・16 鶏が人を滅ぼす
・16 鶏が人を滅ぼす
関係各所をあちらこちらと駆け回ったため、足が自分の足でないかのように痛くなって、立っているのも億劫なくらいであった。参軍の執務室に戻ってきて、床に敷かれた茣蓙の上に座ろうとして、そのまま寝転がってしまった。
「の、喉が渇いた。水だ。曹達、水を持ってきてくれ!」
そういえば、各所への移動はずっと徒歩だった。馬を使った方が良かったかな、と今更ながら思い返した。だが、それぞれの建物同士の移動距離はさほど長くない上に、一カ所あたりの滞在時間も短い。手綱を引いて厩舎に入れたと思ったら、またすぐに馬を出す、という繰り返しになってしまう。そうなると馬に気の毒なので、やはり徒歩で良かったのかもしれない。自分が疲れただけだ。
「いつもの癖というものか」
ようやく王勃は気づいた。水を持ってきてくれ、と大声で曹達に頼んだけれども、その曹達は鴆毒を作ったため、逮捕されてしまっていて、今はこの場所には居ないのだ。
「おーい! 誰でもいいから、井戸から一杯、飲み水を汲んできてくれー!」
茣蓙の上に倒れたまま、王勃はけだるげに叫んだ。それなりに大きい声を出したから、この建物内で働いている下働きの誰かには聞こえたであろう。
水が来るまでの間、だらしなく寝転がったままではあるが、考えを纏める。
厳密にいうと、蠱毒の術というのは、文字通り蠱毒という毒を製作するための術に限定されるという。鴆毒、野葛、鳥頭、附子などの毒薬は、蠱毒とはそれぞれ別種の毒薬なので、それらの毒薬を作るための技術は蠱毒の術とは呼ばないらしい。蠱毒も鴆毒も特殊な方法で作らなければならない毒なので、王勃は混同してしまっていたのだ。王勃だけではなく、大抵の人にとっては蠱毒も鴆毒も正体不明な恐ろしい毒薬であることに変わりない。両者の区別を明確につけている者は多くないようだ。それが、王勃が東西南北を駆け回り、足で仕入れた情報の総合によって得られた実感だ。
残念なことではあるが、曹達が鴆毒を作ったのは事実らしい。いや、正確に表現するならば、事実として認定されているらしい。概ね、馬丁が語っていた噂話通りのようであった。郊外の空き家で蠱毒の術が行われている証拠の品として、鶏の羽根が発見された。と、同時に、曹達の所持品も発見された。
だから、曹達が犯人ということで決定だそうである。
王勃は激怒した。
鴆毒が作られていた。近くに曹達の所持品があった。その二つから導き出される結論として、曹達が犯人とされた。そのような思考短絡が許されるのなら、鶏の羽根と誰かの所持品を用意して側に置いておけば、いくらでも蠱毒の術の大罪をでっち上げることができてしまうではないか。歴史上において、左道に手を染めて失脚した有力政治家などは、大抵この方法で政敵に陥れられたのだ。
「そもそも、おかしいじゃないか。鴆毒を作るのに鶏の羽根があるということが。鴆という鳥の羽根から作るから、鴆毒じゃないのか」
王勃は怒りに身を震わせつつも、思考は冷静さを残していた。鴆毒というものの根本に矛盾があることに思い至っていた。
捜査関係者たちは、王勃の猛抗議を受けて、迷惑そうな顔を隠そうともしなかった。
「龍とか鳳凰とか麒麟っていうのは、想像上の生き物でしょ。それと同じで、鴆も想像上の鳥なのですよ。それくらいのことは王さんも当然知っているでしょ」
知っているからこそ王勃は必死に抗議しているのだ。
王勃との交渉役は、黒髪と白髪がみごとに混ざり合って灰色の髪に見える、穏和そうな初老の男であった。
「想像上の鳥なんだから、本物の鴆の羽根なんて入手できるはずがない。それならば、もし王さんが鴆毒を作りたいと思ったら、どうしますか?」
そんな物を作ろうなどということは思ったことすら無い。
「本物が無いなら、代用品を使おうとするわけですよ。そこで鶏の羽根を用意して、鴆毒を作るんでしょうな」
鶏の羽根から猛毒を作成することができるのだろうか。仮に毒を作ることは可能だとしても、それは鴆毒ではないだろう。
「鴆の羽根ではなく鶏の羽根で代用するから、その代償として、左道の妖しい手順の儀式を執り行って、鴆の羽根を使ったのと同等の効果を鶏の羽根から引き出そうとする、ということらしいですな」
到底理解できる理屈ではなかった。怒りを増幅させた王勃は、奥歯が歯茎にめり込んでしまう程に顎をきつく噛み締めた。
「どの道、王さんが術者の考えを理解できるかできないかなど、関係ないのですわ。そこに鶏の羽根があり、妖しい妖術が行われた形跡があれば、鴆毒が作られたものとしてみなされるという事実です」
「そ、そんなバケげたことが。あの曹達が何者かに陥れられて罪を被るなんて。かつて、鶏を称えて書いた檄文を、君側の奸臣に曲解されて陥れられた。あの時以上の屈辱だ!」
「まあ、諦めるのが手っ取り早いでしょ。別に王さん自身が処刑されるわけではないから、そこまで必死にならなくてもいいですよ」
捜査関係者は気軽に言った。結局、王勃にとっては肉親ではないものの曹達が大事な人であるということは、口でいくら説明しても伝わらないであろう。所詮は他人事なのだ。
この、捜査関係者の冷たい態度が、王勃の心を挫いた。そこから反論する言葉すら紡ぎ出すことができず王勃は、喧嘩に負けた野良犬が後足の間に尻尾を巻き込むようにして逃げるのと同じように、その場から撤退したのだった。
今、王勃は自分の執務室で一人だった。曹達はいない。
「今になって冷静に考え直してみれば、曹達に蠱毒の術の罪を着せて陥れようとしたのは、誰なのだろう? 曹達に何か大きな恨みでもあったのだろうか?」
曹達は何の政治権力も持っていない、単なる若者だ。政敵が追い落としの為に常套手段として仕組む、ということはあり得ない。
「曹達が鴆毒を作ったという証拠も貧弱だ。第一に、曹達の動機が考慮されていないではないか。曹達が鴆毒を作ったというのなら、その理由は何なのだ? 誰を殺そうとしたというのだろうか?」
結局のところ、鴆という鳥は実在せず、だから鴆毒も想像の中にしか存在しないのだ。
もし本当に鴆毒があるのならば、殺したいほどに憎しみを抱いている相手や追い落としたい政敵がいるのならば鴆毒を使って殺せばいいのだ。しかし鴆毒が存在せず、確実な毒殺ができないから、蠱毒の術を駆使したという濡れ衣を着せようとするのだ。
蠱毒の術は重罪だ。正確に言うと、鴆毒なのだから蠱毒の術ではないのだが、いずれにせよ毒薬製作は大罪である。
「だからなんだというのだ。大罪であろうとなんであろうと、冤罪は冤罪だ。いや、もしも万一、冤罪ではなく本当に鴆毒を作ったのが曹達であったとしても、こちらのやることは変わりない」
茣蓙に寝転がっていた王勃だが、決意を固めて、手足の先にまで力が行き届いた。上体を起こすだけではなく、その勢いで立ち上がった。
「必ず、曹達を守りきる。処刑させたりはしない」
誰が聞いているでもない。いや、天と地と王勃本人だけが聞いている、力強い言葉を発した。
王勃は歩き出した。井戸のある方向へ。
「結局誰も水を持ってきてくれないか。どうせまた、陰口でも叩いているのだろう」
自分の評判が、曹達以外の使用人たちの間では芳しくないことを、王勃自身は承知していた。「若いくせに傲慢だ」「誰に対しても上から目線で接するから気持ち悪い」などといったたぐいの悪口を言われているのだ。