11;居間で
最近僕は朝早く起きる。
起きる時間はまばらで、朝7時に起きたり、10時におきたり。
早く起きた場合は朝食は居間で作ってもらってそれをいそいそと部屋にもっていく。
あるいは、居間に出没して、母親に自分を確認させて部屋まで持ってきてもらう。
やっぱりなんだか親と一緒に食べるのは考えられなかったから。
その日は、居間で母親が朝食を作るのを待っていた。
父親がダイニングテーブルで出かける前の唯一の朝食、コーヒー一杯を新聞を読みながら飲んでいたけど、
僕はキッチンにいる母と父親に背を向けて、テレビの前に置いてあるソファにちょこんと座ってテレビを見ていた。
もちろんテレビはいつも、モノ ミンタ司会の『朝からずっぱり』というニュースだ。
両親と僕との会話はもちろんないし、父親にも母親にも挨拶さえもない。
正直,僕は両親を避けていたし、憎しみさえも感じていた。
深く関わりあいたくも、口をききたくもなかったけど…、彼らと向き合うということは、僕がこの生活から「出る」ために不可避なことは僕だってわかってた。
だから、今の僕が精一杯できること、朝,こうして一緒の空間にいることを、今試みている。
僕はこの朝のコーヒーが香る空間が嫌いではないようだった。
モノ ミンタ司会のニュースはとてもおもしろかったし、度々みるようになったおかげで世情に前よりは詳しくなった。
窓の外は、木枯らしが吹いていた。
最近はすっかり寒くなった。
居間にはストーブが焚かれ、僕の部屋よりも断然温かい。
それだけでも、ふとした居心地の良さを感じてしまう。
そんな事を思いふけっていた僕の後ろで、父親がゆっくりと立ち上がったのがわかった。
僕はあえて反応はせず、顔はテレビに向けていた。
「行ってくる。」
父親は誰に言ったのか、ぼそっと呟いた。
そしてそのまま母親ともども、玄関へと向かった。
彼らが居間から出て行って、居間のドアが閉まるのを確認してから僕はふと後ろをみた。
当たり前だが、彼らの姿はもう見えない。
僕は居間に一人だった。
とたんに居間の広さを実感する。
「…。」
僕は黙ってテレビに顔を向け直した。
僕の両親は、変わった、と思う。
昔は、僕は父親がとても好きだったように思う。
父親は一人息子の僕を可愛がっていたし、共にキャッチボールをしたり、サッカーボールで遊んだり。
僕にとって父親は大きな存在だった、昔は。
父親が頭が良かった。
僕に良く勉強を教えてくれた。
父親は強かった、かっこ良くて、何でも出来て。
そして厳しくて怖かった。悪い事、行儀の悪い事をするとすごい剣幕で怒られた。
僕はそれを恐れていた。
いつの間にか、例え用のない憎しみと嫌悪感を抱く様になって、そして父親はあの日を境に変わった。
数年前、僕が初めてこの居間で彼らに手を挙げた日を境に。
あの日のことは、まだ覚えている。
あのころは不登校をしながらも、まだ両親と一緒に食事をとったりしていた。
あの日、夕食の時、ささいなことでキレて、気付けば辺り一面の家具を投げ飛ばしていた。
夕食と皿が無惨に散らばる部屋の真ん中で、母親は腰を抜かした様に、僕を見ていて、その怯えた目が気に入らなくて、気付けば、母親に散らばった皿と夕飯だったものを投げつけていた。
今までの恨みつらみを言葉にして、叫びながら。
止める様に父親が僕を遮って、矛先は父親に向かった。
あのころは小柄ではあったけど、今よりは健康的な体をしていた僕に、長身ではあるけれど中年の父親はかなわなかった。
もみあいになって、父親に手をあげた。
それは、父親の腹に命中して、父親が僕の目の前で倒れ込んだ。
それでも暴行を続けようとした時、父親はうずくまりながら僕を見上げた。
その時の父親の目がまだ忘れられない。
それから何かが変わってしまった。
父親は変わった。僕らの親子の関係も変わった。
気付けば、彼は僕が思っていたよりも、小さくて静かな存在になっていた。
どこか影を持つ、寡黙な人に。
…昔もそうだったろうか?
最近居間にいて気付いたが、彼はほとんど母親にも無駄に話さないようだった。
もちろん僕にも最低限の挨拶をするだけだ。
僕にとっては逆にそれが居心地が良かったけれど。無駄に話されてはたまらない。
「いってらっしゃい。」
母親の声が玄関から聞こえた。
母親はいつもああやって父親を見送る。
母親が居間に入ってくる音が背後でした。
朝食の用意をしているのかキッチンから音がする。
一番変わったのは、母親だろうか。
一人息子の僕に、幼い頃から習い事を率先してやらせたのは母親だった。
ピアノに絵画教室、ヴァイオリンに子供英会話。
僕は母親の夢を精一杯に背負い込んで育てられた。
がんばってやると、僕はすごく誉められた。
書いた絵を母親にプレゼントして、それを居間に飾ってくれたのがすごく嬉しくて。
ピアノやヴァイオリンが嫌で、練習をさぼっていると、ものすごく怒られた。
小学校に上がってからは、僕の習い事はまた増えた。
スイミングスクールに、習字、柔道に、そろばん。
嫌だと思ったものは、止めていいと言われた。
でも、僕が唯一止めたのは、ヴァイオリンと絵画教室だけ。
だって上手くやると、本当に喜んでくれたから。
その笑顔をみるのが本当に誇らしくて、誉めてくれるのがひたすら嬉しくて。
ただ、学校のテストに支障がでると、母親は焦ったのか、その度に習い事を減らそうかと僕にいった。
僕は母親が言うならば、と、そのとき一番興味がないものを言う通りに切り捨てて行った。
小学校では常に上位のほうにいた。
なんでもがんばった。
そして、がんばれば幸いなことに結果がついてきていた。
親戚は僕を天才児だ、将来が楽しみだ、と誉めた。
母親は僕を自慢の息子だといった。
僕は母親の進めで有名私立中学に進学した。
そこでも、上位の成績を出していた。
塾にも一生懸命に通った。
夜遅く塾から帰ると、母親が温かい食事を用意していてくれた。
本当に幸せ者だと思い込んでいた。
親戚は僕を天才少年だ、将来が楽しみだと誉めた。
母親は僕を自慢の息子だといった。
でも、頭はいいヤツらなんて腐るほどいた。
抜かされて、気付けば、平凡な僕がいた。
塾でも付いて行けない自分がいた。
そして、ついていけない自分に焦ってた。
親戚は言った。がんばってるね、と。
母親はいった。大丈夫、あなたはがんばってるから、と。
高校受験で挫折した。
とはいっても中堅の高校に入ったけど。
親戚は、おめでとう、と言った。
母親もいった。よかったね、と。
高校での勉強は悲惨だった。
名目上の友達も数人できたけど、おもしろいことなんて何もなかった。
気付けばやる気も起きなくなってた。
母親は言った。大丈夫、大丈夫と。
そして学校に行かなくなった。
母親は言った。どうしたの?どうして?と。
あれから数年がたって、僕は酷くなるいっぽうだった。
僕が本格的にひきこもるにつれて、母親は趣味で習ってた様々な習い事をどんどん止めてった。
今でも、週に一度だけは、何かの習い事をしている様だけれど。
初めのうちは僕に無駄に話しかけていた母親も、今では無駄なことは一切いわなくなった。
ただ毎日僕にとびきり美味しい食事を作ってくれる。
そして、僕がメモで「ツナ缶が食べたい」と書いたら、その次の日の昼食はツナマヨと野菜のサンドイッチだった。
「ツナ缶がそのままで食べたい」とメモに書いたら、その日の夜は、ツナともやしの和え物が夕食のメニューに入っていた。
「ツナともやしの和え物は塩しか使ってないから、そのままで食べるのとあまり変わらないはず。」と書かれたメモと一緒に。
僕はそれから度々母親にメモで何が食べたい,とかをいうようになった。
「スグル。」
ふと、母親の声が後ろから聞こえる。
「朝ご飯できたよ。」
僕が振り返ると、母親がダイニングテーブルに、盆の上に綺麗に並べられた朝食を置いていた。
僕はソファからゆっくりと立ち上がって、ダイニングテーブルに座った。
今日はがんばってダイニングテーブルで食べてみようと思った。
すると、母親が自分の分の朝食を持って僕の対角線上に座った。
「いただきます。」
母親がそれだけ言うと、パンにかじりつき始めた。
僕は思わず顔を背けて、立ち上がった。
無言でお盆をもって自分の部屋へと向かう。
さすがに一緒には食べたくなかった。
僕は自分のぼろぼろの部屋に行った。
寒くて、カーテンが開いているものの、薄暗い。
窓は結露していた。
思わず溜息が出る。
僕は窓辺に座った。
冷気がはいってきて少し寒いが、この場所が一番落ち着いた。
僕は窓の外を眺めた。
左隣の高校生の部屋も向かい夫婦の部屋もカーテンが開いている。
生活をしているんだな、とふと思う。
橘君の部屋はカーテンは閉まっている。
どうやら昼にいつも起きるらしく、橘君はいつも昼過ぎに顔を出す。
ここ毎日、僕は橘君に会っていた。
たわいもない哲学的な話をして、一日を終える。
そして、夜はいつも一緒に食べる。
橘君の夕食はいつも不思議だ。
初めはツナ缶だったが、最近はサバ缶に変わった。
彼と食べる夕食はいつも美味しい。
いつも、彼が先に食べ終わってしまうけど。
朝食を食べ終わって僕はお皿を出しに、部屋の扉の近くに寄った。
鍵を開けて、扉を少し開ける。
しかし、僕は扉の横に食器を置いてからふと手を止めて、また食器の盆を手にとって立ち上がる。
扉を開けて、盆を持って、キッチンへ向かった。
キッチンにも居間にも母親の姿はなかった。
僕は、その盆をキッチンの綺麗なシンクの隣に置いた。
そして、キッチンを後にする。
「あら、スグル。」
廊下で母親に会った。
コートを着て、化粧をしている。
出かけるようだった。
僕は母親を素通りして自分の部屋に入って行った。
ドア越しに母親の声がした。
「今日は習い事の日だから、出かけるね。
昼食は冷蔵庫に入ってるから、自分でチンして食べてね。」
母親は今日が例の唯一の習い事の日らしかった。
母親の遠ざかる足音が聞こえたかと思うと、
「いってきます。」
と聞こえて、続けて玄関がガチャンと閉まる音が聞こえた。
僕は一人になった。
思わず、窓辺に座り込む。
近くの腕時計をみる。
まだ8時32分。
僕は近くに転がる本を手にとって、昼の訪れを待つ事にした。