・5 哈密瓜の皇子
・5 哈密瓜の皇子
幼い頃から儒学、文章、詩などの才能を発揮した王勃は、自分には前途洋洋たる官途が開けているものだと思っていた。そして出発地点に関しては想定通りであった。
高宗の麟徳の初め、即ち西暦六六四年にあたる年に朝散郎の役職を得た。太常伯の劉祥道が関中風俗視察のために巡幸に来ている時に「蓋聞聖人以四海為家、英宰與千齡合契」で始まる自らを推薦する文章『上劉右相書』を記した。それを劉祥道に読んでもらって、「所以慷慨于君侯者,有氣存乎心耳」と記した内容を気に入られたが故に研究生の試験に直接参加できるという大抜擢をされた。そこで結果を出したのだった。いまだ冠を戴いていない十代半ばという若さで六十代半ばの宰相を唸らせたのである。まるで生き急いでいるかのような栄達だった。孔子が『論語』の中で十五にして学を志す、と言っているそのくらいの年齢において、既に官の道に入ったのだ。王勃は幼少時から早熟で神童との呼び声が高かったが、この時点でもまだ他の者よりも遥かに先を進んでいる優位を維持していた。与えられた役職が朝散郎という実体の伴わない虚飾のものであったのは、諸般の現実的な事情が重なったからであった。それほど、王勃の抜擢が異例であったということである。
その二年後に、皇子の一人李賢の侍読に任じられた。李賢は大唐帝国三代目皇帝高宗の六男であり、この時一三歳であった。それまでは潞王に封じられていたが、沛王・揚州都督・左武衛大将軍に任じられたのを機に、教育係の一人として年齢の近い王勃が抜擢されたのである。
皇子。すなわち皇帝の息子である。当然高貴な身分の要人であるが、後宮に幾多の美姫を侍らせている大唐帝国の皇帝の子どもだから、人数が多い。宮仕えをしている者といえども皇子全員と面識があるとは限らない。王勃もこの時点では李賢皇子とは面識が無かった。
「なんだ、子守りか……」
最初に転属を聞かされた時には、思わず口に出してそう呟いてしまいそうになった。若くして役職に就いた、山西太原王氏という名門出身の自分には、あまりにも物足りない小さい仕事ではないか。心に抱いている矜恃に後ろ足で砂埃をかけられたかのような惨めさだ。
と、思ったのは最初だけであった。
仰せつかった役目であるからには、と居住まいを正して、王勃は実際に李賢皇子と対面した。長安の右街である長安県の一番北、安定坊東南隅にある李賢皇子の邸宅。晴れた朝だったため、あちらこちらで鶏がけたたましく鳴いているのが風に乗って聞こえてきた。李賢皇子は瓜のようなきれいな楕円形の顔をした美童と形容するのが相応しいような、いまだ幼さを引きずっている男の子であった。自分にもこんな可愛らしい時期があったな、と王勃の心に懐古の情が去来した。まだ十代で若いはずであるが、自分が急に老けたようにも感じられた。
「王先生の噂を聞いて、沛王府に来ていただこうと思いついたのは、他でもない自分なのです」
李賢は目を輝かせて王勃を瞻た。
「殿下自らの願いだったのですか」
側近の誰かの進言によって王勃が侍読として推薦され、最終決定は皇子が行ったものだと王勃は思いこんでいた。そうではないらしい。
「はい。皇子という身ではありますけど、自分がワガママを言うなんて、実はとっても珍しいんですよ。今回、王子安先生に無理を言って来てもらったことと、それ以外には、暑い夏の日に採れたての冷えたハミ瓜を食べたい、と言う時くらいしか思いつかないですから」
いまだ幼い皇子がほとんどワガママを言わない、などということはないだろう。恐らく、皇子本人の基準においては、王勃を呼んだことと盛夏に哈密瓜を食べたいと所望することは、贅沢の中でも特に大きな贅沢と認識しているのだ。
「先生の詩作では、『宸遊東岳頌』や『乾元殿頌』などを序と併せて読ませていただきました。『乾元殿頌』の其一九に出てくる『電戟揮霜、雲旌拒晷』のあたりなどが記憶に鮮明に残っています。素晴らしい詩だと思います」
「お褒めいただき恐縮です」
乾元殿は含元殿ともいい、東都洛陽の宮殿における正殿である。隋末の大乱の時に破壊されてしまった乾陽殿の旧址に新築された。高さ一二〇尺で、南北一七六尺、東西三四五尺、という大きさを誇る。麟德二年(西暦六六五年)三月一二日に完成したと記録に残されている。その落成したばかりの乾元殿を見て、壮麗さを頌える詩とその序文を書いたのが王勃だったのである。
褒めて貰って嬉しい気持ちと、それだけの良い詩文を書いたのだから称賛を浴びて当然という気持ちが王勃の中で鬩ぎ合う。が、それはあくまでも顔には出さない。顔がにやけてしまうのを防ぐため、口の中に唇を巻き込み、上下から少し強く噛む。そんな微妙な表情の王勃を見ても、李賢の瞳の輝きは変わらなかった。
「其七の『蒼衢毓祉、丹邱表聖。鳳矯仙樞、龍回寶命。道凝金冊、功馳玉鏡。紫氣抽華、黃輝疊映』のところも対句表現などが巧みで感嘆しました。ところで、王先生は六歳の時に、顔先生の『漢書注』の誤りを指摘した『指瑕』一〇巻を撰したと聞きました」
李賢は年上の王勃に対しても臆することなく、真っ直ぐに見つめて問いかけてきた。
「いえ、殿下、それは少し違います。確かに六歳の時に幾つもの謬見に気づいていたのは間違いなく事実ですが、それらをきちんと『指瑕』という書物の形に纏めることができたのは九歳になってからのことです」
年下の弟子とはいえ、相手は皇帝の息子である。いかに自分が優秀だからといって見下した態度でのぞむわけにはいかないので、丁寧な口調を心がける。
「六歳でも九歳でも、お若い年齢にして、顔先生の誤りをご指摘なさったのですから、素晴らしいことだと思います。そんな王先生を招聘することができて僥倖です。ところで顔先生の『漢書注』については、やっぱり王先生はあまり高く評価しておられないのでしょうか?」
「え、ええと、それは……」
返答に窮した。軽々と答えてはいけない、という直感が働いた。王勃は、いまだ髭の生えていない顎を左手の中指で掻いた。
顔師古の『漢書』注釈は、二十七家と称される従来存在していた注釈を上書きしてしまうような権威を得るほどの優れた出来の物だった。時の皇帝である太宗から賞賛されただけではなく、人々の評価も高い位置で安定している。
確かに誤りが幾つも存在するのだが、それは著者の詰めの甘さ、迂闊さによる勘違いが多いような感じだと王勃は考えている。文章を書いた時に、誤字脱字衍字の多い人と、そういうのをきちんと点検して誤りの無い文章を書く人がいる。それと同じようなものだ。書いた人の注意深さの問題だ。そして王勃以外の大抵の人は、そいういった細かい間違いに気づいていないこともあって、人々の間における『師古注漢書』一二〇巻の評価は減じられることはない。
名君と名高い太宗の治世を支えた名宰相であり自らも史家である房玄齢は、『師古注漢書』について「繁雑すぎて好みではない」と評価している。それはあくまでも注釈の正確さに関する善し悪しというよりは、文章の読みやすさなどが個人の好みに合致するか否かの問題としての評価だ。また、太宗の側近中の側近たる房玄齢ほどの高い地位のある者だからこそ、当時できたばかりの『師古注漢書』に対して歯に衣着せずに率直に批評を述べることができたのであろう。
それから幾許かの年月が経ち、既に『漢書』注釈の権威ともいうべき地位を獲得した顔師古注に対して、いまだ若く官位も高いとは言えない王勃が、房玄齢ほど明確に批評を口にすることができるか。