・15 唐朝の二つの敵
・15 唐朝の二つの敵
「鴆毒を作ったそうです」
「ち、鴆毒だと? 蠱毒の術を駆使したというのか?」
少しばかり、王勃の顔が青ざめた。熱っぽくて赤らんでいた肌の色が、血の気が引いてあっという間に雪のように白く透明になった。不気味な、不穏な名前を聞いてしまったのだから、それも仕方のないことだった。
鴆毒というのは、鴆という幻の青い鳥の羽から作られる毒である。世に数々知られた毒の中でも、最も威力のある猛毒として知られている。その名を聞いただけで脂汗が出てきてしまうような、不気味な、不穏な名前なのだ。
「曹達が、鴆毒を作ったというのか。あの純朴そうな青年が、妖しい左道に手を染めていたというのか?」
震え声になった。王勃は鴆毒に恐怖を抱いて震えていた上に、曹達が禁じられた妖術を使っていたと聞かされた驚きにより、骨の髄から寒気を感じて震撼を禁じ得なかった。
そもそも王勃は、曹達が犯罪に手を染めるなどということ自体信じられなかった。仮に何かの弾みで罪を犯してしまうことがあるにしても、ちょっとした出来心での軽微な窃盗であるとか、酒に酔って二発くらい殴ってしまったという程度の暴行くらいだろうと思っていた。いかに楽観し過ぎていたかということだ。
左道、即ち妖術というものは、人間が生来持っていないはずの妖しい不可思議な異能力である。そういった理解し難いものに対しては、闇を恐れるのと同様に本能の部分で畏怖を抱くものである。であるから、西洋世界でも中世時代には、そういった力を使う者を魔女などと呼んで忌み嫌った。その当時強大な権力を誇っていたキリスト教会が中心となって残酷な魔女狩りを行ったという黒歴史がある。
唐朝においても、蠱毒の術を使うことは重罪と位置づけされている。皇帝とその一族である李氏に危害を加えたり侮辱したりする不敬罪と並んで、蠱毒の術は二大重罪の一端なのである。人ならざる妖しの力によって人民を不安と恐怖に陥れる術なのだから、それは国家転覆を企てるに等しい、ということなのだ。
当然、罰も重い。
「曹達が処刑されてしまうなんて。そんな、バカな。いやいや、それ以前の話として、曹達が犯罪に走ったなどというのが、何かの間違いだろう。ましてや蠱毒の術などとは。それで、本当に曹達がいかがわしい術を使ったという証拠があるのか? 何者かによるでっち上げではないのか?」
キリスト教世界における魔女裁判も同様であるが、中国においても蠱毒の術に手を染めた悪者たちを大昔から多数処刑してきた。しかし西洋においても中国においても、処刑されて命を落とした数多くの者達のうち、本当に魔女であったり本当に蠱毒の術を使った者が、何人いたのであろうか。大抵は冤罪であったであろうことは想像に難くない。
特に中国においては、気に入らない政敵を陥れるために最も便利な方法が、この蠱毒の術の罪を相手に被せることだ。だから王勃が、この事件がでっちあげでないかと疑ったのは、水が低いところへ流れるように、自然な思考の流れであった。
自分はあくまでも話を聞いただけであるので、正確な部分は知っているわけではありません、と慎重に前置きをしてから、馬丁は眉尻を下げて残念そうな表情を作って王勃の顔色をうかがいつつ、説明を始める。
「まず第一に、考え方が逆ではないかな、と。曹達が蠱毒の術を使ったという疑いで捕まったこと自体、明確な証拠が出たからこそだ、と考えるべきなのでしょうね。城壁の外の郊外に、古い空き家の窰洞があって、そこを隠れ家にして不気味な資材を収集して蠱毒の術を進めていたらしいです。その窰洞の中から、曹達の名前が記された所持品が出てきたらしくて、それで、犯人は曹達だと断定されたようです」
「そ、そんなの、捏造に決まっているではないか。曹達の所持品をこっそり盗んでおいて、それを蠱毒の術の根城としている空き家に置いておけば、簡単に濡れ衣を着せることができるではないか。本当に曹達が不吉な術を行ったという証拠にはならないだろう」
「それは、曹達を蠱毒の術容疑で逮捕した人に直接言ってくださいよ」
このまま王勃と立ち話を続けていたら、曹達逮捕には無関係の自分があたかも悪者であるかのような扱いを受けてしまって冗談ではない、と思ったのであろう。馬丁はその場で小さく足踏みしながら、王勃の発言を待たずに自分の言いたいことを言う。
「そういうことで。王参軍、自分はこれで失礼いたします。ん? あれっ、馬は?」
馬丁は自分の右手の掌を見た。皺の深い掌だ。しかし何も握っていない。
「何を寝ぼけたことを言っているんだ。きちんと、そなたに手綱を渡したではないか」
手綱を受け取った馬丁は、その後、ずっと王勃と立ち話をしていた。厩舎に馬を入れに行っていないし、磚壁に作った窪みに取り付けてある栓馬環に手綱を結んでもいない。
「ど、どうやら、我々が立ち話をしている間に、手綱を離してしまったみたいで、馬が逃げてしまったみたいですな」
唇をわななかせながら、馬丁はかすれた声で言った。虚ろな目で左右上下を確認したが、王勃が乗ってきた老馬はどこにも居ない。空の上には数羽の鴉の群れ、馬丁の足下には行列を作っている蟻がいるだけだ。
「あらららら。また、やってしまったなあ……」
「また? だと?」
「え? いやいや、そんな、毎回馬に逃げられているとか、そういうことではありませんから」
慌てた様子で、馬丁は表情を引き締めた。それでも少し顎鬚が震えるのを抑えることには失敗していた。
「あ、厩舎の方へ行って、馬がいないかどうか確認してきます。案外、仕事を終えて疲れて腹が減った馬は、自分で勝手に厩舎に入って、そこで飼葉をのうのうと食っていたりするものですから」
それだけ言って、馬丁は走って立ち去った。若くない年齢のはずだが、稲妻のように敏捷な動きであった。あえて何も意見を述べたりせず、王勃は馬丁の背中を見送った。馬丁の些細な失敗を相手している場合ではないのだ。馬ならば、最悪の場合は居なくなったり盗まれていたりしても、また買えば良いというだけのことだ。乗っていた馬は、痩せてあばら骨が浮き上がりかけているような引退間際の年寄りだった。失っても、さほどまでは惜しくない。
しかし、王勃にとっては、曹達を失うとなると大事だ。馬のように簡単に買って簡単に代用とするわけにはいかない。大唐帝国広しと雖も、曹達の代わりなど、曹達本人以外には誰も居ないのだから。
◆◆◆◆
結局老馬は、馬丁が藁にも縋る気持ちで述べていた楽観論の通り、厩舎で寛いで餌を貪り食っていた。馬が自分で自分の面倒を見てくれるのならば、馬を世話する馬丁などわざわざ雇う必要が無いのではないか、という考えも浮かんでくる。しかしそれは落ち着いてからの後回しの案件だ。
とにかく、状況が不確実なのが一番不安だ。情報収集のために、王勃は本気で東奔西走南船北馬した。両方のふくらはぎの筋肉が突っ張って痛くなって、膝が変に笑うようになった。どこへ行っても誰に会っても、正確に事象を把握している者など誰もいない。皆、知っているにしても伝聞であったり、断片的なことであったり、また明らかな誤報を真実と信じ込んでいる者もいるようであった。
拾い集めた小さな情報を繋ぎ合わせて総合してみると、賢い王勃にはある程度事件の輪郭が見えてきたような気がし始めた。