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水の檻  作者: 香野三弥
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第三章  椎名  <RINN>

凛目線

   第三章  椎名  <RINN> 

  

 

 冷蔵庫の扉が開けられた。


「そこのボトルどれでもどうぞ」


 水貴が僕の膝で眠ってからしばらくすると、今度は椎名さんが登場した。

冷蔵庫からミネラルウォーターをとると歩きながら500のボトルを半分ほど一気に飲んだ。


「広いキッチンだね、料理するの?」


「しますよ、店でも出してますし」


「パーティができそうだ」



 確かにキッチンは無駄に広い。元々居室だったものを改装したため十畳以上ある。ダイニングというべきかもしれないが作りはキッチンだ。アイランド型というタイプのはずだが、シンクに並んで本来は調理台であるべきところに8人がゆうに座れるテーブルがある。

 無垢の一枚板の天板は、オーナーの衝動買いの産物だが、僕も水貴も気に入っている。



「よく眠ってるね」



 椎名さんは、これ以上ないくらい優しいまなざしで水貴を見た。


 何も応えずティントを口に運ぶ。エンドレスにしたサティーはグノシエンヌ第1番を奏で始め、エッシャーが描く不条理な世界に迷い込んだような不安感をかき立てていた。


 細身で色白の自分に比べ、椎名さんはがっしりとたくましい。

 壮年期の大人の男が持つ穏やかな落ち着きがあった。道ですれ違ったら男でもふり向いてしまうようなどこか険しい美しさが、その魅力をさらに完璧に補強していた。


 そばに来ると空気が柔らかく押されるような威圧感がある。


「二人の時間をじゃましたかな」


「いいえ」


 

 僕は、穏やかに微笑んでいただろうか。


 椎名さんは、水貴の足の先にある肘掛け椅子に腰を下ろした。


 この部屋では、ソファーや椅子の類は横一列に壁に沿って並んでいる。

 だから、鏡の中に全てが存在する。部屋も自分も相手も。


 僕らは向かいあう必要がなかった。

 いつも水貴は僕の隣にいたから。



「眠れないんだ、体は寝たがってるけどね」


「撮影の終わった日は、水貴もよくそう言います」


「そう・・・君、年はいくつ?」

 


 椎名さんは鏡の中の僕を見ずに、体をこちらに向けた。

 この人の前で歳を口にするのか・・・僕の躊躇は本能的なものだった。


「24です。」


「若いな、彼女は28だっけ?」


「ええ。とても28には見えないけど。」


「確かに子供のようなところもあるね」



 水貴は155センチと小柄で、折れそうなほど細いからだをしている。

 肩に掛かる髪を切り、緩くウエーブの残るショートにしてからは余計に小顔に見える。

 キメの細かい白い肌にうっすらとそばかすが浮いて、ノーメイクだと本当に少女のようだ。ただ、黒目がちの大きな瞳は、いつも少し憂いを含んでいて大人の色気を感じさせる。


 

「水貴が好きですか」


 一瞬、椎名さんの表情がゆらいだ。


「ふた月そばにいた。それで、触れてみたくなった。」


 僕は彼のその答えが気に入った。素直に腑に落ちたと言うのだろうか。


「触れて、何を感じました?」


「危うさ」


「・・・・」

 

「消えてしまいそうだった」


「そうですか」


「それに半分眠っていたしね、体も心も」


 彼は水貴を、とても柔らかな眼で見つめた。



「そうしていると恋人同士にしか見えないね、君たちは」


「心の中まで見えますか」


 僕の手は自然と水貴の髪をなでていた。


「いや」


「そういうことです、目に見えることだけが全てじゃない」


「では質問を変えよう。彼女と寝たことは?」


 彼の目には有無を言わせぬ力がある。僕はゆっくりと自分のことばを確かめるように発音した。


「ありますよ」


 言ってから、考える。


 僕と水貴は確かに愛し合っていた。


 それは僕にとって奇跡の時間だったと思う。

 初めて私水貴が僕の前に現れてから五年、僕はずっと水貴を見つめ続けてきた。

 気づいてもらえるまでに二年。

 

 だが、やっと始まった恋はすぐに終わりが来た。

 それからの三年、水貴は僕の膝をライナスの毛布にしてずっと眠り続けている。

 

 水貴が恋をする。

 

 僕はその恋を感じて、ただ抱きしめるしかない。

 

 鏡の中の僕は、いつもと変わらず、少し、笑ったような顔をしていた。



 椎名さんはしばらく無言で僕らを見つめていた。そして全てが分かったと言うように穏やかに微笑んだ。



「君はもしかして・・」


「え?」


「いや、僕を、ここにおいてもらえないだろうか」


 一瞬彼が何を言ったのか分からなかった。


「ここで暮らしたい」



 左手が触れていた水貴の頭がゆっくりと動いた。鏡の中の彼女は、椎名さんをまっすぐに見つめていた。彼もまた、水貴の視線を強い光で捕らえた。


 急速に部屋が広く膨張し、僕の眼は鏡の中の二人を見ていたが、鏡は、はるか向こうで彼らを映していた。


 一つだけ開いた東側の窓から、濃厚な夏の風が突風のように吹き込み、エアコンで

調整された室温を一気に三度ばかり引き上げた。 



 彼は何を言いかけたのだろうか。

 




 二日後の夕方、椎名さんは車の後部座席に三つのトランクを積んでやって来た。



 元々モデルクラブの寮だったので、家具は備え付けだし、かなり贅沢なバスタブもある。たしかに空き部屋のままにしておくにはもったいないような部屋だ。 

 

 パリにいるオーナーにメールで許可を求めたところ、速攻でOKの返信が来た。すでに椎名さんには、どうぞと言ってしまっていたから、ほとんど事後承諾だ。

 部屋代は管理料としておまえにやると言われたので、いくらにしようか考えている。僕が転がり込んだときも、たいして事情も聞かず住まわせてくれた。

 水貴の事にしても、相変わらず来るものは拒まない。


 オーナーは天性の自由人で人間が大好きな人だからかもしれない。




 椎名さんは青山の事務所兼用のマンションをそのままにして、着替えと最小限のものだけを持って、引っ越してきた。


 部屋は最初に泊まったブラックカラント。バストイレ付きでキッチンはない。トランクを部屋に運ぶのを手伝った。


「ネットは使えるかな?」


 ノートパソコンをサイドテーブルに置きながら椎名さんは聞いた。


「このフロアは、無線ランになってますから大丈夫ですよ。」


「助かるよ」


「少し長めの旅行みたいですね」


「あちらも引き払えないからね」


「水貴は旅先の相手というわけですか?」


 ちょっときつかったか、でも釘は刺しておきたかった。


 椎名さんはふりむいてじっと僕の目を見た。


「ちがうよ。」


「そうですか」


「ふふ、君はほとんど保護者だね」


「近いですね」

 


 僕はそのまま店の開店準備に入り、彼は水貴が待つ編集室に戻っていった。

 今夜は徹夜になるらしい。


 いつものように客の話を飲みくだしながら、これからの生活について思いを巡らしていた。椎名さんはただ水貴のそばにいるためだけにここに来たのだろうか?

 

 気がついたら、いいですよ、と答えていた。

 

 僕は何一つ質問しなかった。


 現実に彼がやってきて今更ながら混乱している。自分の決断が僕ら三人にどんな未来をもたらすのか・・・



 それでも水貴と僕の間で止まってしまった時間が、かちりと音を立てて動き始めたことだけは確かだった。



   


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