第十七章 Colorful <MIZUKI>
水貴目線
第十七章 Colorful <MIZUKI>
都心で暮らしていると、新月の夜がこんなにも暗いものだと、気づけなかったと思う。昼間の熱気が嘘のように消え、ひんやりとした海風が頬を撫でていく。
乾き始めた涙を手の甲でぬぐうと、後ろから私を抱きしめていた、椎名さんの手がわずかにゆるんだ。
「これは僕の考えなんだけど、もし、君が車に乗らなかったとしても、陽子さんは同じ行動に出ていたと思う。むしろ君が乗っていたから、合田さんは死ななかったのかもしれない」
「えっ・・・?」
思わず腕の中で振り向いた。
私は、椎名さんが言わんとしている事が分からなかった。
椎名さんは、私の両腕をつかみ、目を見てゆっくりと言い聞かせるように話した。
「もし、二人きりなら陽子さんの気持ちに引きずられて、共に死ぬことを選んだ可能性は高いと思う。だが、君が乗っていた。彼は水貴を道連れにすることはできなかったんだ。だから必死に車を止め、君を助けた。僕は、そんな気がするんだ」
そうだ、合田さんは倒れていた私を抱きしめ、陽子と呟いた後、君が無事で良かった、と言った。確かにそう言ったと思う。
私が憎悪の感情として受け止めたものは、陽子さんを一人で逝かせた自分自身への怒りだったのだろうか。その強烈な感情の嵐にさらされた瞬間、私は意識を失ってしまったから、彼がどんな表情をしていたのか見ることはできなかった。
椎名さんの考えは正しいのかもしれない。私の存在が、合田さんをこの世に引き留めたのなら、良かった、と思う。
でも、それで私の罪が軽くなるわけではない。
私の存在が陽子さんを追いつめ、そのことに鈍感でいた私の罪は決して消えることはないのだ。
椎名さんは、何も答えない私の目をじっと見つめ、引き寄せ強く抱きしめた。
「水貴のせいじゃない」
首を振る私の頭を撫でながら、何度も、大丈夫、君のせいじゃないと言ってくれた。この人は、私の苦しみを丸ごと引き受けてくれている。
私はその優しさに耐えきれず、声を上げて叫ぶように泣いた。
許されることを望んではいけない、その思いが強いほど、守られている自分を責めたくなるのに、この人にすがることを止められなかった。
温かくて、とても強い光が私を包んでいた。そのあまりに清冽で美しい色に全身が染まってゆくのを感じながら、私は叱られた子供のように泣き続けた。
瞼に光を感じて、私は目を覚ました。
ベットから体を起こすと、窓際に立つ椎名さんの姿が見えた。
バルコニーの先には、一面の青い海がどこまでも広がりきらきらと輝いていた。
こんなに海が近かったんだ。
開いた窓から潮の香りを含んだ風が吹いてきて、少し汗ばんだ前髪を揺らした。大きく息を吸いむと、清浄な空気が肺の中を駆け抜け、体は一気に目覚めていった。
何があっても、朝は必ずやってくる。
「目が覚めた?」
椎名さんが歩いて来てベットの端に座り、私の頭を撫でる。まるで子供をあやすような手つきだった。だから素直に言葉が出た。
「昨日はごめんなさい」
「何が?」
椎名さんは、そう言って笑うと頭を引き寄せ、唇に軽くキスをした。
「シャワー浴びて着替えておいで、バルコニーで朝食を食べよう」
「バルコニーで?」
「そう、頼んであるから」
「でも、着替えは持ってきてないから」
「大丈夫」
「え?」
パウダールームに行くと、白い綿レースで織り上げられたサマードレスが掛けられていた。ローウエストの切り替え部分からブルーの小花を刺繍したシフォンが重ねられ、かわいらしさの中にも大人の雰囲気が漂う上品なドレスだった。
そばのバスケットには、淡いブルーのキャミソールとブラ、ショーツのセットが用意されていた。
いったい、いつのまに?
昨日は、化粧も落とさず泣き疲れて眠ってしまった。鏡に映った自分の顔があまりにも酷くて情けなかった。今の私にこのドレスが似合うのだろうか。
嬉しさはもちろんあったが、戸惑いの方が大きかった。
シャワーを浴び、ドレスに着替えて部屋に戻ると、椎名さんはバルコニーにいて、すでに朝食がテーブルに用意されていた。
「すごく似合うよ」
椎名さんはそう言って目を細めると、私の手を取って椅子に座らせた。
「ありがとうございます。でもびっくりしました。いったいいつこれを?」
「本当は、明日からここに来ようと思ってたんだ。サプライズのプレゼント、もう車に積んであったから」
「そうなんですか」
「下着のサイズ、大丈夫だった?」
「ぴったりです。もう信じられない、どうして分かったんですか?」
私は恥ずかしさも手伝って、少しすねたような言い方になってしまった。
椎名さんは、プッと吹き出すように笑いながら
「それは、まあ、触れば分かるかな」
と、こともなげに言うので、ますます顔が熱くなった。忘れていた、この人はいつもこんな風に一息に垣根を飛び越えてくるのだ。すこし強引に、そして優しく私の心と体を開いていく。
テーブルには白の食器で統一された、見た目も美しい朝食が並んでいた。
小型のクロワッサン2種とワッフル、見るからにふわふわのオムレツは、きのこのアメリケーヌソースの上に浮いていた。カクテルグラスにはビシソワーズスープ、薄く削ったチーズと厚切りベーコンがたっぷりと乗ったシーザーサラダ。真っ赤なブラッドオレンジジュースが青い海をバックに輝いていた。
口に入れた瞬間、間違いなく幸せな気持ちになると思っていたのに、私の舌はそれを拒絶した。料理の味が分からなかったのだ。何を食べてもわずかな苦みが口の中に残った。
昨日試写室で吐いてから、何も口にしていなかったので、胃が荒れているのかもしれない。気づかれないように食事を続けたが、そんな私の様子に椎名さんはすぐに気づいた。
「どうした?食欲ない?」
「そんなことないです」
「水貴は嘘つけないな、この料理を前にして美味しいの一言もないのは普通じゃない」
「おなかは空いてるんです、でも・・・ 味が分からない」
「それはきついな、水貴は食いしん坊だから」
「食いしん坊じゃありません、美味しいものが大好きなだけです」
ちょっとムキになって反論した私に、元気はあるみたいだな、と言って笑った。
「どこも具合は悪くないです」
「じゃあ、もう少し食べられるかな?昨日の夜も食べてないだろう?体がまいってしまうよ」
「ごめんなさい、心配ばかりかけて。咲妃ちゃんにも申し訳ない、椎名さんずっと私といるから」
「咲妃は気にしなくていい。今日から沖縄だよ。ちょっとのつもりが結構本格的に仕事入れられちゃったらしい」
「そうなんだ、すごいな。咲妃ちゃん」
ブラッドオレンジジュースを一口飲むと、味があった。
「これ、分かる、美味しい」
「そうか、すぐ戻るよきっと」
「はい、椎名さんが言うとそうなる気がします」
椎名さんは、少しまじめな顔で私をじっと見つめると
「いつまで敬語なの?椎名さんも、そろそろやめない?」
私は突然そう言われて固まった。意識してそう呼んでいた訳ではなかったので、指摘されて初めて気がついた。戸惑っている私に、たたみ掛けるように難題が降ってきた。
「貴志だよ、僕は水貴って呼んでるでしょ?」
「む、無理です、いきなり呼び捨てとか、椎名さんは凄く大人だし、監督だし、なんか恐れ多くて、絶対無理です」
自分でも何を言ってるのか分からないような言い訳を並べていた。
「なんだよそれ、僕は水貴の恋人で、君に夢中なただの男だよ」
切れ長の綺麗な目を、最大限に優しく細めて見つめられると、それだけで体の奥が疼いた。
「じゃあ、練習してみようか、貴志って言ってごらん」
「えー・・・貴志、さん」
「さん、いらない」
「お願いです、貴志さんからにして下さい」
「敬語なし!」
「お願い、貴志さんからにして・・・」
「よし、今日のところは許してあげるよ」
「もう、信じられない、びっくりして食べるどころじゃなくなった」
椎名さんは声を上げて笑った。私もつられて笑顔になってしまう。
彼が、私の気を、陽子さんの事からそらそうとしているのだと、分かった。体に起こる反応は気持ちだけでコントロールすることはできない。食べ物に味がなくなったのは、精神的なものから来ているのかもしれない。
「ここの料理はめちゃくちゃ旨いんだ。水貴が美味しく食べられるまでここにいようか」
「でも、このお部屋、スウィートですよね、凄く高そう」
「大丈夫だよ、ここは数人の会員で持ってる特別室なんだ。僕もオーナーの一人」
「そうなんだ」
私は、椎名さんのプライベートをほとんど知らないことに気づかされた。私の記憶障害のせいで、一気に距離が近づいたと思っていたが、私たちはまだ始まったばかりなのだ。これからゆっくりと彼の事を知っていこうと、改めて思った。
急な打ち合わせで呼び出された椎名さんは、私を一人残していくことをもの凄く心配して、とりあえずベリーハウスに戻って待つかとまで言われたけれど、私はそれを断った。
今戻れば、椎名さんに輪をかけた過保護の凛が、どれだけ私を心配し甘やかすか目に見えていた。自分の世界を取り戻し、やっと絵を描き始めた凛の心を乱したくはなかった。これからは姉として、守られるのでなく守る側に立ちたいと思う。
「しばらく、ここで過ごしたい。海のそばでバカンスなんてほんとに久しぶりなの。一人でも大丈夫だから、夜には戻ってくるのでしょう?」
「もちろん、なるべく早く帰るよ。でも約束してくれるかな、お昼ご飯はちゃんと食べること。無理をしないこと、それから、余計なことは考えるな」
「わかった。約束する」
そう言った私の頭にポンと手を置くと、じっと目を見てふわっと抱き寄せられた。
「水貴は子供みたいに可愛いな、抱きたいけど時間がない」
「その台詞、矛盾してない?」
「してないよ、ほんとの子供じゃないだろ」
続きは今夜ねと言いながら、ついばむような軽いキスをして私を解放した。
たったそれだけのことなのに、離れたとたんにその胸の中に戻りたくなる。
椎名さんの車に乗り、近くのショッピングモールに落として貰った。
ほとんどの店はマリンルックやリゾートウエアが大きく売り場を占め、華やかな色彩が溢れていて、週末のリゾート地らしく海水浴に来た若者たちでモール内は賑わっていた。
私は下着や必要なものを揃え、普段は白い服ばかりでまず着ることのない、原色のワンピースと、Tシャツやショートパンツ、ビーチ用のパーカーを選び、サングラスと帽子も合わせて買った。
海に行きたかったので、買ったTシャツと短パンに着替え、素足に白いサンダルを履く。大切なドレスは綺麗に包み、お店で貰ったノベルティの籐籠のバックにしまった。それから本屋に行き、休みに読もうと決めていた文庫本を三冊買い、海岸に向かった。
葉山の住宅街の裏道を一人のんびりと歩く。大通りは人であふれ、その喧噪に疲れ始めていた私は比較的穴場と言われる小さな海岸に向かっていた。ほんとにこんなところから海に出られるのだろうか。グーグルマップでその先を確認しスマホをしまう。
車が入れないその路地は、両側の住宅から大きくはみ出した木々が、適度に太陽を遮り、古い石畳の道に濃い影を落としていた。アブラゼミの鳴き声が四方から輪唱のように響き、サングラスを取り上を仰ぐと、雲一つない真っ青な空から容赦ない太陽の熱が降り注いでいた。目に入った光があたりを一瞬真っ白に変えた。
そして緩いカーブを曲がった先に、海はあった。
パラソルの下で照りつける太陽を感じながら、とろけるような熱気に包まれていると、読みたかった本は20分で読めなくなり、何も考えられなくなった。強制排除されていく思考を見送って、目を閉じて仰向けになると、背中から地球の中心の熱にむかって吸い込まれていくような気がした。このままじっとしていれば簡単に死ねるな、と思った。
死は、どこにでもたやすく転がっている。こんな明るく解放された場所にいても、誰でもほんの少しのきっかけがあればそちら側に行ってしまう。生きることの方がずっと努力がいるのだ。
自分の身体と心をしっかりと結んでいなくては簡単に魂は抜けてしまう。
真っ白になって意識が飛ぶような太陽の下で、何も考えず頭を空っぽにして過ごした。
そうしなければ私は引きずられ、陽子さんの落ちた闇をのぞき込んでしまっただろう。
椎名さんは昨日の夜、言ってくれた。
十年経てば、そんなこともあったと、思い出せるようになる。その時間を、ずっと一緒にいようと。時間はかかるのかもしれない、でも、椎名さんが真莉絵さんの居場所を胸の奥に作ったように、私の中でこの事件も穏やかに思い出せる日が来るのかもしれない。
携帯が鳴り椎名さんが迎えに来るまで、私は約束通り海の家でお昼ご飯を食べ、必要な水分をとりながら、ずっと海岸で過ごした。
いい加減にしないと死ぬぞ、と怒られたが、浜に下りてきた椎名さんを私は引き留めた。
まもなく日の入り。二人で見たかった。
大きな太陽がオレンジの光の玉となって海面に近づいていく。フレアがゆらめき怪しいほどの美しさだった。スローモーションのように、ゆっくりと、でも確実に太陽は沈んでいく。海面に金のさざ波が広がり海岸まで光の道ができていた。二人でその道を渡って太陽のそばに行ったら燃え尽きてしまうのだろうか。
「凄いな、ここの夕陽は」
「強いです、とても。」
二人で見た真鶴の夜明けとは、また違った迫力だった。
隣に座る椎名さんの横顔がオレンジに染まっていく。
太陽が沈みきった瞬間、私はその唇にキスをした。
彼は少し驚いたように私を見つめると、そっとキスを返してくれた。
ホテルに戻り、シャワーを浴びて出てくると、ソファーに座る椎名さんの前のテーブルに一冊の台本が置かれていた。
「これって」
「そう、水貴にオファーした映画のだよ」
「本気なんですね」
「とにかく読んでくれないか」
私は隣に座り、台本を手に取った。白表紙でまだ決定稿ではないようだ。タイトルにも頭に(仮)と言う文字がある。
「『イリスの瞳』ギリシャ神話の女神ですね」
「そう、僕もシャワー浴びてくるから、ゆっくり読んで」
新しい台本を開く瞬間はワクワクする。そこから広がる世界に想像の翼を広げると、頭の中で映像が動き出すのだ。私は自分がオファーを受けた作品だと言うことも忘れ物語の行方に没頭した。
時間も忘れ一気に読み終わり、その内容の素晴らしさにため息を溢した。ふと気づくと椎名さんが隣に座っていた。
「あんまり真剣に読んでいたから声かけられなかったよ」
「ごめんなさい、面白くて夢中になってしまって」
「それは、嬉しいけど、レストランの予約時間が過ぎた。そろそろ行こうか?」
「えっ、もうそんな時間?」
ライトアップされたテラスから気持ちの良い風が吹き込み、海側に円形に張り出した瀟洒な作りの店内は、すでにほぼ満席だった。宿泊客以外にも人気が高いレストランらしい。
テラス横の見晴らしの良い席に案内される。白いクロスが掛けられたテーブルには一輪のハイビスカスが生けられ、瑠璃色のカットグラスにキャンドルが浮いていた。ゆらめく炎が美しく見えるちょうどい暗さの照明が、ゆったりと配された席のプライベート感をより高めていた。
「たくさんの方がいるのに、とても落ち着きますね」
「そうだな、今夜は軽めのコースを頼んであるよ。食べられそうかな?」
「もちろんです。お昼もちゃんと食べて、味も分かりました」
「それは良かった」
「じゃあ、まずは乾杯」
用意されたシャンパンのグラスをそっと合わせる。
「美味しい、辛口ですっきりしてるのにまろやか」
「料理に合わせてセレクトして貰ってるから楽しんで」
「はい!」
まだ完全ではないけれど、舌の感覚は戻りつつあった。前菜からすべての料理、それに合わせられたワインは絶品だった。
食べながら、椎名さんは映画の内容について詳しく話してくれた。今日の打ち合わせが主演の加賀涼介との顔合わせであったことも。
「加賀涼介、ぴったりですね。じゃあヒロインの琴音は?」
椎名さんは、ふっと顔を崩して笑うと組んだ手に顎を乗せ、私をじっと見つめた。
「まだ決まってないよ、たった今、熱烈にオファー掛けてるところ」
「え?ええ~~~!」
私はあまりに驚きすぎてその後、椎名さんが話したことの半分も記憶に残らなかった。
翌日、二人で遅めの朝食を取ると、椎名さんは、休暇が取れなくなった事をしきりに謝りながら打ち合わせのため事務所に戻って行った。
準備稿が上がり、走り出したプロジェクトは、どのチームスタッフも彼を必要としているから当然のことだった。
私は、椎名さんの監督としての才能と情熱が、どれほど素晴らしく比類ないものであるかを知っている。この映画に懸ける思いを誰よりも応援したい。だからこそ、もし私がヒロインを引き受ける事で映画のクオリティーを落とすことになったら耐えられないと思った。それは想像するだけで恐ろしく、昨夜は、考えさせて欲しいと言うことしかできなかった。
私は、台本を持ち海岸に向かった。あの狭い石畳の路地がとても気に入ったので、今日はその小道の途中にあるカフェで台本を読もうと思った。
一人で過ごすことは少しも苦にならなかった。子供の頃から私は一人遊びが得意だったし、一人で見る景色は、誰かと一緒に見る景色と全然違う形や色や香りを持っていたから。たとえば、友達と遊んでいるとその子が私に触れた瞬間、光となったその子の色が私に移ってくる。友達の体温や汗の匂い感情の動きが、その色と共に周りの景色を少しだけ変えていく。
それは決して嫌なことではなかったけれど、何の影響も受けないそのままの風景を感じることは、とても素敵な事だったのだ。
『Cafe言の葉』の外観は古民家の佇まいをそのまま生かしてリニューアルしてあり、小さな手作りの看板を見落とすと個人のお宅かと思ってしまうほど目立たなかった。
店内は使い込まれた天然木のテーブルと椅子がゆったりと置かれ、年季の入った茶箪笥や飾り棚にはオリジナルと思われる手びねりのカップが幾つも置かれていた。お好きなところへと言われ、私は奥の窓際の二人席に座った。
すらりと細く色白の三十半ばぐらいの女性が、お冷やを置いた。オリジナルブレンドをと言うと、お好きなカップをお選び下さいと返ってきた。
そういうことか、と棚に並ぶカップのそばに行き、ぱっと目に飛び込んできた手鞠を描いた青磁のカップを選び、渡した。
まろやかな飲み口で、苦みと酸味のバランスが絶妙のブレンドだった。器の美しさがさらに味に深みを与えているのかもしれない。『Cafe言の葉』とても居心地の良い空間だった。
珈琲の香りの中で台本を開き、今回は琴音の心情を追いながら読み込んでいく。何度か戻り、読み返すほどに『イリスの瞳』の世界にどんどん引き込まれていった。
琴音は普段は挿絵画家でありながら、裏では天才的宝石鑑定士という、二つの顔をもつ女だった。繊細さと強さを併せ持つ琴音は怖いぐらいに魅力的で、それ故の危うさに誰もが惹かれるだろう。
演技経験のない私が挑戦するには、あまりにも難しい役だった。
ふと気がついて、壁に掛かる時計を見ると、すでに2時間近く経っていた。
私は、台本を閉じ海岸に向かった。
昨日と同じ位置のパラソルを借り、熱気をはらんだ砂の上にシートを敷き体を横たえる。2時を過ぎたばかりの太陽は猛々しいほど強く、パラソル越しでも私を捕らえ体を貫いてゆく。全身の血液がゆっくりと熱を孕み、内側から毒を放出させはじめた。
この熱が私には必要だった。この圧倒的なエネルギーの中で自分を壊し生まれ変わりたかった。
私はいつも誰かに守られている。記憶を失って三年間は凛の膝をよりどころに、現実感のない世界で浮遊していた。椎名さんとの出会いで目覚めても、まるで依存する相手を乗り換えたようにその腕の中に守られている。
戻った記憶にショックを受け、泣きわめき悲劇のヒロインのように自分を責める。冷静にそんな自分を振り返れば、すがる相手がいた故の、ただの甘えでしかないと思った。
私はこの二日ですでに体は回復し、美味しいものを食べ、飲み、椎名さんと笑い、買い物をし、道に落ちる木陰を気持ちよいと思い、夕陽に圧倒され、珈琲カップの美しさに惹かれ、台本に感動し時を忘れた。
自分は薄情だと思った。だが、合田さんが陽子さんの死を三年かけて過去のものとしたように、私にも三年はちゃんと経っていたのだ。生々しかった事故の記憶は繋がった三年間の記憶に飲み込まれ、急速に遠いものとなってしまった。
私の後悔も、罪の意識も、遅すぎたのだ。
合田との関係を誤解したまま、一人で逝ってしまった陽子さんの無念を、私は決して忘れない。
もう償うこともできず、許されることもない。
ただ、忘れないでいること。それが私が受ける事のできる唯一の罰だと思う。
ごめんなさい、陽子さん。私は前を向いて生きていきます。
一人、素足になって波打ち際を歩いた。風が少し強くなり、ミモレ丈のワンピースの裾を押さえる。足の上を流れる波は気持ちよく熱を帯びた体を冷やしてくれた。引き波に足を取られそうになりながら、大きな夕陽に向かって歩き続けた。
守られる存在ではなく、自立した一人の女として椎名さんの前に立ちたい。
オファーを受けよう。
女優と監督として、対等に向き合った時、私はきっと変われると思う。
原色の色が氾濫するワンピースは、誰の色も映さず、ただ、赤く輝く太陽を反射し、より深く強い色となって私を包んでいた。
ホテルに戻りシャワーを浴び、椎名さんから貰ったサマードレスに着替え、彼の帰りを待った。バルコニーから眺める海はうっすらと水平線が赤紫に染まっていたが、夕陽の残り香も見ているうちに拡散し、色を失っていった。たとえ真っ暗になったとしても、ここに来た夜の様な恐ろしさを感じることはもうない。そこに青い海があることを私は知っているから。
連絡があった7時ちょうどに部屋のドアは開いた。
「お帰りなさい」
私は走りよって、抱きついた。心を決めたことを伝えたくて、でも何よりも早く触れたかった。椎名さんは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに強く抱きしめてくれた。
「どうした?寂しかったのか?」
「うん、少しだけ」
「一人にしてごめん」
そう言って、私の顔を両手で包むと、ついばむように優しいキスをした。
「水貴、いい顔してる。もどったな」
私は答えずに椎名さんの頭を引き寄せ、自分から口づけた。それに答えるようにキスは深くなり私を抱く手に力がこもっていった。
「今すぐ、抱いて」
ようやく解放された私の唇から出た言葉に、椎名さんは、目を外さぬまま私の体を抱き上げベットに横たえた。
「待てと言われたらどうしようかと思った」
愛しげに見下ろす眼の中に、私を一瞬で縛り付けるような、激しい赤い炎が揺らめいていた。昨日まで、ただ優しく添い寝するためにあったクイーンサイズの広いベットが、欲情した光で埋め尽くされていった。
彼の手が、唇が、全身をくまなくたどってゆき、太陽に吸い取られ乾き切っていた身体は見る間に潤い、私の中からもあふれ出ていった。
触れた指先からうねるように生まれる熱で、ゆるんでいった皮膚を、さらに椎名さんは溶かし続けた。繰り返される愛撫に私は溺れ、何度も意識が飛びそうになった。
彼から放たれ乱舞する光を全身に浴び、私の細胞がそれを吸い尽くしていく。まるで、命そのものを受け取っているようだった。
欲情が高まっていくほどに彼の光はより強い真紅へと変化していき、眼を閉じてもその輝きの強さに体が震えた。
脈打つように激しく私を攻める波動は繋がった深部へと広がり、私は上りつめた快感に耐えきれず、声をあげた。
これほどに強く誰かを求めたことはなかった。私の体の呼応に彼もまた切なげな声を漏らした。呼吸も整わぬまま激しく口づけられ、締め付けられるような快感に体を震わせた。
「水貴、愛してる」
「私も、愛しています」
こらえきれず涙が溢れた。
そして、はっきりと、彼の目を見て告げた。
「貴志さん、あなたを信じて、オファーを受けます」
一瞬、目を見開いた彼は、私をつよく抱きしめ、ありがとうと言った。
素肌を通して彼の喜びが直に伝わって来る。
部屋を満たす紅梅色の光に包まれ、私はやっとスタートラインに立てたのだと思った。
翌日の午後、私たちはベリーハウスに帰ってきた。
部屋に入った瞬間、たった4日しか空けていないのに、何故か懐かしいような不思議感じがした。
三年半前、凛から逃げるためにベリーハウスを出るしかなかった。そして事故によって記憶をなくした私は、凛と萌子先生によってここに戻され、何も知らぬまま三年間暮らしてきたのだ。
自分の時間が連続していない、大切なものが抜け落ちた感覚の中で迷子の子供のように不安におびえていた私は、もうこの部屋にはいない。
「どうした?」
立ち止まって部屋を見回す私に、椎名さんは声を掛けた。
「やっと、帰ってこられました。私の場所へ」
「良かったな」
穏やかに微笑む椎名さんは、私の気持ちを全部分かってくれている。
「はい」
すべてを思い出した今、私は自分の意志で帰ってくることができたのだ。
この大好きなベリーハウスに。凛の元へ。
「じゃあ、行っておいで」
「え?」
「凛君が待ってるだろう?」
私は頷くと、部屋を出てリビングへ向かった。
この4日、凛からは電話もなく、メールすら一度も来なかった。
でも、凛が私を信じて待っていてくれる事は分かっていた。だから、あえて私も連絡を取らなかったのだ。
今は、早く会いたい。
はやる心のまま、リビングのドアを開けると、その衝撃の光景に息を呑んだ。
カーテンが取り払われ、六枚の鏡全面に絵が描き込まれていた。縦2メートル横6メートルの巨大な絵は、まるで映像のように立体的で、今にも動き出してその世界に取り込まれるのではないかと思うほどの迫力だった。
私は金縛りに遭ったように動けなかった。
幾種類もの花と濃い緑があふれ、その奥に広がる森は明暗多彩な表情をみせ、命の生まれる寝床のように温かな光を宿していた。
その一点から飛び立った鮮やかな色の二羽の小鳥。絵は、その小鳥の成長の旅を描いていく。葉陰の小さな神様から祝福の光を受け、旅立っていく二羽の小鳥は、深い森を抜け青く輝く草原に向かう。
これは『水の檻』で凛と走った草原だ。私にはすぐに分かった。この鳥が凛と私だと。
絵の正面に向かってゆっくりと歩く。
草原を戯れるように飛ぶ鳥は、少し大きくより鮮やかな色となり、羽ばたく軌跡には金の光がまかれ草原に帯ができていく。草の揺れる音や風までが私には見えた。
再び夜の森に呑みこまれた鳥たちは、寄り添って眠り、やがて一筋の光をたどって、輝く海に飛び出していく。
伸びた長い尾をなびかせながら、七色に輝く大きな翼を広げ、まさに昇らんとする太陽に向かって飛び立っていった。
静止画であることが信じられないほど、まるで生きているようにその羽音が聞こえ、大気の熱と光が部屋の中に溢れかえってくる。
凛のパワーは、三年前より遙かに増していた。
感動という言葉が薄っぺらに感じる。痛いほどに心臓を捕まれた私は、こぼれ落ちる涙にさえ気づかなかった。
「おかえり」
凛は、絵の前に立ち尽くす私を、後ろからそっと抱きしめた。
背中から凛の体温が伝わってきて、張り詰めていた緊張がフッと解ける。
「ただいま」
「うん」
「凛、凄いね。」
それ以上の言葉を探せなかった。
「楽しかった、最高に」
「伝わってくるよ、凛の想いが」
「水貴、僕はイタリアに行くことにした」
「イタリア?」
「この絵を観に来た木田さんが、壁画やらないかって」
ずっと凛の才能を認めていた画商の木田さんがバックアップしてくれるという。
萌子先生も、すでに後輩に患者を任せる準備をしていて、一緒に行くための調整に奔走中だと、凛は楽しそうに言った。
「待ってるなんていやだってさ。」
「萌子先生らしいね」
「たった二ヶ月なのにね」
そう言って、凛は笑った。
「私も、映画に出ることにした」
「そうなんだ、一緒に飛ぼうな」
「うん、一緒に飛ぶ」
太陽に向かうこの輝く鳥の様に、大きな翼を広げて・・・・。
『水の檻』から私たち三人の関係は始まった。閉ざされた水槽から地上を憧れた小さな少女は、溢れるほどの愛を手に入れて今ここにいる。
止まっていた時間がうねりを持って流れ出していた。
私は、ゆっくりと振り向き、凛の目を見てから、抱きしめた。
「私は一生、凛のそばにいるよ」
「うん」
凛の身体から、黄金の光がこぼれ落ち、次から次へと色を変えていった。
虹が砕け散ったようなカラフルな光が凛を包み、私を染めていった。
目を閉じて、私は、その色の氾濫を全身で受け止めた。
完




