4;スグルの窓
僕はスグル。
何のためにこんな名前がつけられたんだろうか…。
両親は長子だった僕にそれはもうありったけの希望と夢を抱いてこの名前を付けたんだと思う。
大嫌いな名前だ。
何がスグルだ…。
僕は、収まらない興奮で拳を壁に殴りつけた。
拳はさっきの騒ぎで既に血がにじんでいた。
デコボコの穴だらけの壁に新しい凹凸が出来る。僕の血と一緒に。
僕はその壁を背にして床に座り込んだ。
「あははっ…、あははっ…あはっ…!」
なんだかとてもおかしいのに、目からは涙が出ていた。
おかしい涙が止まらない。
僕の家に静かに笑い声が響いた。
誰も僕がこの部屋で一人泣いてる何て思わないだろう。
ー傑作だ。
そう思うと、もっと笑えた。
もっと泣けた。
「スグルちゃん、スグルちゃん。いい子ね、あなたはとってもいい子ね。」
「スグル、お前は父さんと母さんの誇りだよ。」
「スグル、どうしてできないの!?」
「御前はなんて馬鹿なんだ!?なんでこんなことがわからないんだ!?」
思えば…、そう言われ続けてきた。
過剰に甘い言葉に、それを裏切ったときの「何故」「どうして」。
親の思う通りであれば僕はいい子だった。
親の思う通りでない所は一切認められなかった。
いつしか、親の期待に応える事が僕にとっての生き甲斐になっていた。
正確にいうなら、平穏を求めるには、親の期待を裏ぎら無い事が僕に常に要求されていた。
でも僕はそんなに器用じゃない。
スーパマンでも、天才でもなんでもない。
「何故お前はそうなんだ?どうしてわからない?なんでだ?お前が努力しないからじゃないのか?お前はもっと出来るだろ?どうして?何故?」
…沢山だった。
何か弾けた。
僕の中で何かが弾けたんだ。
…それで出来上がったのが僕。なれ損ない。
僕にもなれない。
親の期待通りにもなれない。
意味の無い存在。カス…。
何のために生きているんだろう。
僕が手首を切り落とせば、両親も僕の苦痛をわかってくれるだろうか。
謝ってくれるだろうか、認めてくれるだろうか…、僕を壊してしまった事を。
でもそんなことをする勇気も僕には無かったけれど。
僕は床に寝そべっていた。
気付けば、窓からは青い光が入っていた。
眠ってしまっていたようだ。
床に転がっている卓上ライトを付けると、僕の部屋が暗闇に姿を表した。
ボコボコの所々血のついた壁。
散乱した家具、ゴミ。
切り刻まれたベッド、学校の制服。
カッターで何度も斬りつけたフローリングの床。
全部自分でしたこと。
冷静になってみると、ふと、後悔とエスカレートして行く自分に対する恐怖が浮かぶ。
でもそれらの念はすぐに、何とも言えないどす黒い憎悪と、一種の歪んだ誇りにぬぐい去られる。
「ざまあ、見ろ。」
僕は誰にともなく呟いた。
ぼろぼろの部屋。
僕は付けていた卓上ライトの電気をけした。
すると、すぐに部屋はカーテン越しに窓から差し込む青白い夜の光に彩られる。
静かで、冷静で、孤高で、僕はその光が好きだった。
昼の自分の乾いた血のついている手で、僕はぼろぼろに所々切られているカーテンに手を伸ばした。
そして、そっと、出来るだけ静かにカーテンを開ける。顔をのぞかせるのは、小さな窓。
もしも、この部屋に付いていたのが、こんな小さな窓ではなくて、大きなベランダだったら、僕は既にこの世にいなかっただろう。
僕はふっと笑って、ガラス越しの景色を見た。
景色といっても、この窓から見えるのは、マンションの汚れた灰色の壁と、このマンションの一部の住人の窓だけ。
でも、僕にとってはそれだけで充分だった。
それらの窓に明かりが付いたりするだけで、僕は一人ではないことを悟る。
だからこの景色は僕にとって充分だった。
僕は色々知っていた。
僕の視覚の左がわにある窓には、レースのカーテンがついている。
ここには僕よりも少し年上の大学生の女の人が住んでる。
親がいない日に彼氏を連れ込んできてたのも、窓が開いてて会話でわかった。
いつも夜10時になると、寝てしまうようだった。
そのぶん朝が早いみたいだけど。
健康的な人だ。
僕と同じ階に住んでいる反対側の窓の住人は、夫婦だ。
一度、夜中に激しいけんかをしていたのが見えた。
今は円満らしい。
そして右側の窓の住人は、一度も見た事が無い。
カーテンが開いている事も今まで見た事が無い。
ただ、いつも夜中遅い時間まで薄暗い光が付いている。
その光が消える時間は不規則で、ただ正確なことは、毎日、必ず夜中に光がともっている事だ。
暗くて青白い気味の悪い光が。
とはいっても、僕はその右の隣人の不気味な窓の光が、どの窓の光よりも一番好きだった。
僕と同じ様に夜の静けさを誰よりも知っているのであろう、常に夜中起きている謎の隣人…、
その謎の隣人は僕にとってその窓の光そのものだった。
ぼんやりとしていて、何故か悲しい、窓の光。
しかし今日はついていない。いつもならついている時間帯であるのに…。
…不在なんだろうか…。
そう思うと、悲しい孤独が僕の心を蝕み始めた。
その夜、僕は何も考えずにただひたすらガラス越しにその窓を見つめていた…。
静かな静かな静寂の中で。