・8 檄文は激励に非ず
・8 檄文は激励に非ず
だから、皇子のためには協力を惜しまないつもりだった。『後漢書注』についても、あくまでも皇子の補佐という立場で、自らの力の及ぶ限り助言するつもりだった。功績を横取りするつもりは全くないので、作業の大部分は皇子に任せるつもりだ。
皇子の手助けは、王勃にとっての全てではない。招聘されて皇子に仕えることになったので、全力を尽くして『後漢書注』が出来上がるのを支援するのは間違いない。王勃にとっても、同じ史書を読むのならばしっかりした注釈が有る方が助かるのだ。多数の誤りを指摘はしたものの、『漢書』の顔師古注の存在が偉大であることを否定するものではないのだ。
殿下のお手伝いをする傍ら、自分もまた詩の可能性を追求してみたい。
いかに若くして史書や六経を読んで俊英と讃えられても、過去の偉大な創作をなぞるだけのことだ。多少、才の劣る人であっても、大人になって勉強すれば誰でもある程度は読めるようになる。幼少時の先行分は詰められてしまう。孔穎達や顔師古が撰述した『五経正義』の存在こそが、まさにその答えといえよう。儒学における統一解釈ができたのは便利ではあるが、そこにはもう、これ以上の闊達自在な解釈や流派の発生の余地はほとんど無い。今まで科挙において重視されていた明経科の受験者には便利であっても、儒学というのは行き止まり感が強い。それに対して近年の科挙において武皇后の意向で重要な扱いとなりつつある進士科の詩は、定型句の方向に行きつつあるものの、あくまでも個人の感性が色濃く出る芸術である。
他の誰でもない、自分だけの作品を作ることができる。
二人の兄の弟としての王勃ではない。
王勃は王勃。山西の王勃である。
幼い頃から、兄の王勔、王勮と並んで王氏三珠樹と称されてきた。褒め称えられるのはありがたく、かつ擽ったいが、これではあくまでも王氏三兄弟の内の一人でしかない。そのことに対するそこはかとない不満を、心のどこかに常に抱いて生きてきたのだ。
「どうされたのですか、王先生。なんか、にやにやして」
「え? にやにやなんかしていましたか? それは失礼しました」
顔の筋肉を引き締めて唇を強く結んだ。笑みが自然と零れてしまうのは、やむを得なかったであろう。ここにきて王勃は、ようやく自らの生きる道を見つけたのだ。
詩。
そういえば、王勃の祖父の弟にあたる王績もまた詩人であったことを思い出す。貞観の初めに仕官を嫌い、東皐子と号して野にて仙人のように過ごすことにした。
今までにも王勃は『宸遊東岳頌』や『乾元殿頌』などをはじめとして詩を詠じたことは何度もあった。だが沛王府に入り初めて李賢に拝謁したこの時こそが、後世に名を残す初唐の詩人王勃が誕生した瞬間であった。
◆◆◆◆
最初は、その名前の通りに賢い皇子に仕えることができて幸せを感じていた。皇子もまた、優れた師匠である王勃を信頼し寵愛した。師弟、とはいっても年齢の近い若者二人だ。良い関係が構築されていく中で、『後漢書』注釈も、少しずつではあるが進んでいた。
しかし結局『後漢書』注釈が完成するまでには十年の月日を要することとなった。
皇子という身分もあってのことではあるが、李賢はよく学者たちを束ねて、注釈者集団の中心として活躍した。
自らも『後漢書』や『東観漢記』などを突き合わせ作業をしながら、王勃は愛弟子李賢が成長していく姿を目を細めながら見守っていた。
この才の優れた皇子は、いずれ立太子されるのではないか?
いつからか、そういう気持ちが芽生え始めていた。
そうなれば、自分は皇太子の恩師ということになる。将来、李賢が皇帝になれば、自分もまた栄達できるのではないか。西漢や東漢において権勢をふるった外戚や宦官ほどまでは行かなくても、皇帝に対して影響力を持つことができる。かもしれない。
冷静に現実を考えたら、李賢の同母兄である李弘が既に皇太子となっているから、何らかの理由で兄が廃太子されてしまうような事件でも起こらぬ限り、李賢が皇太子になる芽は無いのではあるが。
それでも関係なかった。長男の李弘を皇太子に推した武皇后は、気性が激しく気まぐれな性格である。李弘が些細なことで武皇后の機嫌を損ねでもしたら、どうなるか分からない。皇太子という身分は決して安泰なものとして保障されているわけではないのだ。妄想は、一度加速するととどまるところを知らずにどこまでも膨らんで行った。
王勃の思いは、決して無意味な妄想ではなかった。
王勃が見込んだ通り、李賢は後年、実際に立太子されたのである。ただしそれは上元二年、西暦六七五年のことであり、王勃が李賢に仕え始めたよりはずっと後のことだ。愛弟子が皇太子になって、それにより自分が甘い汁を吸うという夢を叶えるまで、王勃の方が待つことができなかったのだ。
王勃は自分の文才に自信を持っていた。筆を執りさえすれば名文を生み出すことができるものと信じていた。そして実際に優れた文章を書いていると自他共に認める水準にあった。自らの才に驕っていた。
だから、時の皇帝である高宗が、王勃の書いた文章を読んで大変にご立腹である、という話を最初に聞いた時は、驚きよりも先に自らの心に押し寄せてきたのは自分の文章を皇帝が読んで何かしらの感慨を抱いてくれたことに対しての卑屈な悦びであった。
「なにをにやけておられるのですか王先生。これは拙いですよ」
「いやいや『檄英王鶏』の文章は、我ながら良くできていると思うのです。いや、この王勃だからこそ、そこまでの名文を書けたと言うべきなのですが。『登天垂象於中孚、實惟翰音之是取』。それが陛下の所にまで回って、読んで貰えたのですから、大変光栄なことです」
王勃は恍惚の表情を浮かべつつ、自らが書いた文章の冒頭を諳んじた。
文章を書く能力に関しては、他者よりも優れていると自信を持っている。
懐かしく思い出す。自分が書いた文章を劉祥道右相に読んで貰い、それが認められて官途を開いたことを。遠い昔のことのようにも感じるが、ほんの数年前の出来事だ。あの頃、王勃は若かった。今もまだ弱冠と呼ばれる程度の年齢でしかないが。
「何か、父上の逆鱗に触れるような内容のことを書いたのでしょうか?」
「いや、書いていないはずですが」
「父上の側の鶏ではなく、対戦する相手の鶏を叱咤激励し過ぎた、ということではありませんか? それが結果として、父上の側の鶏を貶めることになったので父が激怒した、という流れなのかも」
「まさか。叱咤激励などしていません。ただ単に、英王鶏の素晴らしさを他の方々にも分かっていただきたくて、自分の文才を尽くして讃えただけです。」
「ああ、それならば、先生の文章が名文過ぎた、というのがかえって仇になったのかもしれませんね。宿敵を讃える文章があまりにも極端に素晴らしいと、自分の側の鶏が惨めに感じてしまう、ということも起こりえますから」
「なるほど」
「先生。なるほど、と仰ったということは、納得していただけたのですか」
「いやまさか。寸毫たりとも納得しておりませんが」
李賢皇子の理論展開には納得できたが、自らの境遇には当然ながら納得できない王勃だった。