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水の檻  作者: 香野三弥
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第五章 萌子 <RINN>

凛目線

   第五章 萌子 <RINN>  


 

 

 『私の朝』唯一の従業員、10年この店を実質支えてきたバーテンダーの笹間さんはいつも4時には上がってもらうので、この時間は、僕一人になる。

 

 笹間さんが帰ったとたん、まるで計ったように萌子が現れた。

 たぶん、今日も朝まで論文を書いていたんだと思う。

 

 萌子は気が向くとこの時間にやって来て、コーヒーを飲んでから僕の部屋に泊まっていく。

 

 恋人という言葉が一番近い関係だけど、お互い別の相手が心の半分を占めている。

 

 萌子は三年前の事故の時、水貴の記憶障害を担当した精神科医で、今も定期的にカウンセリングを行っている主治医だ。

 彼女の得意とする催眠療法に否定的な大学病院の方針に合わず、友人のカウンセラーと二人で一年前からこの近くで個人クリニックを開いている。




 水貴の症状は正確には解離性健忘という。

 事故や事件による強いストレスからのがれるために一定期間の記憶を喪失してしまう障害で、数分の事もあれば何年分も、あるいは全ての記憶を失うこともあるそうだ。


 水貴の失った時間は約一年。


 特に、ある人物に関する一切の記憶が無くなっていた。まるですっぱりと関連データを削除したように、消えてしまっていたのだ。


 事故から一ヶ月後にやっと意識が戻った水貴は頻繁にパニックを起こし、精神科に病室が移された。記憶は消えても、事故当時の恐怖の感覚だけが残っていてそういった現象を引き起こすのだという。


 付き添っていた僕の精神状態も決して当時は良好とは言えなかった。


 実際、僕自身も壊れていきそうだったのだ。


 事故の半年前、僕の前から姿を消した水貴に何があったのか。

 記憶を失った水貴から聞くことはかなわなかった。


 水貴がいなくなってからの僕は、絵を描くことができなくなっていた。

 キャンパスに向かっても、筆先からこぼれるように色が抜けていき、周りのすべてから色彩が奪われていった。当然、大学に課題を出すこともできず、ベリーハウスの自室に引きこもり状態になっていた。 


 萌子はまず最初に僕のカウンセリングを行った。初めは心の内をさらけ出すことに抵抗があったが、彼女は辛抱強く、時間をかけて僕の話を聞いた。それは新鮮な体験だった。全くの他人に、裸の自分を見せるに等しいのに、水貴との出会いから、僕らがどう過ごしていたのか、水貴が忘れてしまった一年の間に何があったのか、自分が知り得るすべての情報を隠さずに伝えた。この人なら水貴を救えると思ったのだ。


 そして、僕の勘は正しかった。


 催眠療法に長けている萌子の治療は的確で、言葉を話すことさえできずに混乱していた水貴は、二ヶ月で仕事に復帰することが出来た。


 僕はその診療にすべて付き添った。催眠という治療法に、少なからず不安を感じていたからだが、本当の理由はそれだけではなかった。水貴の記憶が戻ることを僕は畏れていたのだ。

 


 結果、萌子に大きな借りを作ってしまった。


 萌子は、水貴にとって最良の選択をするために、いやむしろ僕にとっての最良の選択をしたために医師としてのモラルを踏み越えてしまった。


 僕の共犯者になってくれたのだ。


 僕たちは、少しだけ水貴の記憶を操作した。そして水貴が入院している間に彼女の部屋を整え、一年間の記憶に触れるものの中から、まずいものだけを処分した。改ざんされた記憶は水貴の回復を早め、以前と変わらぬ落ち着きを取り戻していった。


 だから僕は萌子の前でだけ、何も隠さずに素のままの自分でいることができた。そして、秘密を共有した二人が近しい関係になるのに時間はかからなかった。萌子もまた、当時つらいことがあって安らげる場所を求めていたからだ。



「先、部屋に行ってるね、水貴、来るんでしょ?」


「椎名さんと一緒にね・・」


「複雑?」


「別に・・・」



 どう答えようと、どうせお見通しなので無駄だった。彼女はしょうがないねという顔をして席を立った。



「今度椎名さん紹介してね」


「なんで?」


「いい男だから」



 嫣然と、という形容がぴったりの萌子のほほえみは蠱惑的だった。

 八歳も年上と言うことを差し引いても僕の手の中にいるような人ではないと思ってしまう。

 


 ちょうど萌子がビル内部の裏口から出て行ったといれ違いに、表のドアが開き、朝日をしょった二人のシルエットが見えた。      



「お疲れ様、終わったんですか?」


「なんとか無事にね・」


 椎名さんが笑った。


「何か、残りものある?」


 片付けようと持ち上げた、口紅の付いたコーヒーカップをちらっと見ながら水貴が言った。いつもこの時間に顔を出すときはおなかを空かせている。



「あるよ」


 スモークチキンとクリームチーズのパニーニを温めて、煎れ立てのコーヒーを出す。


「おいしそー、おなかぺこぺこだったの」


 そう思ったから用意してあったんだ・・。

 化粧っけのない水貴の透ける肌が、徹夜明けだというのに輝いている。椎名さんのせいだろうか。


「編集開けにこんな贅沢ができるなんて、ここに来て正解だな」


「こんな物で喜んでもらえるならいつでもどうぞ」



 サングラスをかけている間は営業中・・私情に流されずにすむ。


 奥の厨房で片付け物をしながらカウンターの二人を眺める。椎名さんの笑顔は爽やかだ。なんというか潔いほどのクリーンさがある。こんな姿を見ていると、聞いていた彼についての黒い噂がまるで別人のことのように思えてくる。

 



 事件は十二年前に起きた。アマチュアで数々の映画賞を総なめにした彼が、プロとしてデビューするはずだった映画がクランクアップした瞬間、その悲劇は起こった。

 ロケ現場で主演女優がピストル自殺したのだ。

 その女優は彼の恋人だった。妻を家に残し彼はその女優と暮らしていた。不倫の果てに最悪のかたちで二人の仲は終わった。そして完成した映画が公開されることはなかった。

 

 椎名貴志は、その直後から二年間姿を消した。

 マスコミは反論する存在がないのをいいことにあらゆる憶測と派生するスキャンダルに群がり書きまくった。最後には彼が殺人者であるがごとく書き立てるものまで現れたが、それでも彼は沈黙し続けた。


 世間が騒ぎを忘れた頃、スペインの片田舎を舞台に撮った短編映画が、ヴェネチア国際映画祭で新人賞を取り、彼の名が再びマスコミをにぎわすことになった。


 再デビューを果たした彼は順調に作品を発表し、今に至る。 


 十二年前の事件などとうに噂の時効を過ぎているのに、皆の記憶に新しいのは、その時の映画の公開が最近決まったためだった。 

 二ヶ月前、椎名さんの最新作が同じヴェネチア映画祭で金賞に輝いたのが発端だった。

 彼の幻のデビュー作を待ち望むファンの声は大きく、また十二年という歳月が彼の気持ちを溶かしたのか、上映を承諾した。

 それと同時に、週刊誌が過去の事件をセンセーショナルな記事で蒸し返したわけだ。その後の離婚、次々と噂される女性関係と、話題に事欠かない椎名監督はマスコミの格好の餌食だった。


 その中に、どれほどの真実があるのか僕にはわからない。でも、いつも女の影がつきまとっていることは確かだった。彼がたどった十二年がどんな時間だったのか、関わった女の数ではなく、心の中が知りたいと思った。


 目の前で恋人に死なれた男が、どうやってその恐ろしい光景を記憶の中に封印したのか・・・彼の抱える闇は、スキャンダルの何倍も深いはずだ。


 本当に彼でいいのか?まだ僕はどこかで迷っている。

  


「凛、ごちそうさま・・・じゃ、お先に」


 椎名さんにコーヒーのおかわりを注ぎながら、水貴を見送る。

 去り際に、水貴はどこか戸惑ったような表情を浮かべていた。


 視線を戻すと椎名さんは何か言いたげに僕を見た。わざと水貴を先に行かせたのはわかったので覚悟を決めた。



 サングラスをはずしてカウンターに置く。ここからはプライベートだ。


「水貴ちゃんはとても優秀な記録だね。」


 当たり障りのない仕事の話からきた。


「仕事はかなりできるみたいですね。普段はいつも半分眠ってるようなやつですけど・・」


「編集のセンスが抜群にいい。僕がここでつなぎたいと思っている、まさにその瞬間を彼女は選んでいく。5フレと狂わない。」


「5フレ?」


「ああ、1秒の6分の1。」


「1秒の6分の1ですか・・・なるほど。自分の気持ちを入れられるのは編集だけだから、一番好きだってよく言ってます。もっとも好きにやらせてくれる監督ばかりじゃありませんけどね」


「僕は全部まかせて後ろで寝てた・・」


 言葉がとぎれ、間があいた。


「で、そんな話がしたいわけではないですよね」


「ふふ、かなわないね。」


「僕はここで毎日客の話を聞き続けてるんです、わかりますよ、そのぐらい」 


 椎名さんは僕の目を真っ正面から見た。


「これから、彼女の部屋に行くよ」


 心臓をぎゅっと捕まれたような気がした。


「どうしてわざわざ僕に?」


「隠す気なら、ここへは来ない・・・」


「そうですね・・」


「止めないの?」


 艶のある笑みが口の端に浮かぶ。一瞬で人を惹きつける色気が彼にはある。


「止めてほしいですか?」


「いやだ」


 子供のような口調に思わず吹き出しそうになる。死にそうなぐらい落ち込み始めてるときに肩すかしを食らい、力が抜けてしまった。なんて人だろう。大人の落ち着きと少年の無邪気さが、自在に行き来する。


 笑いをこらえた僕に、軽く右手をあげると彼は立ち去った。

 椎名さんが水貴を見る目は、本当に穏やかで優しい。大切な物を丸く包む空気のようにそばにいる。なによりも水貴がとても安定しているのがわかる。今度こそ、水貴は僕の元を去っていくだろう。


 それは望んだ事であると同時に、一日でも延ばしたい瞬間だった。

 彼が本気であるなら、伝えなければならない。

 僕が封印してしまった全てを。



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