9. 宿にて(1)
「おわっ……?」
うつ伏せたままいつのまにか眠りこけていたシウは、涎が垂れそうになって目を覚ました。
口元を拭い、もそりと起き上がる。頭はまだ完全には覚醒していないようで、なぜそんな状況なのか掴めない。しばらくその場に立ち尽くした後、一日中の労働で、疲れ果て寝てしまったことを思い出した。
「……ルカ?」
ふと、辺りを見渡して、少年の姿がないことに気付く。しかし、呼んでみても返事はなく、部屋は自分以外もぬけのからだった。
「どこ行ったんだ?」
さして気に留めることもなく、シウは部屋のドアを開けた。その瞬間、鼻が夕食の香りを察知した。
「メシだ!」
飛び跳ねるようにして階下に向かう。食堂と書かれたプレートの下がった大部屋に入ると、そこにはすでに見慣れた少年の顔があった。その口は、もぐもぐと動いている。
勢いよく現れたシウを見て、ルカは一瞬驚いたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「あ、シウ。おはよう」
すでに三分の一ほど料理をたいらげたルカの向かいに、シウは乱暴に腰掛けた。
「おはよう、じゃねぇよテメェ。ぬけがけしやがって!」
シウは睨みをきかせながら、手前の料理を取った。
「何だコリャ! うめええ!」
一口パクリと口に含んだ途端、シウは絶叫にも似た声を上げた。
バターでソテーにした白身魚には、濃厚でありながら口当たりのよいソースがかかっている。しかし悲しいかな、彼はその味を他に表現できる語彙を、持ち合わせていなかった。
「おや、やっとお目覚めかい?」
厨房から布巾を持って現れたのは、二人を迎え入れた女将だ。シウはもぐもぐと口を動かしたまま、彼女を見やった。
「あんまり気持ち良さそうに眠ってるから、その子の分だけ先に用意したんだよ。まだあるから、落ち着きなよ」
女将は必死になって食べ物を確保しようとするシウを見て、大声で笑った。
「待ってな。今、用意するから」
女将は手際よく料理をテーブルに並べていった。
小さな宿だけに、利用客は彼らだけであったにもかかわらず、シウは一人で何人分もの料理をたいらげていく。うまいうまいと言いながら、どんどん料理を口に運ぶ彼を見ながら、女将は満足げにしていた。
「うまかった! ごっそさん!」
シウは両手をパンと合わせ一礼すると、満たされた腹をさすった。その表情は幸せそうだ。
「よく食べたね……」
そんなシウを横目に、ルカは弱々しく言った。どうやら少年も食べ過ぎたようだった。
「あはは! いい食べっぷりだったね。私も作ったかいがあるってもんだよ」
女将は空いた皿をさげながら笑った。
「うまかったぜ、おばちゃん! 特に魚、魚がうまかった」
そうだろ、と女将は得意げに答える。さげた皿を流し台まで運ぶと、二人の元まで戻ってきた。
「ここの港はいろんな魚が入ってくるんだ。中央大陸だからこその特権さね」
へえ、と頬杖をつきながらシウは返事をする。女将は別のテーブルから椅子を引き寄せ腰かけると、そんな彼の顔をまじまじと眺めた。
「な、なんだよ」
見られていることに気付いたシウが顔をさする。何か付いているのかとも思ったが、そうでもないようだ。
「ああ、何でもないんだ。気にしないでおくれ」
そういう女将の視線は、ずっとシウに向けられている。何かを探るように、じっと青色の瞳を見据え、逸らさない。
ルカはそんな二人の様子を、ただ見ていた。女将はシウを見て何かを思い出そうとしているようにも見えた。
しかし、やがて根負けしてしまったシウがふいと顔を逸らした。女将もさすがにそれを追うようなことはせずに、ただ首を傾げていた。時折唸り声を漏らす。
「だから何だよ、おばちゃん」
シウは顔を背けたまま、声を荒げた。過剰に凝視されて怒っている、というよりは照れているようだ。
「ああ、ごめんごめん。いやあ、あんた誰かに似てるような気がするんだよねえ。……それとも、今まであたしと会ったことあるかい?」
「はあ? ねぇよ! 俺ここに来んの初めてだぜ。おばちゃんの勘違いじゃねえの」
そうだよねえ、と女将が同意する。しかし再び唸り始めたところを見ると、完全には納得しきれてはいないようだった。
シウは立ち上がり、踵を返す。
「とりあえず、ごちそーさん。明日の朝メシも期待してっから」
ぶっきらぼうにそう言い残して、食堂を後にする。はいよ、と返事をしながら女将はシウの後ろ姿に手を振った。バタンとドアが音をたてて閉められてから、女将はルカと顔を見合わせた。
「ありゃ、気を悪くさせちゃったかね」
肩をすくめ、苦笑して見せると、ルカは首を横に振った。
「ううん、照れてるだけ。寝ればコロッと忘れちゃうから大丈夫だよ。……シウは単純だからね」
「はは、そうかい」
女将は笑いながら立ち上がった。それと同時にルカも立ち上がると、布巾でテーブルを拭き始めた女将に向け、笑みを浮かべた。
「うん、だから平気だよ。……カティナ」
その言葉にはっとして、女将の手の動きが止まる。
彼女は、シウはもちろん、この少年にも会ったのは初めてだ。それなのに今、この少年ははっきりと口にした。
「あんた……、どうしてあたしの名前を知っているんだい。しかも、あたしの――」
そう言いかけて振り返り、言葉を失う。そこにはすでに少年の姿はなかった。
布巾を手にしたまま、女将はただ呆然と立ち尽くしていた。
「あたしの旧姓なんか、どうして……」
誰もいなくなった食堂で、ぽつりと呟く。
カティナ――それは自分の旧姓に他ならない。もともと生まれ育った土地を離れ嫁ぎ、姓が変わり早二十年。あんな幼い子供が知るはずないのだ。
しかし、いくら考えあぐねても、その答えが出ることはなかった。