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等号前夜  作者: おめかけ
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第四夜 夢とは言わない③

 不思議のように恋をして、孤軽は男に懸想する。いや、男、ではない。かといって女なのかといえばそうでもない。実のところ、孤軽は二号の性別を知らない。

 たとえば姫が戯れに開いた園遊会で、孤軽は卓から離れ、木陰にもたれて涼を取っている。この邪眼のまま給仕をするわけにもいかない。賑やかな会話に背を向け、人のいない森の奥深くに目を向け、穏やかな風が木々を揺らすのを眺めている。

 孤軽はその足元に二号が寝転んでいることなどは露とも知らない。姫に拾われてきた二号が道化として庭で飼われ、虚ろな眼に世界を写していることなど知りもしない。

 ただ孤軽は森を視ていた。美しいと思った。美しいというその言葉を何度思ったことだろう、その言葉が百年たって百度繰り返されたとしても、その言葉の指す光景、孤軽の視界に広がる様々な形は同じではないはずで、だから孤軽はいつものように満足げに微笑んで暖かな吐息を吐き出す。息をついて、世界に満足して、そして足元の道化に蹴躓いてよろめいて尻餅をついて、慌てて手をつき何かに寄りかかりもたれ掛ってほっと一息をついたその瞬間に、目と、目が、逢う。

 もちろん孤軽は顔を背け立ち上がる。僅かな落胆と倦怠感。どうせまた死ぬのだろう。この目を見たものはみな寂しい寂しいと言って馬鹿みたいに涙を零して死んでしまう。

 ──死ぬのなら、死ねばいいだろう。

 ふう、とため息をつき、孤軽は片手でこめかみを抑える。それからもう一度、時間をかけて長く息を吐き出し、背筋を少しだけ反らせる。そのまま身じろぎもせず足元の人間が泣き叫んで死に出すのをずっと待っていると、不意に声を掛けられて死ぬほど驚いた。

 大事ありませんか。

 低く乾いた声だった。舌をもつれさせながら大丈夫ですと答えると、感情の薄い声色でそれは良かったと道化が喋る。孤軽は耳を疑った。目が合ったと思うのは勘違いだったのだろうか。それとも、視線を交わしたのが一瞬だったのでこの目の呪いが発現しなかったのだろうか。孤軽はじっと考えた。考えている内になぜだか胸が熱くなって体が震えた。

「どうしよう」

 思わず胸に両手を当てて鼓動を確かめてしまう。心臓は強く、しかしゆっくりと鳴っている。どうも生きている。

 二号はあれから何も言わず黙ったまま地に伏している。こんなところで何をしているのか、生きるでも死ぬでもなく、自然に取り巻かれるまま寝転んでいる。

 今日はいい天気ですね。気が付くと孤軽はそんなことを口走っていた。自分でも思った以上に動揺しているのかもしれない。口から零れ落ちた言葉を後悔してもごもごしていると、二号は先ほどと同じように穏やかな調子で返答する。そうですね。

 感情の遠い茫洋とした声だった。無気力で投げやりではあるが押しつけがましいところがない。その声を聴くと孤軽は不思議に心が落ち着くのを感じた。

 それから二人はしばらくありふれた会話をして時を過ごした。天気の話、季節の話、なんてことのないどうでもいい話題だった。晴れていると景色も綺麗に見えますね。孤軽は言った。そうですね。静かに二号は答えた。



 ところで二号には胸がある。胸があるのならばとりあえず女だということにしていいのかもしれない。胸が膨らんでいて男性器を備えていないのならば、その形はおおむね女と呼べるだろう。二号は女のような形をしている。服装に無頓着でいつも襤褸を纏ったまま城の庭を徘徊しているが、まともなものを着ればそれなりの娘に見える筈である。むしろ見えなければおかしい。何故ならばその姿こそはまさに二号がかつて出合った人間女性そのものだからだ。たとえ内部にどれだけの鋼鉄線が張り巡らされていようと、胸の奥深くで臓器時計がこちこちと時を刻んでいようと、外側に現れる姿は確かに人間の形をしている。

 二号は人形兵士である。人形兵士であった。戦え、と言われ戦い、たくさんの人を殺してきた。この世のあらゆる人間を滅ぼしてしまえと命じられたこともあったかもしれない。少なくとも、戦うために作られたことは間違いがない。そんな記憶がある。

 二号の記憶はぼんやりとしていて上手く昔のことを思い出せないことが多い。戦えと言われたことは間違いないのだが誰に言われたのかはわからないし、また別の誰かには人間になれと命令されていたような気もする。人間になりなさい、と誰かが言ったような気がする。それはたぶん何かの命令だったに違いないのだが、しかしその人は人間になれと二号に言ってくれたのだ。誰だか知らないがありがたいことだ。二号は今やすっかり人間になりたがっている。なぜかと言えば、要するに、二号は人付きあいが下手だったのだ。人形だから仕方がない。二号は人間になろうと人の真似をしている内に何人かの少女と出会ったがみんな死んでしまった。それで悲しいと思った二号はその人たちの死体をばりばりと食べ、よく噛みよく飲んで吸収し自分の身体に造り替えて生きることにした。

 人間になりたいと二号は思う。どんな人間になりたいのかと問われれば、それはもちろん死んでしまった少女になりたいのである。どうせ人間になるのなら、生きることのできなかった彼女たちがもう一度生き返ればいいとそう思うのである。

 スライムの姫に拾われてからというもの、二号は何もせずにぶらぶらしていた。人間になりたいと思っていたのだが、お姫様に「お前は人間だ」と言われてしまったのでどうすればいいのか分からなくなってしまったのだ。

「人の形をして人の言葉を喋っているのなら、それはもう人間でいいだろう」

 姫はそう言って二号の頭を撫で、おめでとうと祝福さえしてくれた。二号は人間と認められた。長年の願いは叶えられた。

 ……だというのに何故だろう、自分が人間になったという気がいまひとつ持てない。人間であるという確信がどうしようもなく欠けている。

 人間とは一体何か。そんなことを今更のように考える。二号にとっての人間とは少女である。美しく、儚く、そして邪悪な乙女。

 姿形は紛れもなく少女の形をしている。これ以上は望むべくもない。言葉や立ち振る舞いにしても何百年も模倣を続けていた二号としてもそれなりに自信がある。人間らしくしていようと思えばできなくはないはずだ。

 けれどもいま一歩、命の証明としては何かが足りない。自分は確かに人間だと言い切るだけの根拠が二号には乏しい。

 人間とは何か。二号は夢を見るように考え続けている。日がな一日城の庭を転がってああでもないこうでもないと考察して、虚ろな眼に空を映しているとある日乙女が彼に蹴躓いて尻餅をついた。

 あまり関わらないでほしいな、と二号は思った。

 けれども事態は大抵の場合望まぬ方向に進むもので、尻餅をついた乙女略して尻餅はことあるごとに話しかけてくるようになった。姫付きの侍女だというのに、実は暇なのだろうか。

 尻餅は天気の話ばかりした。今日は晴れですね。明日も晴れるでしょうか。明後日には雨が降るかもしれませんね。

 そうかもしれないし、そうではないかもしれない。どちらにしろ二号としてはそうですねとかわかりませんぐらいのことしか言えない。それほど多くはない二号の人生経験から鑑みても面白い会話とはいえない。というのに、尻餅は来る日も来る日も二号の寝る木陰を訪れてはおずおずと話しかけることをやめようとはしない。二号は自惚れの強い方ではないのだが、どうもこの女は自分を好いているらしい。難儀なことだ。二号は別に尻餅のことがとりたてて好きではない。

 別に好きではないのだが、二号は尻餅の名前が気になっている。二号は人と出会った時まず名前を聞くことにしている。名前がわからない場合は外見や特徴などから適当な呼び名を付けているが、なるたけちゃんとした名前を尋ねて記憶している。二度目にあった時に尻餅の名前をきちんと聞いたのだが尻餅はもじもじして顔を赤らめるばかりで教えてくれなかった。仕方がないのであなたとかあの、と呼びかけることにしてはいるものの心の中ではいまだに尻餅は尻餅のままで名前がない。二号は尻餅の名前が知りたい。

 尻餅は相変わらず天気の話ばかりしている。二号はそうですねそうですねと頷きながらもう一度名前を聞く機会を伺っている。

 名前を聞いたら尻餅はきっと喜ぶだろうと思う。そういう人だ。年齢は知らないが、どことなく世間知らずでうぶな印象を受ける。こちらが興味を示していることを知ればうれしく思うだろうし、今まで以上に二号を好きになってくれるかもしれない。恐ろしい。二号と触れ合った魔女たちはみんな死んでしまうのだ。嫌われていた方が気が楽だ。人形を愛してしまった乙女を救ってやることなど人形にはできない。何を言うべきなのかわからない。だから関わらないでほしい。しかし名前は聞きたい。二号は大変混乱して尻餅が近寄ってくるたびに緊張するようになってきた。

 あっちに行け、と言った方がいいのかもしれない。しかしそう言ってもし尻餅が悲しんで世を儚み、死んでしまったら困る。なるべく当たり障りのないよう、傷つけないように気を使って返答してはいるものの、乙女というのは案外気が付いたら絶望しているものなので油断できないのだ。といって、あまり優しくしすぎて愛されでもしたらそれこそどうしようもない。愛に応えることはできないのだから。

 天気についての会話は一年続いた。朝、姫の身支度を終えると尻餅は庭へとやってきて二号の隣に腰を下ろす。それからしばらく深呼吸をしてから意を決したように、今日は、晴れると思うのです、と静かに告げる。二号がちらと空を仰ぎ、そうですねと答えると尻餅は満足げに微笑んでそれきり何も言わずにこにこしている。それ以上の会話の必要を感じていないのかもしれない。二号の傍にいるだけで満足だとでも言いたげに満ち足りた顔で目を閉じている。なんて馬鹿な女だろうか。二号は次第に尻餅がかわいそうになってきた。何かほかにやりたいことはないのかと思う。夢や願い、生きる目標というものはないのか。自分の傍などで時間を潰して、この女の人生は本当にそれでいいのだろうか。二号はとうとう尻餅の名前を聞いた。尻餅は咲き誇るように笑い、私の名前は孤軽です、と静かに答えた。記憶が疼いた。この微笑みをどこかで見たような気がする。こんなことが前にもあった、そんな既視感が拭いきれない。恋する乙女の微笑をかつて二号は見た筈で、その顔がやがては醜く歪み死んでいくのを知っている。自分に近づく女はみんな死んでしまう。

 それでも二号は言葉を重ね、乙女との問答を再び始める。

 孤軽さん。

 はい。

 あなたは日がな一日私の隣にいていつもにこにこしている。それは悪いことではないし、楽しそうに笑っていられるということは幸せだと私は思います。ですが、ほかに何かやりたいことはないのですか?

 ありません。

 本当に?

 本当に。

 そこで孤軽は少し首を傾げ、言葉を選ぶようにゆっくりと語りだした。

 やりたいことはない、と言いましたけれど、すいません、たぶんそれは間違いです。やりたいことはあります。というより、私はやりたいことしかやりません。私が望むのは、ただ、見る、ということです。だからもし、やりたいことをひとつふたつと数え上げていくのなら、あなたやほかの人から見ればやりたいことがない、少ないと思えるのかもしれません。でも見るということはそれがたとえたった一つであったとしても生きるには十分すぎるほど無限ではないでしょうか。あなたの隣にいて、空を見て木を見て視界に移るすべての色彩に目を留めていくのなら、時間はいくらでも過ぎていきますし、つまらないということもありません。私は幸せです。

 二号はまじまじと孤軽を見つめる。

 それは本当ですか?

 はい。

 生きていて自分の願いや望みがどうも叶いそうにないと知って絶望したり、むなしくなったりしませんか? 生きることを徒労のように感じたり、同じことをいつまでも繰り返しているような、何かの再現劇のように感じることはないのですか? 見るだけで十分、あなたは自分の生に満足していると?

 二号さま。

 と、孤軽は目を閉じたまま二号の手をそっと握った。

 世の中には嘘もまやかしもあります。けれども、ただ私が幸せだということ、これだけは信じてください。あなたの隣にいて私は幸福であると、それだけは疑いようのない真実であると。

 二号は戸惑い下を向いていたがやがて口ごもりながらぼそりと言った。

 ……私はあなたを尊敬します。

 二号さまは、何かやりたいことはないのですか? 

 私は人間になりたいです。

 人間になるために、まずしなければならないこと、してみたいことはありますか?

 その問いに二号はぴたりと動きを止め黙り込んだ。

 やりたいこと……。

 二号は考える。人間になりたいという願いがある。そして、自分は人間だという言葉は既に姫から得ている。しかし人間とは何かという問いに対する答えを自分は持たない。この身の形は今だ人の形のままでしかない気がする。

 人間になるためにしなければいけないこと。人間を演じて演じて演じ続け、その果てに人間そのものになること。演技の追及。人間模倣。

 自分がやりたいことについて時間をかけて考察し、見つけだした答えに二号はうっすらと微笑んで子供のようにはしゃぎだした。

 ──ああ、ありました。ありました。孤軽さん、私にもやりたいことがありました。

 それは何ですか、と孤軽が尋ねると、二号はうっとりとした声で言った。

 私は演劇をやってみたいと思います。



 こうして人形は演劇を志す。

 姫に相談してみると小さな劇団を紹介され、二号は入団試験を受けることになった。孤軽に頼み込んで慣れない化粧をし、稽古場を訪ね、団長に頭を下げる。団長はまだ若く、随分と華奢な体をした男だったが振る舞いは尊大でじろじろと二号を眺めまわしていたかと思うと矢継ぎ早に演技の注文をする。まずは笑ってみたまえ。二号は笑う。団長は唸る。二号は団長の言うとおりにした。怒りに歯を剥き出し、哀しみに顔を歪め、喜びに頬を緩める。突然知恵を与えられた猿の真似をしてみろと言われればそうしたし、空から落ちてきた鍵を拾った男の子の振りを求められればそうした。

 なかなか上手いじゃないか。団長は表情を変えずに言う。明日からここに来てくれたまえ。

 思いのほか簡単に入団が認められ、二号は喜んで劇団に通いだした。始めの一年はまだ下働きで、劇場の掃除やら俳優たちの世話やらをして過ごした。二年目は端役を与えられ、二号は小さな舞台に立った。貧しい村娘の役で、二号は通りすがる主人公とその恋人に向かってこんにちは、と言った。村娘としてそこに立っている二号に向かって、主人公とその恋人もこんにちはと言ってくれた。嬉しかった。

 周囲の人間たちはみな二号の演技を上手いねと言ってくれた。ほとんど素人という割には、まだ演劇を始めてばかりなのにそっくりだと。身に余る賛辞を与えられすっかり舞い上がった二号は孤軽と会う度に脚本の台詞を引用しふざけさえした。孤軽は笑っていた。

 小さな部屋を借りて暮らしだした。人間というものは大抵住処を持っているものだから。劇団員として給金を得ているわけではなかったが、日雇いの仕事をして家賃を稼いだ。元々人形兵士である二号には力仕事も苦にならないし、食事を必要とすることもない。質素な暮らしではあったが二号は満足していた。人に混じり、売れない女優見習いとして働くうちに次第に人間らしい振る舞いというものがわかってくる。孤軽が一緒に住みたいと言ってきたので招き入れ、手に入れた知識を総動員して接すると、孤軽はことのほか喜んで楽しそうにしている。しゃれた台詞を真似してみたり、恋人のように贈り物を渡したりもした。

 二年が経ち、三年が経った。与えられるのは相変わらず端役だけだった。二号の演技はまるで上達しない。いつまでもただ上手いというだけで、他人の借り物、誰かの真似事でしかない。変わることのないこの生き物に団長もとうとう業を煮やしたのか、声を荒げて責め立て、二号は唖然とする。

「しかし、演技というものは、その言葉のまま、演じるということではないのですか? 私はそっくりそのまま、女の通りを演じているのですよ」

 馬鹿を言え、と団長は怒鳴る。

「ただ真似て、真似きることだけが役目だというのなら、そんなもなぁ、舞台の上に鏡でも立ててどうですこれがあなたたち自身ですそっくりでしょうとぶっていればいいんだ。だが演技は、演劇は真似事でありながら真似であってはならんのだ。ただ過去を真似ることと、彷彿とさせることは全く違うことだ。過去を現在に再現する、それが演劇の機能ではあるがしかし、過去が現在になるということは、過去に現在性を与えるということなのだ。現在は否応なく生きているのだから、再現された過去もまた縦横無尽に生きていなければならない。それをなんだ。君は、あるがままの昔話を持ち出して、これが真実でございと胸を張って芝居だと言い張るつもりなのか。物語ることもない、何の解釈も演出もない、そんなものは死だ。死んで死に続ける人形の芝居だ!」

 二号は小首を傾げるとそうですねその通りですねと言ってとぼとぼとその場を去って行き、誰も後を追う者はいなかった。



 町の往来に一人立ち、空を見上げ、二号は雨を待つ。何時間も空を見上げていると何人もの人に邪魔そうな視線を向けられたので、途中からは道の脇に寄って待つことにした。

 やがて雨が降り出した。しとしとと静かに降り注ぐ水滴がぴしぴしと二号の頬を打った。滴を吸った衣服がほんの僅かに重くなり、革の靴はぐちゃぐちゃと汚らしい音を立てる。雨は世界を縦に両断する。赤煉瓦の屋根を雨粒が叩く。潮の引くような音がする。

 雨に取り巻かれた街の光景には悲愴感がある。悲しい時や苦しい時、物語や芝居ではたいてい雨が降っていたりする。自分の悩みや苦しみがこの雨に溶けて少しは人間性を帯びればいいのだが、と二号は思う。

 二号は雨に打たれる。こうして濡れ鼠になって打ちひしがれていれば俺は人間に見える筈だ。ぶつぶつと呟いて街を彷徨っていると孤軽が傘を差して迎えに来た。家に帰らないのを相当心配していたようで青白い顔をしている。傘を差す気にはなれなかったのでそのまま歩いていると、孤軽も諦めたのか傘を閉じて歩き始めた。

 雨はなおも降っている。会話が弾まないのをいいことに、二号はじろじろと無遠慮に孤軽を観察する。歩幅を揃え、腕や肩の振り具合を合わせる。呼吸のリズムを盗み、瞬きのタイミングを一致させる。それから何が足りないのかをよく考え、筋肉の動きを走査し自らに取り入れる。心臓の呼吸を制御して孤軽と一つにする。背を少し縮める。顔を孤軽にする。頭の先からつま先まで二号は孤軽になる。

 団長に言われたことをそのまま彼女に伝えてみると、孤軽はじっと俯いて心細そうに肩を震わせた。

「生きていなければいけないかしら。死んでいては駄目なのかしら。仮にそうだとして、どれだけの思いを持って生きれば誰かに生きていると認められるの。誰かに人間ですと言ってもらえて、生きることを許されるの。誰か。誰か。人生にはいつも人間がいて、他人がいて、望むと望まないとに関わらず私の視界に入ってくる。

 私はただ、変わらずにこの世界やあなたを見続けていたいのだけれど、見ること以外を望まずに気まぐれに人を殺して居続けることはいけないことかしら。あなたはあなた、でしょう。そのままのあなたでいてはだめ? 私は今のあなたを存分に人として愛するわ」

 愛すると言われ腹の底から嬉しいという気持ちが湧き上がってきたが、どうしても頷くことはできなかった。

「それでも……と思ってしまうんだ」二号は苦しそうに声を上ずらせる。「俺は人間になりたい。あなたや姫がそう言ってくれたとしても、それでも人間になりたいんだ。俺は人形で……そして、あなたたちは生まれた時から人間だったんだ」

 その言葉にこもる羨望の響きに孤軽ははっとして立ち止まる。

「あなたは」孤軽はいう。「私になりたいのね?」

「あなたがやさしいから、馬鹿ね、今までほんの少しでも、あなたが私のことを愛しているんじゃないかと思っていた。でもそうじゃないのね? あなたは私が欲しいのではなくて、私になりたいのね?」

「ああ」

「ひどい人」

「そうだ。そんなことをもう、何十回と繰り返しているような気がする。こんなことが前にあったと。すまない。我儘だということはわかっている。だがお願いだから、消えないでくれ。死なないでくれ。俺はもっとあなたといたい。恋もなく愛もなくとも、あなたをもっと見ていたい。そのためならこの身を賭してあなたを守る。戦うことも殺すこともあなたのためなら俺はできる」

「あなたは私を見ていたいと、そういうのね……」

 孤軽は嗚咽をこらえるように呻く。

「私があなたに望むことは一つしかないわ」

 懇願するように二号の胸を撫で、孤軽は言う。


 あなたの顔が見たいわ。真正面から目を見開いてあなたと向き合いたい。目と目を合わせて、言葉も要らない理解の二人に。

 そうやって出会いたいの、あなたと。横顔をこっそり覗くのでもなく、変わりばんこに目を閉じて互いの世界に登場しあうのでもなくて。

 今、この時に。同時に存在していたい。私を見てほしい。この目の奥を覗いて私という人間の隅から隅まで認識してほしい。私がここにあることを確かにしてほしい。影絵の嘘を消してほしい。輪郭に色を加えて、この肌に質感を。

一人ではないと証明して。びいどろの眼球でも焼き付ける熱があればきっとできるわ。


 構わない、と二号は言った。


 室内に涸れた花を細れる指で摘み取り、無慈悲に咥え噛みしめれば灰の味がする。いつの間に焼かれてしまったのだろう、口内でほろほろと崩れ、燃え尽きた花の命が舌の上で溶けていく。その花の名を知らず、色と形のみを花の命の記憶として留め、孤軽はほうと息をつく。

 洋燈の柔らかな光が二号の住処を茫洋と照らしている。光射す全てを秘め事にしてしまうような、淡く黄色いともしびの光が揺らぐ。影が震える。

 大海を泳ぐ鯨を殺し肉と言う肉を切り分け磨り潰し、煮え滾る窯の中で融け出したその油に火を灯す。薄暗く弱々しいその灯りを形あるものが遮り影が生まれる。灯はいついかなる時も形全てを押し潰し平面にする。情報は容赦なく削ぎ落とされ、薄っぺらな黒になる。頭が一つに体も一つ、腕と足が二本ずつ。人の形をしているものは誰もが人の影を持つ。

 孤軽はそっと火消を落とし、灯かりを消した。帰り来たる暗闇に孤軽は口づけを待つように頤を逸らせ、さあ、と懇願する。

 孤軽の前に立つ二号は孤軽そっくりの姿をして、女の顔で女の手を伸ばす。か弱い両手で孤軽の頬を挟み込み、指を髪に通す。さらさらと指の間を滑り髪は散る。二号はしっかと目を開き、ああ、と穏やかに答える。硝子の眼で孤軽を待ち受ける。

 そして闇夜に晒された乙女の邪眼にはやはり、しとしとと涼しく黒い雨が振っている。瞳に光はなく、ただ沸々とした毒が、呪いがあった。眼差しは苛烈ではなく、ただ壺の中の蠱毒のように禍々しく冷えていた。

 孤軽は二号を視た。二号もまた孤軽を視た。二人はとうとう視線を通わせ、互いに互いを認めた。孤軽は息をするのを忘れ、陶然と頬を染める。女は今初めて己の恋した者の姿を知ったのだった。愛する者の形を見て孤軽は不可思議な既視感と感動に駆られ熱く熱く吐息をついてああ、これが……と囁いてその時、不意に発条の弾けるような音がして視線のその先で二号の纏う女の肉がふっつりと分かたれる。女の記憶で取り繕ったその腕その足その顔が見る間に解れていき、後にはただ機械人形の罅割れた鋼鉄の躯体だけが覗く。

 二号は己の顔に振れそこに何の柔らかさも感じられないことを知って激しく取り乱した。慌てて再度女に形を変えようとしたがどうしても上手くいかない。自分がどんな姿になろうとしていたのか、その記憶が焦点を結ばない。

 けして忘れる筈のない記憶が、しかし二号の思考からほろほろと零れ出していく。

「嫌だ」顔を掻きむしり二号は呻く。「忘れたくない」

 白樺の皮が剥離するように二号の爪がぽろぽろと人の面相を削りとっていく。一皮剥いてまた一皮、剥がれ落ちるその中には孤軽の顔があり死霊術士の顔があり狼女の顔があった。わなわなと震える手のひらをいとも容易く擦り抜け墜落する記憶があった。忘れる筈がない忘れる筈がないのだ何故と言って。その記憶は二号にとって何よりも大切な絶望なのだから。忘れていい筈がない、許される筈がないだろう。けれども容赦なく果断なく胸に秘めたその記憶は今正に死んでいく。その確信があった。すべてを忘れたわけではない。失ったわけでもない。しかし記憶は砂時計の中に放り込まれた。さらさらと流れ落ち、いつか砂はなくなってしまうだろう。

 ──その女の眼を見ると、生きているものはみな死んでしまうのだという。

 ……二号はまた、自らの存在を静かに悔いた。悲痛に震えた。食いしばった歯が何の意味もなく砕けていく。忘れたくない、と二号は言った。何を、と尋ねる声がした。顔を上げれば、孤軽が陶酔に熱い息を吐いている。子宮を撫で上げるように胎に手を当て、ああ、ああ、とくぐもった吐息を凝らして一啼き、乙女の邪眼がぬると蠢く。

 あなたは何を忘れたの。何を忘れて、何を忘れてはいないの。あなたはまだそこにいて、忘れたことを忘れていない。存在することを忘れてはいない。あらゆるものを失い忘れて、その身の悉くを時の流れに攫われて、それでも残るものはなに。何かを忘れたということは、それ以外のすべてを覚えているということ。奪われ続け、壊し続け、忘却の果てに最後に残った一片に、あなたはどんな名前をつけるの。

 二号は答えない。孤軽はうっとりと首を傾げ、二号の頬に手を添えてその瞳を覗き込む。

「やっぱりそうなんだわ」

 孤軽はむせび泣くように背筋を震わせ、二号の身体を抱いた。

「あなたとなら生きていける。あなたとなら……」

「どうしてそう思う」

 罅割れた声で二号は尋ねる。

「この眼を見てもあなたは死なない。あなたはきっと私の運命なのよ」

「こんな姿をしていてもか」

 そういうと孤軽はあどけない仕草で不思議そうに首を傾げ、人差し指でつつと二号の輪郭をなぞる。

「どんな姿? 顔が次々に変わっていったこと? それとも、髪が無くなって体が太くなったこと? ……ねぇ、あなたが知らないのなら教えてあげる。それは時間と言うの。時が経てば何かが変わる。千年経てば千度樹は枯れ花が咲く。時の流れというのはそういうものだし、美しいと私は思うわ」

 愛しているの。孤軽は嬉しそうに囁いた。頬を染め、幼くはにかみ、身をよじる。

 愛している。けれどもその言葉の稚気に二号は混乱と苛立ちから声を強める。

「大切な人のことを忘れて生きながらえることがどうして美しい」

「……なぜそんなことを言うの」

 孤軽はきょとんとしている。

「俺はまだここにいる。これが、目と目を合わせて分かり合うということなのか。本当にこれが分かり合うということなのか。俺にはそうは思えない」

「いいえ、いいえ。そんなことはないわ」

 孤軽は不安げに目を伏せ、子供のようにいやいやをした。

「眼は口ほどにものをいう。だとしたら、あなたの言うように目と目を合わせて、今、この時に二人出逢ったとして、言語超克の視線でもって共有する思いとは一体なんだろう。口で言ってもわからず、だからこの体この形を依り代として気持ちを分け合うとしても、……本当にそんなことが可能なのだろうか」

「そうよ」

 孤軽は呻き、再び二号の瞳を覗いて懇願する。

「俺とあなたは分かり合えているのか」二号は苦痛をこらえるように声を押し殺す。「本当にこんなものが? そんな筈はないだろう」

「やめて。お願いだから……」

 孤軽は怯える指先で二号の唇をそっと塞いだ。

「言葉なんていらない。ただ形とそれを見る眼だけがあればいい」

 二号はしばらくじっとしていたが、やがて優しく手を振りほどいた。

「あなたの目は人を殺すというが、それは本当に人を殺すためのものなのか。それはもしかしたら……」

 二号はそこで視線を中空に彷徨わせる。ふと考え込み、何気なく思いついた言葉を語りだす。

「それはもしかしたら、あなたの心を伝えるためのものだったのかもしれない」

 朴訥に語りだす二号。孤軽はその一言一言に鞭で打ち据えられるように唇を噛みしめて耐える。

「寂しいというそのどうしようもなく儚い心を、他人に伝えるための眼ではなかったのか。俺は本当にあなたを理解できているのか。あなたの孤独を絶望を、心の底から理解できているのか」

「じゃあ、なに……? 死んでいった人たちはみな、私の孤独を理解して私と同じ心を持ったから、その寂しさのために死んだというの。そんな言葉を信じろと? それがあなたの言う“分かり合う”ということなの?」

 孤軽は声を引き攣らせる。

「違うわ。分かり合うことと、同じになることは等価じゃない」

「相手の視点に立って物を考えるんだ。相手の立場、相手のこころ、どう感じてどう考えるか。他者を理解するためには他者のことをしらなければ」

「そんなの嘘よ。相手の視点に立つことなんて本当にはできない。だって視界は誰にだって一つしかないもの。そんなことをしなくたって、人間は分かり合える筈よ」

「できない」

「どうして!」

「同化してしまわなければ同じ存在にはなれない。一人称から逃れられなければどんなに相手と分かり合えたと思ってもそれは不確かな想像にすぎない。演劇が演劇であり続ける限り、理解は解釈の中の物語でしかないからだ」

「物語、物語、物語……」

「物語はみんな嘘だ。なにもかもまやかしだ。語られるだけ語られて、いつかむなしく忘れられてしまう。陽炎のように……」

「でも物語は生きている。いつか忘れられるから生きているの。朽ち果てない思い出は記録でしかなくて、物語のように解釈を加えられた記憶だけが忘却を前提として今を生きている」

「死が生を証明する。そう言いたいのか。そんなことは俺にだってわかる。俺の中の記憶に君の眼が時間を与えてくれた。思い出は生きていた。だが俺はこうして今ここにいる。死ぬこともない、孤独を覚えることもない。あなたの眼を見て泣き叫びもせず、素知らぬ顔で人間ぶっていただけだ!」

 孤軽はそっと二号の胸を押して身を離した。

 長い静寂が二人の間に降りた。言葉を交わすこともなく見つめあい、結ばれることのない意思を思った。

 孤軽は自らの顔面に手を伸ばした。肉の千切れる音がした。涙の代わりに血が零れだした。孤軽はそっと笑った……。

 掌で眼球が震える。乙女の血を吸って朱く濡れ、魔女の熱を奪って燃えるように熱く、命から分かたれた眼球が虚空を見つめる。

 孤軽の眼孔にはもう何もない。ぎらと脂に光る肉だけを剥き出しに、赤黒い穴を覗かせて独り、乙女は眼を捧げ持つ。

 掌の眼球の中にはなおも雨。しとしとと降りしきる雨は黒く、焼け付く網膜の奥で海となる。黒渦を巻く海の中にぽつりと七裂の花弁が浮かんでいる。

 謎々をあなたに、と魔女は言う。すると手に持つ瞳の中で花弁が一つまた一つと分裂し増殖していく。繁殖を続ける花弁はまたそれ自体が一つの眼となり視界となり乙女の眼球を埋め尽くしていく。花弁の複眼は神話的にささやかな光を放ち、孤軽は水面を揺らす五つの問いを人形芝居の二号に投げる。

 言問いに魔女は言う。あなたは生きているのかと。二号は答える。いいや生きてはいない。また魔女は尋ねる。では死んでいるのかと。死んではいないと二号は答える。生がなければ死もなく命もない。

 心について魔女は尋ねる。わからないと二号は言う。すると魔女はふ、と息をつき、ゆっくりと言葉を紡ぐ。あなたは人間なのか。魔女は問う。人間ではない。二号は絞り出すように言う。

 魔女は責めるように二号を見て、それから意を決したようにおずおずと聞いた。

 ──あなたの形は?

 二号は黙り込んだ。答えることは簡単だったが容易に応えることができなかった。

 孤軽は躊躇を許さぬように瞳を向け、あなたはどんな形をしているの、と言葉を重ねる。

 恐ろしいほどの沈黙の後に、ぽつりと二号は言った。人間だ。

 二号は言った。くぐもった声でか細く答える。人間だ。初めて口にした言葉だった。

 人間だ。人間だ。呟くうちに言葉が胸をついて出で、いつしか声は勢いを増して唱える。人間だ。機械仕掛けの人形がいま高らかに人間だと叫ぶ。人形に差し出された乙女の小さな両手には、血に濡れる邪眼が凍みついている。


 あなたに呪いをあげる。人々が目を閉じて眠りにつく時、ほんの束の間死んでいる時、世界を見るものはいなくなる。この世の全てを輪郭にして形だけを夢見る時、あなたは人間になるの。夜の間だけ、ほんの僅かな時間だけ。その時だけはもう、人じゃないとはいわせない。……この世界を美しいと思ったの。私は。それはきっと嘘ではないの。

 私が恋した世界の夜に、いつかあなたが生きるなら。

 人形前夜のこのいろを、夢とは言わない、物語にして? お願いだから……。

 この眼だけが私を語ってくれる、この孤独を分かち合うことができるというのなら。

 ……眼が口ほどにものを言うなら、どうかこの眼を口にして。

 もっと早くあなたに出会ってていれば良かった。人間になりたいなんて思う前のあなたに。物語が始まる前のあなたに。過去が現在になればいいのに。


「ねぇ……物語が始まったとき、あなたはどこにいたの?」


 二号は眼球を喰らった。

 口づけを落とし、舌を滑らせ、思うさま眼球をしゃぶった。そうしてくれと孤軽が言うので時間をかけてよく味わった。

 泣いてはいたが、生憎の身体ゆえ涙は出なかった。

 見ているわ、と孤軽は言う。いつまでもいつまでも、私はあなたを見ていると。その言葉は呪いに違いなく、腹の中で融けていく女の眼球がじくじくと痛み出していくような気がした。眼を食べても人の姿を取り戻すことはできなかったが、それでもいいと二号は思う。今こうして自分の腕の中で力を失っていく孤軽はきっと、そんな演技を望みはすまい。

 ──女の孤独を吸って生きるのはもうやめにして、この次は孤独を捨てて生きる人の所へおゆき。

 かつて誰かがそう言った。彼女の名前を二号は知っている。どんな形をしていて、どんな喋り方をして、どう死んでいったのか知っている。

 けれども、女の正確な顔はもう上手く思い出せない。記憶は刻一刻と薄れていく。

 生きて、いつか死ぬ。それが記憶と言うものの宿命だ。

 二号は啜り泣くように独り言を言う。

「“女の孤独を吸って生きるのはもうやめにして、この次には孤独を捨てて生きる人の所へおゆき”。かつて誰かがそう言った。彼女の名前を俺は知っている。忘れる筈がない。忘れるわけにはいかない。

 ……けれども、こうして女を食らうこの俺は思考にはその言葉を宿しながら体では裏切っている。

 女の味がする。

 これ以上孤独な魔女を犠牲にするわけにはいかないと肝に銘じたその挙句がこの体たらくか」

 俺など死んでしまえ。二号は吐き捨てる。しかし二号は生きてはいない。生きてはいないのだから死んでしまうこともできず、自分自身に復讐を遂げることもできない。二号は乱暴に女の汁を啜りあげる。くちゃくちゃと音を立てて肉を噛み、何度も何度も反芻する。

「この世界の夜は孤軽が愛した世界の夜だ。孤軽が愛したそのかたちに俺は生きるのだという。夜。夜。光の差さぬこの夜に俺は束の間の人間になる。人間になれば、生きることもできるのか。生きて、死んで、罪を贖うことができるのか。俺は……。

 俺は人間だ。この夜だけは、この形こそが俺の全てだ。そうしなければならない。」

 二号は女の胎に顔を埋め、深く鋭く舌を伸ばす。

「たとえその思いをいつか忘れてしまうとしても……」

 二号は女の身体を丸々ひとつ平らげる。室内にはようやく静寂が戻り、二号は孤軽の言葉を考える。

 人形前夜、と彼女は言った。それはどういう意味だったのだろう。明日、また夜を迎えれば人間になるというのなら、それは人形の前夜、人形としての最後の前夜ということなのだろう。しかし人形前夜というその言葉は、一般的には人形になる前夜という意味の使われ方をするのではないだろうか。

「人形になる前夜、人の形になる前夜……」

 二号は独り言を続ける。独り言を語り続ける。

「物語が始まった時どこにいたのかと彼女は言う」

 千年生きて千年一人の魔女がいた。魔女は一人で生きているのがあまりにも寂しいので、死んだ人間を生き返らせることにした。死人は成長することもないからいなくなったりもしない。だから彼女も成長する必要がなかったし、いつまでもその生活を繰り返していればいいと思っていた。

 千年生きて千年一人の魔女がいた。人を食らうけだものの魔女だった。魔女は人を食べたいとは思ってはいなかったが、人を美味しいと思うことはやめられないのだった。魔女は蝶や植物を食べて千年を生きたけれども千年目には自分の子供を食べてしまった。

 千年生きて千年一人の魔女がいた。瞳を見れば誰もが狂う、邪眼の乙女が魔女だった。望んだわけではないのだが、それでもその眼は悪なのだった。魔女は世界を見る代わりに孤独であることを選択して千年を生きた。千年経って魔女は人形に恋をして死んだ。

 それが物語だ。

「俺は今、ここにいる」

 はっきりと二号は言った。人間の形をしていた。だから「俺は人間の形をしている」その言葉で自らを語った。言葉があり、形があった。何人もの魔女を失い、失敗を繰り返して一人、二号はここにいる。しかし今や二号はただの人形ではない。


 ここに一人の俺がいる。俺という人形は人間になりたがっている。なぜ? 俺はなぜ人間になりたいと思ったのだろう。大切な人が人間だったから? その人間が死んでしまったから? ……きっとそうなんだろう。

 でも本当にそうなのか? 本当は違うんじゃないのか? うっすらと俺は考える。少女と出会う前だって俺は人間になりたいと考えていたはずで、きっとその前も、その前の前もそう考えていたはずで……。なりたい、とそう思ったのが先でそれ以外の理由はみな後から頭がつけたした言葉でしかないんじゃないだろうか。願望と言う名の物語を、意識と思考とが人間らしく解釈した言葉、それがただ、〝失ったものを取り戻したい〟という形に収まっただけなんじゃないか。人間になろうと一番初めに思った俺はどんな名前どんな形をしていたのか。

 時は流れ続ける。

 人は死ぬ。

 一号、二号、そして……。

 ……。

 俺は人間になりたい。

 あなたはどうしたかったんだ。

 あなたはもう死んでしまった。

 あなたはまだ生きている。

 あなたは死霊術士の娘だった。あなたは獣の女だった。あなたは邪眼の魔女だった。

 世界は物語に満ちている。魔女はまだ絶滅していない。

 


 

 二号は住処を抜け出し、深夜の城に忍び込む。姫の寝室を訪うて、不定形の姫君を目覚めさせる。起きてください、姫。

 ぶよぶよと醜く蠕動していた粘体は二号の声に一際大きく痙攣し、それからふるると身を震わせて女性の姿をとった。厳かな水泡みなわを引きつれて独り、細波のように静かな呼吸をして姫は目覚める。「どうした二号。私は眠い」

 とろんとした瞳を濡らし、透き通った項を反らせ小さく欠伸をする。その声は夜空の果てから流れるように遠く聞こえる。孤軽が死んだことを伝えるが、姫は何も言わない。じっと黙ったまま茫洋と宙を見つめるだけだ。

 物語を語るように二号は説明する。姫はただ唇を結んでいる。

 長い時間をかけて話し終えると、姫はようやく口を開いてふと、また来る明日をお前は美しいと思うか、と問う。わからないと二号は言う。

 私はな。姫は囁く。お前のことが嫌いだ。二号を鋭く見据え、言葉に柔らかな呪いを込める。お前が果たしてどう行動するべきだったのか、私にはわかる。お前にだってわかっているはずだ。だがお前はそれができなかった。だから、私はお前を憎む。

 二号は頷いて歩み寄り、姫の腰を抱き、そっと口づけをする。姫は不思議そうに首を傾げる。

「今、何をした」

「キスをしました」

「なぜ」

「あなたを愛しています」

「お前が言うと嘘には聞こえないな」

「ですがこれは嘘なのです。姫。でもあなたを愛しています」

 姫はつかのま鸞のような笑い声をあげ、それから酷薄に目を細めると二号の手を打ち払った。

「なぜそれを孤軽に言ってやらなかった」

「言ってやることができなかったから、いま私はここにいます。今この夜の、この形の私は語り出さなければなりません。たとえそれが嘘でも」

「嘘をついてそしてどうする。愛を説いてそれでどうなる」

「物語が始まります」

「その物語で私はどうなるのだ」

「あなたは」二号は言う。「救われます」

「ほう」と馬鹿馬鹿しそうに姫は相槌を打つ。

「救われる、ときたか。それはいい。いつか救われる筈の私は、今は不幸だということか?」

「千年生きれぱ誰もが一人だから、この世の魔女はみな孤独に苛まれている。千年生きて千年一人。けれどもどんなに寂しいと言い孤独に呻こうとも自己陶酔にしかならない。それが魔女の呪いと言うものではないでしょうか。あなたはいつでも寂しそうだった。俺が出会うひとはみなそうだ。俺自身が寂しいと思っているからそんな風に見えるだけなのかもしれない。だが、あなたがもし孤独を覚えているのなら、俺はあなたを救いたい」

「孤軽が死んだら次は私というわけか。節操がないな。私はお前の下らぬ罪悪感に付きあうほど慈悲のある人間ではない。かわいそうな女を探したいのなら余所をあたれ」

「あなたは寂しいと思わないのですか?」

「馬鹿なことを聞くな」姫は遠い目をして密かに囁く。「寂しくないわけがないだろう」

「では」「いいや」姫は言葉を遮る。「いつか救われる筈の私が仮にいま不幸なのだとしても、私は幸せになどなりたくないのだ、二号」

「なぜですか?」

 二号は姫の言葉に戸惑う。

「今日、孤軽が死んで……」姫は言う。「今までそんなことは考えもしなかったのだが、どうやら彼女は私のただ一人の友人だったようなのだ。私は一人になってしまった……」

 姫はそこでため息をつき、途方に暮れたように瞳を揺らす。

「私はおそらく孤軽を生き返らせることができるだろう。母にでも頼めば完全とは言えないまでも彼女の形と彼女の言葉をそのまま一つの肉に閉じ込めて動かすことくらいはできるはずだ。彼女が再び生を享けるというのなら私はきっと嬉しいだろう。だがそれは、彼女を失った寂しさも、彼女がただ一人の友人だと気づいたことも何もかも忘れてしまうということなのだ。二号。孤独は今ここにある。それは確かなことで、嘘ではない。私の孤独は私だけのものだ。寂しいと思うのなら、私はいつまでもこの寂しさを覚えていたい」

「そんな生き方を悲しいとは思わないのですか?」

「思う」姫は答える。「だが、それが一体どうしたというのだ。人は一人では生きていけない。それは仕方のないことだ。しかしだからこそ人は一人で生きていかなくてはならない。一人では生きていけないと言われはいそうですかと頷いて生きていくくらいならば、私は思春期の少年のように意地を張って生きていく」

「千年も生きていてまだ意地というものがあるのですか」

「意地がなければ千年も生きられるものか。魔女と言うのは大抵意地っ張りな生き物なのだ」

「あなたは」

「なんだ」

 二号は自らのうちに言葉を探したがそれ以上の説得はなかった。幸せになって欲しいと思いはしたが、幸せになりたくないとのたまう姫をどうすればいいのか見当がつかない。

 言葉に詰まった二号は苦し紛れに最後の問いを放った。

「──形は、言葉以上のものになれますか?」

 姫はそっと笑った。それ以上の言葉はなかった。

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