・21 長安の声
・21 長安の声
時間の感覚は無い。そのような感覚を保っていても意味が無いから、投獄されてから何日経ったかなど、気にしていない、というのが正しい。
独房の中は、昼でも薄暗い。夜でも薄暗い。囚人を見張るための小さな灯りがあるので、昼でも夜でも真っ暗にはならないのだ。
たまに思い出してみると、投獄されてから何日経ったか、数えていれば良かったかも、という思いが湧き出て来ることもある。昼と夜の境は分からない。出される粗末な食事の回数で、経過した日数を数えるしかない。その食事にしても、毎日決まった時間に提供されているのかどうか、怪しいものである。
王勃は疲れていた。自らの死を待つのを疲れていた。
「処刑するなら、もう、さっさと一思いにやってくれればいいのに」
台詞の内容は潔いが、王勃の姿勢は、土が剥き出しの床の上にだらしなく寝ころんだものだ。家の中で買われて野性を忘れてしまって仰臥している猫のようなていたらくであった。
「それとも、首斬り役人の手配が間に合っていないのか? あるいは、首を斬るための大きな刀の生産が間に合っていないのか?」
眠っているのか、起きているのか。寝言なのか、起きた状態でのきちんとした言葉なのか。自分でも分からないくらい、眠りと覚醒の中間で王勃はまどろんでいた。季節の変化も感じられぬ現状では、詩を吟じようという気も起きなかった。
首斬りによる罪人の処刑は、斬と呼ばれる。その様子については、人づてに聞いたことがあった。
罪人は背後に両腕をまわされて、木の枷をはめられて両手の自在な動きを奪われる。更に、腰を荒縄で縛られて、長く延びた先端は処刑担当者の一人によって握られている。もちろん、腰を縄で束縛されているからには、走って逃亡することもままならず、その場に留められる。もう一方、罪人の髪の毛に縄を括り付け、前から引っ張る。罪人は腰に巻かれた縄で後ろから引っ張られ、髪に結ばれた縄で前から引っ張られ、腰を折って前屈みになった状態でその場に立たされることになる。顔は下向きで、首が伸びた状態だ。そこへ、牛刀のような大きな刀を持った首斬り役が、一刀のもとに首を斬り落とすのである。
「……さすがに、首を斬られて死ぬのは、痛そうだなあ」
牢の中では、他にすることが無いので、無駄な想像ばかりが逞しくなる。斬についての想像は、王勃にとっては無駄なものだ。幸か不幸か、王勃の罪は斬よりも一等軽い絞であるのだから。
どこか粘着するような湿り気のある足音が接近してきた。食事の差し入れの時間だっただろうか。前回の食事の差し入れからの間隔について考慮すると、体感では短いようにも感じる。つまり、まだ早いのではないだろうか。
首の後ろを優しくさすりながら、王勃はぼんやりと思っていた。食事の時間が早まっても別に困りはしないし、囚人に対して十分な量の食事が供されることなど無いので、寧ろ歓迎といったところだった。死罪が決まっていても、死ぬ間際まで食欲というものは無くならないらしい。人間という肉体を維持するのは厄介なことなのだ。
幽かな、幽かな音を、王勃の耳が的確に捉える。音はこちらに接近しつつある。周囲がぼんやりとであるが、明るくなりつつある。土牢の奥への訪問者が、灯籠か何かの灯りを持っているのだ。
足音が止まった。灯りは王勃の独房のすぐ目の前にあった。訪問者は王勃の牢の前で立ち止まっている。一人だけのようだ。王勃は訪問者の方に背を向けて寝転がった。食事の差し入れ以外、歓迎すべき訪問者などいないのだ。
「王勃殿、字は子安殿ですな?」
王勃は返事をせず、動かなかった。寝た振りだ。
「ここで間違いないはずですが。王子安殿ですよね?」
訪問者は大きめの声で呼びかけた。それでも王勃は聞こえない振りを続けた。ついに処刑の日がやってきてしまったのだ。自分が殺されるのは防げないにしても、無抵抗に簡単に命を差し出すのでは悔しい。少しくらい、役人どもに苦労をさせておきたい。小童よりも詰まらない意地だが、今の王勃にはそれくらいしか残っている物は無いから。光と影が動いた。訪問者が、少し高く灯籠を掲げたのだ。
「王子安殿、牢から出てください。特別恩赦による釈放です」
「なんだって?」
予想もつかぬことを言われたせいで、思わず王勃は反応してしまった。こうなっては寝た振りを継続しても意味は無いので、起きあがってその場に胡座をかき、訪問者の方を見つめる。灯籠の光は弱いものの、闇に慣れた王勃の目には、それでも眩く感じて痛いほどである。
光が下に降りて、その後、金物が触れ合う音が王勃の耳に達する。灯籠を床に置いて、独房の鍵を外そうとしているようだ。王勃を牢から出そうとしているからといって、完全に信じる気にはなれなかった。処刑のために出そうとしている可能性も捨てきれない。「釈放です」と言っておいて罪人を油断させ、無駄な抵抗をしないようにしているのかもしれない。
「そんな、怯えた野良猫のような目で睨まないでくださいよ。嘘じゃありませんから。長安のやんごとなき方が、王子安殿の処刑を知って、特別に罪一等を減じる、という裁定をしてくださったのです」
「そんな、都合のいい話があるわけないだろう。作り話をするなら、もっと信憑性のあるものを拵えたらいいのに」
「そんなことは私に言われても困ります。私は、指示された通りに、王子安殿を牢から出して、釈放するだけですから」
鍵が外され、扉が開けられた。王勃は、すぐには動かなかった。これは罠なのだろうか。罠にしては、意味が薄いようにしか思えない。王勃が疑心暗鬼に陥っている様子を観察して楽しんでいるといった風でもない。王勃の処刑を実行するのなら、王勃が抵抗しようが複数人で力ずくで処刑場まで連行すればいいだけのことだ。嘘を言って無駄にぬか喜びさせる必要など無い。
「長安からの指示らしいが、その長安の言うことというのが、引っかかるのだよなあ」
かつて、闘鶏の鶏を称える檄文を書いたことがある。それが、皇帝陛下の逆鱗に触れたということで、王勃は左遷されてしまった。長安の意向一つで人の運命が容易に決められてしまうという流れがあるため、どうしても長安の名を聞くと構えてしまう。
しかし、長安のお偉い方の意向であるならば、悪い方向ばかりでなく、良い方向にも運命の逆転があり得るのではないか。
迷っていても仕方ない。ここは長安の声に乗せられて覚悟を決めよう。
土牢の中が快適であろうはずがない。時間の感覚を失い、旨くもない差し入れの食事を貪るだけを希望の光とする。そんな生活にはうんざりしていたのは間違いない。変化は歓迎すべきところだ。
それに、処刑する王勃を連行するために来たのならば、王勃の下の名前を字では呼ばないだろうし、そもそも一人では来ないはずだ。長期間の牢獄生活で体が鈍っている上に粗末な食事しか口にしていないから体力が落ちているとはいえ、罪人の万が一の逃亡を防ぐ必要がある。多人数で連行するのが当然だろう。
王勃という才能豊かな者を、こんなところで若死にさせるわけにはいかない、という天の佑けかもしれない。
「よし。分かった。この王勃、もう一度天の下に出て、詩でも吟じてその名を後世に轟かせてみようではないか」
宣言しながら、王勃は立ち上がった。運動不足で体の力は萎えているものの、気力だけは満ち満ちているように感じていた。
独房の狭い戸口を潜って出る時に、頭をぶつけた。
「痛てっ」
この痛みは、処刑されて死ぬのではなく、これからを生きる証なのだ。




