第一章 夜明け <MIZUKI>
ミステリアスな運命の出会い。<水貴目線>
プロローグ
黒いセダンがゆっくり傾き、すうっと崖下の闇に飲み込まれていった。
音は、ない。
タイヤの音も、車が崖を滑る音も、風の音さえない。
消えたテールランプの残像が眼の奥に焼き付いて、
視界は、濁った赤い膜に覆われていた。
その中から、顔のないまっ黒い影が近づき、私を抱きしめた。
誰?
震えながら、夢の中でこれは夢だと思っている、
私がいた。
第一章 夜明け <MIZUKI>
まつげに強い風を感じた。
重いまぶたをゆっくりと持ち上げると、紫色に滲みはじめた空が見えた。
たとえようのない色が大気を割って変化する。
夜の終わり・・・
高速で移動するオープンカーの助手席で、私は目を覚ました。
頭のシンが痺れたように後ろに引っ張られる。
また同じ夢だ。
ヘッドライトの先はまだ薄墨を流したような闇に吸い込まれ、しんと凪いだ海面が空の境界に黒く溶けている。バックミラーにも後続車の影はなかった。
7月に入ったとはいえ、まだ夜明け前だ。風は海の冷気を含んで容赦なく頬を打った。
胸元には黒いジャケットがかけられていて、体は、ほんのり温かい。
左を見るとジャケットの持ち主がハンドルを握っていた。
椎名監督・・・この人の横顔は彫像のようだ。
彼にこの車はよく似合う。
アルファロメオ、車には疎い私でも、名前ぐらいは知っている。
重量感のある赤い車体が風を押しのけるようにセンターラインギリギリを走っていく。
左ハンドルの助手席に座っていると、道のど真ん中をきりとっていく快感がある。
屋根がないのっていいもんだわ。
シートベルトにおさえられた体が、ふーっと持ち上がってしまいそうな、大気と解け合っていくような浮遊感がたまらない。ついさっきまで、延々八時間もアルコールに浸っていたせいか、私の意識はどこか少しばかりはずれた次元にいる。
どのくらい眠っていたのだろうか、海が見えていると言うことは、ほんの短い時間なのだろう。
記憶の断片がきれぎれに向こうから歩いてくるような不安定な状態と、この三年折り合いを付けてきた私にとって、アルコールが飛ばした一時の記憶などたいしたことでなかった。
目を閉じてゆっくりと思い出していく。
昨日の日没と同時に、約二ヶ月に及ぶドラマの撮影が終了した。
そのまま最終ロケ場所である別荘にケータリングサービスが入り、四十畳ほどの吹き抜けの広間はあっという間に打ち上げ会場に変わった。
ラスト三日間はほぼ徹夜に近いスケジュールだった。
役者もスタッフも疲れはピークを越え、気力だけで維持されていた緊張感が、乾杯の酒によって一気に突き破られ、解放と安堵の波がうねりながら会場を満たしていった。
椎名監督の周りには多くのスタッフ、役者が集まり、口々に四時間の大作を撮り終えた仕事ぶりを称え、尽きることのない会話は彼を経由地点としながらあらゆる方向に流れ出していた。
彼はハイな騒ぎの中にいても、どこか傍観者のように流れに身を任せ漂っているように見えた。
話に加わる体力が残っていなかった私は、柱の影になったテラス側のソファに埋もれてひたすら食べて飲んでいた。
メイクの祐さんが気を利かして山ほどの料理と、ワインをボトルで運んでくれたので、彼が引き上げた後も席を立つ必要がなかった。
時間とともに、明日の仕事の予定のある人から消えていく。
気がつくと一人になっていた。
私は、そこから椎名さんの姿をずっと追っていた。
監督に初めて会った時、なぜか懐かしい感じがした。体の真ん中に、温かいひとしずくがぽとりと落ちたみたいに波紋が広がった。
椎名さんは映画の人だ。
今は映画とテレビのスタッフの住み分けがかなり曖昧になっているし、映画監督が単発のドラマを撮るのは珍しいことではない。それでも、純粋に映画畑でやってきたの人と組む時は勝手が違い、かなり神経をつかう。
他のスタッフも同様で映画監督と聞いただけである種の緊張感が走る。
映像界では、やはりテレビドラマを映画より格下に見る風潮は根強い。
わかってはいても屈辱には違いなく、ことさら彼らの侵入に身構えるのかもしれない。なじみのスタッフを強引に入れてくる監督も多い。
各セクションのプライドも、はじめから踏みつけられれば爆発の臨界点は自ずと速くやってくる。チーフ格の人が癖のある人ならなおさらだ。
でも椎名さんは、身一つでやって来た。
まったくと言っていいほど摩擦は起きず、とても雰囲気のいい現場だった。なんというかニュートラルな人で、無理なく周りのペースに合わせてしまう。
誰もいやな思いをせず、誰からも煙たがられない。相手が欲しいと思う言葉が見えているように心を掴んでいく。
そして、彼の表現したい思いは、少しもスポイルされず望んだままの結果にたどり着く・・・
でも本当のところは、私にもわからない。
監督とは、どんな人でも恐ろしいナルシストでない限り自分の作品に不満を抱えているものだから。
ふた月、記録として隣でその横顔を見続けてきた。
監督の呼吸を読みながら、シーンのカットタイミングをはかり、つながりを正確に記録し、撮り上がりまでの全編の時間を管理していく。
監督が本番中モニターを見ているときは、もっとも隙だらけになる。
肩が触れあう近さで、その感性に直にコンタクトを続けていると、皮膚の下に押さえ込まれた感情がしだいに透けて見えてくる。
記録はスタッフの中で最も無防備な姿を見てしまうポジションなのかもしれない。
今、椎名さんは一人になりたいと願っている・・・。
スタッフに笑いかける表情の皮一枚裏で、毛細血管が強ばっていく音が聞こえてきそうだった。
小さなため息をもらした瞬間、私の視線とぶつかり、いたずらを咎められた子供のような、はにかんだ笑いを浮かべた。
こちらに向かって歩いてくる。
途中、カウンターでワインの入ったグラスを二つ取り、一つをさしだした。
受け取るとかちんと合わせ隣に座った。腕が触れるほどに近い。
柔らかい気の流れが私を押した。彼の隣にできる空気の層はいつも同じ微かな芳香に満ちていて、リラックスできる。
ああそうか、箪笥に入れているレッドシダーの匂いだ。
たしかに知っている香りなのにそれが何だったのか思い出せなくて、ずっと引っかかっていた。
私は深呼吸し、満足してから一息にワインを飲み干した。
ライトボディ、軽い飲み口の赤ワインがすらりと喉を通りすぎて体に浸み込んでいく。
「ワインは、一気にのまないほうがいいよ」
すでにかなり飲んでいた私には遅すぎる忠告だった。曖昧に頷く。
「いい場所だ、ぼくもここに隠れるかな」
ソファーに深く寄りかかると、長い息を吐いた。張りつめていた糸がふっとたわんだように椎名さんの全身がゆっくり弛緩していくのがわかった。
彼のワインは口を付けずにテーブルに置かれた。
すでに会場のアルコール値はかなり上がっていて、みんなの感覚を麻痺させはじめた頃だったので、監督のフェイドアウトを気にかける者はいないようだった。
「いつも白い服を着てるよね。ずっと聞こうと思ってた。なにか意味があるの?」
何度も受け続けてきた質問だった。
「白は、どんな色が映ってもきれいだから」
「そう。そうかもしれないね」
部屋の灯りは場所によって少しずつ色が変化している。
私たちが座っているオフホワイトのソファーには、淡いブルーの照明が真上からあたっていた。カットワークを施した白いシャツが青く染まっている。右手のテラスに続くプールの水がガラス越しにゆらゆらと映りこみ、肌の上を音もなく流れていく。海の底から遙か遠い水上の宴を眺めているみたいだ。
現実から引きはがされた空間で二人きりになったような気がした。
ただ黙って私たちはうつろう水を見るともなく見ていた。
沈黙はやさしく睡魔を引き寄せる。手だったり足だったり、首の後ろだったり、体のあちこちの部分が別々に眠りにつこうとしていた。
「まるで水の檻だな」
椎名さんの声が音楽のようにリズムを持って、遠のく意識の底に落ちてくる。
(水の檻?)
やんわりと私を見つめ、
「もう、逃げられない、か・・」
まるで彼は、自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。
記憶のかけらが、ジグソーパズルのように落ち着く場所にカチリとはまった。
水の檻・・私は知っている。
「眠っていいよ、ここにいるから」
声が霞網のように私を捕らえ、訊ねたいことが言葉にならないまま、さしだされた彼のワインを飲み干すと、体の上を流れる水に取りこまれていった。
♢
意識の底で、APのなおちゃんの声が聞こえた。
「監督はご自分のお車でしたよね」
ああ、帰りの車の手配ね、もうそんな時間か・・・
「うん、夜が明ける前に出るよ、みんなまだ飲んでるだろう?」
「わかりました。明日の編集は13時からです。」
「了解お疲れ。」
「水貴ちゃん寝てますね、どうしよう。以前は酔いつぶれたりしなかったのに」
「そうなの?」
「お酒強いから、全然平気だったのに」
「僕が乗せて帰るからいいよ」
「すみません。ではお願いします」
お願いされたのか、私。眠りこんではいないけど意識の上に浮上できない感じ。気持ちが良くて、このままずっと椎名さんの隣で眠っていたかった。
♢
「どのくらい、眠ってました?」
「うん?タバコくれる。」
私は、バッグから預かっていた椎名さんのタバコを取り出して、一本渡そうとした。
「二十分ほどかな・・つけて」
椎名さんは、恋人でもない女に火を吸い付けて渡せといってしまえる人だ。するりと手順を飛ばし、気がつくと触れるほど近くにいる。それでいて、生々しさを感じさせない。
私は口紅が落ちてしまっていることにちょっとだけ感謝した。
火を付けて口元に持っていく。
日本人にしては彫りの深い顔立ちで、美しいという表現がすんなりと使える人だ。日に焼けて引き締まった肌は四十才という年齢を感じさせない艶があり、絶妙な顎の張り具合は厚かましくもなく、細すぎもしない。石膏像のような端正な頬骨を、タバコの煙が容赦なく打っていく。
「少し飲み過ぎました」
昨日は疲れていたせいか、限度を考える余裕がなかった。いくら飲んでも体は受け入れてくれた。
「水貴ちゃんは、顔に出ないんだね。お酒強いの?」
「底なしって言われます」
「フフ、そんな風には見えないけどね」
椎名さんは乾杯の後一口も飲んではいなかった。手つかずで置かれた彼のワインを飲んだのは私だ。
この車は都心に向かっているのだろう。昨日撮影が終了したばかりだというのに、ドラマのオンエアーはもう五日後に迫っている。私たちは、昼から編集作業に入らなくてはならない。
狭い後部座席には私の荷物がちゃんと乗っていた。酔ってはいても大切な台本だけは忘れなかったようだ。全てのカットを記録した台本がなくては編集が始まらない。
現実に引き戻されてしまった。徹夜からの解放は、あまりにも遙か遠くにある。
四時間スペシャルを四日で仕上げること事態、狂気の沙汰なのだから。
椎名さんの指がカーステレオのスイッチにふれた。光の表示はCDの再生が始まったことを告げているのに何も音がしない。ボリュームが下がっているのかと思った時、かすかに波の音が聞こえ始めた。大きく、小さく寄せる波とひいていく波がくり返され徐々に海が近づいてくる。
「これって」
「海だよ」
「ええ、でも、本物が聞こえてます。」
「そうだな」
トラックを送った。次に聞こえてきたのは風の音だった。
深い森を通り抜けた風が、草原の小さな下草を揺らすような、明るく優しい色をした風だった。私は思わず口元が緩んだ。なんてこの状況にふさわしくない音だろう。
「風にも吹かれてます。」
「うん、5番にして」
私はつまみを三つまわした。今度は鳥の声だった。何と言う名の鳥かは分からない。でも、朝の気配が漂いはじめた空気に程良い緊張感を与え、しみじみと心地よい声だった。夜明けに鳴く鳥なのだろうか。
「いいだろ、なかなか、羽村ちゃんに作ってもらったんだ」
「効果の?」
「そう、SE用の音、集めてもらった」
なるほど、そういうことか。
ヒーリング系の環境音楽とはどこかが違っていて、素っ気ないほどのリアルさが肌に直接触れていくような気がした。
昨日、別荘で撮り終えたシーンの一つが浮かんでくる。
監督の要求に照明さんが懲りまくって応えたため時間がかなり押したけれど、その幻想的な明かりはレンズを通してみるとため息が出るほど巧妙で、美しかった。
海辺の小さな古いホテルという設定だ。早朝、ベットにいる男と女。うっすらと朝陽がレース越しに差し込んでくる。霧のように繊細で一滴垂らしたミルクが空気中に拡散していくようなとろっとした光だった。
ここで鳥の声の効果音はどうだろう。
その声は眠っている二人の上に朝が来てしまったことを告げる。
女は、目覚め、かたわらで眠る男の肩にキスをする。
眠りを妨げないようそっとベットを降りる女。
窓際の光の中に浮かぶシルエットの裸身を包み込むように次第に高まる鳥の声。
男は目をさまし、あたりを見回す。
女の名を呼ぶが、その姿はなく、部屋にはただレースを揺らす一陣の風だけが残っていた。
「…」
思わず口をついた。
「うん、曲使わないで、効果音だけでいくかな、せつないよねそのほうが。」
まるで私が考えていたことを全部わかったように、そう言った。
CDは静かな雨を降らせ始めていた。
木立をやわらかく濡らす、かすかな霧のような雨。地面に吸い込まれていく音にならない音、けむるように立ち上がってくる気配が雨のにおいを感じさせる。やがて遠くから雷鳴が轟き、雨足は地を叩くように激しくなっていった。雷雨がピークに差しかかった時、車は大きく海に向かってふくらんだカーブに入った。
椎名さんは、タバコを消すと車を海沿いの突端に寄せて止め、エンジンを切った。
とたんにあたりは静寂に包まれ、数メートル下に砕ける波の音だけが空気を震わせていた。
潮風に当たって、たっぷり湿り気を含んだ私の体はシートに深く沈み張り付いていた。
夜が、明ける。
海面は黄金色の鱗を持った魚がひしめき合っているようにきらきらとゆれ、海と空の色は想像以上に速く劇的な変化を見せていった。
地球上の営みの中でもっとも尊く美しいシーンが、何億年も繰り返されてきた正しい記憶に添って上演される。
天使のラッパが鳴り響いてきそうだった。
なぜか宇宙にただひとりほうり出されたように心許なく、ほとんど哀しみに近い感情がわいて来た。このまま私が大気にとけてしまっても、朝はやってくるのだ。
「水貴ちゃん、恋人いる?」
「いいえ」
「じゃあ、いいか」
何がいいのだろうと思ったが聞き返す間もなく、私の唇は、椎名さんの唇によってふさがれていた。
目を閉じると、光を今かと待つ淡い空が残った。
慣れ親しんだ女に与えるような、どこか乾いていて欲望のないキスだった。
重なったからだの重みでシートが僅かに倒れ、首筋に添えられた指がもっとも敏感な柔らかい部分にふれたとたん、みぞおちのあたりがじんと痺れたように、疼いた。細胞がゆっくりと熱を帯び、あわだってゆく。耳の後ろから戻ってきた指は、鎖骨のくぼみでためらうように止まった。
まぶたの裏がゆっくりと明るくなって、それが本物の太陽の光であると感じた時、椎名さんの体は離れていった。
エンジンの始動音によって静寂はたちきられ、車は道に滑り出した。
全身を見せた太陽は圧倒的なエネルギーを放出しながら、海に、空に、地上に等しく一日の始まりを告げていた。
ぼんやりと、キスの意味を探したけれど、椎名さんのしずかな横顔に問いかけることはしなかった。
滑り落ちたジャケットを顎のそばまでひきあげると、かすかにレッドシダーの香りがした。
脳の片側からゆっくりと闇が訪れはじめ、ブラックアウトの瞬間、椎名さんの手が私の膝から落ちた左手を包んだ。
ああ、ピンクだ……
柔らかな紅梅色の光に包まれた椎名さんが、
おやすみ、と言った。
私は、この色を、知っている気がした。