19;窓越しの別れ
それからの僕は毎日が闘いだった。
素直になれて喜んだり、キレてしまって泣いてしまったり。
でも、何が起きても、その度に橘君に一つ一つの出来事を教えて、じゃあ次はどうすればいいか、なんて話ばかりをしていた。
もうこれ以上できないなんて思っても、僕はがんばれた。
多分、橘君がいたから。
僕の闘いが始まってから2週間がたつ。
もう、今の僕にとっては、両親とご飯を食べるのが普通のことになっていた。
僕は会話はしない。
両親が会話をするのを傍で聞いている。
それを聞きながら切れそうになることなんて沢山あった。
僕はそれまで夢を見ていた。
努力をすれば、人生ががらりと変わるって。
両親とも楽しく会話に花を咲かせながら、おいしい食事を囲んで、テレビにみるような理想的な家庭を描ける様になるんじゃないかって。
でも、最近、それが本当に夢物語なんだと気付き始めた。
それまでずっと部屋にいたから気がつかなかったけど、両親がかわす会話は嫌なもんだった。
彼らの会話は他人の事を躊躇無く傷つける会話だった。
自分勝手な、ヘドがでそうになる会話だった、少なくとも、僕が聞いてきたものは。
部屋にいた時は、距離を置いていたから彼らのいいところしか見えなかった。
いや、いい所を見ようとしてたのかもしれない。
距離を少しでも近づけると、嫌な所が次々見えた。
吐き気がした。
理想と現実は違ったってわけだ。
でも、僕は努力していた。
闇雲に。
努力、具体的にはいままでに考えた事がないほど、両親との生活の中で考えてた。
自分がどう接するべきなのか、どういう風に両親の存在を受け止めて生活して行けばいいのか。
そして、僕は少しずつ自分にとっての答えを見つけ始めている様な気がした。
僕は朝ご飯を食べ終わって今、自分の部屋を片付けている所だ。
数日前から、自分の部屋を少しずつ綺麗にしていっている。
壁に開いた穴はどうする事はできないけれど、床に散らかっていたゴミや、家具は全て綺麗に整理した。
ぼろぼろに刻んだ昔の制服ももう捨てた。
僕にはもう必要ないものだから。
「ふー。」
最後のゴミを広いながら、思わず、呟いた。
終わった。
数日かけて始めた掃除が今終わった。
壁はぼろぼろだけど、それ以外は一応整頓は出来た。
今の僕にふさわしい部屋だと思った。
橘くんはというと、まだ起きていない。
彼と話すのは、いつも朝の10時ぐらいからだ。
まだ10時前。
だから、掃除が終わった僕は暇だった。
僕は部屋のドアを開けて、居間へと向かった。
誰もいない。
今は母親は出かけている。
母親は朝,散歩に出かける様になった。
最近、出かける事が多くなったと思う。
僕は居間の大きな窓に近づいた。
外を見る。
すっかり冬。
窓越しに見える、時折道を通る人達は小さく見えた。
…僕も出れる。
僕は思った。
この2週間。
僕は努力したから。
でもそれに対する喜びと同時に、僕の心にはある一つの恐怖が芽生え始めていた。
出て、どうやって生きて行く?
僕は高校を中退した形になっている。
勉強はずっとしていない。
大学に行く事なんて、考えられないし、行く意味がみつからない。
僕は、外に出てどうやって生きて行けばいい?
バイト?フリーター?
それを考えると怖かった。
外に出てしまえば、自分の存在の無意味さを嫌なほど体感しそうで怖かった。
それならば、甘えた自分だけの世界に引きこもっている方がまだ幸せに感じられた。
たとえ、それが僕の心をぐちゃぐちゃにこわそうとも。
怖い…。
僕は自分の伸びきった髪の毛を思わず手でつかんだ。
僕は、引きこもってから髪を切っていない。
伸びきった髪はだらしない。
洋服さえも、ちゃんとしたものをもっていない。
ださいのは恥ずかしい。
出た世界での生活を考えると、自分の存在が急に恥ずかしく思えてしまう。
それが僕をとどめていた。
自分の世界に。
「あら、スグル。」
母親が散歩から帰ってきたようだった。
上下のジャージに身を包んで、居間の扉の前に立って僕を見ていた。
「…。」
僕は母親を見つめた。
母親は僕から視線をそらすと、キッチンでココアを作ってからダイニングテーブルについた。
美味しそうにココアをすすりながら、朝刊を読んでいる。
嫌い。
それは、僕が2週間、努力しながら考えて出した答え。
僕はやっぱり嫌いだった。この母親が。
一度はその温かさに心を打たれたりする事もあったけど、嫌いだった。
一つ一つの考え方、人生に対する姿勢。
ステータスや格差に敏感に反応するこの母親が嫌いだった。
嫌いだった。
もう僕にはうるさい事は何も言わなくなったけど。
でも、彼女を縛っているその考え方は、母親の父親との会話のやり取りの中に顕著に見られた。
それを傍で聞くたびに悪寒が走った。
父親も、母親にそっくりだった。
見ているニュースに対して母親と話をしているときも、二人はそっくりだった。
その話を聞いているだけで吐き気がした、泣きたくなった、腹がたった。
両親の考え方は、僕とは根本的に違う考え方だった。
嫌いというより、受け入れるのが無理だった。
それは聞いてるだけで、僕の心を針で突き刺して傷口をぐちゅぐちゅと混ぜられている様な気分になった。
僕はこの2週間、両親を許そうと、好きになろうと努力していた。
でも、最近気付いた。
自分が全く好きではないタイプの人間がたまたま母親になっただけの話なのだ、何故、好きになろうとする努力が必要なのか。
だってもし、自分が受け入れられないタイプの人間に会えば、できるだけ関わりを持たない様にさけて生きるのが人間の賢い生き方じゃないのだろうか。
それがたまたま自分の両親だったからといって、何故好きになるように努力しなくてはいけないのだろうか。
何故尊敬しなくてはいけないんだろうか。
ただ、この2週間努力して学んだ事、それは僕は、もう彼らを憎んでないこと。
ただ、嫌いなのだ。
相容れない仲なのだ、僕と、両親は。
だからこそ、出よう。
怖がるのは止めて。
甘えるのも止めて。
どうだっていいじゃないか。
生きて行ければ、このおりの外で。
僕はふと思った。
変わったな、僕は。
僕は、窓の外に目をやった。
出て、自由になろう。
そのためにも、一人で生きて行ける様に働こう。
バイトでもなんでもしてみよう。
怖いけど、不安だけど。
それがいい。
時間はかかるかもしれないけど。
出て行こう。
この家から。
僕は自分の部屋に戻った。
僕は窓辺で橘君のことをまった。
でも、その間、ノートの開いたページに書いていた。
出た後、やらなくてはいけないこと。
・バイトを探す
・髪を切る
・目標=家を出て自立する事
果てしない目標かもしれないけど、僕は、頷いた。
出よう。
変わろう。
生きて行こう…。
怖い。
僕はその開かれたノートのページを見て、黙った。
しみじみと、変わった自分を実感する。
本当に橘君がいなくては変われなかったであろう自分。
彼には感謝しきれない。
そんなことを思っていると,彼との出会った頃からの思い出が頭の中を駆け巡った。
初めて会ったときの彼の怯えた様な目。
そして、彼と初めて会話をしたとき。
必死だった自分。
嬉しかった自分。
彼が僕に初めて聞いた哲学的な質問。
【ジャマなものってどうするべき?】
という質問。
それはその後も僕らがした哲学的な会話の中で唯一僕が答えられなかった質問だった。
この質問が、それ以降の僕らの会話の中に出てくる事はなかったけれど、僕は、やっと見つけた様な気がしていた。
そう答えを。
コンコン。
僕は聞き慣れたノックの音で窓の外に目をやった。
橘君だった、僕の相談員。
「おはよう」
と彼。
僕も同じ言葉が書かれた紙を彼に見せた。
そして僕は思いっきり書いた。
「橘君」
「僕出ようと思う」
彼はそれを見ると驚いた様な顔をした。
「今日?」
彼の言葉に僕は黙った。
今日出る事もできるだろう。
僕の心の用意は少なからず出来ている。
僕が迷っていると、橘君が書いてきた。
「もしも」
「スグル君が出たら」
「ぼくらもこうして話す事は」
「なくなるのかな。」
僕は彼の言葉に切なくなった。
出るという事は、ただこの家から物理的に体を出す事じゃない。
この家を出るという事は、社会に生きるために努力するための第一歩にすぎない。
そして、この部屋に引きこもる事によって成立している僕らの窓を介しての会話ももう必然的に少なくなって、なくしていかなくては行けない。
だってそれは約束だったから。
一人が出たら、必ず、もう一人も一緒に出る、と。
初めに出た方がもう一人を迎えに行く、と。
僕は首を振った。
「出るのは、明日の朝」
「今日は、最後だと思って」
「思いっきり話そうよ。」
橘君は切なそうに笑った。
「スグル君の 勝ちだね」
僕が黙って彼の言葉を見つめていると彼は続けた。
「ぼくたちの レース」
「勝った スグル君は」
「負けたぼくを 明日」
「迎えに来てくれるの?」
僕は頷いた。
「迎えに行く」
「一緒に町でもブラブラ」
「しようよ。」
彼は頷いた。
「出たらどうするの?」
彼の質問に対して、僕は躊躇無く書いた。
いままで考えていたことを。
「まずは バイトを 探して」
「ゆっくりと」
「社会に生きて行ける様に」
「がんばる」
すると橘君が続けた。
「それで?」
僕はまた書いた。
「目標は 家を 出る事」
僕が力強く書いたそれを見て橘君は安心した様に笑った。
「わかった」
「スグル君なら 大丈夫」
僕は彼の言葉に勇気をもらったような気がした。
毎日の様に、彼に励ましてもらっていたから。
そして、こうやって彼の文字に励まされるのも最後なのだ。
切なくなった。
「橘君 君が」
「最初に僕に聞いた」
「哲学的な質問 覚えてる?」
僕がそう聞くと橘君は不思議そうに書いた。
「哲学的な質問???」
僕は頷いて書いた。
「【ジャマなものってどうするべき?】ってやつ」
僕の紙を見た橘君は懐かしそうに頷いた。
僕は続けた。
「ぼくは この質問に」
「答えられなかった」
「それに」
「橘君の 答えも」
「聞いてない。」
彼はとぼけたように返信した。
「そうだっけ?」
僕は真剣な表情で頷いた。
すると、橘君は少しだけ寂しそうに笑うと書いた。
「知りたい?」
「ぼくの答え。」
僕は頷いた。
すると、しばしの沈黙のあと、彼がその答えを紙に書いて見せた。
「じゃまなものは」
「消しちゃう かな」
僕はそれを見ると少しだけ背筋がぞくぞくするのを感じた。
怖い答えだと思った。
僕が黙っていると、橘君が続けて紙を見せた。
「でも それは 昔のぼくの」
「答え。」
「今は こうは 思わない よ」
僕が無表情で彼を見つめていると彼は書いた。
彼の新しい答えを。
「今はね わからないんだ」
彼はおかしそうに笑った。
そうして続けた。
「どうすればいいか」
「わかんないよ」
悲しそうに、おかしそうに笑った。
なんだか彼の悲しそうな困惑した笑顔にいたたまれなくなって、僕は彼に返信をした。
「橘君 ぼくは」
「答えが ちょっと だせたかも」
橘君は、静かに僕の言葉を待った。
「じゃまだと思う前に」
「避ければいいのかも」
すこしだけ沈黙した後彼が聞いて来た。
「でも、もし じゃまになってしまえば」
「どうするの?」
僕は彼の質問に答えた。
「じゃまじゃなくなるまで」
「避ければいい」
「そうすれば もうじゃまじゃ なくなる」
その僕の答えに彼は悲しそうに微笑んだ。
彼はゆっくりと頷いてこう書いてくれた。
「いい 答え だね」
それから僕らはたわいもない話をした。
お昼ご飯は、橘君と是非食べたかったけど、彼は明日出るのだから、その前日である今日こそちゃんと家族と食べて気持ちを整えて、と僕に母親と食べる様に促した。
お昼の後も、彼と話した。
哲学的な話に、彼の好きなアイドルまりこちゃんの話。
僕が不安に思ってる将来の話。
彼は真剣に聞いてくれた。
真剣に励ましてくれた。
夜ご飯も、彼は家族と食べてこいといった。
一つ一つの積み重ねが大事なのだから、と。
僕は夕食も家族と食べた。
食器も洗ってみた。
母親は喜んでいた。
父親も最近柔らかくなった。
そんな彼らを僕はとても冷静な目で見ていた。
冷静な目でみれるほど、僕は変わっていた。
夕食後も、僕は窓辺に座って橘君と話した。
楽しかった。
切なかった。
明日は、窓越しではなくて、生身の人間として彼に会えるはずなのに、この窓越しの奇妙な会話が切なかった。
これがなくなってしまうのは、悲しかった。
だから一瞬一瞬を惜しむ様に彼と話をした。
たわいもない話、哲学的な話。
どれもが、とても喜ばしい貴重な時間に感じた。
「じゃあね」
「明日の朝10時に」
「橘君の家に」
「いくから」
僕は彼にそう約束して、僕らの窓越しの会話も終わりを迎えていた。
その約束に彼は頷いた。
悲しそうに笑みを浮かべて。
「スグル君」
ふと彼が書いた。
「スグル君 ぼくと 2回目に会った時のこと」
「覚えてる?」
2回目…。
1回目が彼がすぐに逃げてしまった時だから、2回目は、僕が彼に一緒に話したいと誘った時だろう。
僕は頷いた。
すると、彼は書いた。
「初めてスグル君に」
「会った時、ぼく 怖くなって」
「すぐに窓を閉めて」
「もう窓を あけたくないって」
「思ったんだ。」
いきなりの話にぼくはへーっと頷いた。
そういえば、彼に二回目に会った時は、初めて会った時からだいぶ日にちが経ってからだったような気がする。
彼は続けた。
「でも、2回目に会ったのは」
「ぼくがまた窓を開けたから」
「なんだけど、」
「ぼくはなんで また」
「窓をあけたと 思う?」
よく主旨がつかめない彼の質問に僕は肩をすくめた。
「わかんない」
と書くと,彼は寂しそうに笑った。
「じゃあ、 明日」
「教えてあげるね」
橘君は、切なそうに笑った。
僕もつられて微笑んでしまう。
彼に明日会えるのは少しだけ緊張したし、楽しみでもあった。
「今までありがとう」
「また 明日」
僕は今まで書いた事のない言葉を紙に綴って、窓越しの彼に別れを告げた。
それは純粋な僕の気持ちだった。
彼も切なそうな笑みを浮かべながら、同じ言葉を書いて僕に返信した。
その言葉が僕の胸にしみた。
そして窓越しの僕らは別れた。
窓越しの奇妙なレースは終わった。
僕は明日橘君を迎えに行く。
こんにちは。
「窓」を読んで下さっている方、いつもありがとうございます。
もうこの話も終盤に入りましたが、あともう少し「窓」とおつきあいください。
これからも宜しくお願いします。