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水の檻  作者: 香野三弥
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インターバル <RINN>

凛目線

  インターバル <RINN>



 二人が出て行った後には、何ともいえない虚脱感が待っていた。水貴の前では普通に振るまっていたが、本当はもの凄く緊張していたのだ。映画が始まってからはずっと手汗が止まらず、隣の水貴の表情すら見ることができなかった。


 まるで審判を待つ罪人の気分だった。


 三年半前のあの日を繰り返してしまう事が、一番恐ろしかった。姉弟であると解ったとき、僕を見ているのに、何も映していない空洞のような水貴の真っ暗な瞳が、ずっと僕の心を縛ってきた。二度とあんな目で見られたくはなかったのだ。



 

 「凛?大丈夫?」


 

 萌子が隣に座り手を握った。



「少し、疲れたかな、やっぱり緊張してた」



 僕は母の再婚で名字が変わっていた。誰も僕らが出会って恋に落ちるなんて予想もしなかっただろう。運命のいたずらが、天文学的な確率を弾き出したとしか思えない。もし高遠を名乗っていたら、これほど遠回りをせずに家族になれたのに。



「おおむね成功だったかな。あなたと水貴のリハビリに関してはね。」


「思っていたより酷いことにはならなくて良かった。でも、合田さんの件はショックだったんだろうな」


「私が問いただしても、合田は水貴ちゃんとの関係を一切話さなかった。ただ、仕事を手伝ってもらっていただけだって。だから余計に何かを隠しているように思ったの。」


「加奈さんも合田さんのことは、事故が起きるまで詳しくは知らなかったみたいだけど、水貴が彼のマンションに住んでいたことは間違いないと言ってた。」


「これから先は水貴ちゃんの記憶が戻るのを待つしかないわね。じゃあ、私はクリニックに戻るけど、何かあったらすぐに連絡して。仕事終わったら店に顔出すわ」


「わかった」



 行きかけて、萌子は振り向き



「あなたは、一人で大丈夫?」


「平気だよ、この三年で図太くなったからね、誰かさんのせいで」


「ダメだ、やっぱり凛は可愛い!」


 萌子は僕の唇に素早くキスを落とすと、リビングを出て行った。

 その後ろ姿に自然と口元がほころんだ。


 

・・・やっぱり最強の恋人だ。




 時計を見ると午後4時少し前だった。

『私の朝』の開店まで、まだ五時間ある。


 描きたい、と思った。


 隅に片付けてあったブルーシートで床を養生し、服を替え、必要な絵の具の準備をする。その手順一つ一つが、絵に向かうエネルギーチャージの時間になる。


 僕の心は澄んでいた。僕はもうありのままの自分でいられるのだ。その軽さをどう表現していいか分からなかった。言葉にできなくても描くことはできる。


 描きかけの一枚目の鏡をそのままにし、僕は二枚目の鏡にむかった。今の自分からあふれだすものを、一から描きたかった。


 目を閉じて深呼吸をする。下絵も構図決めもいらない、そこにはもう描き上がった絵が見えていた。

 最初の一筆を鏡面に落とすと、僕の中からすべての音が消えた。

 感情も、言葉も消え、心に何も宿さない空間から霧が晴れるようにイメージ浮かび上がって来た。僕は、突き動かされるように、濁流となった色を鏡の上に乗せていった。


 かなりの時間休まず描き続けたところで、僕はふと気配を感じて振り返った。


 そこには、ソファーに座ってじっと僕を見つめる咲妃ちゃんがいた。


「いつからいたの?」


「一時間ぐらい前から」


「そんなに?ごめん、何か用があったんでしょ?声かけてくれればいいのに」


「見ていたかったから」


「絵は好き?」


「好きとか考えたことなかった。でもこの絵は凄く好き。凛さんは絵描きさんだったの?」


「うん、ずっと描いてなかったけどね。」



 絵描きさんという呼称がなんだか新鮮だった。張り詰めていた気が緩み時計を見ると、もう7時近かった。三時間ぶっ通しで描いていたことになる。



「そうなんだ。ごめんなさい、邪魔したよね。続き描いて」


「いや、もうやめる、店の準備もあるし。それよりどうしたの咲妃ちゃんは」


「水貴さんなにかあったの?パパにさっきちょっと聞いたけど、今日は心配だからついてるって」


「詳しくは聞いてない?」


「うん」


「そっか、ところでもう7時だけど、夕飯は?食べたの?」


「まだ。パパとどこか食べに行こうと思って帰ってきたんだけど。今日は仕事だったんだ」


「仕事?」


「うん、夏休みの間だけモデルの仕事、少しすることになって。だからしばらくパパの部屋に泊まる」


「じゃあ、ご飯一緒に食べよう、ちょっとここ片付けたらすぐ作るから」


「え、でも、いいの?」


「一人で食べるより二人の方がいいよ。」


 咲妃ちゃんは嬉しそうに笑った。




 それから僕は、冷凍してあったホワイトソースで手抜きのグラタンを作り、スモークサーモンのサラダと朝の残りのスープをテーブルに並べた。


「魔法みたい、速い!」


「店でも簡単な料理は出すからね」


「絵描きさんで、シェフ?なんかびっくり」


その時、咲妃ちゃんのスマホが鳴った。


「パパだ、はい、どうしたの?夕飯はこれから食べる・・・キッチンだよ、凛さんが作ってくれた・・・うん、わかった」


電話を切ると


「来るって」


「え」


ほぼ同時に、椎名さんが、慌ててキッチンにやってきた。



「また迷惑かけて申し訳ない。」


「僕が食べるついでに誘っただけですから。それより水貴は落ち着きましたか?」


「少し眠って今は落ち着いてる、ちょっと食事に出てきてもいいかな、咲妃も連れて行こうと思ったんだが」


「どうぞ、咲妃ちゃんいいよね?」


「うん、いってらっしゃい」


「ごめん、君にはいつも食べさせてもらってばかりだな。じゃあ、咲妃、片付けはやれよ」


「わかってる!」


 椎名さんが去ると咲妃ちゃんはクスッと笑った。


「何がおかしいの?」


「なんか可愛いんだもん、焦っちゃって。水貴さんが大事なんだな、ちょっと妬ける」


 そう言う咲妃ちゃんからは、二人を祝福している気持ちしか伝わってこなかった。


 食事をしながら、僕は、水貴の事をほぼすべて咲妃ちゃんに話した。

 事故のこと、記憶障害がまだあること。そして僕の姉であることも。咲妃ちゃんはずっと黙って聞いていた。


「ごちそうさまでした。とても美味しかった。また食べに来てもいい?」


「いいよ、毎日でも」


「やった! もし、パパが水貴さんと結婚したら、凛さんは私の叔父さんになるんだね、なんかいいな~って。」


 僕は、その発言に、気が早いよと突っ込みながら、それも悪くないなと思ってしまったのだ。

 

 咲妃ちゃんからは、明るい未来しか感じられない。この子が支えていたから今の椎名さんがある。萌子が言っていた最高の相棒の意味が、分かった気がした。


 


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