9;窓越しの食事
僕は満腹なお腹を抱えながら無言で部屋へと帰って行った。
朝からあんなに食べるのはちょっと苦しかったけど、残すのはしてはいけない気がした。
少しドキドキしながら、窓のカーテンを開けた。
橘君の部屋はカーテンが閉まっていた。
思わず溜息をつく。
いつになったらまた橘君に会えるのだろうか…。
そんなことを思いながら、僕は窓辺に座った。
昨日使った紙の束を部屋の隅に綺麗に置いて、まだ未使用の紙を束にして窓辺に置いた。
今日は何を聞こう。
そういえば、昨日の最後の質問の橘君の答えを聞いてなかった。
彼も僕と同じくわからないんだろうか。
僕はまるで遠足前の少年のように色々な考えを巡らした。
心は弾んでいて、僕の頭の中で様々なシチュエーションが勝手に展開していた。
僕は待った。
思わず腕時計を引き寄せて時間を見てしまう。
僕は待った。
腕時計を見るが、10分しか経っていない。
僕は待って、待って、待った。
腕時計を見ると、13分経っていた。
僕は苛立って時計をベッドに投げつけた。
僕は待った。待って、待って、待った。
………………………。
……………。
…………。
……。
…………グウ……。
っは。
どうやら眠ってしまっていたようだった。
僕はあわてて橘君の窓を見たが、相変わらずカーテンは閉まっていた。
「はあ。」
思わず大きな溜息と一緒に声まで出てしまう。
僕は仕方がなく、ベッドに近寄って腕時計を見てみた。
11時38分。
昼だというのに、窓の外は暗かった。
朝は鳥のさえずりが聞こえるほど、あんなにすがすがしい天気だったのに、まるで僕の心情を表しているかの様に外は雲行きが怪しいようだった。
僕は、また窓辺に座り込んだ。
彼を待っているというのも正しいけれど、正確には他にやる事がなかった。
だから余計に期待してしまう。
だから余計に彼に会いたくなってしまう。
また 明日
彼はそう僕に書いてくれた。
それは社交辞令だったのか、それとも彼も僕とまた会いたいと思ってくれたのか…、何故彼がそう書いたのかはわからない。
でも、彼は確実にそう書いた。
また 明日、と。
だから僕は待とう。
彼があの窓から顔を出してくれるまで。
僕は自分の中で腹をくくった。
何も考えずに待とうと。
僕は時間の感覚がわらなくなっていた。
ひたすら待つのは辛かったが、時々、昔買った本などを読み返して、時間をつぶしていた。
特に面白い本は無かったけれど。
どれぐらい時間がたったのか、僕はコンコンという音で視線を本から窓の外へと移した。
思わず顔がにやけてしまった。
橘君だった。
本を無我夢中でベッドの上に投げると、近くに置いていた紙を勢い良くつかみ、ペンで書く。
「こんにちは」
その紙を彼にみせると、彼は笑って唇でゆっくり「こんにちは」と言った。
僕はすかさず次の紙を取って書いた。
「時間ある??」
そして見せる。
すると、今度は橘君がなにやら書いてきた。
「もちろん」
「スグル君と」
「話したくて」
「窓をあけた」
と書いてくれた。
僕は思わず恥ずかしくて嬉しくて俯いてしまった。
にやけて馬鹿みたいな顔になってるだろうから、橘君に見せるのはなんだか恥ずかしかった。
すると、コンコンとまた橘君が窓を叩いて、僕はその音に引き寄せられる様に橘君をみた。
橘君はさっそく
「質問いい?」
とかかれた紙をもっていた。
僕が快く頷くと橘君は続きを書いた。
「人間って」
「食べないと」
「何日で」
「死ぬのかな?」
僕は予想もしてなかった質問に少し驚いたが、橘君らしいと思った。
橘君のことについて、ほとんど何も知らない僕だったけど、昨日の橘君の最後の質問の印象が強すぎたのか、橘君はおもしろい質問をする子だと思っていた。
僕は頭をひねって考えた。
そう言えば、随分と昔,まだ学校にいた頃、その頃の友人と人間の生命力についてそんな話をしたような気がした。
僕は脳細胞の全てを使って思い出そうとしていた。
そして精一杯の答えを紙に書く。
「詳しい日数は」
「覚えてない」
「けど」
「けっこう生きれた ハズ」
僕がそう書くと、橘君は例の寂しそうな笑顔で笑った。
「試してみようかな」
と橘君。
僕はぎょっとした。
「死ぬよ!?」
「止めて!」
冗談で書いているのかよく解らない橘君に僕は必死で書いた。
橘君は寂しそうな微笑みで僕の紙を見ていた。
その微笑みがあまりにも悲しそうで、僕はいたたまれなくなった。
「ぼくだって」
と僕は書き始めた。
「死にたくなるけど さ」
「でも」
「いつも 死ねないんだ。」
橘君は驚いた様に僕の書いた文を読んでいた。
「怖いから ね。」
と僕は付け加えて笑った。
橘君も僕につられて寂しそうに微笑む。
すると橘君が何やら書き始めた。
「スグル君は」
「死ぬ運命に」
「ないんだよ。」
僕は橘君から出た言葉に拍子抜けした。
運命…?
普段あまり考えないその言葉に一瞬思考を巡らす。
橘君は続けた。
「でもぼくは」
そこまで書いて橘君の手が止まった。
数分間、彼は考え込んでいた。
僕は待った。彼が次の言葉をちゃんと書いてくれるまで。
そして、決まったのか、彼は何やら書き始めた。
「そういう運命にあった のかも」
彼が選んだ言葉。
よく意味がわからなかったけど、それはなんだか重かった。
運命とか、僕の思考の外に或る言葉を使われて僕は理解出来なかったけど、すかさず書いた。
「まだ わかんないよ」
だって僕は君と会えたから…。
それは何の理由にはならなかったけど、僕は心の中で呟いていた。
なんだか信じられなかった。
僕が、こんな僕が、誰かを励ましているなんて。
「そんなの 誰にも」
「わかんないよ」
僕は書いた。必死に書いた。
「運命が」
「決めることじゃない」
僕は必死に書いた。
橘君は僕が書いた文字を一文字一文字読んでくれているようだった。
嬉しかったし、笑ってほしかった。
橘君は
「ありがとう」
「そうだね」
と書いた。
僕らはそれからたわいもないことを筆談した。
お互いのこと、部屋のこと、マンションのこと、ちょっと哲学的なこと。
でも、一切過去や未来について話さなかった。家族についても。
気付けば、曇りだった空はいっそう、暗くなっていた。
左側の部屋のふりふりのカーテンも、向かいの夫婦の部屋のカーテンも、気付かぬうちに閉じていた。
僕は、橘君に【ちょっと待って】のジェスチャーをすると、ベッドの傍らに落ちている腕時計を拾った。
8時12分。
もう既に母親が僕の夕飯を部屋の外に置いておいてくれているであろう時間だった。
僕は窓辺に戻って書く。
「夕飯の時間だね」
それを見た橘君は、何も言わなかった。
僕は続けて書く。
「食べてきて」
「いいよ」
僕は昨日橘君を拘束してしまった事を悪く思っていた。
だから、僕は橘くんにも、ちゃんとご飯を食べてほしかった。
橘君は少し複雑そうな瞳で僕の紙を見つめた。それから首を横にふった。
それがどういう意味なのか僕にはよくわからなかった。
「もしかして」
僕は付け加えた。
「まだ」
「ご飯の用意」
「できてない?」
橘君は少し苛立った表情で僕を見つめた。
そんな橘君を見たのは初めてで、焦る僕の心臓がどんどんと早まって行った。
悪い事いっちゃったのかな…?
「ごめん」
僕は意味もなく謝った。
橘君は、少し怒った様にペンを取ると、書いた。
「どうして」
「あやまるの」
僕はあわてて返事をする。
「悪い事」
「言ったかと」
「思ったから」
僕はそう書いて橘君を見つめた。
彼は僕をまっすぐに相変わらず苛立の表情を称えて見つめていた。
何かを書かなくてはと思い、書き加える。
「ぼくは、いつも」
僕はそこまで橘君に見せてから次書く事を躊躇した。
思わず常に自分が一人で食べている事を書こうとしていた自分が恥ずかしかった。
いつも一人を食べている事を、橘君に知られたくない…。
でも…。
僕は僕の次の言葉を待って複雑な瞳で見つめる橘君をちらりと一瞥してから、…唾を飲みこんで書いた。
「一人で」
「食べてるんだ」
「よければ」
「一緒に」
「食べてほしい」
僕は必死にそれを橘君に見せた。僕の100%真実な言葉。
嘘をつく事はこの窓越しに友人にしたくなかった。
すると、それを読んだ橘君の顔は穏やかになっていた。
通じたのかな…。
橘君は強く頷いた。
「今」
「持ってくる」
そういって橘君は窓辺から消えてしまった。
僕も、橘君が消えている間に部屋のドアへと向かった。
鍵をあけて、扉を少しだけ開ける。
いつものところに、食事が置いてあった。小さなメモ付きで。
僕は食事を部屋に入れながらそのメモを開く。
「スグル
昼食手付けてなかったね。
朝早かったからまた寝ちゃったのかと思ったよ。
ちゃんと夕ご飯食べてね。
母」
僕は無表情でそのメモを閉じながら、部屋の鍵を閉めた。
メモを傷ついてぼろぼろの本棚の上に置いて、食事の盆を持って窓辺に座った。
既に橘君が窓辺にいた。
手にはツナ缶をもっていた。
僕は橘君の簡素な夕食に驚きながら近くの紙にかいた。
「いただきます」
橘君も嬉しそうに同じ言葉を書いた紙を見せてくれた。
僕は夜の青白い光に照らされた今日の夕食を見た。
ハンバーグとサラダ。
ポタージュスープ。
まだ温かい。
ハンバーグは、僕の大好物だった。
僕は橘君を見つめた。
美味しそうにツナ缶からそのまま食べていた。
ソレ以外の食べ物は、僕は見つける事ができない。
僕が見ているのに気付くと、橘君は優しい笑顔を返してきた。
そんな笑顔は初めてで少しびっくりした。
でも、同時に思った。
美味しいのかな、あれ。
僕は自分の食事に手を付けた。
大好きなハンバーグ。
それはいつも一人で食べるより数倍美味しく感じられた。
窓越しの僕と彼の初めての一緒の食事。