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水の檻  作者: 香野三弥
19/20

願い <RINN>

凛目線 

 願い <RINN>



 椎名さんから電話が来たのは、咲妃ちゃんと食べようと夕飯を作っているときだった。

 早口でいつになく焦っているようなしゃべり出しに、僕はすぐに水貴に何かあったのだと思った。

 電話の内容は予期した中でもっとも悪いものだった。

 水貴が、試写室で合田と偶然遭遇し、記憶を取り戻したという。詳しいことは萌子に電話で話し指示も受けたと言うことだった。そして今夜は帰らないとも。


 電話の途中で水貴が洗面所から出てきたらしく、慌ただしく電話は切れた。


 水貴は、今どんな状態なんだろうか。そばにいられない自分が歯がゆかったが、どうすることもできない。水貴の記憶の中にどんな爆弾があったのか、何も聞けなかった。萌子が帰るのを待つしかない。


 手元の切りかけのズッキーニを見つめる。

 水貴が好きな鶏胸肉とズッキーニの卵スープ、気がつけば彼女の好きなメニューを作っている。味付けは酒、少しの塩と醤油だけ、すり生姜がアクセントで強めの方が水貴は好んだ。


 初めて作ったとき、水貴は凄く美味しい、これ大好きかも、と言って笑った。

 

 食べさせてやりたいと思った。今おそらく酷い状態になっているだろう水貴に、何もしてやれない。


 手が止まったままだった僕に、声がかかった。



「どうしたの?」



 いつの間にか、咲妃ちゃんがキッチンに来ていた



「手伝おうかと思って、今日はパパと水貴さん帰ってくるかな」


「いや、今夜は帰らないって連絡あったよ」


 

 僕はつとめて冷静にそう言って作業を続けたが、咲妃ちゃんは誤魔化せなかった。



「なんかあったでしょ。凛さん変だよ」


「なんでそんなに鋭いの?」


「私、勘がいいんだ。と言うか、凛さんわかりやすい」


 ため息が出た。こんな若い子にわかりやすいって言われるのは結構落ち込む。萌子から見たら僕はガラス張りみたいなもんだろうな。


「水貴の記憶が戻ったらしい。それでたぶんちょっとパニックなんだと思う。椎名さんかなり焦ってたから。」


「合田さんって人のこと?」


「うん、偶然鉢合わせたらしい。詳しいことは何も聞いてない、萌子には連絡したと言ってたから、彼女が帰ってきたら分かると思う。」


 説明しているうちに、自分が冷静になってきていることに気づいた。咲妃ちゃんの存在は大きいのかもしれない。


 

 食事の間、僕らは水貴の事を話題にしなかった。


「今、仕事してるバーグマンって事務所ね、社長が野瀬さんっていうんだけど、ママのマネージャーさんだったんだ。パパが私を連れてすぐスペインに行けたのも、みんな野瀬さんのおかげなの。マスコミから絶対に二人を守って欲しいってママが頼んでたんだって。ずっと後になって聞いたんだけど。」


「だから咲妃ちゃんの情報はマスコミに流れなかったんだね」


「うん、だから野瀬さんからモデルの仕事しないかって言われたとき、やろうってすぐ思った。一番信頼できる人だから」


 椎名さんが真莉絵さんの最後の望みを守ったように、真莉絵さんもまた、椎名さんと咲妃ちゃんをちゃんと守っていたんだ。

 死んでゆく者も、残された者も・・・二人の愛し方は壮絶だ。僕がたちうちできないのは当たり前なのかもしれない。


 水貴はきっと大丈夫だ、彼が付いている限り。



「この、スープ美味しいね、これ大好きかも。」



 咲妃ちゃんの言葉に、僕は目を見開いた。言い方が水貴にそっくりだったから。



「驚いた、水貴もそう言ったんだ、大好きかもって。」


「やっぱり、まだ水貴さんが好きなの?」


「好きだよ、その気持ちは消せない。でもきっと変わっていくんだと思う。」


「パパの中にいるママみたいに?」


「そうだね、まだ時間がかかりそうだけど」



 咲妃ちゃんは、なんだか頼りなげな泣きそうな顔で笑った。きっと勘のいい彼女は今の僕の気持ちを理解しているのだと思う。

 勘がいい、ということは、感受性が豊かなのだ。たぶん幼い頃から、自分の置かれた環境や様々なことに、人一倍悩み、かみ砕き、納得して乗り越えてきたのだろう。        

 彼女の明るさは生来のものだろうが、それを守りきったのは椎名さんなんだ。



 

 金曜の夜だからか、『私の朝』は満席だった。常連のジャズマンたちが集まっていたので、今夜はステージが華やかだ。もう二時間もセッションが続いている。そろそろかな。 曲が終わり、店内は拍手で包まれ、皆ボックス席の仲間の元へ戻っていった。

 

 静かにBGMをフェードインさせる。


 そのタイミングでギタリストの稜さんがカウンターにやって来て座った。


「ジンバック、濃いめでお願い」


「了解」


 僕はカクテルを作りながら、この前土産に貰った、からすみのお礼を言った。


「今度は沖縄行くよ、なんかリクエストある?」


「泡盛かな、水貴が喜ぶから。」


「わかった。ところで水貴ちゃんと言えば、ちょっと噂聞いたんだけど」



 ジンバックとサーモンのマリネを小皿に盛りつけ出す。



「マリネはサービス、で、噂って何?」


「水貴ちゃん、椎名貴志と付き合ってるの?」


 早いな、もう噂になってるのか。今はそれどころじゃない状況なんだが。もし、水貴が椎名さんのオファーをうけて映画に出たりしたら、ほんとにただではすまないな。

 咲妃ちゃんの事もいずれ知られてしまうだろう。僕がここで稜さんにとぼけたところで無駄だと思った。


「うん、椎名さんここに住んでるしね」


「はあ?」


 そこへ萌子が、ビル内の裏口から入ってきた。


「稜さんじゃない!久しぶり!」


 飛びつかんばかりの勢いで隣に座る。相変わらずイケメンが好きだよな、萌子は。

 壁の時計を見ると、午前1時を回っていた。


「遅かったね」


「うん、9時頃帰ってきて自分の部屋で仕事してた」


「自分の部屋?」

 

 稜さんはまた、疑問の声を上げた。


「あ、先週ここに引っ越してきたのよ、よろしくね。からすみ美味しかったわ」


「どうなってるの?人増えすぎじゃない?」


「だいぶ賑やかだよ」


「で、萌子さん、ついに本気で凛君に落ちちゃったの?」


「あら、ずっと本気よ、知らなかったの?」


 稜さんは、苦笑いでやってられないといった風に肩をすくめると、邪魔者は消えると言って、グラスとサーモンの皿を持ち、ボックス席に戻っていった。



 萌子は稜さんが席に着くと、小声で水貴の状況を話してくれた。

 その内容は、僕の想像を超えるものだった。いっきに心がざわつき始めた。


「まさか、合田が車を落としてたとはね。だから、記憶が戻ったか気にしてたんだ」


 萌子は、合田が陽子さんを殺したと思っているのだろうか。


「ほんとに殺したのかな。」


「真実は合田しか分からない。でも証明できないって事は無罪、無実ではないけどね」


「水貴はきっと今頃、自分を責めて苦しんでる」


「そうね。でも、今は椎名さんに任そう。報告はもらってるから大丈夫よ」


 萌子はカウンターの上の僕の手に、自分の手を重ねた。



「お店、今夜は朝までかな?」


「そうだね、夜明けのコーヒーバージョンだと思う」


「あなたの部屋で寝てるから、戻ったら起こして。」


 頷いた僕の手を軽く握ると、萌子は席を立ち裏口から出て行った。




 しばらくして、ジャズシンガ―の麗夏さんが席を立った。僕は、BGMを絞り店内からふうっと音が消える。


 スポットで浮き上がる琥珀色ピアノの蓋が開き、艶やかなピアノ弾き語りが始まった。僕の好きなFly Me to The Moon。少しかすれたような透明な声がゆったりとピアノの旋律に絡みついていく。その気だるくセクシーな歌声に、客席はシンと静まり皆が息を潜める。


 僕はその声に聞きいりながら、オーダーを受けたカクテルを作る。


 水貴が初めて『私の朝』にやって来たときも、麗夏さんがこの曲を歌っていたっけ。

男に置き去りにされ、カウンターで一人飲んでいた水貴はこの歌を聴きながら泣いていた。


・・・お母さんが好きだったの と、水貴は僕に語るともなく呟いた。

 

 その時、涙を溜めた水貴の瞳は、ダウンスポットの光が映り込み宝石のように輝いていて、僕はあの瞬間に恋に落ちたのかもしれない。

 酔った水貴を背負ってベリーハウスに運んだとき、預けられた無防備な重みに、訳もなく胸が騒いだのを覚えている。


 あの出会いからもう5年も経った。

 僕の人生でもっとも希有な存在。

 初めてすべてを捨てても守りたいと思い、姉と分かった後も、自分の一部のように愛していた。

 違う、過去形なんかじゃないな、今でも愛している。


 氷を割る手に力が入り、アイスピックが指を掠った。血がにじんだ指を唇に当てると、震えていて、自分が泣いていることに気づいた。

 

 感傷的になったのは、この歌声のせいだ。

 傷ついた水貴を支えるのが自分でないことが、寂しかっただけだ。


 助けるのが椎名さんであっても構わない。ただ僕は、水貴が笑えるようになることを、今はただ願って待つしかないのだ。




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