15;窓越しの悲しみ
彼は夜になっても出てこなかった。
彼は顔をのぞかせないものの、どうやらその部屋にいるようで、彼の窓からは、懐かしいあの光が漏れていた。
あの、寂しく儚い夜の光。
彼と話すようになってから見なくなっていたその悲しい光に僕は胸が痛くなった。
まるで彼と出会ったこと自体が嘘であったような錯覚に陥ってしまう。
また、孤独の、絶望の中に戻された様な気分になってしまう。
だから、というわけでもないが、僕は待っていた。
毛布を自分にかけて、座り込んで、待っていた。
彼がもしも顔をのぞかせてくれたら何て言おうか、何を話そうか。
そんなことばかり考えて。
ただひとこと、彼に会った時のためにノートには既に書いておいた言葉があった。
「ごめん」
それだけはなにがあっても伝えなくてはいけない言葉だと思ったから、書いておいたのだ。
いつでも見せれる様に。
僕に時間の感覚はなくなっていた。
ただわかるのは、父親がだいぶ前に帰ってきて、居間から珍しく、何やら口論している話し声が聞こえたから、いつもの僕の夕飯の時間はとうに過ぎてるであろうこと。
でも、僕は、夕食に手を付けるのも忘れて座っていた。
5日間、彼に会わないで、彼を突き放してみて解った事。
僕は、彼とやっぱり友達でいたかった。
ふと、彼の窓の光が消える。
僕はその変化に胸が揺れた。
彼が顔をのぞかせてくれるんじゃないか。
そんな淡い期待を持って思わず姿勢を整えてしまう。
でも、10分経っても、20分経っても、彼のカーテンはあかなかった。
電気さえも消えた彼の部屋は、まるで僕を拒絶しているかの様に静かだった。
僕は下を向いて溜息をついた。
口から漏れる息がほのかに白い。
外はかなり寒いようだった。
窓は隅は酷く結露している。
僕は結露した窓に指先を滑らせた。
そして、字を綴って行く。
誰にともみせることのない文字を。
ごめんなさい
誰にもちゃんと言った事のないその言葉を窓に残して、僕は窓辺を後にした。
床に転がっている腕時計を見ると、夜の11時近くだった。
僕はふとうなり声を上げた自分のお腹に気付き、自分の部屋のドアを開けた。
ドアの隣には、僕の夕飯があった。
僕の夕飯はすっかり熱を失い冷たくなっていた。
僕はそれを部屋に入れて、窓辺で毛布にくるまれながら冷えたみそ汁を飲んだ。
何も考えずに、窓に書いた文字をただひたすら見つめながら食事をした。
窓から入る夜の青白い光が僕と夕食を照らした。
何だか悲しくて、自分が情けなくて、味気なくて。
気付けば、夕飯を全て食べ終わっていた。
満腹感も空腹感も何も感じない。
満足感も何もない。
ただ食べ終わったのだということだけを理解して、僕はそのお盆を持って立ち上がった。
無言で静かに部屋のドアを開ける。
最近、いつもやっているように、お盆を居間のキッチンまで持って行く。
足取りはゆっくりで、僕は悲しみに包まれながら居間のドアを開けた。
居間には、電気が寂しくついていた。
父親はもう寝たのか、テレビさえも何もついていない異常に静かな居間の真ん中で独り、母親が頭を抱えて、ダイニングテーブルに座っていた。
母は僕が居間に入ってきたのに気付いたのか顔を上げる。
「ぁ…。」
思わず、言葉にならない声が僕の喉の奥からこぼれた。
母は泣いていた。
目を赤くして、悲しそうに、悲しそうに泣いていた。
母がないている姿を見たのは初めてだった。
何故泣いているのかはわからなかった。
どうせ僕のことで泣いてるのか、なんて被害妄想が浮かんで苛立が胸にざわざわと走り始めたけど、同時に胸がズキズキした。
今まで影で泣いていたこともあったかもしれないけど、すくなくとも、母親の泣いた顔を正面から見たのは初めてだった。
僕は胸が痛んだ。
人は傷つくものなのだ、とわかりきっていたことを、今更実感したような気がした。
僕は、空っぽの食器の乗ったお盆を持って、居間のドアの前で立ち尽くしてしまった。
かける言葉もなく、ただそんな母親を見つめる僕はどんな馬鹿みたいな表情をしているんだろうか。
でも、母親は僕の姿を見ると、泣きはらした目で無理矢理笑顔を作った。
そしてそそくさと鼻をすすりながら何事も無かった様に立ち上がった。
「さてと…」
そんな独り言を言ってから、僕の手の中の食器を見ると呟いた。
「明日洗うから、そこに食器置いといて。
お母さん、お風呂に入ってもう寝るから。」
母親はそういって、僕の横を通り過ぎて、居間を出て行った。
僕は、独り、寂しく電気のつく居間に取り残された。
悲しい。
いいようのない悲しみが僕を襲った。
僕は悲しみを引きずりながらキッチンに入った。
キッチンはいつも通り綺麗に片付けられていた。
綺麗なシンクの中に、使用済みの食器を置く。
それから僕は、シンクの前に立ちすくんだ。
悲しい。
ただひたすら悲しい。
なんでか解らないけど、悲しい。
母親の泣き顔が浮かんだ。
あんなのは、悲しい。
今更だった。
今まで自分が望んで人を傷つけてきた。
憎いと思って、両親を傷つけようと思って、暴力を振るったし、部屋をめちゃくちゃにしたことだってあった。
それで満足なはずだった。
怒って、あきれて、困った顔をしているのを見て誇りさえも覚えた。
でも、僕は今まで自分が一番望んでいた彼らの悲しい顔を正面から見た事なんてなかった。
暴力を振るっても、部屋をめちゃくちゃにしても、僕の目の前であんなに無防備に泣くなんて事はなかった。
だって僕は、暴力を振るった後は、僕は部屋に戻ってしまってたから。
あんな奴らの顔なんてみたくない、なんて思いながら殺意さえ抱いて、部屋に戻っていたから。
でも、それは逃げだったのかもしれない。
自分がしてしまったことが生む悲しみから逃れるための。
結局、僕はいつだってそうなのかもしれない。
困らせてやりたい、憎い、憎いと思いながらも、自分がやった事が相手にどのような傷跡を与えているかを最後まで見る事がないのだ。
好きなだけ暴れたて、すぐに部屋に閉じこもってしまう。
暴れた後、彼らがうけた傷跡を見る事も無く。
卑怯で、醜くて、弱い。
情けないくらいに、惨めで。
涙が溢れた。
大粒の涙だ。
僕がよく一人で部屋で流していた涙。
流しているとき、あいつらが僕が部屋でないているなんて思いもしないだろうと、あいつらを心の中で罵っていた。
自分一人が被害者なのだと、あいつらのことを心で笑っていた。
部屋で一人で誰にも気付かれずに泣く自分を、優しく甘やかせながら。
でも、同じだった。
卑怯だった。
いつも自分一人だけだと思ってた。
本当に泣いているのは。
本当に悲しんでいるのは。
自分が愚かで惨めでしかたがない。
ただただ、涙が頬を伝った。
キッチンで一人。
誰も入ってこない様に祈りながら泣いた。
その夜、僕は初めて、食器を洗った。
スポンジに洗剤を付けて洗った。
泣きはらした目を赤く染めながら。
母親はお風呂に入っているのか、僕が洗ってる最中居間にくることはなかった。
僕は皿を洗い終わると、部屋に戻った。
青白い夜の光が窓から入る部屋で、僕は静かに眠りについた。
泣きはらした目がひりひりとしていた。