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コトダマ  作者: 亜耶
14/21

13. 生きるための罪




   ◆◆◆



「シウ、刺繍は売れたかしら……?」


 薄い布団から枯れ枝のような手が伸びる。立て付けの悪い引き戸を閉めてから、シウと呼ばれた少年はその手に持っていた巾着袋を背に隠した。その代わりに懐をまさぐり、小さな布袋を取り出した。


「売れた売れた、全部売れたよ! 見て母さん、これが今日の稼ぎさ」


 そう言って布袋を振って見せる。じゃらじゃらと硬貨の擦れ合う音がした。


「ああ……よかったわ、これでこの子のミルクを買える……」


 シウは布団から起き上がろうとする母親の背を支えた。骨張りか細いその体は少年の力でも、いとも簡単に起き上がらせることが出来た。ふとその隣に目をやる。そこにはすやすやと寝息を立てる女の赤子がいる。


「レレィ、泣き止んだんだね」


「なんとかね。でもきっとすぐに目を覚ますわ。満足にミルクを与えることも出来ないんだもの」


 長い間泣いていたからなのか、赤子の産毛のような髪は額に汗で張り付いている。そんな娘を母親は慈しむように撫でた。


「シウ、お前もごめんね。私がこんな体なばかりに……」


 言いかけて母親は激しく咳込むと、シウは慌ててその背をさすった。


「ああ、母さん……無理しないで。横になっててよ、俺ミルクを買ってくる」


 母親の咳が治まるのを待ってから、シウは立ち上がった。悪いね、と母親のか細い声を背に受け、彼は家を飛び出した。




 幼いながらも少年には、母の病の状態が芳しくないことが分かっていた。そしてその病はいずれ死に至るであろうことも。だからこそ少年は奔走していた。病の母親を救う為、そしてまだ幼い妹を守る為。

 それでも少年にも限界があった。貧しく貧相な身なり、そして子供であるがゆえに、母親が文字通り命を削りながら作る刺繍には足元を見た値段をつけられ、それを拒むと足蹴にされた。

 仕方がないのだと自分に言い聞かせながら、罪を犯すようになったのは遅くはない。



 貧民街とは違い市場には裕福な者達で溢れている。そんな場所でシウのような少年はかなり異質な存在と言えた。

 少年は歩きながらめぼしい人間を探す。そして向こうから近付いてくる中年二人組を見つけた。昼間から酒に酔っているのか顔は赤く、声はこの通りの中であっても際立っている。

 シウは彼等とすれ違うその瞬間、男の懐に器用に手を伸ばす。それは、簡単に抜き取ることが出来た。


「ふん、馬鹿なやつ……」


 すぐに小道に入り、それを確かめる。布袋にはある程度の重さがあった。

 それを握り締めながら、シウはいきを吐いた。いい気なものだと思う。自分達は今日食べるものにさえ困っているというのに、あの男達は昼間から酒を飲んでいるというのだから。

 布袋をしまい通りに出る。まずは妹のミルクを買わなくてはいけない。




「ふざけんな!」


 訪れた店でシウは声を張り上げた。その目の前には香油で薄い髪を頭に張り付けた男がいる。その店の主だ。男は、やれやれといった表情で息を吐いた。


「そこにあるだろ! 早くよこせよ!」


 目的のものが店主の後ろにある棚に陳列されていることはシウには分かっていた。しかし男はかぶりを振る。


「だから何度も言うがな。この店にはお前に売るようなものはない。さっさと出て行ってもらおうか」


「金なら持ってるんだ! なんで売れないなんて言うんだよ!」


 怒りのあまり掴みかかるシウ。男は情けない悲鳴を上げ店の外へ逃げ出すと、大声を張り上げた。


「た、助けてくれえっ! こいつは強盗だ! 店が襲われているんだ!」


 店主の悲痛な声に周囲に次々と人が集まり始めた。そのことにシウが気付いた時には、既に警備隊に取り囲まれていた。

 屈強な二人の警備隊がシウの腕をぐいと掴む。少年は強引に店主から引き離された。


「な、にすんだよ……俺はただミルクを売ってもらおうと……」


「ち、違うっ、そいつは強盗だ! さっさとしょっぴいてやって下さい!」


 慌てて弁解しようとするシウの言葉を遮るように店主は叫んだ。警備隊は元からシウの声など聞こえていないかのように懐から取り出した縄で少年の両手首を縛り始める。いよいよ身の危険を覚えて、少年は警備隊に向き直った。


「俺は強盗じゃない! あのバカ親父が商品を売ろうとしないんだ、金ならあるのに!」


 訴えるシウに向かって警備隊の陰から店主は叫ぶ。


「どうせその金だって盗んだんだろう。これだから嫌なんだ、貧民街なんて焼き払ってしまえばいいのに!」


「なんだと!」


 それはシウにとって火に油を注ぐような言葉だった。しかし両手を縛られた状態では何が出来るわけでもなく、ただ鼻息を荒くした。そんな少年を嘲笑うように店主は陰に隠れたまま薄笑いを浮かべる。


「よろしくお願いしますよ、警備隊の皆さん。こいつらは害悪以外の何者でもない。とりあえずこんなガキの腕はとっとと切ってやって下さい」


 その言葉に思わず息を飲む。

 盗賊への制裁は腕の切断。それくらい少年だって知っている。しかし自分は物を買いにこの店に来ているのだ。金だって持っている――それが盗んだものだということは否めないのだが、今のところばれてはいない。この拘束、そして店主の要求はその状況に対しては不当なものだと言えた。

 しかしこのままでは要求通りになってしまうのではないかと少年の背には冷や汗が流れる。


「離せよ! 離せって、俺は違うんだ!」

 少年の悲痛な叫びが辺りに響く。腕を押さえ付けられたまま、シウは周囲を見回した。警備隊をはじめそこにいる誰にも、彼の言葉は届いていないようだった。その証拠にそこに集まる見なりのいい人間達はそろって眉をひそめ、白い目をしていたからだ。


「さあ、来い」


 ぐいと腕を引かれシウは顔を歪めた。しかし警備隊はそんなことなどおかまいなしに力を込める。


「やめろよ! ミルクを買っていかないと駄目なんだ。妹が……レレィが……っ」


 少年の悲痛な声が響いた。その時だった。


「おやめ下さい!」


 人影がシウと警備隊の前に飛び出した。跪き両手を合わせ懇願するのは、少年の母親だ。


「どうか、どうかおやめ下さいませ! 私はこの子の母でございます。この子がそんなことをするなんて……きっと何かの間違いです。どうか、どうかこの通りですので」


 目の前で地面に擦りつけるように頭を下げる母親。そんな姿を見てシウは顔が熱くなった。


「おやめ下さい、お願いします」


 母親の青白い頬には髪の毛が張り付いている。恐らく走ってきたのだろう、細い肩は上下していた。

 シウはそんな母の姿を見て悲しくなった。そんなことをさせてしまっている自分に対しても情けなく思う。

 しかし、やがて親子らを取り巻く空気が変わっていくことに気付く。必死の形相で食い下がろうとする母親の姿を不敏に思うような声までも漏れ聞こえてきた。店主の顔色も変わっていた。


「お願いします!」


 なおも頭を下げつづける母親を直視することが出来ず、シウは目を背けた。ついには店主が警備隊に渋々シウの手を放すように言った時も、警備隊がその場を去った後も言葉を発することが出来なかった。

 やがて親子の周囲からは、何事もなかったかのように人々は去っていった。






「……シウ」


 夕日を背に前を歩く母親が少年の名前を呼ぶ。少年は応えない。


「シウ」


 再度響く母の声。それは禀として高く澄んでいた。くるりと後ろを歩く少年に向き直り、微笑む。


「お前は優しい子よ。私やレレィを守ろうとしてくれる立派な男の子」


 シウは顔を上げた。逆光で暗くなった母の顔を窺い見る。笑みを浮かべ自分をまっすぐに見つめる母は懐から布袋を取り出した。少年はすぐにそれが何であるかに気付いたが、それと同時に母から目を逸らす。それは少年が盗んだ財布だった。


「でも、盗みはいけないわ。いくら理由が尊いものであったとしても、その瞬間それはくすんでしまう」


「……」


 俯き押し黙る。顔を上げることが出来なかった。

 そんな少年を母親は抱き寄せた。


「お前は私の誇りよ。愛しい大切な私の息子。だからどうかお願い……自分を貶めるようなことはやめてちょうだい、シウ」


 少年の体を抱きしめる細い腕に力が込められる。細い腕は震えていた。

 



   ◆◆◆




「それからどうなったか分かるか?」


 海の見える広場の地べたに座り込みながら、大きく息を吐きシウは自嘲気味な笑みを浮かべた。見下ろす形で相対するルカは何も応えられない。目の前の青年の愁いに満ちた表情には、幸せな結末など微塵も見えなかったからだ。


「……俺はな、盗みを止めたんだ。母さんのあんな顔見たくなかったから、真面目に、それこそ朝から晩まで刺繍を売り歩いた。いくらなじられようが、雨の日も、雪の日も、大風の日だって」


 でもな、とシウは続ける。その瞳はどこか遠くを見つめていた。


「ろくに売れない刺繍を作り続けて母親は死んだ。妹もそれから数年足らずで流行り病で死んだんだ。金が無くて、治療院に診せることも出来なかった」


「シウ……」


「レレィは、妹はまだ四つだった。……たった四つ――四年ぽっちしか生きられなかったんだ。俺は何をしてでも守ってやらなきゃいけなかった。真面目に、とか自分を貶める、とかそんなんじゃなく」


 何をしてでも――そう絞り出すように発した言葉は、いつの間にか夕日に染まった空に溶けていく。そのままシウはがっくりと肩を落とした。


「盗んで何が悪い。明日食うものにも困る? 一食くらい抜いたって人間は死なねえんだ。どれぐらい食わずにいれば死ぬか、教えてやろうか?」


「シウ、僕は……っ」


 ルカが首を振る。

 シウは顔を上げないまま、笑った。それはひどく歪な笑みだった。




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