第六章 感覚 <MIZUKI>
水貴目線
第六章 感覚 <MIZUKI>
バスタブにお湯をたっぷり張って、ラベンダーのアロマオイルをたらしゆっくりとつかる。額がうっすら汗ばんでくると、ようやく冷房で堅くなった体がほぐれていった。
これから椎名さんが来るというのに、私は凛の事を考えていた。
さっき先に席を立った時、私を見た凛の目が、とても遠かった。ほんの一瞬こちらを見ただけなのに何故か突き放された気持ちになった。
凛は、今日が二人の別れの日だとわかっている。
『私の朝』のカウンターに残っていた、ルージュの付いたコーヒーカップ。
萌子先生、来てるんだ・・・
女にとってこれほど都合のいい男は居ないね、と萌子先生に言われたことがある。
ほんの少し含みのある声で・・
責められても仕方がない。
凛は私を抱かないし、何も求めない。ただ、穏やかな安らぎだけをあふれるほどに与えてくれる。真綿の要塞で私を守り続けてくれたから、この三年、生きてこられた。
私と凛の間に恋愛感情はない。それがいつ無くなったのかは、消えた一年の中にある。
ただ、誰も代わりにならない強いつながりのようなものが私たちを離さない。それは心の問題と言うよりも皮膚感覚に近い。
凛に触れていると、不安が消え心が軽くなっていくのに、なぜかいつも少しだけ哀しみが移ってくる。
それは、たぶん凛がまだ、私との恋の思い出に縛られているから。
分かっていても離れられずにいたのは私のわがままだった。
でも、椎名さんに惹かれたのは決して凛から離れるためではなかった。気がついたら、いつも彼を感じていた。
やや高いかすれた声や、シダーの落ち着いた匂い。
モニターを見つめる陶酔したような目、
悩んでいる時、手をあごに持って行く癖や、肩を寄せた時の体温までが、一つずつ私の中で特別なものに変わっていった。
それは今まで知っていたどんな恋とも違っていたので、私は、初め、これが恋だとも思っていなかったのだ。
でも、もう始まっている。抵抗するまもなく、椎名さんは全ての手順を飛ばしてここに来てしまった。
今から、彼は私の部屋に来る。
ラベンダーの香りがほんのり残った体にルーズなロングTシャツを一枚だけ着る。白地に薄紫の小さな薔薇が絞り染めでぼかしたように全体に散っている。電気ポットのお湯でカモミールブレンドのハーブティーを煎れる。
遮光カーテンを閉め、ベットの脇のソフトクリームの形をした照明だけを残し灯りを消すと、白い壁に、自分の影が浮かんだ。細い小さなこどものような影だった。
明るい光の中で迎える勇気がなかった。私は今どんな顔をしているだろう。
3分後、ちょうどお茶が蒸れたときドアがノックされた。
ゆっくりとドアを開ける。
椎名さんは入って来るなり私を抱きしめた。柔らかく包むようにそれでいて身動きできない強さで。こんなふうに抱くんだ・・薄いTシャツ一枚をすり抜けて、彼の肌の温かみが直に伝わってきた。初めになんて言おうか、どうやって迎えたらいいのか、いろいろ考えていたのに、何も必要なかった。
彼はこういう人なのだ。気がつくと、一番近いところにすっと立っている。
「いい香りがする」
息が首筋にかかった。
「お茶煎れたんです」
「後でいい」
返事はできなかった。
夜明けのキスとは全く違って、熱を帯びた求めるキスだった。
閉じた目の奥で、椎名さんの色が私を染めて、次第に重なっていくのが見えた。紅梅色に輝く光の環が強い波動で幾重にも広がっていき、しゃぼんのようにはじけた。
全身の力がすうっと抜ける。
Tシャツを脱がされ、何も身につけていない私を抱いてベットに運ぶと、彼自身も裸になり、ゆっくりと体を乗せてきた。壁の影が一つに重なった。
唇や指先から生まれる熱が、私の皮膚を溶かして混じり合い、二つの体に境がなくなって、ふれている部分すべてがゆるゆると椎名さんの中へと流れこんでいく・・・体の奥底から叫びだしたいような熱いうねりが波のように繰り返し訪れ、いつの間にか私たちは赤い燃えるような光に包まれていた。・
まるで始まりと終わりが同時にあり、ゼロがすべてになるように、二人の間に横たわる長い共有しないすべての時間を一気に飛び越えて、一つになった瞬間だった。
私たちは、きっと出会わなければならなかった。
これは再会だ。私はこの人を知っている。
全身でそう確信し、彼の腕の中で意識を失った。
久しぶりに夢を見ないで昼過ぎまで眠った。
目を覚ましたら、椎名さんはもう起きていて、私を引き寄せてキスをした。
子供みたいな寝顔が可愛かったという。
だからずいぶん長く眺めていたと。そんなことをすんなり口にするこの人を、とても好きだと思う。
そう思ったら、のどの奥が熱くなって、涙がこぼれた。
「どうして泣くの?」
「あなたが好きって、思った」
「うん、よかった」
そう言ってまたキスをする。
「私はずっとあなたに会いたかったのかもしれない。」
不思議な一体感に包まれたことをどう伝えていいかわからず私はそういった。
「僕もずっと会いたかったよ」
「え?」
「十六年前、僕たちは会っている。『水の檻』の撮影現場で・・・君はあの水姫だろう?」
打ち上げの夜、椎名さんがつぶやいた言葉が浮かんだ。
もう逃げられない、と、彼は言った。
なぜ椎名さんに会ったとき懐かしい感じがしたのか、やっとわかった。
この人の光と同じ色を、私は、覚えていた。
顔は思い出せなかったが、ほとんど赤に近いピンク色を、彼が発する美しい紅梅色を、私の脳はたしかに記憶していた。
その色とともに記憶されている感情は温かい。
きっといい出会いだったのだろう。
あまりにも話さなければいけないことがありすぎて、ひとつも言葉が出てこなかった。
凛とのこと、萌子先生、消えた記憶、そして椎名さんの過去、・・・膨大な時間が私たちの間には横たわっている。
「ゆっくり話そう、時間はいくらでもある。」
なぜいつもこの人は私のほしい言葉をくれるんだろう。
また涙があふれてきた。
「どうしたの?」
「なんだかいろんな事が一気にあふれ出して、自分の気持ちがわからないんです」
彼は私の髪を優しく撫でながら、今度は首筋にキスを落とした。
「本当はこんなに急いで君に近づくつもりじゃなかった。でも君が凛君の膝で眠っている姿を見たとき、どうしてもここに来たいと思った。気持ちが抑えられなかったんだ。ごめん」
「謝らないで」
「うん、ごめん」
椎名さんはまたそう言って私の頭を抱いた。感情の堤防が決壊したような椎名さんの思いは、部屋に入ってきてふれあった瞬間に一気に流れこんできた。
私はまだ彼を受け止めきれていない。
まだとても混乱していた。
「いつ、私があの水姫だと気付いたんですか?」
「初めて会ったときに、既視感があった。どこかで会っているような気がしたんだ。記憶のどこかに強い印象で残っているけれど、思い出せなかった。わかったのは、撮影中、有紗が遅れてカメリハの代役に水貴ちゃんが立った時だ。カメラをじっと見据えた眼は、あの少女だった。僕は息が止まるかと思った。」
「どうしてすぐに言ってくれなかったんですか?」
「十六年前、僕は映画の中の君にとても惹かれた。まるで恋をしたみたいに。高遠監督に君の所在を聞いたけれど教えて貰えなかった。女優として、もう一度会いたかったからだ。でも一度きりの約束だからと、断られたんだ。芸名も役の名前をそのままとって『水姫』だったし、どこの事務所にも所属していない全く謎の少女だった。マスコミも手を尽くして君を捜していたよ。
その子がいきなりに大人になってあらわれて、それも女優としてではなく、なんて声をかけるべきかとまどってしまった。」
「映画に出るつもりなんてなかったんです。ただ、一度だけでいいからって言われて」
「高遠さんに?」
「ええ」
椎名さんは私を抱きしめながら優しく耳元でささやいた。
「とりあえず起きて、何か食べに行こう、何がいい?」
遮光カーテンの隙間から強い日差しが差し込んで、飲み忘れたハーブティーが透明なポットの中で、きらきらと光っていた。
私たちの暑い夏は始まったばかりだ。