17. 不穏な夜(2)
「じいさん、あんた誰だよ。俺は知らねえはず、だ……多分」
がやがやと騒がしい店内で、シウは先程と同じ質問を、今度は頼りなげに繰り返した。目の前の老人は、頼んだ茶を一口啜り顔を上げると、にこりと微笑んだ。
「私の事を尋ねる前に、君は自分が誰なのか分かっているのかね?」
「は?」
意味の分からない返答にシウは顔をしかめる。しかし同じく店で頼んだ定食を口に運ぶことは忘れない。
「君は、君自身のことをどれだけ知っていいる?」
口をもぐもぐと動かしながら、おかしなじいさんについて来てしまったな、とシウは後悔した。
老人はシウの返答を待っているのか微動だにしない。まっすぐ自分を見据える視線に耐え切れなくなり、シウは目を逸らした。
「俺は……カイラン生まれ、カイラン育ちの二十歳。それから……母さんと妹がいたけど死んで、親父は顔も知らねえ。それからそれから――」
「母の名は?」
言い淀む言葉を遮るように、再び老人が問う。声が心なしか緊張を帯びているようにも聞こえて、シウは唾を飲んだ。
「母さんの名は……ベリル」
その答えに老人の目が一瞬見開き、口角が上がっていく。やがてくっくっと笑い出すと、いきなり席を立ち上がった。
「やはり! 運は我等の味方だ。ついに……ついに手に入れたぞ」
その瞬間周囲の人間が一斉に椅子を引いて立ち上がった。あれ程騒がしかった店内は静まり返り、老人の不気味な笑い声だけが響いている。
シウはさすがに箸を置き、辺りを見回した。店内にいた人間は、客はおろか、店員までもが自分達のテーブルに正面を向けている。
「な……何だよ。何だよ、お前ら」
立ち上がった人間達は一歩、また一歩とシウとの距離を詰めていき、テーブルは完全に囲まれた形になった。それは異様な光景だった。
シウはそこから逃げ出すことも出来ず、その場に立ち尽くす。老人はそんな彼の前にずいと進み出て、舐めるように全身を見ると言い放った。
「本当に、よく似ている……が、姿だけだな。中身は愚かで粗雑な愚民そのもの」
「ぐみ……ん!?」
それまでの語調とは打って変わって、蔑みの言葉を投げつけた老人に、シウは目を見開いた。
「しかし、それでこそ我等の役に立つ傀儡に成り得るというものだ」
その直後、シウは後ろから羽交い締めにされ、動きを完全に封じられた。
「離せ! 何しやがる、おい、ジジイっ!」
羽交い締めにされたシウは何とかしてそこから逃れようとするが、どうやらその相手は一人ではないようで、中々上手くいかない。ようやく蹴り上げた足が相手の脛に当たったが、それで脇から首に回された腕が剥がれることはなかった。
「おお、何と下品な言葉遣いだ。嘆かわしい」
汚いものでも見るかのような目を向ける老人。シウは身動きが取れないまま、老人を睨みつけた。
「クソジジイ……っ!」
わけも分からずこんな目に合わせられ怒るが、老人は何の意にも介さないようで、相変わらず不気味な笑い声を上げている。
「さあ、私と来てくれるかな。シウ君」
ここまできてようやくシウは、自分がこの老人にはめられたのだと気付いたが、その理由は分からなかった。
◆
「……あれ、シウ?」
隣のベッドにシウがいないことにルカが気付いたのは、太陽がわずかに顔を覗かせ、窓から見える空が白み始めた時だった。昨夜食堂から貰ってきたパンが皿から消えているということは、シウが食べたからなのだろうが、その彼の姿も消えている。
ルカは目を擦りながら周囲を見渡したが、あの騒がしい相棒の気配はない。
「トイレかな」
そう呟いて、再びまどろみに身を委ねる。
しかし、あの時シウのことを探しに行けば良かったと後悔することを、ルカはまだ知らない。
「シウ」
その朝、ルカが目を覚ました時、少年の相棒は戻って来てはいなかった。ここに戻らないつもりではないということは、枕元に置かれたロケット型のペンダントが証明している。では、なぜ――少年は今この場所にシウがいないことを考えあぐねた。
「……まさか」
一つの可能性に思い当たりかぶりを振る。まさか、そんな筈はない。しかし、一度頭に思い浮かんだその可能性は、考えれば考えるほど正しいような気がしてならない。
「でもここはまだリキョウだ。そんな筈は――」
しかし、そこで思い出すのはダヤの一件。ゴロツキに制裁を与えたあの青年。彼の名をルカは知っていた。
イサラ=ユエ=シュルツ――この大陸でその名を知らない者はいない。彼はこの国の皇子だ。亡きシウレスカと第一王妃ラナーヤの息子であり、皇位継承権を持つ現在一番この国の頂点に近い人間なのだ。
次期皇王と呼ばないのには理由がある。それはイサラの持つ皇位継承権より、更に上位の権利を持つ人間がいるかもしれないからだ。第二王妃との間に生まれたイサラの兄――そんな存在の噂が皇都アカツキではまことしやかに囁かれていた。
水面下で元老達は動いている。それは勿論、第一の継承権を持つ人間を探し出す為。
そしてそれこそが、ルカが言う皇都アカツキでのごたごただった。イサラが中央大陸を訪れていたのも、その辺りに理由があるからかもしれない。
ルカはあの時そんな考えに及ばなかったことを酷く後悔した。
「くっ」
ルカはシウが休む筈だったベッドの枕元に置かれたペンダントを手に取った。ロケット型のそれを開けると、中にあったものは写真だった。一人の女性とその娘とおぼしき少女が写った写真。金の髪に青い瞳をした二人はよく似ていた。
「ベリル……」
ロケットを握りしめ、ルカは呟いた。