1-1.得る
カーテンの隙間からうっすらと光がもれる、上野軍司は重たい瞼を開く。
「もう朝かよ。」
消え入りそうな声で、誰に言うでもなくつぶやく。
昨日、仕事が終わりまっすぐ帰宅すると、学会の発表のために職場で集めたデータをまとめ、ベッドに入ったのが4時。その時にはすでに空は明るみを帯びていたが、日ごろの疲れからかすぐに眠りについた。
現在、朝6時。睡眠というには短すぎる'仮眠'をとり、気だるそうに今日の出勤の準備を開始する。
もはや考え無くても体が動くように、出勤の準備はできる。4年間続けてきた動作だ。
しかし今日は、やけに体が重たい。
最近の疲労と寝不足により、軍司の体は脳へと危険信号を送っている。だが、そんなことは軍司も承知の上だ。
自分が疲れていることや、寝不足なのもわかっている。けれど仕事は仕事。
「はぁ。」
せめてもの抵抗から、ため息を吐き捨て家を出る。
上野軍司、看護師5年目の26歳。それ程、大きくはない病院の透析センターで働いている。まだ数の少ない男の看護師のためか、透析センターには男の看護師は彼しかいない。
このことを高校からの友人に話すと羨ましがられる。
「そんなのハーレムじゃんよ、いいなお前は。」
白衣の天使達との仕事だけでも羨ましいのに、男一人とは夢のような世界だ。
「は?…ん。いや、まぁな。」
決まって俺はこう濁す。
何が白衣の天使だ。裏ではすげーんだぞ、あいつら。看護師の裏の顔を知っている軍司は思い出しただけで汗をかく。
しかし、心の声はいつの心に止めておく。友人の淡い幻想を簡単に壊すもんじゃない。いつまでも白衣の天使の妄想を楽しんているといい。その方が幸せだ。
病院では、テキパキと仕事をこなしていく。自分から仕事を見つけたり、誰かに頼まれたら決して嫌とは言わない。
「あの人の言うことは聞いて、私のは聞かないんだ。」
こんな面倒はごめんだ。それなら”便利屋”として生きていったほうが、まだましだ。
そのため軍司の仕事量は多い。移動は小走り、いつも額には汗を流している。早出、残業当たり前だ。
ほどなくして、今日使用する薬品の確認や準備をしていると、技士の新人が出勤してきた。彼は透析回路の点検を始めていたが、軍司は彼を見ながら
------あいつも後2年は”便利屋”だな。今のうちにいろんな人に媚びうっとけよ。っと決して届きはしないエールを同情するかのように送っておいた。
それから、出勤時間になると、ばらばらと看護師や技士が増えてきた。
となると、もう主任も出勤しているはずだ。
そして昨日、主任から頼まれた書類を持ち、外来を通り抜けようとしたとき、軍司の世界が歪んだ。
視界が渦を巻くようにひしゃげ、どす黒く色あせる。すぐに膝を床につけ、こめかみを押さえながら、目を閉じる。
「おお、こりゃやばい‥。」
今までの疲労やストレスから体がついに悲鳴を上げたのだろう。
―------大丈夫だ、少しすればすぐ良くなる。今日を乗り切れば、明日休みだ。帰ったらゆっくり寝よう。1日中寝てやる!絶対にだ!
軍司は、その場で体が回復するのを、ただじっと待った。
「おや、まぁ。大丈夫かい?」
声のする方へ、笑顔で振り向く。体は仕事中だということは忘れていなかったようだ。そこには魅力的な80歳ぐらいであろうか、少し腰の曲がった女性が立っていた。魅力的といっても軍司が熟女好きという訳ではない。その女性は人の目を引くような、それでいて不自然や奇抜な訳でもない、神秘的な人だった。
「すいません、ありがとうございます。ちょっとフラついただけなんで、大丈夫ですよ。今、診察をお待ちですか?」
少しでも自分の気を紛らわそうと、女性へと話しかけた。
「いやね、お見舞いに来たんだけど、どこから行けば良いかわかんなくてね。少しプラプラしてたの。」
この女性の話を聞いて、軍司は心が和んだ。
------俺もこんな時間の使い方をしてみたいな。
「それじゃ、そこまでご案内しますよ。何号室かわかりますか?」
主任からの仕事を忘れている訳ではない。この方も立派なお客様だ。主任の仕事は急ぎでもないし、訳を言えば怒られるようなことはないだろう。
「いやいや、いいんですよ。のんびり探検しながら、探しますからね。こういう時に体動かさないとダメでしょ?」
------本当に癒されるなぁ、このおばあちゃん。
軍司がのほほんとしていると。
「でもダメよ、あなた。疲れすぎよ。少しは自分の体の事も考えなさい。」
まったくもって、その通りである。
はぁ、と頭を掻きながら返事をすると。
「じゃあ、優しくしてくれたお礼にこの飴あげるわ。」
女性は鞄から、銀色の包み紙の飴を取り出し、軍司へ差し出した。
朝食も取れていない軍司には、かなりありがたい糖分だ。礼を言いながら飴を受け取ると、女性は後ろを向きトボトボと歩き始めた。
しかし、数歩歩いたところで振り返り
「新しい世界を楽しんで!」
と手を振って、また歩き出した。軍司は訳が分からなかったが、マスクの隙間から飴を口に放り込み、足早に仕事に戻った。女性との会話で幾分か体調も回復したようだ。
------よし!
気合を入れて、また小走りで廊下を進んだ。
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