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王勃伝  作者: kanegon
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・6 皇子の野望

・6 皇子の野望



「いえいえ殿下。『師古注漢書』をダメだなどと言ったことはかつてございません。あくまでも、誤りがある箇所を指摘しただけですから。『師古注漢書』が南と北の分裂時代から唐王朝が開闢された現在に至るまで隆盛を極めている漢書学において、記念碑ともいうべき大きな成果であることは誰も否定しようが無いでしょう」

 少々あざといくらいに媚びを籠めて王勃が言うと、年下の皇子は満面の笑みを浮かべた。

「そうでしょう、そうでしょう。それを聞いて安心しました。私も、顔先生は尊敬しているのです。畢生の大作である『漢書』の注釈も勿論ですが、それ以外にも、『五経正義』であるとか、音韻研究の功績も大きいと思うのです」

「顔師古といえば、『漢書』一〇〇巻の注釈だけではなく、訓詁学の権威でもありましたし、『隋書』編纂にも関わった歴史家でもありますし、北朝風の真書で碑文を書いた書法家でもありますからね」

「そうです。偉大な方だったと思うのです。歴史は顔先生をもっと高く評価してもいいと思うのです」

「なるほど。殿下は顔先生を敬愛しておられるのですか」

 弟子との距離感に苦労しそうだと、王勃は心の中で眉間に皺を寄せる。

 王勃は幼少時より学問に優れていたが、そういう人物に多い傾向ではあるが、人付き合いは得意とは言い難かった。どうしても相手を格下と見下してしまいがちになるのだ。今は既に過去の人である顔師古と、現皇帝の息子である李賢を軽く見てしまいそうになっている。そういう姿勢が相手に見えてしまっては、ただでさえ得意とは言えない人付き合いが更に円滑さを失うということは、若いといえどもさすがに王勃も経験から学んでいた。

「はい。それはもう、心から尊敬する、偉大な儒学者だったと思います。自分も、少しでも顔先生に近づきたいと思うのです。顔先生は『漢書』に注釈をほどこしましたが、自分は『後漢書』に注釈を付けてみたいと思っています」

 王勃は思わず大きく目を瞠いて、李賢の顔を見返してしまう。皇帝の息子として何不自由無くこの年齢まで育って来たであろう男児が明確な目標を持っていることに、意表を突かれてしまった。

 王勃の場合は、山西の名門貴族出身とはいえ、ただ家柄が良いだけでは将来が保証されているわけではなかった。そのことを幼い頃から朧気ながらも承知していたからこそ、学芸で身を立てようという志は持っていた。二人の兄に負けたくないという気持ちも手伝い、一生懸命、六経に取り組んだ。

 六経というのは、儒教の基本とされる重要経書だ。『詩経』『書経』『礼経』『楽経』『易経』『春秋経』の六つを指す。孔子の手によって纏められたとされる書物だ。

 幸い優れた才に恵まれていたので、厖大な内容ではあっても習って学んだことは修めた。何故幼少時から勉学に励んだのか。それは、官として宮仕えして、出世して、国に貢献し、後世の歴史に自らの名を残すというのが志だからだ。王勃に限らず士太夫は皆そうだ。

「しかし『後漢書』といいますが、どれを取り上げるのでしょうか。七家後漢書と言われるくらい、後漢の歴史を扱った史書は有名どころをざっと数えただけでも七作か八作くらいはあったはずです。あ、『東観漢記』も後漢史という点では候補に入るのではないでしょうか」

 王勃や李賢がまだ十代のこの時点では、劉秀が興した東漢についての正史は存在していなかった。とはいえ東漢に関する歴史を記した書物が一切存在しなかったわけではない。東漢という国が健在だった頃に記録されていた『東観漢記』もあるし、七家後漢書と呼ばれるように複数の『後漢書』が存在していた。それらの後漢歴史書の中で、どれを正史として認定するかの決定的な判断材料に欠いている状態だ。

「それはもう決めてあります。劉氏の宋の時代に范曄が編纂した『後漢書』です」

「范曄『後漢書』ですか。それは、蕭氏の梁の時に、劉昭によって注釈が付けられていますよね。他にも陳とか隋の時などにも注釈が試みられていたはずですが」

「『集注後漢』のことですよね。でもそれって、梁の時代のものであるにもかかわらず、早くも散佚し始めているではありませんか。皇子である自分でさえ、あれを集めるのに苦労しましたし。それで、志の部分の注釈は全部揃っている書が幸いにも入手できたので持っているのですが、本紀と列伝に関しては写本ごとにあちらこちらと折れた櫛の歯のように抜け落ちていて、分量としても断片としか言えない程度しか揃っておらず、全部網羅できていません。ですから、自分こそが顔先生の偉大な功績に続いて范曄『後漢書』にきちんと揃った注釈を付けようと思い立ったのです。つまり、決定版を作りたいのですよ」

「本気ですか?」

「いかに王先生といえども、それは愚問です」

 既に声変わりした低い声の王勃に対し、年少らしい高い声で李賢は矢のように力強く言い放った。

「……そうですね。失礼いたしました」

 簡単に譲歩した。皇子の機嫌を損ねて王勃が得をする部分など何も無い。

 それよりも、学問に対する意識の高い皇子の師として選ばれたことが、今更ながらに光栄に思えた。これがもし、皇子という身分に甘えて学問を疎かにするような怠惰な皇子の教育係だったりしたら、王勃の才能など宝の持ち腐れにしかならないし、実質の伴わない形式だけの地位ということになってしまう。

「この王勃も、『史記』『漢書』『三国志』、そして范曄『後漢書』も士太夫の教養として読んで学んでおります。殿下が注釈をほどこす活動についても、力をお貸しできるものと思います」

「ありがたいお言葉ですが、あまり王先生の積極関与は求めておりません。王先生の手を借りすぎてしまったら、それは私の李賢注ではなく王先生注の『後漢書』になってしまいます。王先生ならば、その気になれば『師古注漢書』に負けず劣らず優れた注釈を学堂に問うこともできるのでしょうが、自分は自力で注釈を書いて、後の時代に名前を残したいのです。皇子という身分によって史書に載るのみならず、学者としても評価されたいという野望を抱いているのです」

 沛王李賢の父親はもちろん大唐帝国の第三代目皇帝李治であるが、母親は、武皇后である。後世の歴史家には武則天や則天武后という名で呼ばれるようになる、中国史上随一の女傑である。父の皇帝李治は病気がちなこともあって、若い頃は外戚の長孫氏一族に振り回され、その後は武皇后の専横を食い止めることができなかった。そんな気弱な夫につけ込む形で、武皇后は苛烈な性格で皇后への階段を駆け上り、その後は、長い中華の歴史の中で唯一となる女帝を名乗るようになる。しかしそれは、この時点ではまだ将来の話だ。

 その母の血を引いているだけあって、李賢皇子もまた心の中に熱い炎を宿しているようだった。

「殿下に対してこんなことを言うのは失礼千万ではあるのは承知の上ですが、いい目をしておられますな、殿下」

 王勃は頷きながら自らの顎を撫でた。いまだ一三歳と幼い沛王李賢は当然髭を生やしていないが、王勃もまだ年若いため、伸ばしたとしても無精髭程度にまでしか伸びないため、髭は常日頃から剃っている。少し肌が荒れている。

「ちょっと、かっこつけたことを言いましたけど、まだまだ学問は未熟ですので、王先生の力をお借りするのは確かですので、今後宜しくお願いします。こういうのは、少人数で行うと先入観などで方向性を誤った時に修正が利かなくなる危険性もあると思いますので、王先生の他にも協力者を加えるつもりではありますけど。だから、自分一人で注釈を施すだなどとは到底言えないのですが、それでもあくまでも自分が中心として頑張りたいとは思うのです」

 実際の『後漢書』注釈編纂過程では、唐建国の功臣張公謹の子である張大安の協力を得ることとなった。また、劉訥言、格希元と呼ばれる人物なども関わったとされている。

 王勃は、率直に思ったままのことを口にした。

「かっこつけではないですよ。殿下は、充分にかっこいいと思います」



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