・19 獄中の才子
・19 獄中の才子
時間の流れはもどかしいほどに緩慢であったが、それでも夜はやってきた。変な汗をかいてしまった昼間であったが、その汗もようやく引いた感じだ。どこからか、犬の遠吠えが聞こえてくる。普段はぐっすり眠っていて気にならなかったところだ。夜風の音も微かに聞こえてくるようだ。ただ風が流れているだけではなく、西の砂漠から黄色い微少な砂粒を運んで来ている。その小さな小さな飛礫が、立木や建物の柱などにぶつかった音が、いくつもいくつも響いているようである。
耳をそばだてているわけではない。耳をすませる必要すらない。無駄に、耳が冴えて聞こえてしまうのだ。しじまの中で眠る方が望ましいのだから、夜がここまで賑やかであることは、歓迎すべかざる発見であった。
「こりゃ脱走したくなる気持ちも分かるな」
王勃は土牢に閉じこめられていた。地下なのだから、地上の屋外の微かな物音など、ここまで届かないはずなのだが、雑多な雑音が土牢の王勃を攻める。そして苛む。
「自分は参軍の地位にあるのに、こんな劣悪な地下牢に幽閉されなければならないのか。取り調べのためというのなら、こういう時は、それなりに整った座敷牢のようなものに連れて行くべきではないのか」
声に出して言っても、反応する者は皆無であった。看守は居るらしいが、独房内の王勃の視界内にはいなかった。ここから離れた場所で見張っているらしい。
曹達を殺したとして、王勃は取り調べを受けた。王勃が無実を主張し、捜査に対して非協力の態度を貫いたこともあって、取り調べには時間がかかった。
「曹達本人が痛みに耐えがたく、死を望んでいたのだ。そういった会話のやりとりを、あの場に居た何人もが聞いていたはずだろう」
「ところが、今回の場合、人殺しであるかどうかは、関係ないのです。曹達は官奴であった。間違いありませんな?」
忘れていたわけではない。官奴、という言葉を、日頃からほとんど使わないものだから、思い出さなかっただけだ。
官奴というのは、文字通り官の奴婢という意味だ。大抵は、何らかの罪を犯し、その償いとして強制労働させられるのだ。罪を犯したのは本人ではなく身内の誰かで、縁坐として官奴とされることも珍しくない。当然のことながら、官の所持する奴婢という扱いになる。人というよりは物だ。
「だから王参軍は、人の自殺を手助けしたのではないのですよ。官の所持する奴婢を勝手に殺したのです。殺したと言ったら紛らわしいから、あえて、破損した、と言っておきましょうか」
そう言われた時、王勃は鼻の頭に痒みを感じた。捕らえられた時、床に押しつけられて痛くなった鼻が、時間が経過するにしたがって痒みに変わってきたのだ。しかしこの時には両手は背後で木の枷をはめられていた。口から鼻に向けて強く息を吹きかけてみたが、あまり効果は無かった。
「この場合は、唐律における、どの部分が該当するのでしょうかね。参軍が、官奴を殺した。だから、斬や絞まではたぶん行かないでしょうねえ。流三〇〇〇里あたり、ってことで処理しておきましょうかねえ」
「何も資料を見ないで、そんな大雑把に決めてしまっていいのですか?」
灰色の髪の男は、目に見えて不機嫌な顔になった。
「いちいち資料を調べるのが面倒じゃないですか。だから、大体誰が聴いても不自然に感じない程度の量刑で済ませようと思っていたのに」
頬を膨らませながら、灰色の髪の男は幾つかの巻物を引っ張り出してきて、丁寧に広げて調べ始めた。該当する箇所を見つけたのか、同じ場所を何度も何度も目を通してから、王勃に向かって居住まいを正して、言った。
「あー、きちんと調べた結果、今回の官奴曹達猝死事件は、官奴曹達を擅殺した王参軍を、死罪といたします。……よけいなことを言わなければ良かったのにねえ」
無言で肩を落とす王勃。よく分からないままに罪を被せられてしまったことに納得はできないが、それでも最悪でも死罪だけは免れることができると、根拠もなく思っていたのだ。薄っぺらい願望はあっさりと覆されてしまった。まだ二〇代の王勃である。人生を味わい尽くしたとは言い難い。まだ死にたくはなかった。
「あ、それと、縁坐が適用されることになりますな。王参軍の父上も、一等を減じた罰が課されますので、三〇〇〇里の流謫ということになります」
今、思い出しても、灰色の髪の男のこの言葉は暴れ馬のようで、抑えようとしてもままならぬ暴虐性をもって王勃を蹂躙した。
父は関係ない。罰するなら息子の王勃だけを罰すればいいはずだ。
「そんな言い分は通用しないことは承知しているはずでしょう。縁坐が適用されることにより、犯罪を抑止する、という目的もあって『唐律疏義』にも記されているのです。」
「いやしかし、父や、……」
「いやしかし、何ですかな?」
「……いえ、なんでもありません。私、王勃の勘違いでした」
王勃は危ういところで、口を滑らせるのをとどまることができた。いやしかし、父や兄弟にまで罰を適用するのは理不尽に厳し過ぎる、と言おうとしたのだ。
縁坐制度については、唐律の中で細かく規定されている。王勃の立場の物が罪を犯した場合、その罪の内容によって父にも縁坐が適用されて、流謫のような罰が与えられる。縁坐適用の範囲は父だけではなく、兄弟にも及ぶはずだ。
王勃には、勔という長兄と勮という次兄がいる。助、劼、勧、という弟たちもいる。
本来ならば、父の福畤だけではなく、兄弟たちにも縁坐が適用されるはずだ。おそらく、父と同様に流謫となるであろう。
だが、灰色の髪の男は、父の縁坐だけを述べて、兄弟たちについては全く触れない。王勃に兄弟がいることを知らないのか。あるいは、父だけでなく兄弟にも縁坐が及ぶことを失念してしまっているのか。はたまた、故意に兄弟の縁坐について言及しないでいるのか。灰色の髪の男の表情は素焼きの陶器よりも無表情で、無駄に硬質で冷感に溢れていた。王勃がいくら凝視しても、灰色の髪の男の心は読めなかった。年の功というべきか、王勃とは人間としての厚みが最初から違っていた。若さと才能を誇っても、まだまだ王勃は未熟なままであった。
若くて未熟なまま死ぬことには未練がある。が、死ぬならばあくまでも自分一人の責任で命を全うし、兄弟たちに迷惑をかけたくはなかった。
素早く計算が働いた。ここは、余計なことを言って兄弟たちにまで縁坐が適用されることがあってはならない。沈黙を保ち、自らの死罪と父の三〇〇〇里を容認すべきだ。
反論の矛を自ら取り下げた王勃は、黙って土牢に入り、実際に死罪になる日をおとなしく待つだけとなった。
「もっとたくさん、大唐の御代に生きた証を残したかったものだ」