10;窓越しの約束
食事はあっという間だった。
特に会話は出来なかったけれど、とても充実していた。
僕は、空っぽの食器の上に
「ツナ缶がたべたい」
そう書いたメモをのせて、ドアの外に置いた。
橘君が食べているのを見て無性に僕も食べてみたくなったのだ。
僕は扉を閉めて鍵を閉めた。
そして窓辺へと戻る。
「美味しかった」
そう書いた紙をちらつかせながら橘君は笑った。
あれだけで…?
よっぽど美味しいのかな、ツナ缶。
僕はそう疑問に思いながらも、笑みを返した。
すると橘君がまた書いてきた。
「いつも」
「一人なの」
「ぼくも」
「同じ」
なんとなく感じ取っていた事を橘君に改めて字にして書かれて僕は少し照れた。
彼は続けた。ゆっくりと慎重に。
「ぼくは」
「長いこと」
「外 でてない」
僕は驚かなかった。
そして書く。
「ぼくも」
橘君も僕がそういうと予想していた様に、微笑んだ。
彼はゆっくりとまた続けて書いた。
「ぼくたち」
「こんなに」
「近くに」
「いたのに」
「全然」
「気がつかなかった ね」
まるで恋人にいうようなその台詞に僕は少しだけ笑った。
「でも」
「今は」
「気付いてる から」
僕がそう書くと橘君は
「これも」
「運命 かね」
と書いた。
どうやら彼は運命論が大好きらしい。
「かもね」
僕はそう書いた。
「お願いが あるんだ」
と橘君。
僕が彼を見つめていると、橘君は続きを書いた。
「ぼくと」
「きょう争を しようよ」
僕は彼を唖然と見つめた。
「どっちが」
「早く」
「でれるように」
「なるか」
一瞬僕は彼が何を言っているのか理解出来なかった。
突然の競争願いに困惑する以上に意味がわからない。
出る……?
同時に僕の心臓の音が大きく耳にこだまし始めた。
出る…。
この生活から…出る…?
僕の胸が高鳴った。
未来の事なんて予想した事も無かった。
僕も…ちゃんと…生きれる…?
僕は驚いた様に橘君を見た。
橘君は少し寂しそうに笑っていた。
僕はそんな彼を見て頷いた。
出る…。
出れる…?
出たい…。
もう、やっぱり、出たい…。
僕はまた強く何度も頷いた。
そんな様子を見た橘君が書く。
「じゃあ」
「これからは」
「お互い」
「ライバルだ ね」
僕は固唾を飲み込んだ。
僕はライバルという存在が嫌いだった。だからこう書いた。
「ライバルじゃない」
「ともだち」
自分のかいていることの臭さに僕は恥ずかしくなったけど、嫌な気持ちはしなかった。
橘君も恥ずかしそうに笑むと、何やら書き始めた。
「じゃあ」
「ともだちなら」
「どっちが」
「勝っても」
「最後は」
「負けた方を」
「迎えにいくこと」
僕は強く頷いた。
「約束」
僕らはお互い「約束」と書かれた紙を見せあった。
窓越しの隣人同士はこの日から、奇妙なレースを始めることになった。
勝つ方法は一つ、家を出られる様になった方が勝ち。
そして、どちらかが勝った日、僕らは初めてお互い直接会う事になる。
それまでは共に窓越しにがんばること。
そのふとしたレースは、永遠に暗闇のように思われた僕の胸に、それまで気付かなかった「出る」という希望の光を照らし始めた。
でも、僕はこの時考えても無かった。
何故、あの隣人が僕にこんなレースを始めようといったのか。
そして気付く事もなかった。
彼との「約束」に込められた彼の願いも。