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水の檻  作者: 香野三弥
18/20

第十六章 記憶と真実 <MIZUKI>

水貴目線

 第十六章 記憶と真実 <MIZUKI>



 それからの数日は穏やかな休日が続いた。椎名さんの仕事までは、まだ余裕があるので単発のドラマなら受けられるが、今はそんな心境にもなれず、合田さんに連絡を取ってもらいたいと思いながらも、決心がつかないまま何のアクションも起こせないでいた。

 

 今日は午後から久しぶりに凛とキッチンに立った。

 

 深夜の通販でパスタマシンを衝動買いしたらしく、凛ではなく萌子先生が。

 今日はできたてモチモチの生パスタを食べさせてもらえる。

 萌子先生の引っ越しも完了し、ベリーハウスの住人は正式に4人になった。咲妃ちゃんが夏の間居るので今は5人だけれど。

 全員がキッチンにそろって食事したことはまだないが、冷蔵庫の中身がぎっちり詰まっているのを見ると、ここで皆が生活していることが実感できる。

  

 私は温サラダ用のスナップエンドウとオクラを準備をしながら、凛が、パスタマシンから麺を絞り出す作業を見ていた。こんな風に凛と二人きりになるのは本当に久しぶりの事だった。

 弟としての凛と向き合うことに、まだ少し戸惑いもあったけれど、やはり凛のそばにいると穏やかな気持ちになれる。


 できあがった生パスタを沸騰した鍋に投入する。凛は慣れた手つきでフライパンにつぶしたニンニクを入れ香りが出たところで、厚切りのベーコンとマッシュルームを炒めていく。


「パスタの味を楽しみたいから、シンプルなトマトソースだよ」


「楽しみ、凛のパスタは何でも美味しいもの。」






 できあがったパスタはとにかく絶品だった。萌子先生の衝動買いに感謝しないと。

 

 テーブルに二人向かいあって座り、いつものようにとりとめのない会話をする。



「そう言えば、凛、お店でサングラスしなくなったね」


「うん、なんか、もういらない感じ?営業の顔も素の自分も分ける必要がなくなったんだ」


「変わったよね、凛は。こっちが本当の凛だったのかも。」


「ガキだったんだよ、あの頃は」


「今の凛は、凄く魅力的な大人だよ、悔しいけど萌子先生のおかげかな」


 私はちょっとだけ本音を漏らしてしまった。

 萌子先生が居なかったら、私たちは二人揃って暗闇に落ちていたかもしれない。

 

 凛は食べる手を止めて私をじっと見つめた。


「水貴も、いい顔してる。」


「えっ・・・」


 思いもかけない言葉にびっくりして固まった。


「なに固まってるの、椎名さんがいい人で良かった」


「ありがとう。凛のおかげだよ。私の背中を押してくれたから」


「いや~あ、最初は早まったかなってドキドキしてたんだ」


 そう言って凛は、にやっと笑った。


「なにそれ」


「だって、椎名さんって迫力あるじゃん、ここで暮らしたいっていきなり言われて、つい、いいですよって言っちゃったんだ。」


「つい?あきれた」


 私は笑いながらも、凛が本当は大きな決断をしてくれたのだと分かっていた。

 

 





 三時に、打ち合わせに出ていた椎名さんが、私を迎えに来た。

  

 連れて行かれた先は、渋谷にあるショーマックスの試写室だった。映画の仕事は経験がなかったので、こういう場は初めてだった。座席は50ほどだがゆったりとした重厚な仕様で、スクリーンはシネコンと変わらぬ大きさだった。おそらく音響もしっかりしているだろう。

  

 最後部の席の中央に並んで座ると、寒いほどに冷房が効いていた。曇っていたとはいえオープンカーで夏の熱気の中を走ってきたので、よけいに寒く感じた。ぶるっと震えた私を見て、椎名さんは空調をあげてくれるようインターホンで頼んでくれた。


 来る途中も、車の中で椎名さんは私の体調を気遣っていた。

 もう、大丈夫ですと言っても、心配そうな顔をする。



「こんな時に連れてくるべきじゃなかったかもしれないが、君と観たくて無理を言って試写室を押さえてたんだ。」


「え?私だけのために?」


「二人だけで観たかった。これは、真莉絵のために撮った映画だから、君に観てほしいというのは酷かもしれない。でも、一作品として水貴にどうしても観てほしかった。誰よりも先に。そして、これはまだ、0号だ、気づいたことがあったら何でも言ってほしい」


「はい・・・分かりました」


 そう答えながらも、私は、真莉絵さんの映画を作品として冷静に観ることができるのか、怖かった。




 照明が落ち、スクリーンに投影が始まった。

 

 

 ワンカットめは、コンクリートの歩道を歩く真っ赤なハイヒールのアップ。

 スローがかかり、靴音が反響する。ローアングルから前に回り込んだカメラに太陽が入り、女は光の中に一瞬消えてしまう。カメラはゆっくりとせりあがり女の全貌を現していく。白い光の中から再び現れた時、彼女は満面の笑顔で走り出し、恋人の胸に飛び込んで行った。


 真莉絵さんだった。


 役名もそのまま、真莉絵。

 彼女はデビューしたばかりの新進気鋭のピアニストで、まさにこれから花開こうとしていた。ところが幼なじみの恋人が巻き込まれた事件で、彼女は頭を打ち、その後遺症によって、聴力が徐々に奪われていく事になる。ピアニストとしては致命的な病。


 事件の目撃者となった彼女を守るため、悟は真莉絵を影から支え続ける。縦糸に真莉絵のピアニストとしての再生を、横糸に過去の事件をめぐるサスペンスを絡め、ふたりの恋が描かれていた。


 どんな人間にも人の心の中には善と悪があり、弱さと強さが同時に存在している。相反する物に惹かれる苦しみと、喜びが、映像によって増幅され、画面からひりひりするほど伝わってきた。


 ラストシーン、真莉絵はバッハのシャコンヌを舞台で演奏しながら、悟との日々を反芻していく。凛のレコードで何度か聴いた事がある。15分近いその曲はまさに激流、音の洪水だった。


 コンサートホールの天井から、透明なクリスタルの破片が、流れ落ちるように乱舞し、音の波に乗って広がっていく。そのイメージCGは、完全に聴力を失った真莉絵が観ている音そのものだった。

 真莉絵が奏でる音に連動し彷徨うクリスタルは、彼女の感情を追い、哀しみ、怒り、絶望そして昇華する愛を表現していく。最後の鍵盤から指が外れた瞬間、ホールを埋め尽くしたクリスタルは、一片の余韻も残さず消えた。


 映画は、撮影時のように真莉絵の死によって終わるのではなく、最高の演奏を終えて、ただ一人の観客である恋人に向けられた絶頂の笑顔のまま、暗転となった。


 私は自分が泣いていることに気づいた。胸が押されるような切なさがのど元に押しあがり、声を上げてしまいそうだった。真莉絵さんの演奏は本当に鬼気迫るものがあった。すべてを燃焼しきった表情は恍惚としていて、彼女に、もうこれ以上この世界にとどまることを許さなかったのだろう。


 そして、椎名さんがどれほどこの人を愛していたかも、分かってしまった。



 椎名さんは、私の方に顔を向けることなく、暗くなったスクリーンを流れるエンドロール見据えながら話した。


「僕は、真莉絵の葬儀も見ていないんだ。この最後の表情を連れて、咲妃と一緒に旅に出た。だから、まだ真莉絵は僕と咲妃の中で生きている。でもそれは思い出としてなんだ。それがはっきりと納得できたから映画を仕上げることができた。」


「・・・凄い。心の中に直に入ってくるんです。台詞も音も映像も。真莉絵さんの気迫に圧倒されて、涙がとまりません」


 光と影が織りなすコントラストの強い映像、巧みな心理描写とストーリー構成、音楽との絶妙な融合、そのすべてが欠けた物のない独特の美しさを形作り、作品全体を覆っていた。椎名さんの映画の原点がここにあった。


 ほんとに、凄い。この人は。

 

 溜まった涙をぬぐい、私は制作者の顔に戻る。


「これは0号ですよね。まだ手直しするんですか?」


「するよ。何か、あった?」


「一つだけ気になるところがありました。真莉絵と、悟が港の倉庫で再会するシーン、SEと音楽のバランスが逆の様な気がしました。ふたりの台詞が流れてしまう。」


 椎名さんの表情が少しだけ動いた。


「やはり君の感性は僕と似ている。同じところが気になった。」

 


 ほんの一呼吸の間。



「水貴、次の作品に出てくれないか?」


「え?」



 一瞬、何を言われたか分からなかった。



「女優として、僕の映画に出て欲しい。これは正式なオファーだよ」



 エンドロールが流れ終わり、試写室の照明がついた。

 椎名さんは私に向き直り、正面から見つめていた。


 女優になるなど、ただの一度も考えたことはなかった。



「私にできるとは思いません」


「なぜ、やってみないでそう思うんだ。『水の檻』の君の眼がずっと忘れられなかった。あの、存在感は演じて出せるものじゃない。天性の才能だ」


「あの時は台詞もほとんどなかったんです」


「台詞?君に分からないはずがない、演じることは台詞を喋ることなのか?器用でうまい役者ならいくらでもいる。でも、本当に観る者を圧倒する魅力を持った俳優は一握りだ。彼らは役を自分に引きつける。それは台詞回しの技術じゃない。君にはその力があるんだ」



 真剣なまなざしが射るように心に入ってくる。彼は本気だ。本気で私を女優として欲しがっている。



「僕が、信じられない?」



 いいえ、と答えようとした時、ドアが開き誰かが入ってきた。

 映画の関係者らしかった。椎名さんは立ち上がると、ロビーに行って待っていて、と言いのこし、その人物の方に歩いていった。



 試写室は地下にあった。人気のない廊下は照明を絞ってあり、薄暗い。ロビーに向かう階段は、上から斜めに西日が差していて、ちょっと靄がかかったように見えた。ちょうど半分登りきり、踊り場に足をかけた時、上から駆け降りてきた人と肩がぶつかりよろめいた。とっさに支えてもらったが、左足をひねって転んでしまった。



「大丈夫ですか?申し訳ない」



 差し出された手に捕まり立ち上がる。

 触れた瞬間に紫がかったグレーの弱い光が見えた。


「水貴ちゃん?」


 え?・・誰?


 逆光の中でスーツ姿の男性が驚いた顔で私を見つめていた。




 その人は、まだ私の手をとっていた。グレーの光が次第に暗くなり、黒に近づいて行く。握られた手が震え始め、私は体の中から何かが吹き出そうとしているのを感じた。



「久しぶりだね、元気そうだ。」



 この人は合田さんだ。私は、この色を・・・知っている。


 色はさらに濃くなり、おそろしい勢いで黒ずんでいった。

 一気に私の中に恐怖が呼び起こされ、内側から消えた記憶の蓋をこじ開け始めた。

 頭から血が下がっていく。



「手、手を離してください・・」


「大丈夫?何か思い出したの?」



 顔はおだやかな微笑みをたたえていたが、眼の奥に冷ややかな光が潜んでいた。


 臨界点を超えて沸騰するような激しさで、消えていた記憶が戻り始めた。


 ベリーハウスを飛び出してからの日々が、ビデオを最速で早送りするように脳裏に浮かんでいき、一気に事故の瞬間がスパークした。


 すべてがはっきりと見えた。


 タイヤのきしむ音、スピードをあげて蛇行しながら山道を疾走する車。

 壁が何度も目の前に迫ってくる。必死に横からハンドルをつかみ立て直そうとする合田さんの怒鳴り声、狂ったようにアクセルを踏み込む陽子さんの甲高い笑い声。ガードレールをこすりながらバウンドする車。からだが打ち付けられ、すさまじい恐怖の中、私は意識を失った。


 気がついた時、私は、車の外に寝かされていた。体を起こすと、頭が割れるように痛かった。左腕の感覚がなく右手でやっと体を支えた。


 そのままぼんやりと周りを見回すと、合田さんが運転席の陽子さんにかぶって何かをしていた。助けようとしている、と思った。


 その瞬間、私は彼がサイドブレーキをはずすのを見た。


 いったい何をしたんだろう。 


 頭が状況を受け付けなかった。


 タイヤがずるりと回り、動き出した。車は陽子さんを乗せたままゆっくりと傾き、

 視界から消えた。

 赤いテールランプが夕陽の中に残像のように残った。


 何が起きたのかわからなかった。


 車の消えた空を見つめていた合田さんは、振り向くと、ゆっくりと近づいて来て、私を抱きしめた。瞬間、私の中に激しい感情が流れ込んできた。

 合田さんは震えていた。冷たい手の感触が私の頬を凍らせ、渦巻く怒りと憎悪によってすべてが真っ黒に塗りつぶされていった。


 それきり私は意識を失って、今日まですべてが封印されてきたのだ。



 私の記憶を封じていたのは合田への恐怖だった。

 はっきりとなにが起きたのか今わかった。

 陽子さんは私と合田を道連れに死のうとしたのだ。

 そして合田は・・・


 陽子さんを殺した。


 助けようとしたんじゃない、車は故意に落とされたのだ。

 


「水貴、いったいどうしたんだ。」



 椎名さんがやって来て、手すりに寄りかかり震えていた私を支えてくれた。



「なにがあったんです?」



 合田さんに向かって尋ねた。



「たぶん、記憶が戻ったんでしょう」



 落ち着いた口調に私は、怒りを覚えた。



「合田さん、あなたは、陽子さんを殺したんですか?」



 私の言葉に驚いたのは椎名さんの方だった。



「殺してないよ」


 

 彼は顔色一つ変えなかった。



「私は、あなたが、サイドブレーキをはずすのを見ました。」


「見間違いだ、僕は陽子を助けようとしたが、間に合わなかった。」


 確かに私は頭を打って、意識はもうろうとしていた。でもこんなにはっきりと見た瞬間を思い出すのに見間違いのはずがない。あの時私を抱きしめた合田に、哀しみの感情はなく憎悪と怒りしかなかった。


「たとえ、君が見たと言っても、証明は出来ない。何年間も記憶を失っていた人間の証言を警察は信じるだろうか。あれは不幸な事故だったんだよ」


「不幸な事故?」


「そう、陽子はハンドルを切り損ない、雨上がりの濡れた路面でスリップし、ガードレールに突っ込んだ。それが警察の出した結論だ」


「嘘です!陽子さんは死のうとしていた。」


「無理心中しようとしていたって?いまさら蒸し返して陽子の恥をさらす気か?そんなことになんの意味がある。」


「意味?それが真実だからです」



 合田さんはため息をついた。



「きみを楽にしてあげるよ、陽子は、僕が助け出そうとした時、もう、息がなかった。死んでたんだよ。だから、もし仮に、君の見たことが本当だとしても、僕は彼女を殺していない。それが真実だ。」


「そんな・・・」



 言いかけた私を椎名さんが押しとどめ、首を横にふった。



「椎名監督ですね。はじめまして。今回は僕の担当ではありませんが、宣伝部の合田です。」


 名刺を差し出す。宣伝部長の前に取締役の肩書きが増えていた。


 椎名さんは、黙って受けとると、合田さんを正面から見据えて言った。



「真実は一つです。たとえそれが証明できなくても」


「そうですね。」



 合田さんは眼をそらさなかった。



「今日は、失礼します。」


 そう言うと椎名さんは私の腕を取り、階段を上り始めた。振り返ると、彼は、かすかに私に向かって笑い、背を向けて階下へ降りていった。



 

 

 階段を登り切ったところで、膝から崩れ落ちた。


「水貴!」


 椎名さんは膝をついて抱き留めてくれた。


「ごめん、まさか、こんな事になるとは」


「大丈夫です、でも、ちょっと、ごめんなさい」



 私はトイレに行って吐いた。胃の中が空っぽになっても吐き気が治まらなかった。

 口をすすぎ顔を上げると、鏡に映った自分の顔はまるで幽霊のようだった。


 何が真実?私の記憶は本当に正しいのか?

 

 違う、思い出した。

 あの人が私を抱きしめた時、陽子、と言った。

 合田さんは、震えていた。

 あの真っ黒なの感情は、自分自身へ向けられたものだったのだろうか。

 それとも、萌子先生が言ったように、事故の恐怖が、合田さんの哀しみを私が憎悪にすり変えてしまったの?

 陽子さんの死の瞬間を思い出したというのに、私は泣くことすらできない。

 

 


 

 化粧室を出ると、廊下で椎名さん待っていてくれた。


「大丈夫か?」


「はい・・・」


「すまなかった。合田さんがカイザーの人間だと分かっていたのに。迂闊だった」



 私は首を振った。

 

 椎名さんは私を支えるように抱きしめ、我慢しなくていいんだ、と言った。



「葉山にある知り合いのホテルの部屋が空いていた。うまい料理を食わせてくれる、今夜はそこでゆっくりしないか?もし体が辛いなら、このままベリーハウスに帰ろう」


「・・行きたい、海が見えますか?」


「見えるよ」


 


 車が走り出して風に当たると、吐き気も収まり少し気分が落ち着いた。日が沈み、薄暮の空に一番星が出ていた。空を仰ぐ。先ほどの曇天が嘘のように、澄んだ夜が降りてきていた。



「話して楽になるなら聞くよ。いやなら何も言わなくていい」



 真実は一つしかないはずだ。

 私の見た、サイドブレーキをはずした行為が事実で、陽子さんがもう死んでいたというのも本当だとしたら、彼はなぜ、車を落とすようなことをしたんだろう?



「合田さんの言ったことは真実でしょうか?」


「車が墜ちていく時、生きている陽子さんを見たかい?」


「いいえ」


「おそらく、君が見たことを警察に話しても、裁判の維持は出来ないと判断されるだろう。」


「もし、陽子さんが殺されていても?」


「・・・そうだ」


「あの時点ですでに陽子さんが死んでいたとしたら、合田さん、どうして車を落としたりしたんだろう。」


「彼は、嘘をついていないような気がする。なぜ、落としたのかは、彼自身わからないんじゃないかな」


「わからない・・・合田さん自身も?」


「彼ら夫婦の事情は、きっと誰にもわからない。」


 誰にも?

 

 三年半前べリーハウスを飛び出してからの、ほぼすべてを思い出していた。繋がった時間の持つ重さは、私を押しつぶそうとしていた。でもヒートアップした頭の中は飽和状態で、溢れかえった事柄を整理しないでは治まらなかった。

 


 彼に出会ってから事故までの日々は約三か月。



 葉山に向かう車の中で、思い出したことをすべて話した。私は、話すことで許されたかったのかもしれない。椎名さんに?そうじゃない。誰の許しが欲しいのかすら分からなかった。私は私を許せなかったのだ。




 合田さんと初めて会ったのは、渋谷の宮益坂にある英国風パブだった。学生時代からたまり場にしていたところで、一人でも立ちよれる貴重な場所だった。

 べリーハウスを出てから私はよくそこに一人で飲みに行っていた。

 合田さんはカイザー映画社の宣伝部長で顔ぐらいは知っていた。三十代でありながらカイザー立ち上げの時からのメンバーでやり手という噂だった。たまたまその日カウンターで飲んでいる彼と話をして、しばらくアシスタントとして仕事を手伝うことになったのだ。


 自分と凛の関係を知る人間から遠ざかっていたかった私にとって、記録の仕事ではなかったが、自分を知らない会社とのつきあいは気が楽だった。

 

 彼が仕事用に借りているマンションを契約期間中使わせてもらえるというのも、恋人がいた加奈の部屋に居候するには限界に来ていた私にとって、渡りに船だったのだ。


 ただ、部屋を使う条件として、ひとつだけ奇妙な事を頼まれた。

毎晩、真夜中の12時に女から電話が来る。そうしたら、まだ帰っていない。と言ってほしい。ほかには一切話さなくていい。電話はそれで切れるはずだ。と言うことだった。                   


 私はこれはまずいことに巻き込まれているという気がしたが、当面の仕事と住居の確保が優先事項だったので、目をつぶってしまったのだ。


 

 電話は、本当に毎晩欠かさず、かかってきた。

 最初の晩、私が電話に出ると一瞬受話器の向こうで息を飲む音が聞こえた。


(合田は、おりますでしょうか?)


 少し湿り気を帯びた低い声で、おっとりとした上品な喋り方だった。


(まだ帰っておりません)


 電話は、無言のまま、三秒後に切れた。微妙な間が耳の奥に彼女のとまどいを残した。おりますでしょうか?の言い回しを使うのは、普通に考えると身内か、カイザー映画社の人間だが、声の雰囲気から一番想像しやすいのは奥さんだった。

 

 それにしても、毎晩続く同じやりとりは、狂気じみていた。電話の主の精神状態が少しおかしいことは私にも分かった。 


 そのことをのぞけば、仕事は、単純な作業が多く、難しいものではなかった。

 合田さんの仕事は担当映画の宣伝活動が中心だが、それ以外に新しい映画の企画プレゼンの準備もしていて、社外に私設アシスタントが必要になるのも頷けた。

 私は主に、企画内容のターゲット動向調査の集計や、ネット上でのアンケートの分析などを手伝っていた。



 マンションは広めの2LDKで、合田さんは海外を含め出張が多く、ほぼ帰宅することはなかった。仕事の指示はメールがほとんどだった。

 たまに帰ってきてもすぐに自室に入ってしまい、リビングのデスクで仕事をする私とは、必要以上に話すこともなく、私は自由に自分の時間を持つことができた。

 

 部屋にこもって一日中パソコンに向かっていると、何度もベリーハウスに戻りたくなった。凛とは一切連絡を絶っていたが、出てきた時の憔悴した顔が忘れられず、どうしているのかいつも気になっていた。むしろ以前より凛を愛している事に気づいた。それは男としてではなかったけれど。


 もし、会った時に弟とわかっていればどれほど私は幸福だったろう。永遠に別れの来ない関係を手に入れることが出来たのに。私に家族を残してくれた父に感謝しただろう。でも、狂ってしまった出会いは、私たちに消えない傷をつけた。凛と連絡を取ることはどうしても出来なかった。



 三ヶ月が過ぎた頃、契約期間の終わりも近づいていた。


 ちょうど12時の電話を受けた直後に合田さんが帰ってきた。私は思いきって電話の人物について聞いてみた。


「妻だよ。かなりひどいノイローゼなんだ。パニック障害もある。携帯にはいつも昼の12時にかかってくる。彼女は僕に女がいるという妄想にとりつかれている」


 今は金沢八景の実家で療養中と言うことだった。自宅もその近くのため、都内に仕事用の部屋を持つことになったらしい。

 でもそれならなぜ、私に夜中の電話を受けさせるのか、逆効果ではないかと思った。そういうと、



「離婚したいんだ」


「ほかに好きな方がいらっしゃるんですか?」


「いや、いれば君に頼んだりしない。僕はもう陽子といることに疲れてしまった。おそらく彼女もそうなんだ。君が電話に出ても何も聞かないだろう?それでも時間が来ると電話をしてしまう。僕たちは別れた方がお互い楽になる。」



 仕事上では見たことのない弱々しい顔だった。照明を落とした部屋に頼りなげな男の影

が浮き上がっていた。


 その夜、私は合田と関係を持った。凛が触れた体の上に、合田の冷たい体が乗った。彼を愛したからではない。ただ、凛との事を白紙に戻したかった。なかったことにしたかったのだ。私たちはお互いの寂しさを埋めるために寝た。そんなセックスが自分をさらに傷つけることなど分かり切っていたけれど。それでもその夜は必要だったのだ。


 彼から受け取ったものは、深い哀しみと疲れだけだった。おそらく、合田は奥さんを愛しているんだろう。何かがずれてしまって、二人は戻れない闇の中にいるようだった。彼の色はグレーに近い紫で、それが彼自身の色なのか、哀しみの感情なのかはわからなかった。私からはどんな思いが彼の中に流れ込んだのだろう。


「今夜は久しぶりにゆっくり眠れる」とだけ、合田は言った。

 

 私は、自分の中で何かが壊れていった気がした。それでも後悔はなかった。眠った合田を残し、バスルームに行きすべての痕跡を流し終えてから、自分の部屋に戻り眠った。




 事故は、それから三日後に起きた。

 軽井沢での映画イベントに合田の代理で出席した私を、彼は迎えに来た。なぜか、その車は陽子さんが運転していた。二人は私を駅まで送って別荘に行く予定だという。


 君に会いたいと言うから、と、合田は言った。おそらく離婚の話を進めるために私を利用するつもりなのだろうと、深く考えずに私は車に乗った。 


 電話の方ね、合田がお世話になってます。陽子さんはにこやかに私を見た。

 聞き慣れた声だった。生で聞くともう少し低くしっとりとした声で、華やかな美しさを持った、思った通り上品な婦人だった。なぜ、この人が不安になる必要があるのだろう。私には理解できなかった。


 私は合田を愛してはいなかったし、付き合うつもりもなかった。最後の仕事を終えて、彼とはもう関わることはないと思っていたので、彼女に対する罪悪感もなかった。


 でもそれは、私の勝手な都合にすぎなかった。


 あの時なぜ彼女の心に思いを向けられなかったのか・・・。




 ホテルは海から、数十メートル奥まった丘の上にあった。

 すでに陽はとっぷりと暮れ、窓から望めるはずの海は、もう見えなかった。

 バルコニーで、風に当たりながら、そこにあるはずの海を眺めていた。月はなく、暗くどこまでも黒い闇が広がるばかりだった。



「一緒に行きましょうよ、ずっと。と、彼女は言ったんです。何を言っているのだろうと思った。何の痛みも感じる事が出来なかった。あの人の狂気の引き金に、私自身も手をかけていたのに・・・あの時、もし私が、車に乗らなかったら・・・陽子さんは今も生きていたかも知れない。」



 記憶は戻っても、真実は、目の前の海のように闇の中に沈んだままだった。


 これは私が一生抱えていかなければならない棘だ。


 椎名さんが後ろから私を抱いた。



「一年後には、その苦しみも薄れる。五年経てばもっと深いところに沈む。十年経てば、そんなこともあったと、思い出せるようになる。その時間を、ずっと一緒にいよう」


 椎名さんの腕に力が入り、彼の頬が触れた。

 私は涙がこぼれ落ちるまま、いつまでもバルコニーの手すりを痛いほど握りしめていた。




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