・13 雨はいつかやむ
・13 雨はいつかやむ
「おじさん、おそいおふねに、のるのが、すきなの?」
舟と平行して歩きながら、子どもの誰かが船頭に尋ねた。こんな質問など無視するのが普通なのかもしれぬが、食いしばった歯の隙間から、それでも船頭は律儀に答えた。
「別に遅い舟が好きなんじゃねえよ。たまたま運悪く雨が降りやがって流れが速くなっちまっただけだ。くそっ、オレはこんなことをやっているけど、昔はあと一歩で科挙に受かって進士になるところだったんだぜ」
同年代の子どもたちにとっては、科挙とか進士とかいった語は、日常の中で聞き覚えはあっても実感を伴って響く言葉ではなかった。だが、王勃にとってだけは違った。
「船頭さん、進士を受けたのですか? だったら、今の雨の様子を詩に詠んで対句をなしたりできるのでしょうか?」
思いもよらぬ反応を受けて、船頭は一瞬驚いたような表情をし、その拍子に川底に立てた棹の力が緩んでしまい、流速に負けて少しだけ後退してしまった。
「おっとっと、いけねえ、いけねえ。それよりボウズ。対句を作れるかって言ったな。そりゃ、オレに対する挑戦だな」
強さを増す雨を受け、額から鼻筋にかけて水滴をしたたらせながら、船頭は楽しげに笑った。「よっ!」と一つ気合いの入れた掛け声と共に棹に力を籠めて舟を前進させると、次に棹を前に挿す時には、もう対句を読み上げ始めていた。
「風吹河水千層浪。雨打沙灘萬點坑」
あまり歯並びの良くない歯を剥き出しにして、船頭は岸辺を随伴して歩く王勃に対して笑みを向けた。得意洋洋たる表情だ。だが王勃は小さく首を横に振った。
「千とか萬とかいうのは、さすがに現在の状況を詠むにしては、表現として大袈裟過ぎるのではないでしょうか?」
「え? 浪の激しさや雨の強さを表現するために千とか萬とかを使ったのだけど、そんなに駄目か?」
また、舟の前進速度が衰えた。丁度、止まったような状態だ。
唐詩の世界といえば、後の盛唐時代を飾る李白が「白髪三千丈」と詠んだように、誇大表現が普通であるかのごとく後世に伝わって行くのだが、王勃が幼かった初唐時代はまだそうではなかったのだ。
王勃は、川岸の土と水のぎりぎり境界線に立ち、船頭に向かって叫ぶように言った。
「風吹河水層層浪。雨打沙灘點點坑」
船頭の詠んだ対句から、千を層に、萬を點に言い換えたのだ。
「これでどうですか? 大袈裟さは無くなり、それでいて、浪がいくつにも連なっている様子や、雨がこんな感じで激しく降り注いでいる模様を描けたと思うのですが」
層のことを千と言ったのでは多すぎる。だが、層層と同じ字を二つ重ねて使うことにより、層の多さは表現しつつ、極端な誇大表現になることを防いでいる。萬と點の言い換えも同様だ。ほどよく多く、それでいて多すぎない。
「おお、凄い」
岸辺で見守っていた付き添いの大人たちが賞賛の声を挙げた。船頭はというと、棹を挿すことも忘れて、しばし川下に流されてしまい、ようやく我に返って慌てて失った距離を取り戻そうと踏ん張る。
「ボウズ、おまえ、その年でいい対句を作れるなんて、なかなかやるじゃないか!」
「船頭さんの方こそ、本来なら進士に受かっていてもいいはずと思えるくらい、的確な描写の対句でした」
「へっ、偉そうに言いやがるぜ。ボウズよ、オレはな、進士及第を逃してしまって、はぁ、ほんのちょっと進むべき人生の道が狂ってしまって、その少しのズレが、年月が経つにつれて次第に大きくなって行って、三〇歳を迎えた今じゃ、踏み外してしまったことが明らかな状態になっている。だから、ふうっ、こうして力仕事をして日々の生活をしているのさ。おまえは、科挙に受かって、長安で出世して皇帝陛下の股肱の臣になって、そして史書に名を残すような詩人になれよ」
「勿論そのつもりで日々勉強していますから」
王勃との会話で活力を得たのか、あるいは単に川の流れが比較的緩やかな部分に入ったのか、船頭は棹での遡上の速度を上げた。やがて、白く煙る雨の中に消えて行った。
王勃は一つくしゃみをした。子どもらしい、小さく可愛らしいものだった。
「おっと。こんな雨の中で突っ立っていたら、風邪をひいてしまうよ」
周囲を見渡すと、他の人たちは大人も子どもも既に屋内に引き上げた後だった。王勃が一番最後まで、河原で粘って舟が上流に行くのを見送っていたのだ。
慌てて、王勃も屋内に逃れた。かなり濡れてしまったが、すぐ水を拭き取って着替えたため、結局風邪をひいたりすることはなかった。
――子どもの頃は雨に濡れても平気だった。が、齢すでに二〇代の半ばを過ぎている今の王勃は華北の冷たい雨に濡れたせいで風邪をひいてしまった。
単なる風邪とはいえども、病気ならば休むしか回復方法はない。王勃は参軍の仕事を休んで、家で三日ほど静養していた。苦い薬草を飲んで、腹に優しい粥をすすり、暖かい布団の中で眠る。
まだ少し熱っぽさが残る体調ながらも、四日目の朝には、日の出前に起きあがった。小鳥の鳴き声が鎧戸を閉めた窓の外から聞こえてきて、それが特に耳に入って目覚めを促したのだ。目覚めたからには、あまり仕事を休み過ぎたくはなかった。自分の知らない間に、面倒なことが起きていたら困る。万が一何か問題が起きたとしても、対処が早ければ、傷口は小さくて済む。それは予感ともいうべきものだった。
髷を結って、短めの髭を整えて、一通り身支度を済ませて、老馬の背中に跨り、仕事場に出仕した。
馬から降りて、手綱を馬丁に預けようとした時。王勃は「今日から仕事に復帰するぞ」と言おうとしたのだが、五〇歳過ぎの白い髭の馬丁に先を越された。
「王参軍! 王参軍! 大変ですぞ! 聞いておられますか?」
王勃が体調不良で数日仕事を休んでいたことを知っているだろうに、それに対して労りや気遣いの言葉も無い馬丁に対し、苛立つ気持ちがこみ上げて来る。馬丁の方が王勃よりも遙かに年長とはいえ、地位は王勃の方がずっと上なのだ。その王勃のことを蔑ろにされているようにも感じてしまう。王勃は、喉元まで出かかっている諸々の不満の言葉を、無理矢理に押し留める。部下の不手際を叱責するだけでなく、少々のことは許容する度量の広さもまた、大人物としての持っていなくてはならない素養だろうと思ったのだ。
「とにかく落ち着きなさい。何が大変だというのだ?」
老馬が不満そうに鼻を鳴らした。長くなりそうな人間の立ち話に付き合うのはイヤで、早く厩舎に戻って飼葉を食みたい、とでもいう意思表示だ。
「曹達の奴が、悪さをしでかして、逮捕されてしまいました。これは、下手をしたら、王参軍も、監督責任をあれこれとうるさく言われてしまうかもしれませんぞ」
「なんですと?」
にわかには信じ難い話であった。
「曹達は、そんな悪い奴ではないだろう。犯罪に手を染めるようなことはあるまい。何かの間違いであろう」
「そうは言われましても。私が逮捕したわけではありませんから。それに人間は、善良そうに見えても、いざ窮した時には犯罪に走ってしまうことだって、よくあるのではありませんか」
馬丁は手綱を握ったまま、難しそうに眉根を寄せた。
「だから、曹達が犯罪を行う理由が思い当たらないから言っておるのだ。そ、それで、曹達はどのような罪を犯したというのだ?」
いまだ残っている微熱に由来する自らの体の倦怠感など、どこかへ吹き飛んでしまった。いや、熱のせいか、突然聞かされた話のせいか、思考が上手く回らない。それでも王勃は負けず嫌いな性格を存分に発揮し、気合いを入れた。両膝に力を籠めて、地を踏みしめる。
「どんな罪だったかまでは、聞き忘れてしまいましたが。まあでも、アイツだったら、どんな悪いことをやっていても不思議じゃないと思いますぞ。根が明るくて、よく喋るという仮面だけを被っていて、本当の素顔を見せていないだけという感じを、今までなんとなく抱いていたのですよ。あいつが犯罪をしでかして、ほらやっぱりというところですわ」
言って馬丁はこころもち胸を張った。