・18 刃は痛みをともなう
・18 刃は痛みをともなう
まるで養由基が引き絞った弓のような張りつめた緊張感が、曹達を中心として一帯に漂った。
「オイラ、これ以上、王参軍やいろいろな人に迷惑をかけたくない。これが、オイラのけじめだ」
右手の小刀を逆手に持ち換えると、そのまま自分の腹に突き刺した。王勃も含め、誰かが制止に入る暇も無かった。
「曹達。なんてことを」
「今、死なれたら困るけど、なんとまあ、愚かなことをしたものですわ」
慌てたのは王勃。呆れたのは灰色の髪の男だ。
曹達はというと、立っていられずに床に仰向けになっていた。小刀は衣服の上から貫通して腹に刺さっている。傷口からは出血しているようで、衣服が赤黒く染まっていく。
「い、痛ぇ、いてぇよぉ。こ、こんなに痛いもんなのか。痛い、腹が痛い。誰か助けてくれぇっ」
安直に死ぬ覚悟は固めたものの、苦痛に耐える覚悟はできていなかったらしい。
「まったく、バカな奴のバカは死んでも治らないものなのでしょうねえ。そんな小さな刃物で、刺す場所も腹部で、それも服の上から、片手で、なんて、よほどのことがなければ、すんなり死ぬことはありませんよ。ただ、痛みで苦しむだけです」
「いてえ、いてえ。お、王参、軍、助けて、お願いしま、す」
曹達は滂沱と涙を流しながら王勃に懇願した。少しでも痛みを緩和しようと、小刀を抜くために柄に手を置くと、刃が傷口に触れ、また更なる痛みが走る。『史記』などに登場する壮士たちは、自決する時にはこのような凄まじい痛みに襲われながらも、それらしい様子を全く見せることなく潔く散って行く。痛がっている場面など描写したら折角の死に様が格好良くないからだろうが、描写が無いからといって痛みを感じずに死んでいったわけではないのだ。
「曹達。助けて、と言われても、どうしたいのだ。死のうと思って腹を切ったのではなかったのか」
王勃はその場に立ったまま問いかけた。立っていたというよりは、立ち尽くしていた。涙に濡れた曹達の目を凝視する。なるべく、小刀が刺さって血液が流出している部分は視界に入らぬよう努力したが、無駄な労力であった。
「手間のかかる奴だ。医者を呼んで来なさい。それと、三人で行って、治療に必要になりそうな道具も持ってきておいて。強い酒も忘れるないように」
灰色の髪の男は、曹達の命を助ける方向で動き始めている。
「お、王参軍、痛いよ。なんで、こんなことに、なっちまったんだろう……」
曹達の、死のうという覚悟が中途半端だったから、死ぬことはできず、生きるにしても傷が痛いという、どちらにしても不幸なことになってしまった。
「王参軍、頼みます、助けてください。痛い。オイラ、このままじゃ、拷問にかけられた後で処刑されてしまう。そんなことになる、くらいなら、今、ここで、なるべく苦痛を感じずに死にたい。今も、痛くて、苦しくて、耐えられないっす」
曹達は、みっともなく泣いていた。涙だけでなく、鼻水も、よだれも垂れ流しだった。
「本当に、ここで死にたいのか?」
「ほ、ほんとうは、死にたくないです。痛いです。でも、王参軍も誰もオイラを庇うことができない、ならば、次にマシなこととして、死んで、早くこの苦痛から解放されたいです」
王勃は、なんとか曹達を庇おうと思っていたのだ。しかしこれといって何も有効な手段を繰り出せないまま、ここまで追い詰められてしまった。参軍という地位も実質は飾りに等しかった。豊かな詩才も、この場面では役に立たなかった。自らの力不足に忸怩たる思いを禁じ得ない。
「よし。分かった。曹達よ。庇うのが無理だったからには、この王勃の手によって、楽にしてやる」
一度決断すると、王勃の行動は迅速だった。
仰向けに倒れている曹達のすぐ横に跪く。曹達の腹に刺さったままの短刀の柄を、王勃は両手で掴んで一気に引き抜いた。王勃の動きに気付き、灰色の髪の男が鋭く叫びながら王勃の方へ駆け寄ってきたが、それよりは王勃の次の動きの方が遥かに早かった。
床に両膝立ちの体勢から、両手に持った短刀を曹達の喉に目がけて鋭く振り下ろした。
鶏の肉を捌く時と似たような、それでいてどこか明らかに違う感触が、王勃の両たなごころに押し寄せる。
曹達は、苦痛に顔を歪めていたものの、悲鳴は挙げなかった。喉を刺されたので声が出なかったのだろう。王勃は体重をかけて、短刀を押し込めるところまで押し込んだ。刃先が何か固い物に触れて、先へ進まなくなる。首の骨に当たったのか。あるいは首を貫通して床に当たったのか。それを確認するまもなく、王勃は灰色の髪の男の手下たちに取り押さえられてしまった。両腕を後ろに捻り上げられ、顔面を固い床に押しつけられる。
「痛い痛い痛い。そんなに強くねじらなくても、無駄な抵抗なんてしないっての」
王勃の懇願は聞き入れられなかった。男たちは無駄に腕力を発揮して、数人がかりで王勃一人を押さえ込む。
「あああ、しまった。これは、もう助からない。左道の共犯者を聞き出して一網打尽にするという目論見は消えた。しまったなあ。まさか詩を詠むばかりの王参軍が、ここまで大胆な行動に出るとは予測できなかった。自らの慢心が招いた良くない結末だ」
顔面を床に押しつけられている王勃からは、灰色の髪の男がどのような表情をしているのかは見えない。が、声の調子からいって、明らかに落胆している様子だった。ここまで、ずっと相手に主導権を握られたままだったので、最後の最後で王勃が一矢報いることができたようで、少し溜飲が下がった。
その後、周囲は慌ただしかった。呼ばれた医者がやってきて、曹達の容態を確認し、亡骸は運び出されたようだ。その間、王勃はずっと押さえ込まれたままの体勢を強要された。そろそろ、床に押しつけられた鼻が潰れて、豚のようになってしまうのではないかと本気で心配し始めた頃、誰かとの打ち合わせを終えたらしい灰色の髪の男がやって来た。
「さすがに、我々の捜査を妨害し、人を一人殺害した現行犯の王参軍を見逃すわけにはいきません」
「し、しばし待たれよ。この王勃、苦しんでいる曹達を楽にしてやるために手助けしたのであって、人を殺したというのとは、少しばかり話が違うのではありませんかな?」
王勃の顔はまだ床だけを見ている。灰色の髪の男とは、視線を合わせずに会話だけを進める。
「なるほど。自殺の手伝い、であって、殺人ではない、という理屈ですか。それは、確かにそうでしょうなあ。実際に王参軍が手助けをしなくても、曹達は自殺を試みていた。まあ未遂に終わっていたでしょうけど」
「そうだろう、そうだろう。分かったなら、早く私を解放しなさい」
自分が罪人として捌かれるのが不名誉であるとか、殺人をしたつもりは本当に無かったとかいった諸々の理由よりも、屈強な男たちに押さえ込まれて肉体の苦痛が耐え難くなっていて、一刻も早く逃れたくて、王勃は自身の無罪を主張した。