第七章 変化 <RINN>
凛目線
第七章 変化 <RINN>
萌子はベットの中で僕の髪を梳くようになでながら言った。
「つらい?」
「何が?」
「水貴ちゃん今頃、しちゃってるよね」
萌子のこういうちょっとあけすけなところが、僕は好きだ。
「身も蓋もない言い方だね」
一応、抗議してみる。
かわいそうに・・・と言って萌子は僕を抱きしめた。
確かに今日萌子がきてくれて助かった。一人でこの部屋にいるのはかなりきつかったかもしれない。
「泣いていいよ」
「泣くかよ、そんなに弱くない」
僕はこの三年間ずっと、水貴より大人でいなければならなかった。
初めはギリギリの精神状態だった僕を、甘えさせてくれたのは萌子だ。僕のライナスの毛布を抱きしめ返してキスをすると、豊満な胸に思いっきり頭を抱え込まれた。
「ぷはっ・・窒息するだろ」
「やっぱり、凛はかーわいい」
「子供扱いするなよ」
萌子は僕を離すと、ベットから降りて椅子の上のシャツを取って羽織り、僕の横に戻ってきた。
「椎名さん紹介してって言ったのは、まじめな話、できるだけ早めに会いたいの」
「え?」
「水貴の状態を全部話しておく必要がある。椎名さんは、水貴にとって恐ろしく危険な人物よ。彼、目の前で自殺されてるでしょ?恋人に。彼自身のトラウマが水貴の爆弾になりかねない」
「十二年経っていても?」
「すでに乗り越えた過去であっても、記憶された感情は心の奥にエネルギーとしてしまわれてるの、表に出てこないだけ。でも、同じような強い感情に向き合ったらフラッシュバックが起きるかもしれない。水貴もまた、椎名さんにとって爆弾なの」
「水貴の記憶は消してもらったんじゃ・・」
「記憶を削除することは出来ないわ。彼女自身が忘れたいと強く望んだから記憶を取り出せない状態になっているの。催眠では、潜在意識に、思い出さなくてもいいと追加暗示をかけただけ。それに感情の記憶は事実の記憶と違ってやっかいよ。一種のエネルギー体だから、完全に封印するのは不可能。たしかに起きた事実の記憶が想起されなければ、その時の恐怖と哀しみの感情も引き出されはしない。でもそれは、単にリンクが切れているだけ。」
動きだしたのは水貴の恋だけではなかった。
全てが眠りから覚めてしまうかもしれないんだ。
その時、水貴が真実と真っ正面から向き合える状態になるだろうか?
そして、僕はそれを受け止められるのか?
「それに、催眠による暗示はいずれ解けてしまう。水貴が思い出したいと望めば、暗示の効果は急速になくなると思う。椎名さんがその引き金になる事は十分考えられる。」
確かにそうかもしれない、僕はどこかでそのことをわかっていた。
「水貴はどう?」
「今のところ、特に変わった様子は・・・何も思い出してはいないと思う。」
「そう、こんな時にまた一つ悪い情報があるの」
「なに?」
「合田が帰国した。」
「合田さんが?まさか水貴に会いに来たりしないよね」
「今まで黙っていたんだけど、何度か私のところに電話があったの」
「アメリカから?」
「そう、水貴の様子を聞いてくるんだけど・・・記憶が戻ったのかどうか気にしてた」
僕は萌子が何かに引っかかっているように感じた。歯切れが悪い。
「何か、気になることでもあるの?」
「記憶にこだわってるのがどうもね・・・、いやなものを感じた。思い出されては困ることでもあるんじゃないかって」
「事故のことで?」
「そう、電話だから、表情は読めない。あくまで声の調子だけなんだけど」
萌子は会話から相手の心理状態を分析する訓練を積んでいる。言葉が伝えるものはごく一部の情報で、表情や声のニュアンス、目の動きなどから裏に隠れている感情を読み取っていく。
「違和感があるの、少なくとも合田は何か隠してると思う。」
確かに記憶を無くした水貴に事情聴取は行われなかった。合田さんの証言だけで警察は事故として処理をした。
あの事故はただの事故ではなかったのか?
だとしたら、その真実は水貴の記憶の中にある。だが今更蒸し返してどうなる?水貴にはこのまま新しい人生をつかんで欲しい。あの一年の記憶は抹殺された方がいいんだ。
合田に会わせてはいけない。
「絶対に会わせない。」
萌子が後ろからそっと僕を抱いた。
「そうね」
萌子と僕の間にはいつも、水貴がいる。
そのことを萌子がどう思っているかなんて、その時、僕は全く考えていなかった。
「凛、私もここに来るわ」
「え、来るって・・」
「引っ越してくるの。椎名さんが良くて、私がだめって事はないわよね」
絶句するって、こういう状況を表す言葉だったのか。僕の思考は完全に一時停止した。
この展開はまったく想定外だったので、とっさに言葉が出てこなかった。
沈黙は肯定だ。というのが萌子の持論だから、こんなに間ができたらもうOKと言ったようなものだった。
いったい何が起きているんだ?
この怒濤の展開は・・・
「モラトリウムの終焉ね。」
萌子は少し哀しげな表情をしたが、すぐに、ゆったりと微笑んだ。
「モラトリウム?」
「猶予期間が終わるって事、あなたと水貴ちゃんの。三年間二人がどっぷりつかっていた鏡の部屋から出るって事よ。」
僕が、椎名さんを迎えたんだった。萌子に言われるまでもなく、水貴を彼に渡すつもりだった。渡すって・・その前に水貴は僕のものですらないじゃないか。
「とりあえずお昼は凛のパスタが食べたいんだけど」
この流れで、パスタ!
なんだかもう笑うしかないな。
「わかったよ、じゃあ、昨日、稜さんからもらった、からすみを使ってブロッコリーのペペロンチーノなんかどう?」
「最高!・・稜さん来たんだ」
稜さんは、下の階に入っている音楽事務所のギタリストだ。大物アーティストのバックについては全国ツアーに出ることが多いのでよく名産品のお土産をもらう。
「三か月ぶりの帰還。今頃まだ夢の中だろ。昨日しこたま飲んで帰ったからね。」
「彼ステキよね、声がセクシーなの。何でギタリストなのかしら、もったいない。歌うべきよ。」
「萌子はほんと気が多いな」
「妬いてるの?」
「別に・・・」
「かわいい。凛のその顔が好き!」
萌子が飛びついてキスをする。柔らかい唇と、胸が僕をまたベットに戻しそうになる。
「食べたら買い物につきあってくれる?車だしてくれると助かるんだけど」
僕は、この5年全く運転をしていない。車も持っていないので、免許はあっても身分証明書になりはてている。
「どうしたの?外に出るなんて、いきなりすごい進歩じゃない?」
さらにほとんど引きこもりに近い生活をしていた。別に外が怖いわけではない。店の仕入れは電話で済むし、笹間さんが細かい食材は買ってきてくれるので、たまに紀ノ国屋に足を運ぶことはあるが、生鮮食料ですらネットで注文すれば配達して貰えるここから一歩も出なくても不自由なく暮らしていけるのだ。
店では一晩中客と話しているので、それ以外の時間まで誰かと会話したいと思わなかった。
ただ、水貴と二人、朝のひとときを静かに過ごせたら何一ついらなかったのだ。萌子と関係を持ったことさえ、初めは水貴に対する歯止めに過ぎなかった。
キッチンに移動してコーヒーを煎れる。大きなテーブルのはじに座った萌子の前にミルクがたっぷり入ったカフェオレを置き、パスタの準備にかかる。
「広いね、このテーブル。これからは四人で食事をすることもあるかしら。」
「うん、それもいいかもしれない。」
無垢材のテーブルをさすりながら、そう言った萌子の心情をつかみかねていた。萌子にとって僕は気が向いたときに会いに来る、楽な恋人がわり、生活のほんの一部でしかなかったはずだ。ここに住むということは、今後かなりのウエイトを占めることになる。
タマネギとパプリカを刻んでいると、お湯が沸騰したのでやや細めのパスタを鍋にぱらぱらと入れる。萌子がそばにやってきた。
「何を買いに行くの?」
「鏡をつぶす材料」
一瞬萌子の表情がゆらいだ気がした。
「そう」
パスタのゆで時間をタイマーでセットする。
「向かい合って座れるように家具も移動したい。」
「いいことだわ」
萌子は理由を尋ねることもなく、ただ同意してくれた。
初めからそうだった。萌子は僕の水貴への思いをただの一つも否定しなかった。間違いだとも、やめるべきだとも、言わなかった。それが精神科医としての治療の一環だったとしても、僕は救われたのだ。
「鏡の中で水貴と二人でいる姿を眺めるのが好きだった。膝で安心して寝息を立てる水貴をずっと見続けていたかった。少しの間だけでも一番大切な場所でありたかったんだ。でも、彼女はもう来ない。鏡も、二人の空間も解放するべきなんだ」
「そうね」
「いつか、突然終わりが来るって解ってた。それは水貴が記憶を取り戻した時だと思っていた。まさかこんな風に僕が自分の手で終わらせるなんて、三日前までは考えてもいなかったよ」
「椎名さんは、突然の嵐だった訳ね。でも、あなたはもう準備はできていたのよ。だからこの風に飛ばされることはないわ」
確かに心のどこかで、どうしようもない閉塞感を感じていた。僕と水貴に未来はない。二人とも、きっかけを待っていたのだ。
「もう、このままではいられない。三年はそういう時間だ。水貴も同じだったと思う。」
椎名さんは、さざ波すらたたない水面に小石を投げ込んだ。鏡の中に波紋は広がり、もう僕と水貴の姿は揺れて見えなくなった。
萌子は僕の始めた事の幕引きを最後まで見届けてくれるだろう。僕もある意味、彼女のクランケの一人なのだから。