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水の檻  作者: 香野三弥
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第二章  凛 <MIZUKI>

水貴目線


 第二章  凛 <MIZUKI>

   

 

 

 真紅のボンネットに反射した太陽が、闇から立ち上がったばかりの網膜を直撃し、あたりが真っ白にはじけた。

 早朝の六本木は日曜ということもあり閑散としていた。道行く人は家路を急ぐでもなく、目的地のないあいまいな散歩者のように見えた。



「乃木坂っていってたよね、どの辺?」


「二つ目の信号を左に」



 ほどなく車は七階建ての古い瀟洒なビルの前で止まった。

 淡いサーモンピンクのタイルはあちこち色がうすく濁り、ツタが絡まっている。モノトーンの街の中に一人ぽつりと立った往年の美女のようだ。


 その時、二階にあるバー『私の朝』のドアが開いて凛が出てきた。クローズの札を持っている。


 おはよう、と声をかける。


 螺旋階段の上でふりむいた凛は、私たちを見て少し驚いたような顔をした。



「水貴、今帰り?」


「うん、監督に送ってもらっちゃった」



 凛は一瞬にして状況を悟ったようで、にっこり笑うと、椎名さんを誘った。



「コーヒーを煎れたところです。いかがですか?今朝は飲む客がいなくて」



 確かに、私たち二人に今一番必要なのは熱いコーヒーだった。


『私の朝』はその名の通り朝日が上るまで営業している。


 凛がコーヒーを煎れるのが閉店の合図だ。おかしな事に、そのコーヒーだけを飲みに来る、常連がいたりする。


 正確には彼が任されている店であって、オーナーは別にいる。カウンターにボックスが八席という規模の店には不釣り合いなステージが有り、フル装備のドラムにコントラバス、中央には琥珀色をしたグランドピアノが鎮座している。


 ビルの上には音楽関係の事務所や芸能プロダクションが入っているため、常連客にはスタジオミュージシャンも多い。演奏が目的で来るものもいて、何人か集まればセッションが始まる。ジャンルにこだわりはない。


 採算度外視で営業しているとしか思えないノリの店だが、客足が絶える事はなく、持ちビルのため黒字ではあるらしい。


 このところフランスに行きっぱなしのオーナーの固定客にくわえ、凛には人を引きつける不思議な魅力があるので、一度来た客は必ずと言っていいほどもう一度やってくる。はじめのうちは連れられてきた仲間と。そのうち一人でもふらりと寄るようになり、常連の輪は広がっていく。


 店にいるときの凛はブラックホールのような存在だ。良い言葉も悪い言葉も選ばずに飲み込んでゆく。


 客達は分かっていて捨てに来るのだ。 

 

 営業時間は21時から夜明けまで。


 打ち合わせや仕事絡みの付き合いの後、ここだけの仲間達と朝までの時間を共有し、ひととき、現実から解放される夢を見る。

 


「ここで寝ていかれたら?よくその状態で運転して来ましたね。」



 凛も一目で椎名さんが憔悴している事がわかったようだ。

 この三日私たちはほとんど眠っていない。深夜までロケが続き、最終の現場で打ち上げとなって、泥のようになった体にとどめのアルコールを注ぎ込んだわけで、私は車の中で眠ってしまったが、椎名さんは徹夜明けのまま運転をしてきたのだから。


 椎名さんのタバコをバックからだしカウンターの上に置いた。



「ここだったら、編集室まで歩けます、良いロケーションでしょう?」


「たしかに、限界かな。」



 カウンターの中にある高い椅子に座ってコーヒーを飲んでいた凛は、薄い色の付いたサングラスの向こうから私たちをずっと見ていた。店にいる間は決してはずさない。その色が付いているかどうか判らないほどのグラス一枚が凛をプライベートから切り離し、完璧な接客をさせている。


 今も私と椎名さんの関係をさりげなくはかっていたようだ。



「水貴のベットはダブルですよ、何ならそちらでも」


「凛!」


「君は何故知ってるの?」


「一緒に暮らしてるんで」



 凛は口のはしを少しゆがめて笑った。



「そうなの?」



 椎名さんは私をみた。



「一応・・・間借り人です」



 歯切れの悪い答えになってしまった。


 一口で凛との関係を説明するのはとても難しい。

 七階のフロア全体がこのビルのオーナーの住まいで、今は凛が留守宅に管理がてら住んでいて、私はその一部屋を借りている。

 その説明ではかなり不十分な関係であることは確かだった。

 

 凛が変わったのは三年前だ。あの頃はまだ大学に通っていて、絵を描いていた。

 バイトでバーテンをやっていたけれど、口数は少なくほとんど必要最低限しかしゃべらなかった。凛は違うと言うが、絵をやめたのも、原因は私にあるのかもしれない。



「こんなに旨いコーヒーは久しぶりだな。」


「光栄です。水貴、ブラックの部屋に案内して。先週使ったばかりだから」


「OK、監督、行きましょう。」



 いったん一階の駐車場に行き車から荷物をとった椎名さんと、七階へ向かった。エレベーターを降りると、狭いホールがあり、ふつうの一軒家の二倍はありそうな玄関扉が出迎えてくれる。

   



  BERRY HOUSE

 

 と書かれたトールペイントのプレートがかかっている。ここがモデルクラブだったときの名前がそのまま残っているからだ。ベリーハウスの名の通り、各部屋のドアにはラズベリー、ブルーベリー、ブラックカラントといったベリーの品種名がついている。ブラックの部屋に椎名さんを案内した。




 四時間弱は眠れるか。シャワーを浴びてから私は目覚ましをセットしベットにもぐり込む。

 三日ぶりの自分のベットは、お気に入りのシルクのシーツが頬に吸い付くようになじんで、とても心地よかった。ほんのり利かせた冷房を、高めの天井に張り付いたレトロな扇風機がゆっくりとかき混ぜ、さあ、お眠りなさいといわれているようだった。


 寝返りを打ち天井を見つめる。伸ばした手足を赤ん坊のように体の中心に引きつけ、またゆっくり広げていく。壁紙を見つめていると不意に妙なかたちのシミを立体視してしまい、目をぎゅっとつぶった。

 強い光が残像のようにゆれ、まぶたの奥を広く深い空間に変えていく。果てしない闇を永遠に視る恐怖が、じわじわと眠れないまぶたの裏で発酵する。

 


 三年前私は事故に遭った。



 そして一年分の記憶を無くした。



 交通事故だったらしい。覚えていないのでそれがどんな事故だったのかわからない。一ヶ月の間、私の意識は戻らなかった。回復した後も、事故そのものの記憶が全くなかったため、警察の事情聴取も形式だけで、もうすべてが終わってしまっていた。 


 凛も友人の加奈も、事故の詳細について私に話してはくれなかった。

 たった一年分の記憶が消えたって生きていく上ではどうって事ないと思っていた。でも、部屋の中に買った覚えのない服や本があり、手帳のスケジュールには、見覚えの無い店の名前や買い物のメモ、誰だか分からないイニシャルが残っていた。


 積み重ねられた時間のそこかしこに、知らない自分の足跡がある。失ったものは、記憶という二文字の言葉でかたづけられるような簡単なものではなかった。


 自分の時間が連続していない、抜け落ちた感覚は、体の奥で迷子の子供のようにうずくまっている。


 踏み出そうと思っても、何かが私を引き留めている。 

 三年という時間を新たに積み重ねても、その感覚が消えることはなかった。

 

 疲れきっているはずなのに頭は氷を詰め込んだようにキンと醒めていて、全身のこわばりが解けていかない。


 唐突に椎名さんの手の感触がよみがえってきた。肩を抱いた右腕の重さ、首筋を這っていく指の吸い付くようななめらかさが、温度のない乾いたキスよりも生々しく体に残っていた。



(水貴ちゃん、恋人いる?)


(じゃあ、いいか)




 ストレートに解釈すれば、恋人がいないなら、キスぐらい、いだろうということだ。

 私を好きになったという告白なんかではない。

 そういうキスだったと思う。

 

 あの時、一人ずつ切り離されている事が、椎名さんも不安だったのだろうか。

 海を押し開いてくる太陽の強烈なエネルギーを直視できなかっただけかもしれない。どちらにしてもとても刹那的な想いで、感情と呼べるものですらない…と思う。

 でもあのキスが、大気に飲み込まれそうな不安を消してくれた。


 私はすごく安心したのだ。何も考えず、また眠りに落ちてしまうほど、彼の隣にいることが自然で、とても楽だった。

 



 私はベットを降り、部屋を出た。

 明かり取りの小窓から、朝陽が一すじ差し込んでいた。


 廊下の南側に、やたら横に長い二十畳ほどのリビングとそれに続く凛のベットルームがある。リビングのドアを開けると、エリック・サティが飛び込んできた。



 この選曲・・今朝の凛は、ややブルーが入っているかも。


 彼はいつものようにソファーで新聞を読んでいた。LPレコードの黒い円盤が波打ち、その上を針がなめらかにたどっていく。暖かみのあるノイズが音楽を攪拌し、やさしい言い訳を含んだような音の波が部屋を満たしていた。


 積み上げられたウッドボックスには、オーナーのコレクションの、三千枚近いのレコードがぎっちり隙間無く詰まっているが、凛は、その中から目当ての曲を造作なく取り出す。


 私の気配に顔を上げた。



「眠れないの?」


「うん」


「飲む?」



 手にした赤い液体のグラスは、凛が寝る前に飲むティント・デ・ベラーノだ。赤ワインを炭酸で割ったスペインの定番カクテルだけれど、清涼感たっぷりで、とてもナイトキャップ向きとは思えない。私は首を振って隣に座った。



「何かあった?」



 さらりと聞いてくる。いつものことだ。まるで私が話に来るのを待ってでもいたように。



「キスされた」



 一瞬の沈黙。凛の表情はやっぱりというふうに変わった。



「予想通りの答えでつまんないなあ、水貴は分かりやすいから、で?」


「でって、何?」


「好きなの?」


「わからない・・・でも、気がつくと椎名さんを見てる。」


「確かに魅力的な人だと思う。だけど、悪い噂もある。特に女性関係ではね」


「知ってる、でも」


「でも?」


「黙ってても、平気なの」


「水貴が?それとも彼が?」       


「どちらも、かな」


「なるほど、ポイントは高い」


「ずっとそばにいたくなる、ただ、そばにいたくなるの。それと、初めてあった時、

なんだか懐かしい気がした。」


「消えた記憶の中で会ったのかもしれない?」


「それはないと思う、会っていれば、何か言ってくれるはず」


「ふうん、で、見えたの、椎名さんのアレ」


「すごく綺麗なピンクだった。」



 私は手を触れた人の体の周りに光が見える。


 いわゆるオーラとはたぶん違う。その光には色があって、人によってみんな少しずつ違うのだ。


 ほとんどの場合その色は固有のもので、いつも変わらない。

 ただ感情が激しく動いた時に色を変えることはあった。怒りや負の感情は黒、深い悲しみは薄い青、弾ける喜びは赤。といった風に。


 物心ついて記憶がある初めから、手を触れた人の周りに色が見えた。それが自分にだけ見えているとわかったのは、小学校の三年ぐらいだったと思う。それからは、ほとんど誰にもそのことを話さないようにしていた。母に思い切って話したら、驚くこともなく、

 

 ママはどんな色?と、聞かれた。 

 

 オレンジ色といったら、ニッコリ笑った、た。


 ママの大好きな色ね。


 水貴はどんな色?

 

 自分はわからない、でもママにさわったら、私もオレンジになるよ。


 そうなの、ママも見たいなあ。


 いいなあ綺麗だろうね、と、しきりにうらやましがったので、私は自分がこっそりと素敵な宝物を持っているような気がして、自分の能力を疎ましいと思うことはなかった。


 今にして思えば、母は、きっとずっと前から気づいていたんだと思う。

 私がいつも白い服を着るのは、移ってくる色がなにより綺麗に見えるからだ。

 

 凛は私の頭を抱くようにしてゆっくり倒すと膝に乗せた。


「少し寝ろ、これから地獄の編集だろ」



 グラスを持たない左手が髪をやさしくなでる。

 ほのかに金色を帯びた光が凛の手の回りに見える。

 魔法の効果はすぐ現れて、体のこわばりが嘘のようにすーっとほどけていく。あらゆる磁場からの解放を約束する凛の手。

 光が凛の体からシャワーのようにこぼれ落ちて私を包んでいった。



「このポジションより安心できるなら、本物だな」


「・・・・・・くらべられないよ」



 私と凛の間にある特別なつながりは何かと取り替えられるような物ではなかった。

 凛はそれ以上何も言わなかった。


 私が忘れてしまった記憶の中に、凛とのつながりの理由が眠っている。

 凛が苦しんでいることもわかっている。でも一年分の消えた時間の中で、私は凛とどう過ごしていたのか、どうしても思い出せなかった。ロックがかかったように取り出すことができない。

 

 事故の後、あの雨の夜・・・病院のベットで目が覚めた時、

 目の前に居た凛は、恋人ではなかった。

 ただ、彼のそばにいたいという穏やかな感情だけが残っていた。

 




 凛と初めて会ったのは彼が十九才の夏だった。

 去ったばかりの台風が、うだるような湿気と生暖かい風を残し、街には濃密な甘い匂いが立ちこめていた。


 誰もが押しつぶされそうな息苦しさを感じる夜だった。人の心をざらつかせるには十分の条件が整っていた。


 偶然入った『私の朝』で、私は、派手に恋人とけんかして別れ話になったあげく置き去りにされ、酔いつぶれてしまったのだ。


 母を亡くしたばかりで一番きつい時期だった。一人でいるのが辛くて、自分を好きだという相手なら誰でも良かった。そんなつきあいが上手くいくわけがなかったのだ。


 凛の第一印象は静かな子だなという感じだった。今よりずっと線も細く、まだ少年の雰囲気が抜けていなかった。

 凛はカウンターの中から、私に言われるまま、お酒を出し続けていたが、最後はほとんど水の様に薄かった。


 これ水じゃない!と怒ったら、気のせいですよ、と言うので、私は思わず笑ってしまった。


 年のわりに落ちついた低い声だった。


 酔いつぶれた私をオーナーはベリーハウスに泊めてくれた。凛に背負われてエレベーターに乗ったとき、凛は、淡い金色に輝いていた。ぼんやりと夢うつつであったのに、自分がその光に染まっていくのを感じ、とても温かく、まるで幸運を抱きしめているような気がしたのだ。





 長いソファーに足をあげ、凛の体温を感じながらゆっくりと部屋をながめる。

 正面の壁にはダンスのレッスンバーがあり、一面鏡張りになっていて、細く長い部屋を広く奥行きのある部屋のようにだましている。 


 鏡は、部屋にある、ありとあらゆる物を正しく映しているけれど、カーボンの二枚目を見たときみたいに何かが微妙にずれている感じがする。


 まるで私みたいだ。


 背の低いアンティーク調のアップライトのピアノ、

 埃をかぶったクラシックギター、

 木箱からはみ出したまま放置されたバレーシューズは黄ばんでほつれ、ビクトリア調の低い衣装ダンスは貝の象眼が半分はがれ落ちていた。

 上には、中身のない銀のフォトスタンドがいくつも置き捨てられている。


 窓の内側に後付けされた花台の上で、からっぽの金魚鉢は朝陽を受け今にもはじけそうに熱を帯び、通過した光は虹色のリングとなってカーテンの上で遊び出す。



 部屋はオーナーが趣味で集めた物であふれ、それらが内包する過去の時間と空気に支配されていた。


 鏡の中ではその全てが緩やかに、確実に命を失っていく。時間は未来に流れる事を忘れ、窓から吹き込む風さえも、冷ややかな鏡面が飲み込み制圧してしまう。



 私と凛はこの鏡の部屋で三年もまどろんでいる。


 恋人でも、家族でも友人でもない、何かがずれたまま、二人で異空間に浮いていた。


「いつまでもこうしてはいられない。」


「うん」


「だから・・」


「だから、彼に恋を仕掛けるの?」



 凛はほんの少し怒ったように、そう言った。


 ちがう・・・と声に出して言うことはできなかった。

 



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