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水の檻  作者: 香野三弥
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第八章 はじまり <MIZUKI>

水貴目線

第八章 はじまり <MIZUKI>




 二人だけで初めてした食事は、有機野菜を使ったイタリアンのランチコースだった。前菜はツブ貝のジェノベーゼソース、サーモンのサワーマリネ、大根、にんじん、オリーブの浅漬けピクルスだ。

 特に大根とにんじんは甘くて香りが立ち、まるで違う野菜を食べているようだった。メインはパスタかリゾットを選べたので、椎名さんはパスタ、私はリゾットをチョイスした。玄米を使った優しいトマト味で、細かく刻んだタコとエビのだしがきいて控えめなチーズの感じも絶妙だった。足りない物のない感じの、でも薄味で素材の旨みを生かした料理は疲れた体にやさしく沁みた。



「あの撮影現場にいらしたんですね。十六年前」


「高遠監督は僕の師匠だからね。何日か人出が足りなくて手伝いに行ってたんだ。そして、巨大な水槽の中にいる君を見た。凄い眼だと思った。十二歳の子供の眼ではなかったよ。水槽から出るとき僕が抱き上げたんだ。覚えてるかな」


「なんとなく、はっきりとは、覚えていません」



 実際、椎名さんの顔は覚えていなかった。撮影現場で右も左も解らず、必死に言われたことをやっていた私に、周りを見る余裕などなかったのだ。


「なぜ、女優にならなかったの?できあがった映画は本当にすばらしいものだった。君がいなければあの映画は成立しなかったと思う。高遠さんの目は確かだ」


 女優になるつもりは全くなかった。頼まれたからやっただけだった。


「父なんです、高遠省吾は」


「娘?高遠さんの?」


「はい」


「そうだったのか・・・・彼は父親として君との約束を守ったんだね。女優にする気はなかったんだ」


「本当の気持ちは分かりません。もう聞くことはできないから。」



 父は十年前、四十八の若さでこの世を去った。その四年後、母も私の大学卒業を待たずに亡くなり。ひとりぼっちになった。



「監督が亡くなったとき、僕は日本にいなかった。スペインで訃報を聞いたのは亡くなってからずいぶん経ってからだった。僕はあのとき日本と音信を完全に絶っていたから連絡がつかなかったんだ。お葬式にも行けなかった」


「私も出ていません。母は籍に入ってなかったし、当時はもうあまり会うこともなく暮らしていたので、父が亡くなったのも、テレビの報道で知りました。でも誤解しないでください。私は父から愛情をいっぱいもらいました。母はかなり変わった人だったので結婚をする気は初めからなかったんです。だから私が生まれたこともかなり経ってから父は知ったそうです。そのときはもう父は別の人と結婚していました」


「あの高遠さんの上を行く変わり者だったんだ。」


「母は自分が変わっているとは思っていませんでしたけど」


 何の抵抗もなく両親の話ができたのは、椎名さんが初めてだった。彼はただあるがままに受け入れてくれる、何を話しても大丈夫だろうという安心感があった。私は、母と父の出会いについて自然に話し始めていた。


 母は草木染めの作家で、染色の材料となる植物を栽培したりするために八ヶ岳のそばに工房を構え住んでいた。

 父と知り合ったきっかけは映画の中で草木染めのシーンがあって、その指導を頼まれたからだ。


 運命的な出会いだったのよと母は私に話してくれた。出会った瞬間にお互い恋に落ちたのだと。でもすぐに母はまた自分の世界に戻ってしまった。私が生まれたことは予想外だったけれど、私との出会いは、人生の中で一番幸せな体験だったと言ってくれた。


 私が四歳になったとき父の知るところとなり、彼は家に尋ねてきた。その後も父は暇ができると工房を訪れるようになり、私は寂しいと思ったことは一度もなかった。 


 だから十二歳の時に父に映画に出て欲しいと言われたとき、本当は怖かったけれど、毎日一緒にいられることが嬉しくて引き受けてしまったのだ。


「おかあさんは、今もその工房に?」


「いいえ、六年前に亡くなりました。」


「そうか・・・不思議な縁だね、君は女優にはならなかったけれど、この世界に身を置いた。だからもう一度会うことができた。」


「父が生きていたら、どうしていたかな、違う道を選んでいたかもしれない。でもこの仕事を始めて、わかったんです。父がどんなに孤独だったか。表現したい気持ちを伝えきれない事に、どれだけはがゆい思いをしていたか。作品を一から紡いでいくということが、どれほど大変な精神作業なのか実感できました。」


「うん。でも喜びはその何倍もある。自分が思い描いていた以上のすばらしいシーンが撮れることもある。すべてがうまくかみ合ってベストの状態にむかって昇華した瞬間、奇跡が起きる。そんな時は、本番中の静けさの中から、息を詰めて見つめるスタッフの興奮が伝わってくる。だから僕は孤独じゃない。映画は一人で作るものではないからだ。」



 私にも経験がある、本番を見ながら、仕事も忘れ泣いてしまったのだ。シーンが終わりカットがかかっても、ストップウォッチを止めることも忘れていた。その瞬間の高揚感を忘れることはできない。

 


 デザートとコーヒーが運ばれてきた。桃のコンポート、アーモンドアイス添え。桃の香りとやさしい甘みが、アーモンドのコクのある強い味と、幸せなハーモニーを作っていた。最後にミントの葉をつまんで口に入れると、パアッとさわやかな刺激が広がった。


 甘い物はいつでもほんの少し気分を浮上させてくれる。言うべきか昨日までは迷っていたが、今なら話せそうだった。


 三年前事故に遭い記憶障害があること、消えた一年に何があったのかわからないことが怖いのだと、正直に話した。


「私は、逃げたんだと思います。いやなこと、見たくないこと、悲しいこと、すべてにふたをして、逃げたんです。いつかその仕返しを受ける。それは明日かもしれないし、今日かもしれない。」


 椎名さんは恋人を目の前で失っている。それを抱いたまま生きてきた。

 私は記憶を消して逃げてしまった。おそらく、夢に出てくる黒い影は、私に深く関わっていた男の人だろう。

 失った物を抱き続ける事と、忘れて生きるのではどちらが幸せだろう。


 幸せという言葉がえらく薄っぺらで頼りなく感じる。


「不安なのはわかる。でもその記憶は、いらないから自分で消したんじゃないかな。生まれたときから、誰だって膨大な記憶を喪失し続けてるだろう?水貴ちゃんはすべて思い出せる?」


「・・いいえ。」


 言われてみればその通りだった。覚えている記憶より、もしかしたら忘れてしまった事柄のほうが多いかもしれない。


「記憶は、嘘つきだし」


「嘘つき?」


「そう、自分に都合良く変わってしまう。大切な人の思い出なんかは、いいことばかり残ってる。」   



 確かに母との暮らしも楽しかったことばかりが思い出される。けんかをしたこともあるし、仕事に没頭している母のそばで寂しい思いをしたこともあった。でも不思議とつらかった記憶はほとんどない。



「人は、幸せでいたいんだ。そのために忘れる能力がある。すごい力だと思うよ。もしこの能力がなかったら、たぶん、人は生きていけない」


「そう、かもしれない。」



 萌子先生も、あなたは生きるために、記憶を消したんだと言った。だから自然に記憶がもどるまで、けっして無理はするなと。


 意識の戻らなかった一ヶ月の間に私の脳は記憶の整理を丁寧に行い、知りたくないことだけをキレイに削除してしまったのだ。それが自分を守ることだと、脳が判断したのだろうか。


 凛は最低限の情報しかおしえてくれなかった。周りの知り合いすべてが申し合わせたように事故の事にふれない不自然さに、今までどうして思いいたらなかったのか、自分でも不思議だった。


 まるで、思い出さないように隠された?そんな意図的なものさえ感じる。 


 三年間、あの鏡の部屋からぼんやりと外界を眺めていた。閉じられた世界は穏やかに移ろい、私を傷つける物は一つもなく、ただ、時間だけをゆっくりと重ねていた。

 凛は、いつもそこで私を待っていてくれた。友達でも恋人でもない家族のような存在として。

 仕事を終えあの部屋に戻り、凛とその日に起きた出来事を少し話す。凛もお客さんとの会話をとりとめもなく聞かせてくれる。二人の時はいつもゆったりと流れ、私の感情の振れ幅はとても小さく押さえ込まれていて、静かに生きていた。でもお互い本当に話したいことからは逃げていたのだ。


 今は真実が知りたい。私はあの一年を思い出さなくてはいけないと思う。繰り返し見る夢の黒い影は誰なのか知りたい。いつかあの人物が現れて、すべてを壊してしまうかもしれないから。


 

私はこの人を好きになっても本当にいいのだろうか。



「僕は君より長く生きた分、たくさんの過去がある。それを抱えて今の僕がいる。でも過去に何があったかは重要じゃない。これからどうするかだ。そうじゃない?」


「はい」


「お互い不規則な仕事だし、会える時に一緒にいよう。今までの生活のペースを変える事はないんだ。ただ、そばにいれば顔ぐらいはいつでも見られるだろ?その時間が少しでもとれるようにあの部屋を借りたんだから。」


 私は頷いた。


「今夜は、音打ちの後、少し別の仕事もあるので事務所の方に戻る。明日のMA来るだろう?まだ開始時間が決まらないから連絡するよ」


「夜になりそうですね。」


「そうだな、四時間分の仕込みだから、かなりきついね」


「羽村さん倒れなきゃいいけど」


 音効さん達はおそらく貫徹になるだろう。


「ところで、次の仕事は?もうはいってるの?」


「まだ、決めていません。少し休むつもりだったから。去年からずっとつながっていたので」


「そう、じゃあ僕の映画、やらない?」


「フィルムの経験はないですけど、やりたいです。」


 最近はモニターがあるからビデオ撮りと仕事の内容はほとんど変わらない。映画もハイビジョンビデオで撮ることさえある。それに椎名さんとの仕事はとてもすばらしい体験だった。彼の繊細な光の演出と構図は今までついたどの監督にも無いものだった。陰影が濃く、画面に奥行きが現れるのだ。とにかく美しいシーンは徹底的に美しく撮る。


 今回は映画でいつも組んでいる照明さんではなかったのでどうかと思ったが、


「今回のドラマ、いつもの照明さんを連れていらっしゃるかと思ってました。いちばんこだわりがあると思ったので」


「たまたま彼が続いてたけど、僕はスタッフの囲い込みはしない。新しい人の感性がいい刺激になるからね。安全を取ったら淀みができる。実際、近藤さんの仕事はすばらしかった」



 椎名さんは相手の持っている良い部分を最大限に引き出す力のある人だと思った。



「彼に会えた事も大きな収穫だった。でも一番は、水貴と再会できたことだ」



 椎名さんは水貴・・と初めて呼んで、手を取った。とたんに、紅梅色の光に私の体が染まっていった。私はこの人と、これからの時間を一緒に歩いていくんだと、確かな思いが胸の中にすとんと落ちてきた。



「映画はこのドラマの前から準備を進めていたから、十月の初めにはインできると思う、少しホンの手直しがしたいから、はっきりと日程はでないけれど、そのあたり空けといてもらえるかな」


「はい」



 そのとき私は、まだ椎名監督の本当のオファーが何であるかを知らなかった。




 彼は音打ちのため、車を取りに戻った。神楽坂のスタジオは電車では不便らしい。


 私は、久しぶりにスポーツクラブに向かった。歩道に並んだコンテナからこぼれんばかりの大量ひまわりが、少し低くなった午後の太陽に鮮やかな黄色を振りまいていた。乃木神社の森からあぶらぜみの声がかすかに飛んでくる。


 ふた月の撮影の間に、季節はくっきりと夏に変わっていた。私の生活はいつもこんな風に唐突に時間が動く。



 歩きながら加奈に電話をする。高校時代からの友達で、行動力があり、ポジティブ思考の持ち主で社交的でもある。いつも動き回っていて、私の二倍の時間を生きているかもしれない。


 昔から少し感じ方が人とずれている私を、加奈だけが理解してくれた。

 彼女は私の事を私以上に知っている。

 雑誌のフリーライターをしているから、仕事の大半が打ち合わせか取材中なので、まず昼間は電話には出ない。案の定ワンコールで留守電になった。あきらめて今夜会いたいと、メールを送りスポーツクラブに入った。 


 この前の撮休に来たのが、二週間前だ。かなり体がなまっている感じがする。食事のすぐ後だったのでエアロビクスはあきらめ、プールに行くことにした。

 水着に着替えていて、自分の肌の変化に気がついた。皮膚がぷるんと水を含んだように柔らかく、指がすいつくようにしっとりとしている。椎名さんにふれた体がまだ彼とつながって反応し続けているような気がした。


 プールの水は、体温よりやや低く、ほてった体を心地よく包んでくれた。

 ゆっくりとクロールで水を切る。指先がたたく水面が銀色に一瞬姿を変え、また透明に溶けていく。


 手足にまとわりつく水が今日は柔らかい。


 200メートルを超えたあたりからしだいに水と自分の境界が曖昧になり、水そのものが感覚から削除されていく。

 ブレスの音が消え、体はただ前へと滑るように進み、あたりは無音になる。

 一種のトランス状態になって私は泳ぎ続ける。


 皮膚の下に閉じこめられた今朝の余韻が細かなビーズのように散っていき、私の中を縦横無尽にかけめぐりながらゆっくり分解されていった。


 椎名さん、と、心の中でつぶやいてみる。言葉にならない感情の波が体内を洗うように流れてふくらんでいく。


 とたんに音が戻り、水が私を捕まえた。

 仰向けになって手足を休ませると、ドーム状の天窓から空が見えた。

 まるで青い海の底にいるようだった。


 ロッカーに戻るとスマホのロック画面に、加奈からの返信が来ていた。

 テラズで・・の一言。相変わらず簡潔過ぎて時間すら書いてない。

 トークアプリを開き、17時大丈夫?と送るとすぐに返信が来た。

 OK、の吹き出しが付いたウサギのスタンプだった。

 



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