真夏の昼
彼が僕を呼びつけた。十一時、第二多目的室、持ってくるものなし、という三点が書かれたメールが来ていた。返事はしていない。彼が僕を呼びつけた理由を知りたくないからだ。返事をして興味があるそぶりを見せたら、知りたいと思っていると好意的に取られるかもしれない。そういう勘違いをされると腹が立つから、返事はしないままでいた。
十一時は暑さがより増していく時間だと思った。夏休みなのだが学祭の準備があるため、その頃にはみんな作業をしているだろう。毎朝、生徒たちはだらだらと登校し、学祭で着る衣装とか、飾るための大きな絵とか、出し物の芝居の練習とか、運動競技の応援の練習などをしている。
クラスではやる気のある生徒とない生徒の、戦いと呼べそうな対立が起こる。その光景はすでに二回見ているし、僕のクラスだけで起こっていることでもないから珍しくない。僕はやる気のない方に分類されるだろうが、やる気のなさを明らかにすると、やる気のある女子たちに陰口を叩かれる。その光景も二回見ている。その時の女子たちはなによりも楽しそうに、高い声をさらに張り上げて大喜びしながら、下劣な言葉で他人を罵っていた。それを聞くのもイヤだし、その対象になるのはもっとイヤだ。学校じゅうからけたたましい叫び声が鳴っていることもイヤなことの一つだ。体育祭の応援の練習らしい。不協和音よりわけの悪い雑音で、耳障りにもほどがある。それに参加していないことを糾弾する攻撃にすら聞こえてくる。これらのことを思い浮かべると、やる気がわいてくるわけもない。
気持ちが離れているのは僕だけではない。僕以上に露骨に、何もかもすっぽかしている人もいる。そういう人はやる気のある人たちの良い話題になり、悪趣味な陰口会話の主役になっている。そのときの女子たちの顔は、まともに見たことはない。
僕はそれなりに手伝うつもりでいる。やる気があるわけではないが、何もかもすっぽかして目立つのもイヤだからだ。でも、本当にやる気があると思われて雑務を押し付けられてもたまらない。だから十一時に第二多目的室に行ってやることにした。どうしてもそこへ行きたいわけではないが、毎日あの窮屈な教室に足しげく通うのはイヤだからだ。それに、彼からバイト代と言って金をもらっていた。高校生にしては多額で、もらったまま無視してしまうのは申し訳ないと思ってしまう額だ。しかし、返してしまえばなんでもない。そのために向かうことにした。
別に彼を理解したいわけではないが、わざわざ十一時を指定してくる理由は考えつく。炎天下の地上とか悪口の詰まった教室とかで、いがみ合いながらやりたくもない仕事をするのはイヤなのだろう。彼は普段からそういったことに興味がなさそうだし、十一時を指定してきたということは、十一時に手伝いに行く気がさらさらないということだ。
教室に教師はいなかったが、生徒はいつもの半数くらいが集まっていた。女子ばかりがせっせと裁縫やら裁断やら、雑談しながら取り組んでいる。男子は外で大掛かりな作り物の作業でもしているのか、グラウンドにいるのも見えたが、女子よりも男子の数は少ない。僕は別の用事があるから通りすがっても問題ない、そういうことにして少し早足で歩いた。早く歩くと早く着いてしまうからそれもイヤだったが、うろうろしているところを見られて女子たちの話題にされるのもごめんだ。
第二多目的室はいつもほとんど使われておらず、夏休みになれば絶対と言っていいほど誰も訪れない。僕と彼のように、示し合わせて使用するくらいだろう。そこへ向かうたびに雑談の音は小さくなる。その代わりに外でさわいでいる声が大きくなっていくような感じがした。なにを伝えたいのかさっぱりわからない叫び声だ。第二多目的室へ行く階段にも廊下にも誰もいない。叫び声だけが耳から入ってくる。
時間はまだ早いので、彼は来ていないだろう。引き戸に手をかけると叫び声が止んだ。このまま引き戸を開けると音が鳴って目立つ、とふと思ったが、すぐに意味がわからないと思った。目立つから何なんだ、と自分に言って引き戸を開けた。まだ十一時ではないのに、中から即座に「おはよ」と聞こえてきた。
彼は「五分前行動」と呟いて、かちりと黄色のチョークを置いた。黒板には黄色のだ円形が黄色の曲線で縁取られ、それに赤がちりばめられたものが描かれていた。形状は帽子を上から見たようなものだが、実際は何なのかわからない。聞いてみると「なんとかうみうし…カステラ食い散らかしたあとみたいなやつ」という返事が返ってきた。そんなのいないと僕が言うと、彼はすかさず「いるし」と少し大きく言った。
休憩に入ったのだか知らないが、窓の外はイヤに静かになり、彼が黒板の落書きを丁寧に消す音がしていた。いつもならそんな音は聞こえてこない。ヒトの声は止んだまま、もっと遠くにセミの声が鳴っている。第二多目的室は他の教室と同じように、四角の机が規則的にならべられている。そのひとつに彼のものらしいカバンが無造作にのせられていた。カバンのジッパーは開いていて中のノートがはみだしていた。そのノートは普通の勉強で使うようなものとは違うデザインだ。彼は黒板をきれいにし終わり、カバンの奥から白のビニール袋を取り出した。最近よく目にする安い服のチェーン店のもので、中身はそこそこ厚手の衣料らしい。彼は「これ着て」と、ビニール袋に入ったままのなにかを差し出した。
金を返して家に帰ろう。僕はそう決心していた。ビニール袋を受け取るつもりはなかった。やっぱり帰るから、そう言おうとしたが彼は僕が受け取らないのを特に気にせず、ビニール袋をがさがさ鳴らしながら中から黒っぽい布のかたまりを取り出して僕の目の前の机に置いた。たたまれているから何なのかよくわからず、手にとって広げて見た。ジーンズだったが、ふつうのものより相当小さい。股上が浅く、幅そのものも細い。自分の足が入るか入らないか判断が難しい。
「太ももが入るかどうかだよな。ウエストは入るだろ。たぶん」
ジーンズを見ていたのでその言葉をほとんど無視していたら「な」と言われた。僕は驚いた拍子に「陸上部じゃねえから」というあまり物事の前後がつながらないセリフを返してしまった。案の定、彼はなんだそれはという顔をしていたが、二秒ほどで理解したらしく、
「ああ、あいつらのほうが太ももやべえけど。でもお前サッカー部じゃん、ふつうより足が」
と完全な回答をしてきた。確かに陸上部は履けなさそうだ。僕はなんとか入るかもしれないと思って気づいた。金を返して家に帰るんだった。いやそれよりも今は、より気になる不可解な点があるのだ。以前に約束した内容と食い違いがあるのだ。
「履くのか、これ」
純粋な疑問を投げかけた。それからすぐに僕は後悔した。顔が青ざめたと思う。金を返して帰るつもりだったのに、帰らないことが前提で話してしまった。さっきの質問を消し去りたくなって、今のなしやっぱ帰るから、と言おうとしたら彼は「タカツカセイゴ的な。ショーゴだっけ」と言った。唐突に出て来た知らない名前のせいで、僕の思考がまた止まった。むしろ名前なのかどうかもわからない。
「それ履いて、上は脱ぐ、でよろしく」
僕を見ずにそう言うと、さっさと準備をはじめている。さっきカバンの中からこちらをのぞいていた見慣れないノートを引っ張り出して机に放り投げ、次いで銀色のペンケースも取り出した。
僕は、諦める、という言葉が思い浮かんだ。そのあとすぐに「なにを諦めるって言うんだ」と呟いた。彼は「なんて?」と言っていたが無視した。この約束の内容がどうであれ、僕が脳の容量を割いて思考する必要なんてない。それはやってもやらなくても一緒だ。やったとしても、彼のことなんて知りたくもないのだ。諦めるようなことなんてなにもない。
彼は見慣れないノートの紙を一枚やぶいて机にのせ、ペンケースから鉛筆とカッターナイフを取り出し、鉛筆の先を削っている。すでに芯が尖った鉛筆を更に削る意味はわからない。ジーンズを持ったまま、彼の意図なんて考えないまま、その一部始終を見ていた。「まだか」と彼は呟いた。僕を待つために削る必要のない鉛筆を削っていたのかもしれない。
僕は、なるべくフツウに、いつもと同じ動きで、制服のシャツを脱ぎ、肌着にしていたTシャツを脱ぎ、制服のスラックスを脱ぎ、渡されたジーンズを履いた。なにも考えないようにした。できるだけ素早く行ったが、彼の言った通り、太ももが通りづらかった。それでもなんとか履けたので、僕は脱いだ服を適当な机に、くしゃくしゃのままで積み上げた。
「サッカー部ってさあ、筋トレすんの」
彼は自分のノートをめくりながら言った。する、と言ったら「ふうん」と言っただけだった。
「じゃあそこの窓に背中むけて、あとは普通なかんじで」
「フツウって」
「自然体?知らんけど。なんでもいい」
フツウの自然体になっているかなんてまったくわからないが、彼の言うとおり日の照る窓際に行った。窓に背を向けて立ち、窓の下端に手をかけた。そこは日に焼かれていて、表面が熱で覆われていた。第二多目的室の冷房はよく効いていた。手のひらの熱に気をとられてしまうほうがいいような気がした。紙の上を走る音が響き出した。さっきカッターナイフで削られていた鉛筆が紙の上で削られ、彼との約束が実行されていく。
これのために僕は、高校生にしてはずいぶんな報酬を貰っていた。彼はサッカー部と陸上部の話を出した。サッカー部か陸上部の男子が目当てだったのだろう。僕が知る中ではサッカー部には、僕より顔の造形がよく、僕より背が高く、僕より体躯のよい男子が数人いる。どうせずいぶんな報酬を払うくらいなら、それらのうちの誰かに頼んだほうが結果の質があげることができるだろう。なぜ僕なのかと聞いてみたかったが、言えなかったし、言いたくなかった。本当は本当に興味がないからだ。それにいざ質問したところで、誰でもいいけど同じクラスだから、と言われる可能性も高い。それはそれでおもしろくない。そこまで誰でも良いと思っているのならアダルトビデオでも模写していればいい。僕に声をかけた理由はあるはずだった。
僕は約束の内容をなんとも思っていないし、これをやりたいとも思っていないのに、結局ここにいるのは「僕に声をかけた理由」を知りたいからかもしれない。それだけ聞いて終わらせようかと思った。誰でもよかったと言われたら、怒ったふりして出て行ってもいいだろう。それに今、やっぱりやめると言うのはばつが悪い。僕はつとめて簡単に「なんで俺なんだ」とだけ発してみた。
すると彼は手を止めずに「誰にも言わなさそうなやつ」とあっさり言った。まるで答えを用意していたかのような素早さだった。彼はさらに言葉を続けた。
「なんつーか、ほかのやつバカにするワケじゃないけど。でもふざけるやついそうじゃん。みんなに言っちゃったりとか」
完全に理解できる回答だった。僕の知っている見目の良いやつらは、見た目は約束に相応しくても、彼の懸念は当たっていると思う。僕は納得しかかった。しかし、新しく気になることができていた。
「俺は言わなさそうなのか」
夏休みに入る直前、約束の内容を聞いたときのことを思い出した。そのとき僕は少し戸惑った。あくまでほんの少しだけ戸惑った。でもバカにした気持ちは持たなかった。その気持ちを彼はどうしてわかったのだろう。彼は真剣な目で紙を見つめ、手の動きと同時に鉛筆が走る音をたてる。そのままの姿勢で彼が話した。
「ヒマそうだったから」
「ヒマって」
僕は脊髄反射で言葉を返した。
「こんなことに付き合ってくれそうなくらいヒマってことか」
彼は素早く「違う」と強めに言った。
「違うよ。そのヒマとはまったくの逆」
「逆」
「ウン」
それで彼は充分な説明をしたと思ったらしい。真面目な表情で作業を続けている。僕はまったくわからなかった。もう一度、それの意味を追及しようとしたとき、奇声が窓を叩きつけた。そういえば、さっきからずっと鳴っていたはずの声だったが、ずいぶんと遠く感じていた。それが突然、声の量が増えたようで驚いた。体制はあまり変えずに、窓の外を眺めてみると、今朝見たよりも人数が増えていた。僕は意識せず「なんだこりゃ」と言っていた。
「見えるんじゃないか」
「こん中が? 外のが明るいから見えんだろ」
窓際では見えるのではと思ったが、外の彼らは校舎の中が暗くて見えないだろうということらしい。
「カーテンしめて電気つけてもいいんだけど、それだとここでやる意味ないから、悪いけど」
悪いけど、はどういう意味なのかも聞いてやりたかった。僕に対して悪いと思っているのならお門違いだ。僕は謝って欲しいなどと全く思っていない。それよりも、外の奇声よりも、セミの声よりも、彼の鉛筆が鳴らす尖った音が気になって仕方がない。その音は異様に大きく響き渡る。
「あっちから見えても」
彼が脈絡なく話し出す。視線は自分の手元を見たままだ。
「誰もおれらがなにしてるかなんてわからん」
僕はその言葉が、異常なほど腑に落ちて、返事もせずに彼の顔を見ていた。真剣なまなざしで紙に向かっている。手は動いたり動かなかったりしている。彼がこちらを見たとき目が合った。
「もっかい言うけど、あいつらバカにするわけじゃない、けど」
彼は勝手に続けた。
「まぁただサボってると思ってるだろうな。フツウに」
そうだろうと思った。そこにいない人の理由なんてそのようなものだ。二人だけの密室でこんなことをしているなんて誰も、夢にも思わないだろう。熱い太陽の下にいるやつらは、僕たちの暗い部屋の中なんて見えないのだろう。
「そうゆうのとは、違うと思ったから言ってみた」
「俺がそういうのだったら」
「生きるか死ぬかだ。社会的に」
最後の言葉の意味はわからなかったが、彼が僕を選んだ理由がだいたいわかった。僕がここから逃げない理由と似ていたような気がした。背中に貼りつく日差しが暑すぎると思った。
彼はページをめくって新しい紙に描き始めたが、すぐに手をとめて「また次言ってもいい」と聞いてきた。
「バイト代はそのたび出すし、時給で」
「別にいい」
「そこはもらえよ」
「なんだそれ」
ただ突っ立っているだけでもらえる値段ではない、と僕は思っていた。今でももらうのが少し申し訳ないと思ってしまうくらいだ。別にいいというのだから、そっちこそ「そうか」とかで終われば良いのに、なにが「そこはもらえよ」だろう。それを追求しようとすると、彼はさっさとノートやペンケースを片付けていた。彼は僕に服を放り投げて言った。
「もらわんとお前も死に至る道だぞ。こんな密室で好き好んで半裸になってそれを喜んで描いてて、で両方男って」
「好き好んでねぇよ!」
「そう言ったって。物的証拠が金だって」
「はぁ」
「おれは喜んで描いてるから言い逃れできんし」
その声色はなんとなくふざけているような感じがしなくて、僕も思わず無言になっていた。
「ああ、誰でも喜ぶわけじゃない、ああー」
「それは」
「クーラー切る」
彼は壁付けのリモコンを操作してクーラーを切った。そのままなにも言わずに出て行った。彼の頭の中でなにがどうなって今に至るのか、さっぱりわからない。階段を乱暴に降りる音がする。僕が本当に理解したくないと思っているのは、理解したならあれを追いかけるはめになるからか、脱ぐのが服だけじゃなくなるからか、どちらともつかない。自問自答の果てがなくなってきた。忘れかけていた奇声が鳴る。不快に感じた。僕に外の熱さは関係ない。
クーラーは切れたはずなのに、まだ風が出ている。僕はリモコンを確認しにいった。見てみると操作を誤ったらしく、暖房のランプがついている。
「死んじまうぞ」
冷えた密室に熱風が踊っている。熱は僕の肩を撫でて消えて行った。
読んでくれてありがとうございます