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王勃伝  作者: kanegon
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・2 初唐の四傑

・2 初唐の四傑



 唐という大帝国は、約三〇〇年続いた。その歴史の中では偉大な人物が多数輩出された。『新唐書』の文芸列伝においては、杜審言の伝が立てられていて、杜易簡はその従祖兄として付記されている。詩人としての杜易簡の実績は、『湘川新曲』という題の詩が二首、合わせて六〇文字だけ後世に残るというものだ。

 隋の頃から本格的に行われるようになった官僚登用制度である科挙を、唐もまた継承して発展させた。最初は四書五経の知識を問う明経科が尊重されていたが、五経の知識が孔穎達らの編纂した『五経正義』により画一化されて発展性を失うのと時を同じくして、やがて応用力として詩を賦す能力を重視する進士科が最も重用視されるようになったのだ。そのため士太夫はみな、四書五経の勉強だけではなく詩を詠んだ。優秀な詩人が幾人も生まれ、かつては神童と騒がれた杜易簡ですら埋もれてしまうような多士済済ぶりだったのだ。

「ボクは誰にも負けません。顔注は権威があるかもしれませんが、誤りがある部分はいただけません。ちょっと時間はかかりそうですが、『漢書』を最初から読み直して、顔師古注の中の間違いは間違いだと、きっちり指摘するつもりです。ボクは今の時点でもかの顔師古を超えているのですし、もっともっと高処へと登って行きますから」

 顔師古というのは、孔子の高弟である顔回の直系の子孫と称し、太宗に使えた高名な儒学者である。書家としても名高く、北朝風の雄勁な筆致を等慈寺の石碑に遺し、その碑文は一四〇〇年先の未来にまで残ることになる。最も大きな功績は、班固の正史『漢書』に、決定版ともいうべき緻密な注釈を施し、太宗からも称賛を受け帛二百段と良馬一頭を賜ったことだ。

 それほど秀逸な顔師古の畢生の業をも、王勃は幼い頃から凌駕している。

「ボクは伏羲、神農以来、最も優れた文人として歴史に名を残すのです。確かに今はまだ兄にも追いつけていないですけど、いずれは追いつき追い越すのです。そういうふうに、後世の史書に記録されるようになります」

 力強く、天にまで届かんばかりの勢いで、王勃は宣言する。

 もはや杜易簡は何も言わずに小さな微笑みを浮かべるだけだった。


◆◆◆◆


 王勃が、自らの詩才について自覚を持ち始めたのは九歳の時だった。

 詩、において才能を発揮したため、王勃は歴史に名を残すことになった。

 王勃。字を子安という。唐代の詩人だが、唐においては詩が非常に重要な意味を持つ。

 漢文唐詩宋詞元曲、という言い回しがある。

 漢の時代は散文が代表的な文学的表現方法だった、ということだ。また同様に、中国史を通じて散文が最も栄えて充実していた時期は漢である、という意味でもある。

 同様に、唐は詩、宋は詞、元は曲が、その時代を代表する表現方法ということになる。

 唐詩は、遣唐使を通じて日本にも伝わり、その後千年以上の長きにわたって日本の文化にも大きな影響を与えている。唐の中期に活躍した白居易の『長恨歌』が特に有名で、平安時代以降の文学人が愛読したものだ。

 三〇〇年近くにわたる唐の時代は、唐詩の面からいうと、初唐、盛唐、中唐、晩唐の四つの時期に区分される。王勃はその中で初唐の時代に活躍した詩人であった。

 特に初唐においては、王勃の他に楊炯、盧照鄰、駱賓王、という巨星たちも詩人として名を残しており、初唐の四傑と称される。李白と杜甫を合わせて李杜というように、四人の名前を一文字ずつとって王楊盧駱とも言われ称される。

 王勃が詩人としての暁を迎え、王楊盧駱の始まりとなるきっかけは、九月九日に行われる年中行事である重陽節の時のできごとであった。九歳の九月九日で、九並びであり、自分にとって何か特別な良いことがあるのではないか、という予感を抱きながら、朝から『指瑕』の執筆をしつつ過ごしていた。六歳の頃から顔師古の権威高き『漢書注』の瑕瑾を指摘していた王勃だったが、その当時はただ巻物を眺めて間違っている部分を指差して誤りだと言うだけであった。なので、書物という形として残すために、日々の勉強の合間を縫って執筆し始めたのがその名の通り『指瑕』である。今の勢いを保ったまま書き続けたならば、年内には完成できる予定である。といっても王勃はいまだ幼い子どもである。執筆は小さな体を疲れさせ、気持ちを削って行く。

 そんな時に、毎年恒例のことではあるが、父の王福畤から声をかけられて王氏一家で重陽節の花見に行くことになった。王勃にとっては丁度良い気分転換であった。

 秋の九月に行う花見なので、春の牡丹を見るわけではない。高台に行って菊の花を観賞して、その美しさを肴にして酒を飲んで楽しむのだ。詩が盛んになりつつある初唐という時代なので、酔いが回って興が乗ればお互いに詩を吟じ合うという楽しみもある。

 大抵の街の郊外には、この重陽の節句のために、菊が大量に植えられている小高い丘がある。九月九日になれば、士人たちは家族を連れてそこへ大挙して繰り出す。そして、限られた広さの高台の上は、菊の花を眺めるために集まった人々で混雑して賑やかになる。人々はそれぞれに食べ物や酒を持ち寄って、宴会を開く。車に食べ物や酒の甕を詰め込んで牛や馬に曳かせて持ってきている裕福な者も珍しくない。飲む、歌う、踊る、騒ぐ、詩を詠む。

 どちらかというと、健康と長寿を祈願して、という名目を掲げて菊花酒を飲むのが主目的になっていて、花を見て楽しむのはついで扱いだ。楽しく飲んで楽しく騒ぐ日。それが九月九日の重陽節だ。一月一日は新年最初の日であるからおめでたい日とされるのは当然である。そして、三月三日、五月五日、七月七日も九月九日と並んで、奇数月の同じ数字並びの日は大事な祭りの日なのである。

「酒臭いなあ」

 周囲の大人達は、すべて吐く息から熟柿臭を漂わせていて、王勃は眉間に皺を寄せた。周りには黄色い菊の花が一面に咲いており、香りも漂っているはずなのだが、酒臭さに負けているようだ。子どもの王勃は、さすがに酒を飲ませてもらえない。何歳から大人として扱って飲酒も認められるか、の部分はその家庭によっても違いがある場合があるので一概には断定できないものの、この年の時点で数え年で九歳の王勃に関しては明らかに子どもであるとして飲酒は許されなかった。「子どもが飲酒するのは良くない」という道徳観念よりも、「酒の味も分からないようなこんなガキにせっかくの貴重なめでたい酒を飲ませるのは勿体ないから自分で全部飲んじまった方がいいやぁ」という酔客の戯れ言のようなものが主たる理由だった。

 父の王福畤もまた、次から次へと酒を飲んで上機嫌だった。菊花酒、というからには、菊の花で味と香りが付けられているのだろう。菊の花ならば、以前に王勃も料理として食べたことがある。子どもの舌にはあまりにも苦すぎて、とても美味とはいえない生臭いだけのものだった。大人たちが旨そうに酒を味わっているからといっても、王勃はとても飲みたいとは思わなかった。

 その代わりに、観賞用として植えられているたくさんの菊の花を眺めて楽しんでいた。鮮やかな黄色が、澄み渡った青空の下で輝くように映えていた。花たちはそよ風にほほ笑むように揺れている。

「あちらの方で曲水の宴が始まるようですよ」

 唐突に見知らぬ誰かの声が聞こえた。夏炉冬扇も甚だしい季節はずれな語が混入されていた。


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