第九章 覚醒 <RINN>
凛目線
第九章 覚醒 <RINN>
またしてもオーナーにメールを打つことになった。萌子のファンでもある彼の返事は見るまでもない気がする。
「ふふ、オーナーの顔が浮かぶわね」
メールを打つ手元をのぞき込みながら萌子がつぶやいた。パリとの時差は7時間、むこうはまだ早朝だが、あちらに行ってからはかなり健康的な生活を心がけているようで、起きていればすぐにも返事は来るだろう。
にやにやしたオーナーの顔が浮かんだ。この件は絶対に彼のツボにはまる。
「鏡の件は?書かなくていいの?」
「部屋は好きにしていいと言われてる。単に面倒でそのままになってたんだ」
「そう、じゃあ派手にやりましょ。おもしろそう」
萌子は本当に楽しそうに目を細めた。
メールの返事は、予想を裏切らず、OK。買い物に出かける前に返信が来た。
オーナーは案の定おもしろがっているようだった。
以下がその返信メールだ。
『萌子さんには、一番良い部屋を用意しなさい。これは僕からのお願いでもあるからね。凛くん、これで、キッチンのテーブルが有効に使えるじゃないか。まだ二、三人増えても余裕だろう?それから、夏休みをあげよう。少し外の空気も吸いなさい。代役を送るから彼が来たら必ず休むように。いっそずっと休むかい?君を店番にした事を、今は後悔してるよ。本来の姿に戻ることも考えてはどうかな?いい機会かもしれないね。クリスマスには一度日本に帰る。では、良い夏を。』
本来の姿か・・・今なら描ける気がする。僕は怖かったんだ、自分自身が変化することによって水貴との時間を失うことが。
萌子に車を出してもらい、大和の近くにある倉庫を改造した大型リサイクルショップに行った。セットや舞台で使った家具やファブリックなどが格安で手に入る。
撮影用に貸し出しもしていて、普通の家具店にはないような掘り出し物がいろいろとある。とりあえず鏡を隠すカーテンと、リビング用のテーブルを探すつもりだった。
「広いのね、何でもあるじゃない。よくこんなところを知ってたわね。」
「お店のお客さんに舞台美術をやってる人がいて、以前ベットを買いたいと言ったらここに連れてきてくれたんだ。撮影で一度使ったきりの物なんかは新品同様なのに安いから、かなりお買い得だよ。」
家具やインテリアだけでなく、観葉植物や、食器、調理器具までそろっている。丸ごと家一軒分のコーディネートも頼めばやってくれるらしい。
萌子は目的も忘れて、ガレのガラス風のスタンドを見つけ早速買っていた。レプリカとしては最高級のできだと思う。おそらく撮影用に作られた一点物だろう。
僕は猫足のアンティーク調の小型のテーブルと、約6メートルの鏡を隠せるサイズのカーテンを難なく見つける事ができた。
後部座席とトランクに買ったものを積み込み、ちょっと海を見たいと言う萌子の提案で湘南に向かった。日曜の夕方のため、レジャー帰りの車で反対車線は渋滞気味だったが、下りは難なく進んだ。
江ノ島の海岸に着いたときはもう太陽が海に近づき始めた頃だった。
派手な南国ムードの店や、アジア系フードを出すの海の家などが建ち並び、若者達がまだ店の中にあふれかえっていたが、海にはサーファーがちらほらと居るくらいで海岸は静けさを取り戻していた。波打ち際からひときわ高くなった土手の上に腰を下ろし、沈み始めた夕日を眺めた。海からの風が思いのほか涼しくて心地よい。
「引っ越したら、またあそこ行きたい、付き合ってね」
「いいよ。でもベリーハウスの部屋は今の萌子のマンションより狭いよ、荷物が入りきらないと思うけど。」
「家具は全部処分するつもり。あの部屋は、別れた夫からもらったものなの。だから、もう、いらない。」
「そっか」
萌子がずっと別れた人に気持ちを残していることは感じていた。水貴を担当したとき、萌子は離婚したばかりだったのだ。
彼女は元夫に、僕は水貴に半分心を残したままの付き合いだった。
その、微妙な距離感が僕らに逃げ場と休息を与えてくれたのだ。
「なんか、もう、すっきりけりをつけたいの。」
そう言って、萌子は顔全体で笑った。まるで思い切り笑うことですべてを後ろに捨て去ってしまうように。この大輪の薔薇のような鮮やかな笑顔を僕は受け止める力があるのだろうか。
だが、そんな不安を押しのけて、萌子の決断を喜んでいる自分がいた。
「どうして離婚したか言ってなかったよね、凛は何も聞かないから。まあ私の存在はその程度だったんだよね。」
「今は、違うよ」
「そう?・・・」
「違う」
僕の言葉をかみしめるようにゆっくり微笑むと萌子は続けた。
「私、彼を疑ったの。ほかに好きなひとが居るんじゃないかって。一緒にいてもなんだか違和感があって、彼が無理してるのが分かった。それで、一番してはいけないことをしちゃった。だまして催眠に誘導したの。本当の気持ちが知りたかったから。バカなことしたわ。」
萌子は海をじっと見つめて、きれいね。と言った。
海に落ち始めた太陽が水面を金色に染めて輝く道をつくっていた。
「彼はね・・・浮気なんかしていなかった。ただ私と居るといつも心を読まれているようで疲れたそうよ。気が抜けてすごく情けなかったわ、もう、別れるしかないじゃない?一緒に居るのが苦痛だって言われることがあんなに痛いことだって思わなかった。彼は私を一言も責めなかった。ただ悲しそうな顔をして、ごめんって言ったの。」
ごめんと言われた時の萌子の気持ちがちりちりと伝わってきた。
その時、太陽の最後のアーチが海の中にのみこまれていった。
それは思ったよりあっというまの事だった。残照がみるみる薄らいで行き、空の色を刻一刻と塗り替えていく。
いつもは気がつくと夜が来ているのに、まるで幕が下りるように、一日の終わりがはっきりと見えてしまうのが不思議だった。
海の一点を見つめて固定された萌子の横顔は、今まで見たどんな表情よりも儚げで美しく、僕は萌子から目を離すことができなかった。
「凛と水貴を担当したのはそのすぐ後だった。大学病院の精神科は、個人病院で手に余る入院の必要な患者が多いの。初診の段階では、信頼関係も全くないわけで、医者はむき出しの感情攻撃を受けることになる。かなりの精神力がないとつとまらないわ。当時の私は自分の心がボロボロで、実際、患者に向き合えるような状態じゃなかった。事情を察した医長から、安定期の患者のフォローに回るよう指示が出たところに、合田から相談を受けた。事故による記憶障害ならと言うことで、私は水貴の担当になったの。でも私、あのときやっぱり普通じゃなかった。本来の私なら記憶の操作はしなかった。ほかの方法を考えたわ。あなたにも水貴にもずいぶん遠回りをさせてしまった。精神科医失格ね」
そう言って僕を見た萌子の目が潤んでいた。
「僕が望んだことだ。感謝してる。」
それは本当の気持ちだった。水貴と過ごしたこの三年は、僕にとってあるはずのないプレゼントのような時間だった。
「凛といるととても楽だったわ。あなたは私の前にすべてをさらけ出していた。そして何より水貴が一番大切だった。だから私はあなたのそばにいられたの。初めからほかの人を愛している人なら私は不安にならずにすむから。あなたは心を読んでも怒らないでしょう?水貴の能力とは違うけど、見えてしまうのは辛いこともあるのよ。でもあなたは私の逃げ場になってくれた。」
「お互い様だよ」
「そうね、私たちはいい関係だった。でも、ある時気づいてしまった。水貴に嫉妬してる自分に。」
少し間をおいて萌子は小さな声で言った。
「いつ私は恋に落ちたんだろう・・・・。」
「僕も・・わからない。でも、萌子が好きだよ」
半分泣いたような顔をして萌子が微笑った。
萌子が好きと、何の迷いもなく言葉が出た自分に少し驚いて、ああ、そうだったんだと腑に落ちた。いつの間にか、僕の中で萌子の存在が水貴よりも重くなっていたのだ。
八歳も年上で精神科医として独立した大人の女性が、僕のような子供を本気で相手にするはずはないと、どこかで自分の気持ちをセーブしていた。僕らは二人とも水貴をいいわけにして本気で向き合ってこなかったんだ。
「大丈夫、きっとうまくいく。僕らも水貴も」
「そうだといいね」
頷きながらそう言った萌子の目に涙が溜まっているのが見えて、思わず肩を抱いて引き寄せた。萌子は僕に体をあずけ、そのまま二人で静かに海を見つめていた。この三年、こうし二て人で出かけたことは一度もなかった。僕たちは恋人同士が当たり前にすることを何もしてこなかったのだ。
初めて二人きりで見る夕暮れの海は、今まで見たどの海よりも美しかった。
薄く赤みを残した空がゆっくりと深い色に変わり、あたりに夜の帳が下り始めた。
「そろそろ行こう、画材屋に寄っていいかな。鏡に絵を描こうと思う」
「描く気になったの?」
「やってみないとわからない。でもあの鏡を別のものに塗り替えたいんだ。水貴と本当に決別するために」
「私は、凛の描く絵がみたい。それが何のためであってもね」
「うん」
「毎朝、あなたが店を閉めて戻ってきた時、私があのリビングにいるから。おかえりって言ってあげる。一緒に朝食を食べて、たまにはそのまま愛し合って、私は出勤する。寂しくなんかないわよ?」
「うん」
まるで赤面ものの愛の告白だ。突然の萌子の同居宣言に始まって、ぼくらは熱に浮かされた恋人同士のように、今までの壁を壊そうとしていた。萌子の唇が軽く僕に触れた。
すっかり暗くなった海岸で僕らは初めてするようなキスをした。