・7 王勃の志
・7 王勃の志
そう言いつつ王勃は童子時代の自分を顧みる。『師古注漢書』の誤りを指摘する書を記したのは自画自賛しても良い実績である。そこは王勃自身実際に誇りに思っている。だが、班固の『漢書』が第一に存在して、二次的な存在である『師古注漢書』があって、初めて王勃の『指瑕』が三次的に存在し得るのだ。
他人の創作した物の上に乗っかっているだけのことではないだろうか。
一番下に『漢書』という巨大な亀が基礎として居て、その上に中くらいの大きさの亀である『師古注漢書』が乗っていて、その甲羅の上に小さな亀でしかない王勃著『指瑕』が乗っているだけだ。後世の人が過去を振り返った時、一番に目にするのは、やはり大きい亀である『漢書』であろう。
自分の教え子となる李賢は范曄『後漢書』の注釈を書くつもりだという。力強い決意を、僅か一三歳の皇子が述べている。注釈であるからには李賢の独自のものではなく、あくまでも范曄『後漢書』の二次ではあるが、実際に『師古注漢書』に迫るほどのきちんとした注釈を完成させることができれば、二次とはいえども、偉大な著作物になるはずだ。皇子という身分に甘えることなく真摯に学問に取り組む李賢が執筆し、王勃がそれを補佐するのだ。それまでの諸々の『後漢書』注釈の存在意義を消滅させてしまうほどの決定版となることは確実だ。
「注釈の補佐、か」
皇子の耳には届かぬような小声で、王勃は呟きを漏らした。
自分の役割はあくまでも補佐だ。それも複数の補佐人の内の一人ということになる。自分が表に出てはいけない。それに、最大限良いものが出来たとしても、范曄『後漢書』という大きな亀の上に乗っかっただけの中くらいの大きさの亀にしかなりえない。
自分もまた、歴史に名を残すような業績を成し遂げたい。
教え子の皇子に刺激を受ける形で、若い王勃はそう思い始めた。青雲の志を抱くに、いまだ遅いということはない年齢だ。
何をすれば良いのだろうか? 王勃は自問する。
李賢の真似をして史書の注釈、というのは一瞬考えただけですぐに諦めた。『後漢書』には李賢がこれから注釈をつける予定だ。『漢書』に関しては言うまでもなく顔師古の権威ある注釈が立ちはだかっている。陳寿の『三国志』は王勃が最も好んで読んでいる史書ではあるが、これに関しては、江南の劉宋の時代に裴松之が注釈を発表している。司馬遷の『史記』についても、こちらも劉氏が建てた宋時代に裴駰によって『史記集解』という注釈が既に出ている。
大昔に書かれた史書は、時代がくだった隋や唐という現代の者にとっては分かりにくくなりつつあるのだ。ならば、注釈の必要性を感じた誰かが取り組むことになる。考えることは誰も一緒だ。史書の注釈、という考えには固執せず、潔く捨てた方がよさそうだ。
詩。
唐突に思考の隅に浮かんだのはその言葉だった。
これからの時代は、詩を上手に賦することができる者が出世の早道を猛進し、皇帝や皇后に寵愛されるのではないだろうか。
実際に武皇后は、科挙の中でも明経よりも進士に重きを置き始めている。西晋あたりから始まり分裂時代を経て隋、唐の今までは、山東や山西などの名門貴族たちが宮廷における重要な地位をほぼ独占していた。もちろん貴族の子弟たちは幼少時から四書五経に親しんでいて教養は豊かであり、一般人よりは官職に相応しいのは事実である。
だが武皇后は、自らの支配を正当化するためには、従来の貴族階級ではなく、新しい支持基盤を必要としていた。そこで、科挙の進士に着目したのだ。
科挙であるから、生まれ身分に関係なく、優秀な者であれば高い地位までも栄達することができる。貴族の血筋に関係なく優秀な人材を、李氏ではない武皇后は必要としていた。
現実には、科挙を受験することができるのは、日々糊口を凌ぐために働かなければ成らない下層階級の者たちではなく、時間を割いて勉強をし続けることができる貴族の子弟に限られてはいた。それでも、才能の乏しい者が貴族の家柄というだけで役職に就いてしまうことだけは防ぐことができる制度だ。余程高額の賄賂が動けばそれを防ぐことすら難しくなるが。
唐の実質建国者にして基礎を創り上げた太宗皇帝の時代は、書法が重視されていた。太宗自身が東晋の頃に活躍した書聖王羲之を尊敬していたこともあり、書は官途への必須技能とされた。その太宗は既に亡く、蘭亭殉葬と言われるように、王羲之の最高傑作と共に土の下である。現在は四男である李治の治世であるが、書が重用される傾向は太宗の頃と変わってはいない。
ただ、太宗の頃と比較すれば、書の比重は下がっているといえる。皇帝李治も皇后武照も太宗に負けず劣らず書法家として後世に名を残す実力の持ち主であるが、それでも書だけが重視されるのではなく、他のものも求められている時代になっているのだ。
詩、だ。
後に初唐四傑と称される四人の内、この時点で駱賓王が四八歳 、盧照鄰は、三七歳くらいであった。 王勃は一八歳なので、この時一七歳の楊炯とは年齢が近いものの、他の二人とは大きく隔たっている。
年長の二人の活躍は、当然王勃の耳にも届いていた。
王勃も、『宸遊東岳頌』、『乾元殿頌』などで、頌、という形式の詩を書いているが、これからの詩はもっと複雑になっていくようだ。そういった潮流があることは、王勃も気づいている。
従来の古詩に対して、近体詩、という呼称で差別化されているらしい。これといった規則に縛られずに自在に言葉の赴くままに文字を綴っていくことのできた古詩に対して、近体詩は定型詩ならではの厳しい束縛の中から格調高さが生まれてくる形式だ。現在は細かな規則が形成されつつある過渡期といった時代だ。後に、押韻、二四不同、二六対、孤平、粘綴、下三平、といった細かい決め事が確立されてゆく。それに伴い、大唐帝国の繁栄と共に唐詩もまた隆盛し、後世には盛唐時代と名付けられることとなる。多士済済たる詩人達が活躍するのだが、その中でも特に著名な一人が杜甫であり、襄陽の杜審言の孫である。王勃や李賢が生きているこの時代より、一〇〇年足らずほど後のことになる。
「王先生? 王先生? ぼうっとして、どうされたのですか?」
「ああ、殿下。済みません。ちょっと考え事をしていました」
年下の弟子に対して素直に頭を下げて、王勃は謝罪した。むしろ謝罪よりも従順の意を示すために揖して頭を下げたようなものだった。
最初の子守りと思ってしまったのは大変失礼だった。心の中で子守りだと思っただけのことだったので、口に出して言葉として言ったり、顔の表情で皇子に悟られたりしたわけではない。だから一瞬だけの失礼な思いは、王勃の心の中だけに潜めて、鍵を掛けて仕舞っておくことにする。
自分がかつてそうだったということもあり、幼い頃から学問に優れている童子に対しては、王勃は親近感を抱いていた。
それと同時に、この年齢の頃だったら、自分はもっと上の水準で学に励んでいた、という若干の優越感が心の余裕となっていた。高い山の頂に登ると、自分が立っているよりもやや低い山の頂がよく見晴らすことができて心地よい気分になるのと似ていた。嫉妬の感情は湧いてこない。皇帝と皇后の間にできた息子という恵まれた環境に対する羨望が無いといえば嘘になるが、李賢皇子は家柄だけが拠り所という懐の小さい人物ではない。自らの目で王勃の優秀さを見極め、自らの府へ招き入れたのだ。
端的に言えば、王勃はこの皇子のことが好きになっていた。