13;窓越しに傷ついて
次の日、珍しく僕は昼に起きた。
ドアを開けると、昼食が置いてあって、その隣にはビニール袋。
中には5冊パックのノートが入っていた。
僕はそれらを部屋に入れて、窓辺で、昼食のパンをかじりながら、ノートの真新しいページにペンで書いて行く。
炊飯器の使い方を。
窓の外は晴れ。
とはいっても、箱庭に面してるこの庭に、あまり日の光は入ってこないけれど。
僕は昼食を食べ終わると、食器を持って、居間のキッチンへと向かっていた。
居間に入ると、母親と珍しく父親がいる。
今日は週末だったようだ。
「おはよう。」
二人はそう言った。
それが嫌味に聞こえて、僕は苛立たしげに眉をしかめた。
そんな僕の様子も気にする事無く両親が会話の続きを続けた。
「で、前も同じ様なことがあったから、いつも管理人さん、たまったポストのモノを橘さん家の玄関の郵便受けまで入れに行っていたみたい。」
そのふとした名前に僕は反応した。
母親はうわさ話が好きだった。
以前は母親のうわさ話を聞くたびに吐き気さえ覚えるほど嫌悪していたが、それが橘君の家族のこととなると、ちょっと状況は変わってくる。
僕は彼の家族のことが気になっていた。
だから、冷蔵庫をかぱかぱと開けながら気付かれない様に会話に聞き入る。
父親はコーヒーを飲みながら頷いていた。
「…それに…、聞いた話しだと、一週間ぐらいまえか何かに、旦那さんの方が出て行ってしまったそうよ。だから今は隣には奥さんと息子さんしかいないみたい。」
橘君は今お母さんとだけ住んでいるのか。
どうやら僕以上に複雑な家庭環境なのか…。
僕は次の言葉を待っていたけど、会話は別のモノへと移っていった。
僕はそのまま居間を後にした。
部屋へと戻る。
鍵を閉めて、窓辺に座る。
橘君の部屋のカーテンが開いていた。
僕が居間にいる間に彼が開けたらしい。
僕が待っていると、橘君がふと窓に顔をのぞかせた。
「おはよう」
と書かれた紙を彼が見せて、僕も見せる。
彼は手に何かの缶ヅメをもっていた。
どうやら彼はこれから昼食らしい。
「もうお昼食べた?」
と彼。
僕は頷いた。
「ぼくはこれから」
彼はそういって、「いただきます」の紙を僕に見せて缶を食べ始めた。
僕は新しいノートに文字を書き込んで、缶詰を食べている彼に見せた。
「炊飯器の」
「使い方 わかった」
と。
彼は驚いた様にそれを見つめた。
缶詰を食べていた手をとめて、何かを紙に書く。
「紙、あったの?」
思っても無かった彼の言葉に僕は頷いた。
「うん」
買ってもらっただなんてなんだか書けなかった。
「よかった」
彼は安心した様に笑った。
それは普段の寂しい笑みではない、安心した様な優しい笑み。
「もう 君と」
「話せなく なるかと」
「思ったよ」
僕も思わず笑みを返した。
そして書き返す。
「これで」
「炊飯器の使い方も」
「教えられる」
そう書くと彼は笑った。
「食べてから」
「教えて」
そう書いてみせると、彼はまた缶詰を美味しそうに食べ始めた。
彼は缶詰を食べ終わると、席を立って、数分後、窓辺に帰ってきた。
僕は、咳払いをすると、彼に僕が起きてからノートに書き写した「炊飯器の使い方」の説明を見せた。
彼はその一枚一枚をメモした。
「ありがとう!」
彼は書いた。
「これで 米が 食べれる」
よかった、と思った。
「スグル君は 料理を」
「自分で するの?」
と彼。
「まさか」
と僕。馬鹿げた質問だと思った。
「何故?」
僕が聞くと、彼は続けた。
「だって 炊飯器の使い方」
「詳しく 知っているから」
と書いた。
僕はしばし沈黙した。
でも、それから素直に書いた。
「母親に聞いた。」
すると橘君は少し寂しそうに書いた。
「優しいお母さん なんだ」
僕はそれは否定しようとは思わなかった。
すんなり肯定しようとも思わないけど。
優しいかどうかはわからないけど、少なくとも、色々とやってくれることは事実だとは思う。
でも僕は書いた。
「でも」
「好き じゃない」
「口 ききたく ない」
僕が書くと、橘君は少し間を置いてから書いた。
「両親は 仲が いいの?」
と聞いてくる。
初めてだった。
彼が僕に家族のことを聞いてきたのは。
でも僕は嫌な気分はしなかった。
恐らく、僕が言えば、彼も教えてくれるであろうから。
彼の家族の事も。
僕は彼の苦しみを知ってあげたかった。
僕の苦しみを知ってほしい様に。
だから僕は書いた。
「両親は 仲は悪くは」
「ない」
橘君は寂しそうに笑った。
「スグル君は 恵まれてるよ」
僕は思っても無かったその言葉に思わずぴくんと方眉を上げた。
そんな僕にかまわず、橘君は続ける。
「ぼくの両親はケンカが」
「絶えなくて」
「ぼくの父親は」
「出てった」
母親が言っていた噂は本当だったようだ。
「今は母親と ふたり」
「でも、 あいつは」
「もう 何も しない」
「だから」
「一人のようなもの」
「スグル君は」
「恵まれてるよ。」
僕に橘君にかけてあげられる言葉なんてなかった。
正確には、僕はちょっと彼に対して苛立を感じていた。
橘君は、僕を恵まれていると言ったから。
彼に比べれば、僕は、物理的には恵まれているのかもしれない。
彼のように缶詰を食べる必要だって無い。
だからといって、僕の何が恵まれているのだろう?
たしかに母親は毎日料理を作ってくれるし、毎日缶詰を食べる必要はない。
父親はうるさい事はいわない。
でも、僕はあいつらにつぶされた。
僕の心を、ぐちゃぐちゃに。
僕だって苦しい。
苦しい。
なのに、橘君は、僕を恵まれていると言う。
まるで、本当に苦しんでいるのは橘君一人であるかのように、僕の苦しみは彼の苦しみに比べれば全然かるいものの様に。
彼に何がわかるのだろう。
僕らはお互い沈黙した。
正確に言えば僕一人で怒っているのかもしれない。
でも、僕は橘君にかけてあげる言葉なんてなかったし、考えもしなかった。
ただ、苛立、苛立。
辛いのは僕だって一緒だ。
不幸なのは、僕だって一緒なんだ。
橘君も僕みたいに感じてくれていると思ってた。
思ってたのに…。
裏切られた気分だった。
二人の間に何やら微妙なぴりぴりとした空気が流れた。
それを感じ取っていたのは僕だけなのかもしれないけど。
でも、橘君は、そんな僕の空気を感じ取ったのか、沈黙を破ったのは、彼だった。
「これから 米を」
「炊いてみるよ。」
「だから」
「今日はこれで」
「お開きにしようか」
僕はすぐさま頷いた。
そして、力任せにカーテンを閉めた。
悲しい。
悔しい。
心を黒いもやが浸食し始める。
信じていたのに。
友達だと思ってたのに。
僕は彼に喜んでほしくて頑張っていたのに。
それなのに、彼は思ってたんだ。
彼の苦しみが僕に解るはず無いって。
悲しかった。
ひたすら悲しかった。
悲しみが僕を襲った。
たったひと言に傷ついた僕。
たったひと言のために彼を嫌いになってしまいそうな僕。
そんな自分が惨めだった。
何故たったひと言がこんなにも傷つくのか自分でさえもわからなかった。
僕の心は弱かった。
自分が思っている異常に弱かった。
惨めで、悲しくて、思っても無い言葉に傷ついて。
僕はその日、それからカーテンを開ける事は無かった。
橘君には会いたくなかった。
その夜、部屋のドアにもたれながら食べた夕飯は、不味かった。