17;窓越しの誓い
その晩、僕は寝る前に一度だけカーテンを開けて外を見たけれど、相変わらず彼のカーテンは閉まっていて、いつものようにぼんやりとした寂しい光が窓から漏れていただけだった。
彼が僕が窓に貼ったメッセージを見てくれたのか、見てくれなかったのかわからない。
だから僕は,窓辺のメッセージをそのままにして眠りについた。
随分と寝てしまったみたいで、僕は次の日、昼前に目を覚ました。
起き上がってすぐに窓辺のカーテンを開ける。
彼の部屋を見てみるが、カーテンは閉めたまま。
落胆の色をちょっとだけ浮かべたけど、僕は気を取り直して部屋をでた。
歯ブラシをして、居間へと向かう。
居間には母親がいて掃除をしていた。
窓が開いていいて、冷たい風が入ってきて気持ちがいい。
外は青い空。
今までのことが全て嘘だった様な気さえ覚えてしまう。
あまりにも、すがすがしい風。
「あら、おはよう、スグル。」
「……。」
僕は唾を飲んだ。
そして、声を出してみようとする。
「……。」
が、上手く行かない。
挨拶を返そうと思ったけど、今の僕にはまだ無理だったようだ。
母親はそんな僕にはおかまい無しに掃除を続けている。
…。
僕は冷蔵庫を開けて牛乳を取り出して飲んだ。
デジャブ。
昔の光景と重なった。
中学の時、学校に行く前によく冷蔵庫から牛乳を取り出して飲んでいた。
こうやって、冷蔵庫の前で。
そしてその後、いつも僕は笑顔で言っていた。
「いってきます。」と。
遠い昔のことのようだけど、確かにそんな日々は存在して、僕は笑ってた。
幸せだった。
僕は無言で牛乳を戻した。
戻りたい…。
いや…。
戻るんだ…。
僕は戻るんだ。
…戻るから…。
もうすぐ昼になるから、朝ご飯は、それだけで済ます事にして、掃除をしている母親の背中をしばし見てから、部屋へと戻った。
部屋はやっぱり静かで、ぼろぼろ。
僕の聖域。僕の牢獄。僕の部屋。
でも…。
僕は窓辺に近寄った。
彼の無言で佇む部屋を見つめる。
橘君が教えてくれたんだよ。
僕も戻れるって…。
この牢獄から…、僕を縛り付けるこの聖域から僕も出れる事を。
だから…。
僕は君に謝らなくちゃいけないんだ…。
自分がしてしまったこと。
そして、できることなら、橘君とまた話がしたいよ。
「また…友達になりたいよ…。」
僕は窓越しにささやいた。
窓越しの小さな隣人に。
窓越しの小さな友人に。
届くはずのない小さな声で。
でもやっぱり彼のカーテンは開かない。
寂しいよ。
寂しいよ。
僕は窓辺に座り込んだ。
彼の窓辺は寂しくて。
僕の部屋は寂しくて。
心が出たいと叫んでいて、苦しいと叫んでいて。
孤独に震えていた心に、素直に語りかけてくれて、僕は本当に楽しかったんだ。
嬉しかったんだ。
救われる気がしたんだ。
橘君に出会えて。
僕は、あまりにも似た橘君の境遇を全部わかってしまいたいと…、わかった気で…、いたんだ。
だから、橘君が僕が幸せだと言ったとき、僕らが似ていた事を否定されたような気がして……。
でも、そんな小さな事に怒ってしまった自分が情けない。
僕は、もう、ただ単純に君とまた友達でいたい。
だから、本当にごめん…。
僕は目を閉じた。
ガラにもなく祈ってみる。
…神様…。
もし、神様がいるなら…、また一度,橘君に会わせて下さい。
神様…
神様なんて信じた事無かった。
むしろ、神様さえも呪いたくなった時だってあった。
何故、辛い事ばかり僕に与えるのかと。
でも、そんな僕が神様にお祈りをしている。
ぼろぼろの部屋で。
滑稽だった。
でも…。
何かにすがりたかった。
…何分たっただろう。
コンコン。
一瞬耳を疑った。
コンコン、コンコン。
聞き覚えのあるその音に僕はゆっくりと顔をあげて、目を開いた。
心臓がばくばくなっていた。
信じられなかった。
あまりにもタイミングが良すぎた。
橘君が、いた。
窓辺に。
無表情で。
窓を叩きながら、僕を見つめていた。
「た…橘君…。」
息が漏れる様な声で僕は彼の名前を呟いた。
信じられなかった。
待ちに待っていたことがあまりにも、突然訪れて僕は困惑していた。
何をしていいのかわからず、僕は彼を見つめ返す事しかできなかった。
僕らはお互い見つめあった。
でも、すぐに、橘君が吹き出した。
そして、
「にらめっこ?」
と書かれた紙を差し出した。
彼の顔には怒ってる様子は見られなかった。
ああ…。
僕の心が揺れた。
嬉しくて、びっくりして。
思わず目が涙ぐむ。
そして、視界を半ば遮っている様な、窓辺にはったメッセージを剥がして、新しくノートに書く。
「ごめんなさい」
それを見せると、橘君は冷静な顔つきに戻って僕に返信をした。
「どうして?」
僕はたじたじになりながら、筆をノートに滑らせる。
頭が真っ白だ…。
「急に姿を見せなくなってしまったから」
それを見せると橘君はまたも無表情で、返信をした。
「よく わかんないけど」
「嫌われたかと 思ってた」
僕はそれを見て強く首をふった。
「嫌ってなんて ないよ」
「ごめん…」
そう書くと橘君はほんの少しだけ寂しそうに笑ってくれた。
「なら よかった」
僕は彼の笑顔に本当に申し訳なさを感じていた。
橘君は続けて書いた。
「やっぱり パソコンよりも」
「スグル君と 話してる方が」
「楽しいから」
僕は聞いて見る。
「パソコン?」
橘君は頷いた。
「インターネット」
「一日中やってたけど」
「あきちゃった」
そう言えば、橘君の趣味はインターネットだった。
そういえば、ここ数日彼の部屋の窓からもれていた淡い光は、パソコンの画面の光だったのかもしれない。
僕はそんなことを思いながら彼の文字を読んで行った。
「スグル君と」
「あってから」
「長い間やってなかったけど」
「ココ数日は」
「またやり始めてたんだ」
と彼。
彼は続けた。
「ボクと初めて」
「あった時のこと 覚えてる?」
突然の質問にボクは頭を回して考えた。
彼と初めて会ったとき。
それは、突然で、いきなり橘君の窓が開いて…、橘君はびっくりしてすぐに窓を閉めちゃったんだっけ。
僕は頷いた。
彼は続けて書く。
「ボクのパソコン」
「あの日に壊れたんだ」
突然の彼の話の展開によく理解出来なかったが、頷いてみる。
彼はまた続ける。
「ボクはそれまで」
「パソコンばっかりやってて」
「壊れたとき、人生が終わった様な」
「気がしたんだ。」
…。
僕は彼の言葉をただ見つめた。
何故パソコンが壊れると、人生が終わるのかはよくわからないけど、それだけパソコンが好きだったということだろうか。
「それからパソコンがない生活で」
「でも、スグル君にまた会って」
「ボクは」
そこで、すこしだけ彼の書く手が止まった。
でも、しばしの沈黙の後,彼はこう書いてきた。
「嬉しかった」
なんだか話の流れはよくわからないけど、ボクは彼が嬉しかったといってくれたことがとにかく嬉しくて、嬉しくて、思わず、にまけた顔を手でかくしてしまった。
そして僕も書く。
「ぼくも」
「嬉しかった」
橘君は笑った。いつもの少しだけ寂しそうな顔で。
でも、僕はとてもうれしかった。
彼が僕の前にいてくれること。
そして、こんな僕を許してくれたことが、なによりも、嬉しかった。
それにしても、彼のパソコンは直ったのだろうか?
壊れたのなら、最近使っていたパソコンは?
「パソコン、 直って」
「よかったね」
僕は彼に書いた。
すると、
「直してない」
「スグル君と」
「話せなくなって」
「居間のパソコンを部屋に」
「もってきたの」
僕は無言で頷いた。
彼はわざわざ居間のパソコンを部屋に持ってきたのだから、よほど自分の部屋が好きなんだろうと思った。
僕も人のことが言えた立場ではないけれど。
それにしても、居間のパソコンということは、家族のパソコン…ということだろうか。
彼の家族はもうパソコンを使わないのだろうか?
【ぼくの父親は 出てった】
橘君の言葉がふと浮かぶ。
そうだ、彼の家にお父さんはいないんだ…。
残った彼のお母さんは、パソコンなんてあまり使わないのかもしれない…。
それに…、一緒に住んでるのに、自分の息子に缶詰しか食べさせないなんて、ある意味ちょっと気が知れない…。
ふと、僕の頭の隅に自分の母親の姿が浮かんだ。
常に料理や掃除をしている母親。
僕が何一つ話さなくても、話しかけてくれる母親。
…そして、
静かに静かに一人で泣いていた母親…。
でもいつも微笑んでくれる母親…。
お母さん…。
僕は橘君を見つめた。
僕の友達。
僕は書いた。
「ご飯 炊けた?」
橘君はそれを見ると嬉しそうに頷いた。
それは橘君が時々見せる陰りのない笑顔だった。
「うん!! ありがとう!!」
「美味しかった!!」
彼の満面の笑みに、僕は薄く笑った。
なんだか、思い知らされた様な気がした。
僕は本当に橘君よりも全然恵まれていた。
炊飯器の炊き方ぐらいで、僕はここまで喜べない。
彼は追い込まれていたのかもしれない。
缶詰で自分のお腹を満たしてその場をしのんではいたけれど。
僕は、橘君と同じ境遇なんかじゃない。
全然違っていた。
僕と彼は全然違う。
僕はうぬぼれていた。
彼と僕は一緒だと。
彼の気持ちならわかってしまう、と。
でも、そんなのは、浅はかな思い違いだった。
僕は、彼は全然違う…。
僕には、彼の辛さはわからない。
彼に僕の辛さがわからないように。
ただ、僕らはお互い辛かった。
それだけは、似ていたのかな。
僕は、ただただ自分の浅はかさに憤慨した。
橘君に少しでも苛立った僕に。
自分が一番不幸だと思っていた自分に。
そして、その「不幸だから」ということを誇りにさえ思っていた自分に。
もう止めにしたい…。
そんな自分も。
悲しい思いも。
僕は深く息を吸った。
心が揺れていた。
言葉では言い表せない気持ちで、心がすごく揺れていた。
思わず、泣き出してしまいそうなほど。
もう止めよう。
もう逃げるのは、感情に流されて漂うのは。
もう、止めよう。
僕は強く自分に頷いた。
そして、書いた。
「橘君 ぼく」
彼は僕の次の言葉を澄んだ瞳で見つめて待った。
そう、変わろう。
「出る」ことは、僕にとっての夢物語でもなんでもない。
希望の光でも、美しい幻想なんかでもない。
出る事は、僕の人生なんだ。
だから、僕は出なきゃ行けないんだ。
出て、自分の人生を取り戻さなきゃ行けないんだ…。
僕は書いた。力強く。
「ここから 絶対にでてみせる」
僕の強い意志に橘君は真剣な表情で頷いた。
僕は続けて書いた。
「そしたら 一緒に」
「いっぱい話そう」
「美味しいものを」
「食べながら」
橘君はそれを見ると、いつもの少しだけ寂しそうな笑みで微笑んだ。
そしてこくりと小さく頷いた。
少しだけ切なそうに。
少しだけ寂しそうに。