5. 遭遇(1)
「ところで、世界の果てってどこだ?」
町外れの平原に間の抜けた声が響いた。
地べたに座り眉間に皺を寄せながら、広げた地図を唸りながら見ているのはシウだ。穴が開いてしまいそうなほど紙面を凝視してはいるが、今、自分のいる場所すら分かっていないシウに、世界の果てがどこなのかは、分かるはずもなかった。
シウの世界は小さかった。
ロウエンの治めるカイランの街から、シウは出たことがなかったのだ。カイランの街の、最下層の者達が住む区画に生まれ、盗賊として腕を磨き、そしてその街で一生を終えるはずだった。シウはその事に不満も疑問も抱くことは無かったし、それがカイランの下層地区に生まれた者の、一つの道でもあった。
知る必要などなかったのだ。日々の生活すら苦労していたシウに、自分の生きる以外の世界のことなど。
「ここだよ、ここ」
うんうんと唸るシウに痺れを切らした少年が、シウの背中に飛び乗って地べたに広げた地図の右端を指さした。
中央に大きな大陸を構え、左右にそれぞれ細長い島が描かれた地図を、シウは顔面に持ち上げてまじまじと覗き込んだ。一定時間その体勢で動きを止めていたシウは、大きく息を吐いて地図を投げ出した。
「はぁ〜、こんなところまで何しに行くってんだ、お前」
とりあえず果てしなく遠いことだけは理解できたシウは、大きく息を吐いた。
「ボクの生き別れた兄弟がいるはずなんだ」
「はぁ!? マジか?」
「ふふ、嘘だよ」
終始ルカが主導を握る短いやり取りが済んで、二人は立ち上がった。
シウは投げ出した地図を拾い上げ懐にしまうと、尻に付いた土を払った。
「そんじゃ、行くとしますか。世界の果てってところに」
腰と額に手を当て、遥か地平線を見据える。長い長い旅の始まりだ。大きく息を吸い前へと踏み出す。
しかし悲しいかな、小さな世界の住人であったシウに、目的地までの道順など分かる術はなかった。
「ち、ちょっと待ってよ、シウ!」
ルカの焦る声が飛ぶ。
踵を返し向き直ると、少年の足はまだ一歩も進んでいない。
「なんだよ、ルカ。早く行くぞ」
「うん、行くよ。行くけれども……」
ルカも踵を返す。
シウとは逆方向を向き、首だけで振り返った。
「そっちじゃないよ」
「…………」
「……もしかして方向音痴なんだね」
遠くのカラスの鳴き声を背に、ぼそりと呟く。そんなルカのほうに向き直りシウはあっけらかんと言い放った。
「まあまあ、なんとかなるって」
逆戻りする自分の姿に不安を抱くルカに、シウはとびきりの笑顔を向ける。
先が思いやられる、と幼いながらに察しながらも、ルカはあえて笑顔で正しい道を指した。
「……とりあえず、ここから北上したところにダヤっていう村があるはずだから、そこに向かおう」
「おう」
世界の地理などさっぱり分からないシウは、ルカに言われるがままに頷いたのだった。
◆
「おっ! ここがダヤか〜、近いんもんだな」
初めてカイラン以外の集落に足を踏み入れたシウは、子供のように声を上げた。
「……結構小せぇな」
加えてぼそりと呟く。
そんなシウの呟きを聞いて、ルカは苦笑した。
「そりゃあカイランに比べたら小さいよ。一応カイランは、中央大陸で三番目くらいに大きいんだから」
「へえ」
シウは気のない返事をした。
いくら小さな村であったとしても、彼にとっては初めての経験。好奇心は尽きない。
目を輝かせながら、縦横無尽に視線を巡らせるその姿は、誰の目から見ても怪しいものだった。事実、村の住人達は明らかにシウを避けている。
「シウ、ちょっと落ち着いてよ!」
後から隠れるようにしてついて来るルカは、小声でシウに呼びかける。しかしそれくらいでおとなしくなるような男ではなかった。
カイランの北に位置する村、ダヤ。
シウは小さいと言うが、各地にある村の中では比較的大きな規模となる。もちろんそれは、カイランに近いからというのが最たる理由ではあったが、もうひとつ別の理由もあった。
しかし、シウは別段そんなことを気にかけることはなかった。それよりもなによりも、彼の視線を釘付けにしたのは目の前の人だかりだった。
「ん……? なんだ、あのひとだかり」
いきなり立ち止まったシウの体にぶつかり、ルカは鼻を押さえながら見上げた。
「なに? どうしたの?」
「なんか揉めてるみてぇだな」
ふうん、とルカは頷いた。
確かに人だかりからは怒声のようなものが聞こえる。そういうものとは極力関わり合いにならないほうがいいことを、ルカは知っていた。
しかし、先を急ごう、と促そうとするも時すでに遅く、シウは人だかりに向かって走り出していた。
そんな後ろ姿を見ながら、ルカは肩をすくめ苦笑した。
「……ほんと、世話が焼けるなあ」
人だかりをかきわけ、前列へと進み出たシウが見たのは、三人のゴロツキと、それに対峙する一人の身なりのいい端正な顔をした青年だった。その後ろには、青年に庇われるようにして身を潜める少女がいる。
三人のゴロツキは、一人は尻餅をつき、一人はそれを起こそうと手を伸ばし、残る一人が鼻息を荒くしていた。
「おい、テメェ! なにしてくれんだ!」
ゴロツキが叫ぶ。人が集まってきていることにも気付かないほど、頭に血が上っているようだ。
そんなゴロツキ達の前に立つ青年は、束ねた漆黒の長髪を後ろに払いながら、涼しい顔をしている。
「その台詞、そのままそっくりお返ししますよ」
にっこりと微笑みかけてから、青年はその場に屈むと、流れるような所作で、足下に散乱する何かをその手に取った。
「この村の特産である毛織物をこんなにしてしまうなんて……愚の骨頂としか思えません」
青年は嘆息し、手に取ったものを広げた。ばさりと音をたてて広げられたもの、それは毛織物だった。本来であれば、美しい幾何学模様が描かれていただろうそれは、ぐしゃぐしゃに踏みつけられ泥と汚れとにまみれている。壊れ物を扱うようにして、その汚れを優しく叩き落とすと、青年は自らの背に隠れる少女に手渡した。そして再びゴロツキ達に向き直る。
「さて」
端正な顔に笑みを浮かべ、青年はずいと進み出た。
深い青色の瞳で、射抜くようにゴロツキ達を見据える。
「愚かなあなた達には、制裁を与えねばなりませんね」
にこやかに、青年はそう言い放った。