらけの醜い老婆に姿を変える。しわがれ声で姫は囁く。
「生きるべきか死ぬべきか、姿形がそれを決めるのか? 若々しい姿をもっていれば人は生き続けるべきなのか。私の本当の姿はこの老婆なのかもしれないぞ。年老いた醜い魔女が時を取り繕って姫の姿をしているだけなのかもしれないではないか」
「でも」
「でも、なんだ」
「わかりません。けれど……あなたが死ぬのはおかしい、そんな気がするのです」
「そんな気、か。その言葉を口にするお前はなぜ今もなお人形なのだろうな。もしかしたら、私とお前はどこか似ているのかも知れん。お前が人形だと言い張るのも、私が死のうとしているのも、きっと訳のわからない感傷に曳かれたためだろう」
「死なないでください」
「それ以上の言葉はないのか二号? なぜ死なないで欲しいのか、生きることに何の利があるのか、そんなことさえ語らずに要求ばかりを押し付けるな。鬱陶しい。生きているものはいつか死ぬ。それは当り前のことで、そうであるのならば自分がどのように死ぬのかを考えることもまたごく自然なことだろう」
そういって姫はつかつかと二号に歩み寄り、その頬にそっと手を差し伸べる。
「さあ、出ていけ二号。今日の私はさみしがるのに忙しい」
追い出された二号はとぼとぼと城を後にし、残された姫はぼんやりと窓の景色を眺めづける。
◇
やがて団長は針子の部屋へ通い脚本を書くようになる。針子は追い出さない。
「あなたは私をなんだと思っているの」とある日針子は言った。
「なんだい急に?」
「だってあなたは私のことを勝手にエリーと呼ぶし、いつも私の所に来てはうんうん唸って芝居の脚本を書いているでしょう」針子は淡々と呟く。「私にはそれがわからないの」
「迷惑だったなら帰るよ」と恐る恐る団長は言う。
「そういうことではないの。私はただ……」針子は俯く。「あなたにとって私は何?」
「君は僕にとって」団長は口ごもる。「その……不思議な人だよ」
会話は終わり団長は帰る。一人になった針子は「私は何?」と囁いている。
団長は魔女の物語を書いている。針子は横からそっと眺め、時折口を出していく。団長は嫌がらない。
「あなたが描く魔女は」と針子は言う。「なぜこの国を支配しているの? 子供の頃はどんな人間でなぜ魔女になったの」
「うーん」団長は考える。「彼女は幼いころとても貧しく、奴隷のような生活をしていた。何かにびくびくと怯えているばかりでちっとも自分のやりたいことができなかった。だから力が欲しい、と思ったんだ」
そう、と針子は言う。団長は物語を進める。それを読んだ針子が疑問に思ったことを口に出す。団長はそれに答える形で物語を書き加えていく。
やがて物語は魔女の娘に言及する。
「ここで魔女の娘である姫が登場する。この姫もまた魔女で、母と同じようにその狂った心でこの国を支配している……」
「なぜ姫は魔女になったの?」
「そりゃあ、家族だからだよ。親が魔女だったからお姫様も魔女になったんだ。魔女は王を好きなように操っているけれど姫は自分の娘だからね。当たり前だけど娘を愛していた。そして娘も母親を愛していた」
「どうして? 魔女が自分の母親と言うのなら王様は自分の父親なのでしょう? その父親を好きに操られて、姫は王妃を憎むことがなかったの?」
「うーん」団長は唸る。「じゃあこうしよう。姫は母親を愛してはいたけれども同時に憎んでもいた。愛憎半ばの姫君は魔女である母を愛するにも憎むにも、魔女の力が必要だと考えた。魔女として母を受け継ぐか、姫として王を守り母を殺すのか、どちらにしても自らの望みを通すには力が必要だった……」
「それで姫はどうなるの」
「姫は王妃と同じようになってしまう。操られた父親と、狂った母親に育てられた彼女はどうしても母親の考え方に染まってしまった。あるいは父親のように洗脳されているのかもしれない。姫は王妃の望むままに民を苦しめ続ける」
団長は物語を書く。針子の言葉から着想を得た彼は物語を次第に深めていく。
──今夜八歳になるお姫様に名前はなく、ただ姫とだけ呼ばれている。だから姫に付き従う十四人の侍女たちは口々に「ひめさま」「ひめさま」と心配そうに囁きながら、損壊した人形を抱える姫を見守っている。姫はやがて女王となり太后となり死ぬその瞬間まで名前はなく、死んでから後にその功績を讃える諡号がようやく与えられる。必要なのは権威と役職、その形であって、個人の名前ではない。彼女は死ぬまで名前を持たない。
魔女の娘として生まれた姫は王妃によって粘体と造り替えられる。自らの望むように姿を変えるその力を与えられた姫は、自分は一体に何になるべきなのか、と考える。
嵐の夜、雷は鼓動のように鳴り響く。心音雷雨の切り裂く最中、スライムの姫は化け物と間違えられ兵士に襲われる。錆の剣で体を貫かれ子宮を縫いとめられて、姫はとうとう彼女自身の姿を変えた。
「なりたいの」と姫は言う。少女の姿を脱ぎ捨て、女へと変身を遂げる……。
真剣な顔で脚本を読んでいた針子はふと首をかしげ「姫は何になりたかったの」と尋ねる。
「そこはほら、台詞にもあるだろう。“私は幸福になりたいの”」
「姫は何になったの」
「魔女だよ。母親のように、自分のやりたいように生きる力を持つ存在、魔女になったんだ」
「そう」と針子は言う。物語は続く。続けられた物語にはたくさんの想いが込められ、やがて物語は完成し戯曲は上演される。
◇
針子はある時恋をする。
朝起きて針子はまず枕元に置いたメモ蝶をめくって中を確認する。一番新しい書き込みにはこう書かれている。私は恋をした。それを見て針子は、そうか、私は恋をしたのか、と思う。なぜならそのメモ蝶は彼女自身の物語だからである。
針子は恋をする。相手は団長である。最近針子の家によく来るようになった団長は魔女の脚本を書いている。針子が疑問を口に出すと団長は時折甘っちょろいことを言って物語を作り変えてしまう。
「なぜ姫は魔女になるの」
「愛だよ」と団長は言う。「やっぱり姫は母を愛している。だから、結局は母と同じようになってしまうんだろうね」
「そう」と針子は言う。「それもいいわね」
魔女を糾弾する物語を書くと宣言したにも関わらず、針子の横やりにいちいち付きあっている内に団長の物語は愛やら恋やらで満たされていく。
「どうするの」隣でぐっすりと眠りこんだ団長を見下ろして針子はぽつりと言う。「あなた、少し馬鹿なのかもしれないわよ」
不安になって口に出すことが増えてくる。王妃はもっと邪悪に描いた方がいい。姫もそう。王宮の腐敗を暴くためのお芝居なのに、同情されような要素を入れてどうするの。もういっそお姫さまは魔女になるときに人間の一人や二人殺してしまうくらいの方が良いのではないの?
「そうかもしれない。でも、これは君が言ったことだよ」と団長は意外に力強い口調で答える。「どんな人間にも物語がある。魔女やその娘にも人生がある。なぜ彼女たちがそうなってしまったのか、理由を考えることもできると」
そう言う団長の眼は針子のよく知るあの眼、理想を胸に抱く男の確信に満ちたあの瞳以外のなにものでもなく、針子はもう何も言えなくなってしまってほんの僅かに拗ねる。
物語が愛に彩られる。魔女の人生が愛によって語られていく。あい、と針子は言う。家に残って一人、針子は愛と言ってへらへら笑い、愛と言って静かに涙を零したりする。物語は続く。姫は魔女になり、王妃と共に千年を生きる。
王妃と姫は幸せそうに笑い合って物語は幕を閉じる。楽しいわね。ええ、そうね。
「王妃の悪行が糾弾されるのではなかったの?」
不満げに口をとがらせると団長は珍しく嗜めるように言う。
「物語の中で、王妃がいかに邪悪な存在かはちゃんと表現されているじゃないか。結末として、たとえば王妃が裁かれ、殺されるような場面まで描く必要はないと思ったんだ。僕の芝居を見て、それからどう行動するかは見ている人の自由だよ」
物語が完成する。芝居の稽古が始まり、団長の檄が飛ぶ。針子は永遠の衣装を考えがどうしても思いつかない。悩みに悩んだ末彼女は透けるほど薄い白絹が波打つ外套を仕立てあげるが、それは納得のいくものではなく悔しそうに目を伏せて針子は言う。ごめんなさい。私の力不足ね。
団長は針子が悲しそうにしているのを見て、自分も泣き出しそうに悲しそうに顔を歪めるが懸命に堪え、なんとか威厳を取り繕って「わかった」と頷いた。
冬の初め、雪の融け行く路地にガスの灯かりがほんのりともる。夜の闇に一際明るく煌々と光を放ちそびえ立つ赤煉瓦の劇場で芝居は披露される。一人の少女が魔女となり、王と出会い、后として王宮に潜り込む。邪悪の限りを尽くし、王を操り、生んだばかりの娘さえも魔女として育て上げ、あらゆる富を貪り尽くして千年生きる。
上演は大失敗に終わる。俳優たちの演技、衣装、演出、そして脚本すべてが酷評される。新聞記事では「見るも堪えない駄作」と評され、劇団関係者たちは失意に暮れた。
「僕のやってきたことは間違いだったのかな」ぽつりと団長は言う。「いいや。それでも」
長い冬が終わり、春が訪れる。落ち込んでいる団長を見兼ねてか、ある日突然針子は「お姫様があなたに会いたいとおっしゃっているわ」と告げる。団長は言う。「はあ?」
わけもわからず針子に手を引かれ城へとやってきた二人は、しかし衛兵に咎められることもなく易々と国の中心へと足を踏み入れる。
「どういうことなんだ?」団長が言うと、針子は平然とした顔で「だから言ったでしょう」と答え、見知ったようにするすると城を進んでいく。
「この国のお姫様が、あなたに会いたいとおっしゃっているの」
「いや、それは聞いたけれども……」
緊張に汗を垂らしながら団長の口数が増える。「なぜ僕なんだ」「君は姫様の知り合いなのか」「あの芝居の作者として彼女に会うのは、実に、気まずい」
針子は素知らぬ顔で「あなたは何も心配することなんてないのよ」と言う。「姫があなたを傷つけるようなことは絶対にないのだから」「なぜそう言い切れるんだね」「なぜなら……」
そう言いかけた所でおつきの侍女が二人を呼びに来る。二人は玉座の間へと向かう。
「どうしてこんなに人がいないんだろう?」団長は訝しむ。「仮にも王宮だのに、近衛の一人もいない」
玉座の間、絢爛豪華の室内にぽつり、寂しい玉座が鎮座している。奥から現れた姫君は柔らかな手つきで玉座の背をなぜ、そのままするりと座り込む。団長の顔が引き攣る。
「よく来てくれた」
慌てて跪く団長を針子は背後から静かに眺めている。慌てて団長は「君も跪きたまえ」と針子の手を引く。針子がちらと姫の顔色を窺うと姫は扇子で口元を隠して微笑んでいる。針子は団長に従い膝をつく。「あなたは魔女たちを糾弾すると言っていたのに。権威に怯えているの?」と囁く。「そういう問題じゃあない。憎むべき相手だからと言って礼を失していいというわけじゃないだろう」
「面をあげよ」
「は」
尊大な態度で姫は団長に他愛のない質問を重ねていく。居心地悪そうに団長が答えていくと、やがて姫はこう尋ねる。「どうした。先ほどから様子がおかしいが」
団長は一瞬救われたようにぱっと顔を輝かせたがすぐに眦を下げひどく言いにくそうに口籠った挙句「恐れながら姫様……」と口火を切った。
「あなた様が座っておられる場所は、その、王の……」
言葉を濁す団長に姫はん?と首を傾げ、それから少女のように爽やかな笑い声をあげる。
「これは異なことを聞くものだ。あなたはもうその答えを知っているはずだ」
「と、仰いますと……」
「王は既にして魔女に操られていると、そう書いたのはあなただろう」
「では、やはり」団長は息を止める。「姫さまは真実を暴こうとする私を亡き者にせんとこの場に呼び寄せたのですね」
じりと後ずさる団長の裾を針子はちまと掴む。
「いいえ。その逆よ」
「逆?」
「あなたに一つ頼みたいことがあるのだ、団長」
「一体何だというのです」
「それは……」
姫は静かに目を細める。
真実を暴いて欲しい、と姫は言った。
「私にできることであればできる限りの支援を行おう。その代わりに、団長。あなたにはあの戯曲を再演してもらいたい。王宮の腐敗を暴くあの物語をな」
「なぜ……ですか?」
「なぜ? そんな言葉が必要か? 私はあのお芝居が気に入った。それだけでは足りないだろうか」
「私にはわかりません姫様。なぜあなたが私を援助して下さろうとしているのか。あなたがなぜあなたとあなたの母君の魔女を暴こうとしているのか。あなたにはそのような理由がないはずです」
「いいや理由はあるのだ」と姫は答える。
「その理由とは?」
姫は穏やかにほほえんで言う。
「あなたを愛しているからだ」
「あい?」愕然と団長は繰り返す。
「しかし私とあなたは面識もない、ただの他人のはずですが」
「愛に理由などないさ」
こともなげに言って姫は笑う。
「私はあなたの力になれると思う。なぜ、と言ってあなたが疑問に感じるのなら、私はこう答えよう。これはあなたの物語なのだと」
「物語……」
「〝姫は母親を愛してはいたけれども同時に憎んでもいた。愛憎半ばの姫君は魔女である母を愛するにも憎むにも、魔女の力が必要だと考えた。魔女として母を受け継ぐか、姫として王を守り母を殺すのか、どちらにしても自らの望みを通すには力が必要だった……〟。
それが物語のはず」
そこで姫は可愛らしい声で首を傾げる。
「物語を書いてください。団長。邪悪な魔女を糾弾する正義の戯曲を。人々の意識を啓蒙したい、自分の形を残したいと言ったのはあなたではありませんか? 私はあなたの願いを叶えたいのです。どうかこの手を取ってください」
「できません」
「なぜ」
「私は物語を考えました。魔女を、その娘を考えました。彼女たちが何を考え、なぜ魔女になったのか。私は私の納得できる物語しか書けません。悪い魔女がいた。罰されて死んだ。そんな物語を私は信じません。第一、本当かどうかはともかくとしてあなたはこの私を愛していると仰っている。そんんなあなたの母親を悪として素知らぬ顔で団長を演じることはできません」
「私はあなたのそういう甘いところが好きだ」
からかわれていると思ったのか団長は顔面を朱に染める。
「どちらにしても、私にはあなたの要望に応えることができません。私は……」団長はおずおずと針子の肩に手を置く。「彼女のことを愛しているからです」
意を決して告げた団長は針子の様子を窺うが、彼女は何一つ表情を変えない。
「エリー?」
戸惑っていると姫はからからと音を立てて笑う。
「ならば何も問題はない。私たちは相思相愛というわけだ」
「なんですって?」
姫の言葉を訝しむ団長。
「僕は彼女が……」
すると不意に針子はつと背伸びをして団長の口元にそっと唇を寄せる。
「こんな時に何をするんだエリー」声を上ずらせて針子を押しのける団長だが、針子がいつになく真剣な眼をしているのを見てはっとする。
針子は恋をする。恋をしている。「目を閉じて」と針子は言って懸命な伸びと共に口づけを交わす。途端、思考に靄がかかったようにぼんやりとして、団長は目を閉じる。
愛の言葉は舌から生まれ、舌の舞踏によって記述される。口内で蠢く舌と舌。言葉が物語を紡ぐように、絡み合う唇のさなかで物語が増殖する。針子の技巧になすすべもなく男は翻弄されていく。口の中で舌が閃くたび物語は夢幻として歪曲し反響し、淫らに爛れた頬肉をこそげ取っては獣のように啜って見せる。
眼を閉じて唇だけで繋がる世界には人間の顔も形もなく、獣の言語としての喘ぎ声、音と舌の感触だけが全てになる。魔女の口づけには視覚がない。
愛しい人との接吻に快楽を覚え、男は法悦に唸り我を忘れる。「愛してる」とその言葉で男は口づけを飾り「愛してる」その言葉で女が押韻する。愛をしている。恋をし、愛をしながら針子の唱える呪文にはそして、「時よ止まれ」という文言が含まれる。「ねぇ」「なんだい」「キスをして幸せ?」「ああ」「そう」「もちろんだよ」舌を絡ませながら銀色の唾で互いを繋いで言葉を震わせ男と女は声を合わせとうとう約束の言葉を口にすることになる。ああ幸せだこの幸福が永遠に続けばいいこの瞬間が永遠になればいい。
「時が止まればいいのに」喘ぎながら針子が言う。
「時が止まればいいのに」喘ぎながら団長が言う。
故に粘体の姫は底知れぬ笑みを浮かべ「時よ止まれ」と密かに囁く。
時よ止まれ、と姫は言った。すると時が止まった。
長い長いキスを終え、ようやく団長が目を開けるといつの間にか町の中に立っている。目の前の針子は変わらないものの辺りの景色は一変しており、団長は烈しい混乱に襲われる。姫はどこにいってしまったのだろう? きょろきょろと辺りを見回すがどこにも姿は見えない。
町は静寂に満ちていた。
町を行く人々は足を止め、瞬きすらせず凍れる彫像と化している。触ってもぴくりとも動かない。心臓の鼓動が聞こえないことに気づいて、団長は思わずぞっとした。
「どうしたんだ、みんな? 何が起こっているんだ?」
思わず口にする団長にあくまで冷静な針子は、心配しないで、と優しく諭す。異常な状況に平然としている針子に団長はふと恐怖にかられ大声で叫びながら走り出す。
「おおい、だれかいないのか! 誰か!」
けれども答えるものはいない。人は皆固まっている。途方に暮れた団長がこれは一体なんなんだと呟くとまた針子が答えを提示する。
「これは永遠よ」
「永遠?」
「あなたが私を愛してくれるのなら私はあなたに永遠をあげられるわ。時の進むことのない世界、なにも変わることのない世界。あなたの望むことなら、私なんだってしてあげるわ」
「エリー」団長はごくりと唾を飲み込む。
「君は一体なんなんだ……?」
針子は苦笑いするように目尻に皺を寄せ、再び団長にキスをする。すると団長の目の前で針子はぶよぶよと姿を流動させ、姫になる。慌てて団長は飛び退く。
「物語を思い出してみるといい」
姫は言う。
「姫は粘体でできている。姿を自由に変えることができる。それが魔女としての力なのだと。姫も、あなたの愛したエリーという針子も、そしてこうして凍り付いている人々もみな私が姿を変えて演じていたのだ」
「では、では私が愛した彼女は一体何だったのですか。私ははじめからありもしない虚像を見てすてきだ可憐だなどと馬鹿みたいに繰り返していたのですか」
団長は短く唸る。
「さぞ滑稽だったでしょうね! あなたの演技に騙されているとも知らず、暢気に愛だの恋だのと呟いていた僕はまさに道化そのものというわけだ」
寂しそうに団長は言う
「僕をずっと騙していたのかい、エリー?」
エリーと呼ばれたことにわずかな笑みを浮かべ、姫はさっと真っ二つに分かたれ、元々の姫とそして団長の愛する針子の姿に分裂する。
「あなたが愛したのは彼女の形? それとも彼女の言葉? エリーの姿をしてエリーのような話し方をすればそれが命の証明になるの? .姫の姿で針子の台詞を喋り、あるいは針子の姿で姫の台詞を口にすればあなたを騙していたことになるの?」
「でも君は姫なんだろう!」
「たとえばね」針子はそっと囁く。「誰にだって自分を偽るときがあるでしょう。好きな人に好きになってもらうために化粧をして髪型を変えて、話し方を明るくしたり振る舞いに気を使ったり、恋人たちが交わすそんな工夫をあなたは嘘というのかしら」
「だって君と姫とはまるで全然違うものじゃないか」
「どう違うの」
「どうって」
「あなたが好きだと言ってくれたのは形それとも言葉? あなたがつけてくれたエリーという名前だけが私のすべてなの? 本当の私、だなんて、そんなものどこにもいやしないのでしょうけれど、でもきっと針子の姿をしてあなたの側にいても、姫として魔女のように玉座に君臨しても、私にはそのどちらも私なの。どこからどこまでが同じで、どこからどこまでが違うというの? 恋として愛として許される芝居の境界線はどこにあるの?」
針子は真剣な目をして団長を見つめる。
「愛はあるの。それが物語だろうとなんだろうと、愛はここにあるの」
「僕には無理だよ」
俯く団長に針子はそうとだけ悲しくいって、丁度涙を振り払うように頭を振って姫の元へとぼとぼと歩き出す。
「エリー?」声をかける団長。しかし針子は振り返らず姫の体に倒れ込むように沈んでいき、消えてしまう。
団長は頭をかきむしる。
「僕は一体どうすれば良かったんだ。なにも見なかった振りをしてのほほんと彼女と生きていけばいいのか。それでも構わないといってエリーの手を取って逃げ出せば良かったのか。そんなことはできない!」
「〝いいや理由はあるのだ〟私はそう言ったろう」姫は言う。「なぜなら私はずっとあなたを騙していたのだから。あなたを裏切り、欺き、いいように操ろうとしていたのだから。あなたには魔女の邪悪を暴き立てる権利と憎悪がある」
団長は呆然と後ずさった。助けを求めるように周囲を見回すと、人間たちは相変わらず凍り付いたように動きを止めていた。人間はみな人間の形をしていた。それ以上でも以下でもなかった。息はしていなかった。心臓は鼓動を止めていた。
それは世界という名の舞台だった。




