16. 不穏な夜(1)
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「……腹減ったぁ……」
結局夕食を食い損ねたシウは、ぐうぐうと鳴り止まない腹を抱えながら呟いた。すぐ下の階の食堂の騒がしさはとうに消え、宿の利用者はすでに寝静まっている時間帯だ。もちろん、テーブルを挟んだ隣のベッドに眠るルカも小さな寝息を立てている。
「くっそー、あんなんじゃ全然足りねえよ……」
一人夕食を済ましたルカは一応シウの為にハムとチーズが乗ったパンを一つ持ってきたのだが、それはとっくに食べ終わっている。もしかしたらルカにはちょうどいい量なのかもしれないが、シウとは胃袋の大きさが違う。全然、足りなかった。やっぱり俺も食いに行きゃ良かったな、とシウはひとりごちた。
「ああ、そうだ!」
いい考えが浮かんで跳ね起きる。何もこの宿の食堂で食事を取らなければいけない理由などないのだから、外に行けばいいのだ。これほど大きな港町だ、こんな時間でも開いている店があるに違いない。金は持っていないが、適当に掻っ払えばいい。
善は急げとばかりに、シウは部屋を飛び出した。
「さぁて、適当に酔っ払いでも引っ掛けるか」
一瞬ルカの顔が過ぎったが、無かったことにする。長年繰り返してきたことだ、ルカに咎められ罪悪感は多少あるものの、すぐに止めることなど出来ない。手持ちの金がないなら尚更だった。
シウの思った通り、宿のある通りだけでも何軒かまだ明かりが点いている店があるようだった。酒場の前を通り過ぎれば、酒の匂いと共に豪快な笑い声が聞こえてきた。
歩きながら品定めを始める。その中から、ふらふらと千鳥足で歩く中年の男の背後にシウは近付いた。酔っ払った男はシウの気配は勿論、その手が懐から財布を抜き取ったことにも気付かなかった。
「だから、ちょろいんだよ」
あまりの呆気なさにシウは嘆息する。手に入れた布袋を振り、じゃらじゃらと擦れ合う硬貨の音に思わず頬が緩む。
「さて、何を食うかな」
やっと食事にありつけられると、意気ようようと歩くシウ。そんな彼の肩に、ぽんと大きな手が置かれる。
「君」
ぎょっとしながらゆっくり振り返ると、そこにいたのは老人だ。
「君、名は何という」
唐突な質問に身構えながら、後ずさる。脳裏に過ぎったのは、ダヤで盗みを働き腕を切り落とされたゴロツキの姿。
「な、何だよ、じいさん」
「ああ、わしは怪しい者なんかじゃない。君の名を聞きたいだけなんだ。もしや、シウ、という名前ではないかね?」
「え……、どうして俺の名前……」
訝しみながらも、自分の名前をずばり言い当てた老人を見る。
知り合いではない筈だった。そもそもシウはカイランから出たことがなかったのだから、海を挟んだこの町に見知った顔などあるわけもない。
目の前の老人は、見事な白髪と顎髭を蓄えた紳士のように見える。身に纏った衣服も明らかに庶民がまとうものとは違うように思った。
「やはり、君が――シウ、なのだね」
老人の口角が上がる。微笑んでいるが、その目は笑っていないように見えた。
「何だよ、じいさん誰だよ!」
思わず強く言い放ってから、シウは一つの可能性に思い当たった。
もしかしたら、この老人はカイランで捕まっていた屋敷の人間なのではないか。罪人である自分を捕えに来たのではないか、と。そしてもしかしたら今まさに盗みを働いた所を見られたのかもしれない、と。
「違う、俺は盗んでなんか……」
「ああ、そんなことはどうでもいいんだ。まあ、嘆かわしいことではあるが」
髭をさすり笑う。本能的にその笑みに不気味なものを感じたシウは一歩後ずさった。
「ああ……でも、そうだな――盗みは良くないな。盗人がどうなるか分かっているだろう? シウ君」
にこやかにシウに近付く老人。その窪んだ目がシウの利き腕を見つめた。罪人に与えられる制裁として切り落とされる腕を。
「なに、私の話を聞いてくれれば通報したりしないさ。さあ、来てくれるかな? 君と二人で話がしたい」
「……分かった」
酒場を指差し提案する老人の言葉を受け入れるしかないシウは、仕方なく頷いた。